03 前半戦

 プレマッチの第一試合は判定までもつれこみ、そちらが終了したならば、愛音と榊原選手の一戦である。

 プロ昇格をかけた査定試合は、プロルールで執り行われる。本日も愛音はオープンフィンガーグローブだけを装着し、自慢のサイドテールを揺らしながら堂々たる足取りで入場した。


 ただし今回から、一部ルールが変更されている。

 内容は、肘による攻撃に関してである。


 そもそも《アトミック・ガールズ》において肘による攻撃が許されるようになったのは、《カノン A.G》の時代になる。その際にはリーグ制というものを導入して、経験の浅いBリーグの試合においては肘なしのルールとされていたのだが、何故か査定試合に関してだけは肘による攻撃が認められていたのだ。


 おそらくそれは、当時チーム・フレアであった犬飼京菜をプロに昇格させるための手管であったのだろう。古式ムエタイやジークンドーを学んでいる彼女は肘打ちの攻撃を得意にしていたため、ルールで禁じられないほうが望ましかったのである。


 遅まきながらその欺瞞に気づいた現在の運営陣は、肘による攻撃に関するルールを全面的に改正することになった。

 まず、査定試合に関しては肘による攻撃を禁止として、プロファイター同士の試合においては事前におたがいの合意を必要とする、という内容に改められたのだ。


 肘の攻撃というのは、流血を招く危険性が高い。それゆえに、《アトミック・ガールズ》も長きにわたって禁止にしていたのだ。

 それに、前回の査定試合である愛音と大江山すみれの一戦では、その肘の攻撃で愛音が大流血する事態に至った。やはり、たとえ査定試合であってもアマ選手同士の対戦で肘の攻撃を有効にするのは危険すぎるという判断が下されたのだろう。


 また、選手同士の合意がうんぬんという話も、余所の興行では通例であったらしい。《NEXT》や《パルテノン》の試合においても、そういったルールが採用されているようであるのだ。

 世界標準のルールを目指すのであれば、肘の攻撃は必須である。しかし、危険なルールで試合を行っていると選手生命に関わってくるし、また、新規参入者の間口を狭める結果にもなりかねないだろう。やはり競技人口の増加を目指すには、競技の安全性というものを二の次にはできないのだった。


(《カノン A.G》時代の運営陣は、かなり強引にルールを変更したもんな。これもあいつらの後始末のひとつってわけだ)


 何にせよ、この一戦は防具なしでパウンドありのプロルールで行われるが、肘の攻撃は禁止とされている。おたがいにアマチュア選手で肘ありのルールは経験が浅いのだから、有利不利はないはずであった。


 ケージに上がった愛音はアマチュア選手とも思えぬ歓声をあびながら、肉食ウサギの眼光で相手をにらみ据えている。

 対戦相手の榊原選手もまた、不敵な眼差しでそれを見返していた。


 榊原選手は去年の五月、犬飼京菜とプレマッチで対戦している。犬飼京菜の《アトミック・ガールズ》における二戦目の相手が、彼女であったのだ。

 その当時から、榊原選手はプロ目前という評価であったが、これがようやくの査定試合となる。この一年で、彼女はまずキックのほうでプロに昇格し、それなりの活躍を見せていたのだった。


 所属は沖選手と同じくフィスト・ジム小金井で、犬飼京菜との試合を見る限り、かなりアクティブなインファイターだ。当時の犬飼京菜はサキとの再会によって集中を乱してしまったのか、あわやKO負けという窮地にまで追い込まれていたのだった。


 背丈は愛音よりも五センチほど低く、百五十五センチという数値になる。しかし年齢は二十三歳で、《G・フォース》でプロ昇格を果たしたぐらいであるのだから、身体もすっかりできあがっている。瓜子よりも長身で、瓜子よりも下の階級であるのに、瓜子よりもがっしりして見えるぐらいであるのだ。それは彼女が数キロばかりもウェイトをリカバリーしている証であった。


 それと向かい合うと、愛音はやっぱり線が細い。愛音は減量もほとんど必要ないぐらいのウェイトであるし、最近になってようやく本格的な筋力トレーニングを許された身であったのだ。年齢もいまだ十七歳で、骨格そのものが華奢であるように思えてならなかった。


