インターバル
思わぬ邂逅
合同合宿稽古の最終日から、二日後――五月の第二水曜日である。
瓜子とユーリは副業の仕事の合間に、千駄ヶ谷から呼び出されることになった。
場所は、『ワンド・ペイジ』の所属する音楽レーベルの事務所である。
名目は『トライ・アングル』についての打ち合わせであったが、それが名目に過ぎないことは事前に伝えられていた。
『ただし、これは「トライ・アングル」の今後の活動に大きく関わる案件ですので、そのおつもりでいらしてください』
朝方に千駄ヶ谷からの連絡を受けた瓜子は、その冷たく研ぎ澄まされた声音の調子に、思わず背筋をのばすことになったのだった。
そうしてやってきた、音楽レーベルの事務所である。
雑居ビルの入り口で待ちかまえていた千駄ヶ谷は、瓜子が想像していた以上に冷徹な眼差しをしていた。
「あ、あの、千駄ヶ谷さん。今日はいったいどういった用件で――」
「用件は、『トライ・アングル』の打ち合わせです」
瓜子の問いかけを氷の刃めいた声音で断ち切って、千駄ヶ谷は雑居ビルの内に踏み込んでいった。
入り口の受付で来意を告げ、応接室に通される。そこで待ち受けていたのは、山寺博人と『ワンド・ペイジ』のマネージャーと――そして、見知らぬ女性であった。
「み、みなさんお待ちしていました。こちらはイラストレーターの、
そのように紹介された女性はふわりと立ち上がり、瓜子に向かって和やかに微笑みかけてきた。
「初めまして。リマです。どうかリマと呼んでくださいね、猪狩瓜子さん」
「え? あ、はい。どうも初めまして。スターゲイトの猪狩と申します」
朝から嫌な予感を抱えていた瓜子は、いよいよそれが現実になったことを思い知らされた。相手がどのような素性であれ、ユーリや千駄ヶ谷を差し置いて瓜子に挨拶をしてくることなど、そうそうありえないのである。
「そ、それでは千駄ヶ谷さんとユーリさんは、こちらにどうぞ。『トライ・アングル』の今後の活動に関して、いくつか確認事項がありますので」
マネージャーがそのように言い出したため、瓜子はいっそうの惑乱を抱え込むことになってしまった。
「あ、あの、自分はどうしたらいいんすか?」
「猪狩さんは、こちらでヒロくんたちとお話しください。僕たちは、隣の部屋にいますので」
マネージャーがさっさと出口に向かってしまうと、千駄ヶ谷は無言でそれに追従する。ユーリはとても心配そうな面持ちで、瓜子の着ていたシャツの裾をぎゅっと握りしめてから、その後に続いていった。
ひとりでその場に残された瓜子は、わけもわからぬまま呆然と立ち尽くしてしまう。
すると、円城リマなる女性がまたやわらかい微笑を投げかけてきた。
「どうぞ座って、瓜子さん。……初対面だけど、瓜子さんと呼ばせてもらっていいかしら?」
「は、はい。それはかまいませんけれど……」
瓜子は強張る両足を無理に動かして、二人の正面に置かれたソファに腰を下ろすことになった。
山寺博人はソファの肘掛けに頬杖をついて、そっぽを向いている。
そちらと人間ひとり分の距離を置いて座した円城リマは、静かに瞬く瞳でじっと瓜子を見つめていた。
なんだか――不思議な雰囲気を持った女性である。
年齢は、二十代の半ばぐらいであろうか。腰まで届きそうなロングヘアーをワンレングスにして、首の後ろでゆったりとひとつにまとめている。百七十センチぐらいはありそうな長身だが、逞しい女性に見慣れた瓜子には痛々しく思えるほど痩せ細っていた。
それに、びっくりするぐらい色が白い。それも、ユーリのように透き通るような白さではなく、どこか病人めいた青白さだ。しかも、その身に纏ったオーバーサイズのトップスやボトムやデッキシューズなどが黒で統一されていたため、いっそう肌の青白さが際立ってしまうようだった。
