02 サイン会と開会式
ルールミーティングが終了し、午後の四時に至ったならば、ついにサイン会の開始である。
ユーリたちには試合の準備があるために、瓜子は単身で指定された場所に向かう。会場の出入り口には、パラス=アテナのスタッフと二名の警備員が待ちかまえていた。
「お疲れ様です、猪狩選手。ちょっとその、想定以上の人数が集まってしまったのですが……どうぞよろしくお願いいたします」
入場口の陰からそっと屋外の様子をうかがった瓜子は、呆れ返ることになった。そこには確かに、瓜子の想像を遥かに上回る行列ができあがっていたのである。
「な、なんすか、あれ? 会場の収容人数を上回ってませんか?」
「はい。どうやらサイン会とグッズ購入のためだけにご来場くださった方々も多いようです」
瓜子は溜息をつきながら、手首をストレッチすることにした。
「せっかく集まってくれた方々を、ないがしろにはできませんもんね。できるだけ早く会場に戻りたいんで、始められるなら始めちゃいましょう」
そんな風に言ってから、瓜子は思わず苦笑してしまった。昨年一月のサイン会においては、同じような言葉でユーリを力づけていたことを思い出してしまったのだ。
(あのときは完全に他人事だったのに、今度は自分が同じ苦労を背負うことになるなんてな)
この一年と四ヶ月ほどで、それだけ状況は変転したのである。
瓜子はまた、自分も《アトミック・ガールズ》を代表する選手になったのだという自負と、自分なんかにこれほどの思いを寄せてくれる人々への感謝の念を噛みしめることになった。
そうして瓜子が入場口から足を踏み出すと、人垣から凄まじいまでの歓声がわきおこる。
物販ブースのあられもないポスターには視線を向けないように細心の注意を払いながら、瓜子はテント下のパイプ席に着席した。
『それではこれより、猪狩瓜子選手のサイン会を開始いたします! DVDの値段は五千円となりますので、あらかじめお支払いのご準備をお願いいたします!』
お客の列の整理をしていたスタッフが、拡声器でそのように伝え始めた。
本日のサイン会はユーリのときと同様に、DVDをこの場で購入した人々に特典プロマイドを配布しつつ、そちらにサインを施すという形式になっているのだ。
(それで、少なくとも三百人以上は押しかけてくれてるみたいだから……これだけで、百五十万円以上の売り上げになるわけか。純利益がどのていどなのかは知らないけど、まあけっこうな額なんだろうな)
それならば、瓜子の尽力がパラス=アテナの財政難を救うという話も、決して大仰ではなかったのだろう。
そんな思いで自分を力づけて、瓜子はこの大仕事に挑むことになった。
列の先頭の人々は、まず特設ブースでベストバウトDVDを購入する。そこで受け取ったプロマイドを手に、瓜子のもとに流れてくる格好だ。
瓜子が気を引き締めて待ちかまえていると、最初にやってきたのは大学生ぐらいの女性であった。
「わー、本物のうり坊ちゃんだ! かわいー! 握手、お願いします!」
本日は、握手はOKで写真はNGという取り決めになっている。座ったまま立った相手に握手をするという無作法に恐縮しつつ、瓜子は頭を下げてみせた。
「えーと、お買い上げ、ありがとうございます」
「はい! 試合のチケットは取れなかったんですけど、サイン会のために来ました! 来週のタイトルマッチ、頑張ってくださいね!」
「押忍。頑張ります」
ほとんど名前を殴り書きにしただけのサインを押し抱いて、その女性は名残惜しそうに奥手の物販ブースへと流れていった。
その後も、おおよそは同じような調子である。頬を火照らせた老若男女が、瓜子などに握手とサインを求めて、来週の試合を激励してくれるのだ。十人にひとりぐらいは試合や格闘技の話題に触れず、「『トライ・アングル』の特典映像、最高でした!」だの「単独で写真集とか出さないんですか?」だのと申し述べてきたものの、熱意のほどに変わりはなかった。
そういった人々を相手取っていくうちに、瓜子の気持ちもまたどんどん昂っていく。