「しかしまあ、邑崎がそこらの選手に後れを取ることはないだろう。何せ、これだけおっかない連中にしごかれてるんだからな」


 立松が横目で瓜子のほうを見やりながら、そんな風に言いたてた。


「えーと、おっかない連中ってのは、自分たちのことっすか?」


「他に誰がいるんだよ。言動までおっかないのはサキだけだが、稽古中のおっかなさはお前さんたちも変わらんだろ」


 確かにまあ、出稽古の選手を除外しても、サキ、ユーリ、瓜子、メイという顔ぶれであるのだ。よくよく考えたら、こんなメンバーに取り囲まれた愛音というのは、アマチュア選手としてたいそう過酷な環境であるのかもしれなかった。


(でもそれは、裏を返せば無茶苦茶恵まれた環境だってことだからな)


 その恩恵は、瓜子自身が痛感させられている。愛音もそれは同様であるはずだった。


 そうしておっかない先達に見守られながら、愛音の試合は開始された。

 インファイターの榊原選手に対して、愛音は徹底したアウトスタイルだ。合宿稽古においてさらに磨きがかけられたステップワークでもって、愛音はケージ内を縦横無尽に躍動した。


 榊原選手は慌てる素振りもなく、無理に追いかけようとしない。あちらはあちらで、アウトスタイルの対策を積んできているのだろう。

 そんな榊原選手に対して、愛音は牽制の関節蹴りを多用した。

 たとえプロでもキックのルールでは、関節蹴りは禁止されているのだ。それでジョンたちが、これを基本の戦略に組み入れていたのだった。


 しかしあくまで牽制であるためか、やはり榊原選手は動じない。

 力強いインファイトを得意にしながら、そうまで短絡的な気性ではないようだ。それに、キックの実績を積んでいても所属はフィスト・ジムであるのだから、MMAの稽古に穴はないはずであった。


 しばらくは、遠い間合いで様子見の時間が続く。

 愛音もまた、逸ることなく相手の挙動をうかがっているようだ。


 そんな両者の背を押すように、歓声が高まっていく。

 ユーリのおかげで実績以上の知名度を授かり、口を開かなければ可愛らしい容姿をしている愛音は、観客からもそれなりの期待を寄せられているのである。


 だけどやっぱり、愛音も榊原選手も慎重だ。

 決して委縮しているわけではなく、おたがいに勝つためのプランを遂行しているのだろう。どちらも歓声に心を惑わされている様子はないし、アマチュア選手としては大した心臓であった。