顔立ちそのものは、とりたてて強い個性を有していない。むしろ、個性がなさすぎるというべきか――ただ痩せているという他には説明のしようもない容姿であった。
ただ、形状としては無個性な目に、とても不思議な光がたたえられている。
月の光に照らし出される、夜の湖の水面というか――そんな詩的な表現をひねり出したくなるような、神秘的な眼差しであるのだ。
「さっき紹介された通り、わたしはイラストレーターなんだけど……ペンネームはローマ字で、『RIMA』っていうの。瓜子さんは、ご存じかしら?」
「あ、いえ、自分はそういうジャンルに疎いもので……不勉強で、申し訳ありません」
「知らない? R、I、M、Aで、『RIMA』よ。どこかで見た覚えはないかしら?」
「聞いた覚えじゃなく、見た覚えですか?」と反問してから、瓜子は思わず「あっ!」と大きな声をあげてしまった。
「あ、あの、『ワンド・ペイジ』のセカンドアルバムは、ジャケットがイラストでしたよね。そこに小さく、『RIMA』ってサインされていたような……」
「そう、当たり。……瓜子さんは、本当に熱心なファンなのね」
円城リマは長い前髪をかきあげながら、くすくすと忍び笑いをもらした。どことなく、毛づくろいをする猫のような表情と仕草だ。
「それ以外にも、Tシャツとかのグッズのデザインを引き受けたことがあるの。それで、ワンドの次のアルバムにもわたしのイラストを使おうかって話があがってるわけね」
「そ、そうだったんすか。セカンドアルバムのイラストは、とても素敵でした」
「ありがとう。でも、次のアルバム云々は、ただの名目なんだよね。そんな話でもでっちあげない限り、わたしがここまで足を運ぶ理由はないからさ」
そんな風に語らっている間に、円城リマの口調はどんどん砕けてくる。しかし、瓜子の混乱は増すいっぽうであった。
「そ、それじゃあ今日は、なんのために……?」
「瓜子さんと会ってみたかったの。ヒロくんが夢中になる女の子がどれだけ魅力的なのか、自分の目で確かめてみたかったんだよね」
「誰が夢中だよ。勝手なこと抜かすな」と、山寺博人はあらぬ方向をにらみつけたまま、険悪な声で言い捨てた。
円城リマはまたくすくすと笑って、瓜子の顔を見つめてくる。
「それでは、問題です。わたしはいったい何者でしょう?」
「は、はい……もしかして……ヒロさんの奥さんっすか……?」
「また、当たり。さすが瓜子さんは、鋭いねぇ」
山寺博人は深く息をつき、自分の頭を乱暴にかき回した。
「いつまでこんな茶番を続けるんだよ? 気が済んだんなら、さっさと帰りやがれ」
「あら。それなら、離婚に同意するってこと?」
「そんなわけがあるかよ! なんべん同じ話を蒸し返す気だ!?」
「そんな大きな声を出したら、こんなセッティングをお願いしたことが無駄になっちゃうよ」
円城リマは山寺博人の剣幕に怯んだ様子もなく、ゆったりと微笑んでいた。
そしてその間も、暗くて深い色合いをした瞳が瓜子の姿を見つめている。
「瓜子さんは、どう思う? ヒロくんが離婚してくれたら、嬉しい?」
「そ、そんなことあるわけないじゃないっすか。まさか……自分が原因なんてことはないっすよね?」
「実は、そのまさかなんだなぁ。ここ最近、ヒロくんはずっとあなたに夢中だったからさぁ。わたしもそろそろ引き際なんじゃないかと思ったんだよねぇ」
「だから――!」と山寺博人が声を張り上げようとすると、円城リマは白い手をあげてそれをさえぎった。
「たまに会っても、電話をしてても、必ず一回は瓜子さんの話が出るからさ。こんなこと、籍を入れてから……いや、ヒロくんと出会った十年前から考えても、初めてのことだったんだよねぇ。ようやく他の女の子に夢中になれたんなら、わたしみたいに厄介な女とは縁を切ったほうが身のためでしょう?」