普段は暗がりの向こうから声援を送ってくれる人々が、ひとりずつ、正面から、瓜子に好意を叩きつけてくるのである。それは嬉しさや誇らしさばかりでなく、重い圧迫感をもともなっていたのだった。
(こんなにたくさんの人たちが、あたしなんかを応援してくれてるんだ。ユーリさんや来栖さんは……ずっとこんな思いを抱えながら、選手活動を続けてたんだな)
五千円という金額を出して、瓜子のベストバウトDVDを購入し、サインと握手を求めてくる。そんな人間が三百名以上も存在するのだという事実が、今さら瓜子の両肩にのしかかってきたような思いであった。
しかしまた――『トライ・アングル』の面々というのは、この十倍に至る人数の前で、ライブの演奏を披露しているのだ。ロックバンドと格闘技では勝手が違うということを重々承知しながら、その考えは瓜子に勇気を与えてくれた。
瓜子が《アトミック・ガールズ》を主戦場として、その場を守りたいと願っているならば、この場に集まった人々も同じような思いを抱いてくれるはずであるのだ。
そんな風に考えると、瓜子はいっそう満ち足りた思いと厳粛な思いでサインペンを走らせることがかなったのだった。
◇
そうしてサイン会が無事に終了したのは午後の五時すぎで、開場時間はもう目の前である。
くたびれ果てた右腕をもみほぐしながら、瓜子が関係者用通路から会場内に戻っていくと――その途上で、意想外の人物と出くわした。つい二週間ほど前まで合宿稽古でお世話になっていた、卯月選手である。
「あ、あれ? 卯月選手も観戦なさるんですか?」
外国人の一団と英語で談笑していた卯月選手は、悠揚せまらぬ様子で瓜子のほうを振り返ってきた。
「はい。運営の方々のご厚意で、関係者席を確保することができました。猪狩さんこそ、サイン会ばかりでなくセコンドの仕事まで務められるのですか?」
「ええ。三人も出場するんで人手不足ですし、そうでなくてもお世話になっているユーリさんたちが出場するわけですから……」
「そうですか。さすがプレスマン道場の団結力ですね。ユーリさんたちにも、よろしくお伝えください」
瓜子は「押忍」と答えてから、控え室を目指すことになった。
そうしてそちらで事情を説明すると、立松は「ふうん」とうろんげな声を発した。
「卯月が他の選手の試合を観戦するなんて、初めてのことなんじゃねえのかな。そもそもあいつが合宿稽古の面倒を見てたって時点で驚きだったんだが……ちょっと見ない間に、ずいぶん様変わりしたもんだ」
「へん。どこかの乳牛にたぶらかされた結果だろ」
「ユーリはお牛さんじゃないし、たぶらかしてもいないよぅ」
「それに、見慣れない外国人の方々をたくさん引き連れていましたよ。あれもみんな、格闘技の関係者なんすかね」
「卯月のスタッフは、みんなあっちの人間だからな。レムさんが北米に居残ってる分、他のスタッフがついてきたんだろう。何にせよ、俺らは試合に集中だ」
瓜子が席を外していた一時間強で、控え室には熱気がたちこめている。特にプレマッチで出番の早い愛音などは、今もなお肉食ウサギの眼光でウォームアップに励んでいた。
瓜子も大急ぎで公式のウェアに着替えて、雑用係の任務につく。その際に、カラーリップは遠慮なく落とさせてもらったのだが、ヘアースプレーを散布された髪のほうは如何ともし難かった。
「これって水で洗うだけじゃ上手く落ちないんすよね。ユーリさん、何かいい方法はないっすか?」
「いい方法ってぇ? ちょろりと覗くかわゆらしいおでこが、とても官能的なのですぅ」
「……だから、手早く元に戻せる方法はないのかって聞いてるんすよ」
「頭なんざどうでもいいから、仕事しろや」と、サイトーが頭を小突いてくる。
出場選手が三名にも及ぶというのはここ最近のプレスマン道場において珍しい話でもなかったが、これまではサキが正規コーチ並の働きを果たしていたため、その穴を埋めるのはなかなかの大ごとであったのだった。
今回、ユーリのセコンドはチーフがジョン、サブが柳原、雑用係が瓜子となる。
サキは、チーフが立松、サブがサイトー、雑用係がやはり瓜子。
愛音はユーリと同じ編成で、雑用係だけが瓜子からメイに変更される段取りであった。