 そこでふいに、榊原選手が鋭く踏み込んで、右フックを繰り出した。

 緩急のきいた、いい攻撃である。


 しかし愛音は、逃げる素振りも見せなかった。

 そして、カウンターの左ストレートを繰り出した。


 先に手を出したのは榊原選手であるが、横回転のフックよりも真っ直ぐのストレートのほうが、軌道が短い。なおかつ、リーチとスピードに秀でているのは愛音のほうであった。

 よって、相手の右フックをくらう前に、愛音の左ストレートが炸裂した。


 まともに右頬を打ち抜かれた榊原選手は、がくりと十センチばかり腰を落とす。

 それでもダウンまではせずに、よろめく足取りで後ずさろうとしたが――愛音は大きく踏み込んで、追撃の左ミドルを繰り出した。


 ここでミドルが来るとは予測できなかったらしく、榊原選手は頭をガードしている。その肘の下をすりぬけて、愛音の左ミドルが右脇腹に突き刺さった。

 愛音は基本の攻撃力が足りていないが、急所のレバーとなれば話が別である。榊原選手は身を折りつつ、それ以上の追撃を嫌がるように、左右のフックを振り回した。


 しかし愛音はすぐさま身を引いていたため、その拳はかすりもしない。

 そうして相手の攻撃をいなした上で、愛音は遠い距離から再びの左ストレートを繰り出した。

 上体を泳がせていた榊原選手は、まともに顔面を打ち抜かれる。

 それでも倒れずに済んだのは、やはり愛音の攻撃力の貧弱さと、あとは彼女自身の頑丈さであろう。


 だが、愛音は左腕を引きながら、同じ勢いで右腕を突き出した。

 右足を前に出したまま放つ、空手流の直突きだ。

 その拳もまた、文句なしのクリーンヒットであった。


 榊原選手は、前のめりに倒れ込もうとする。

 その頭を抱え込み、愛音は容赦なく左膝を振り上げた。

 下顎に膝蹴りをくらった榊原選手は、今度こそマットに倒れ伏す。

 愛音は油断なくバックステップして、相手の挙動をうかがった。


 レフェリーは、問答無用で両腕を交差させる。

 その判断の正しさを示すように、榊原選手はぴくりとも動かなかった。


『一ラウンド、三分五十二秒! ニーキックで、邑崎愛音選手のKO勝利です!』


 愛音はぎゅっと口もとを引き結んだまま、レフェリーに腕を上げられた。

 肉食ウサギの眼光を灯したまま、その目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。愛音はようやく憧れの《アトミック・ガールズ》で勝利をつかみ取り――そして間違いなく、プロ昇格の資格をも勝ち取ったはずであった。


 ユーリは「わーい」と手を打ち鳴らし、サキは「ははん」と鼻を鳴らす。

 そして立松は、頭をかきながら苦笑していた。


「うーん、まったく文句のつけようもない勝ちっぷりだが……どうも卯月のコーチングが利いてるみたいで、複雑な心境だぜ」


「そんなことないっすよ。そりゃあ卯月選手のおかげでもあるんでしょうけど、九割以上はコーチたちのおかげです」


「それにしても、最後の落ち着き払ったコンビネーションは秀逸だった。この調子でいけば、あいつは化けるぞ」


 と、最後には立松も満足そうに微笑んだ。

 愛音が凱旋したのちは、プレスマン軍団が総出でお祝いの嵐である。そして、交流の深い小笠原選手や小柴選手に、来栖舞や魅々香選手もそれに加わってくれた。


「ふふん。形としては、うちのボスが苦戦した相手にノーダメージで完勝やからな。新たなライバル誕生ってことにさせてもらうわ」


 さして交流のない沙羅選手は、そんな言葉で愛音の勝利をねぎらってくれた。

 ただひとりの居残り要員であった榊山蔵人も、曖昧な表情で拍手をしてくれている。

 愛音はなかなか気持ちがおさまらないらしく、怒っているような顔でひたすら涙をぬぐいながら、それらの人々に無言で頭を下げまくっていた。


 そんな中、モニターでは本選の第一試合、犬飼京菜と宮田選手の一戦が開始される。

 トップファイター同士であるこの一戦が第一試合に置かれたのは、犬飼京菜の派手な試合を見込まれてのことだろう。猛烈な攻撃力と打たれ弱さをあわせ持つ犬飼京菜は、勝つにせよ負けるにせよKOか一本の決着が期待できるはずであった。


 そして結果は、犬飼京菜の秒殺KO勝利である。

 このたびは、ついに犬飼京菜もスタートダッシュの大技を取りやめていた。もうこの戦法も研究し尽くされて、リスクのほうが大きくなってきたと考えたのだろう。

 しかし、大技が主体であることに変わりはない。犬飼京菜は初手からぶんぶんとハイキックを振り回し、相手の注意を頭部に向けさせてから、竜巻のようなバックスピンミドルキックでもって相手のみぞおちを撃ち抜いてみせたのだった。


「これでトップファイターを三人撃破か。お前さんがこの階級で王座を目指すには、この嬢ちゃんが最大のライバルになるかもな」


 立松がそんな風に冷やかすと、サキはぶっきらぼうに「うるせーよ」と言い捨てた。


 第二試合は、かつて犬飼京菜に敗北したトップファイター前園選手と、中堅選手だ。

 こちらは第二ラウンドまでもつれこんだが、堅実な打撃技で相手を追い詰めた前園選手が意表を突いたタックルを繰り出し、力強いパウンドで圧倒したのち、背中を向けた相手にチョークスリーパーを極めて、貫禄の一本勝ちであった。


 犬飼京菜も前園選手も、素晴らしい技量を持っている。

 そして今後は、彼女たちがサキのライバルとして扱われていくのだ。

 瓜子はすでに何度となく、そんな未練を断ち切ったつもりでいたが――しかしやっぱり、彼女たちを羨ましく思う気持ちを忘れ去ることはできなかった。

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