サキは大事な復帰戦であるのに、サブがキック部門のサイトーなのである。
ただそれは、心優しいサキが柳原をユーリと愛音に譲った結果であったわけだが――何にせよ、人手不足の感は否めなかった。
「ま、その気になりゃあ他の男連中を引っ張り出すこともできるんだけどよ。女子連中は、気心の知れた人間で固めたほうがのびのびできるって話だったからな」
立松は、そんな風に言っていた。
「ただ、女子連中は五人も有望な選手がいるからな。その全員が出場するような事態になったら、さすがにこっちも天手古舞だが……有望な選手が多いことを嘆くわけにもいかんわな」
「あははー。まさしく、ウレしいヒメイってヤツだねー」
誰よりも心優しいジョンもまた、そんな風に言っていた。
ともあれ、本日の興行である。
開演時間たる六時が近づくと、出場選手は一名ずつのセコンドだけを引き連れて、入場口へと出立していった。瓜子はメイやサイトーとともに、控え室でお留守番だ。
「あ、ダニーさんと榊山くんも、こちらにどうぞ。そんな隅っこじゃあ、モニターが見えないでしょう?」
瓜子がそんな風に声をかけると、骨ばった顔にざんばら髪を垂らしたダニー・リーが暗殺者のような足取りでひたひたと近づいてきた。
「……数ある人間の中から、どうして俺たちにだけ親切な言葉を?」
「え? それはまあ、ドッグ・ジムの方々には出稽古でお世話になってますし……それに、他の方々は開会式にまで興味はないご様子ですから……」
「そうか。……君の親切に、感謝する」
冷徹きわまりない無表情のまま、ダニー・リーはモニターを見据えた。
榊山蔵人はおどおどと目を泳がせつつ、その隣に立ち並ぶ。この大きくて温和な草食動物を思わせる若者はこの春から大学に進学していたが、変わらぬペースでドッグ・ジムに通っているのだという話であった。
そんな彼らとともに、瓜子もモニターを注視する。
こちらの『新木場ロスト』は照明の類いもあまり充実していなかったが、レトロなマジシャンのようないでたちをしたリングアナウンサーは本日も元気な様子で声を張り上げていた。
『それでは! 《アトミック・ガールズ》五月大会、
リングアナウンサーのアナウンスとともに、出場選手が一名ずつ入場してくる。
プレマッチの第一試合は、フライ級のアマチュア選手同士の一戦。
第二試合は、愛音と榊原選手のプロ昇格をかけた査定試合。
本選の第一試合は、犬飼京菜と
第二試合は、前園選手と中堅選手。
第三試合は、山垣選手と白木選手。
第四試合は、サキと中堅選手。
第五試合は、沙羅と中堅選手。
ここまでは、第一試合を除くすべてが調整試合だ。
なお、犬飼京菜と対戦する宮田選手は、まごうことなきトップファイターである。年齢は三十歳で、そろそろベテランの域に差し掛かる、名うてのグラップラーであった。
山垣選手は瓜子と同階級のトップファイターで、昨年三月のメイとの試合で左膝を負傷し、一年以上も欠場することになったのだ。また彼女は、瓜子がユーリと初めて出会った日にサキとタイトルマッチを行った選手でもあった。
それと対戦する白木選手は武魂会の所属で、去年の《カノン A.G》の騒動の際、イリア選手との対戦をお断りした中堅選手となる。長きの負傷欠場から復帰する山垣選手の対戦相手として過不足のない、堅実なタイプのストライカーであった。
アトム級に階級を落としたサキもまた、クセのないストライカーの中堅選手を当てられている。犬飼京菜や宮田選手や前園選手よりも遥かに格下の相手であったが、サキ自身がストロー級の前王者という肩書きを持っているため、この順番となったのだろう。
また、沙羅選手は現王者であるためさらに後半の出番となったが、相手は選手層の薄いフライ級の中堅選手だ。瓜子自身、階級が違うこともあってほとんど印象のない選手であり、これはもう人気の高い沙羅選手を出場させるためにやむなく組まれたマッチメイクなのであろうと思われた。
そして、その後に続くのは――
第六試合が、奥村選手と灰原選手。
第七試合が、高橋選手とオルガ選手。
第八試合が、イリア選手と鞠山選手。
第九試合が、小笠原選手と大村選手。
メインイベント、第十試合がユーリとジーナ・ラフ選手という組み合わせになる。
この中で、トップファイターが絡まないのは第六試合のみだ。
中堅選手の筆頭たる奥村選手と、若手の中から爆走してきた灰原選手の対戦に、それだけの期待がかけられているのだろう。
現在この階級のトップファイターは、瓜子とメイと一色選手の三名に一掃されてしまった形になっている。とりわけメイなどは山垣選手と亜藤選手を秒殺してしまったため、かなり番付を揺るがせてしまったはずであった。
この波に乗じてトップ戦線に食い入ってくるのは、灰原選手か奥村選手か。あるいは古豪、鞠山選手か。運営陣には、それを見定めようという思惑があるのではないかと思われた。
そして、うがった見方をするならば、それは現王者たる瓜子の対抗馬を選出するための行いでもあるのだった。
(まあ、あたしにしてみれば、サキさんとトップ戦線を争ってた亜藤選手や山垣選手や後藤田選手とお手合わせを願いたいところなんだけどな)
そういえば、前回の興行でラニ・アカカ選手に勝利した後藤田選手は、今回欠場となっている。彼女は一色選手に敗れてしまったものの、メイと対戦していない希少なトップファイターであったため、運営陣も大事に温存しているのかもしれなかった。
「……この北米の選手は、ずいぶん気負っているようだな」
と、ダニー・リーの低いつぶやきが聞こえてきた。
北米の選手はただひとり、ユーリと対戦するジーナ・ラフ選手である。赤と青のアメリカンな配色のウェアを纏ったジーナ・ラフ選手は、確かにこの段階から猛烈な闘争心を漂わせているように感じられた。
「たしかこの選手は、桃園由宇莉さんとのリベンジマッチだという話だったが……何か遺恨でもあるのだろうか?」
「いえ、まったく。そもそも前回の試合ではジーナ選手のほうが勝ったんですから、ユーリさんに遺恨を抱く理由はないはずです」
それに、その後どこかの試合会場で再会を果たしたとき、彼女はユーリに対してずいぶん親切そうな対応をしてくれたのだ。当時の瓜子は、彼女やジョンのような外国人のほうがユーリと相性がいいのかもしれないな、などと考えたものであった。
「そうか。では、一度勝った相手には負けられないという思いなのだろうか。何にせよ、これは気負いすぎだ」
「そうっすか。ジーナ選手は《アクセル・ファイト》と契約できたのにすぐリリースされたらしいって話だから、かなり気合が入ってるのかもしれませんね」
「《アクセル・ファイト》? なるほど……憧れの舞台まで辿りつき、そこで自分の力が通用しないと思い知らされるのは、さぞかし苦痛であったろうな」
瓜子が思わず振り返ると、ダニー・リーは鋭く切れ上がった目を冷たく光らせつつ「何か?」と反問してきた。
「あ、いえ……やっぱりダニーさんはお優しいなと思って。目上の方に偉そうなことを言っちゃって、どうもすみません」
「……今の発言でどうしてそのような感想が生まれるのか、理解に苦しむところだ」
感情の感じられない言葉を発しつつ、ダニー・リーは薄い唇にわずかに苦笑めいたものをにじませた。
「何にせよ、試合までに気を静めなければ、いっそう勝利から遠のくことだろう。ただでさえ、今日の相手は桃園由宇莉さんというモンスターなのだからな」
「そうですね。ユーリさんも、万全の相手と試合をしたいと願っているはずです。どちらにせよ、自分はユーリさんの勝利を祈るだけですけど。……あともちろん、サキさんや犬飼さんもですけどね」
「……そこに京菜の名を入れてくれることを、ありがたく思う」
「あはは。ダニーさんだって、サキさんやユーリさんの勝利を祈ってくれているでしょう?」
「さて……桃園由宇莉さんはともかく、サキなどは俺の応援など煙たがるだけだろう」
そんな言葉を口にすると、苦笑めいた表情がいっそう色濃くなるようである。
そうして本日の興行は、選手代表たるユーリの宣言によって華々しくスタートを切ることに相成ったのだった。
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