「ま、待ってください! 円城さんは、何か誤解してるんすよ! ヒロさんは絶対に、自分のことなんか――」
「円城じゃなくて、リマ。言うこと聞いてくれないと、わたしはますますへそを曲げちゃうよぉ?」
「ご、ごめんなさい! とにかく、誤解なんです! 自分とヒロさんは、そんな関係じゃありませんから!」
「そりゃあヒロくんは、浮気をできるような人間じゃないもん。だから、あなたとそういう関係になるために、わたしと離婚するべきだと思ったんだよぉ」
「た、たとえ、円城さん――あ、いえ、リマさんとヒロさんが離婚したとしても、自分はそんな関係にはなりません! 自分はただの、ワンドのファンに過ぎないんですから!」
円城リマは静かに微笑んだまま、しばし唇を閉ざした。
その黒い瞳を見つめていると、何だか魂を吸い込まれそうな心地になってしまう。しかし瓜子はそんな不可思議な感覚にも耐えて、決して目をそらそうとはしなかった。
やがて円城リマはけだるげに身を傾けつつ、「そっかぁ」とつぶやいた。
ソファの肘掛けに頬杖をついて、細長い足を組む。隣の山寺博人と鏡あわせになるような姿勢だ。
「ヒロくん、フラれちゃったねぇ。内心、ガッカリなんじゃない?」
「…………」
「でも、ヒロくんが瓜子さんに夢中になった理由はわかっちゃったなぁ。瓜子さんは、わたしと正反対の人間だもんねぇ。健康的で、正直者で、おひさまみたいにきらきら輝いてて……わたしみたいな女にうんざりしたら、瓜子さんみたいな女の子が愛しく思えてたまらないよねぇ」
「…………」
「わたしたちね、籍は入れてるけど一緒には住んでないの。それどころか、顔をあわせるのは月にいっぺんぐらいだし、電話だって週に一回ってところかなぁ。わたしもヒロくんも偏屈の塊だから、それぐらい距離を取っておかないと、すぐに破綻しちゃうんだよねぇ」
同じ表情と姿勢を保持したまま、円城リマはそのように言いつのった。
「でも、そんなていどの関係で一生を縛りつけられるなんて、馬鹿げてるでしょ? だからそろそろ、ヒロくんを解放してあげたかったんだけど……肝心の瓜子さんにその気がなかったら、別れる甲斐もないもんねぇ。ようやくチャンス到来と思ったのに、残念だなぁ」
「な、なんだか自分にはよくわかりません。リマさんは、その……ヒロさんのことを嫌いになったわけじゃないんでしょう?」
「当たり前じゃん。ヒロくんと別れるぐらいなら、死んだほうがマシかなぁ」
「だ、だったらどうして離婚話なんか持ち出すんですか?」
「そんなの、ヒロくんに幸せになってほしいからに決まってるじゃん。わたしみたいな厄介者と縁を切らない限り、人並みの幸せなんて望みようもないんだからさぁ」
瓜子は脱力して、深々と息をつくことになった。
「それなら、ヒロさんと仲直りしてください。ヒロさんは、無茶苦茶怒ってるでしょうからね」
「ヒロくんがぁ? なんでぇ?」
「そんなの、怒るに決まってるじゃないですか。ヒロさんはリマさんのことを大切に思ってるのに、そんな勘違いで一方的に別れ話を持ち出されたら……自分だって、怒りますよ」
円城リマは、きょとんと目を丸くした。
そうすると、無個性な顔が一気にあどけなくなる。そして彼女はそのあどけない表情のまま、初めて山寺博人のほうを振り返った。
「ヒロくん、怒ってたのぉ? ヒロくんはいっつも不機嫌そうだから、わたしにはよくわからないんだよねぇ」
「……うるせえよ、馬鹿野郎」
山寺博人はそっぽを向いたまま、動かない。
円城リマは姿勢を真っ直ぐに戻してから、「あはは」と笑った。
「こんなんだから、わたしたちは真っ当な関係を築けないんだろうねぇ。でも、瓜子さんがうちの子になってくれたら、うまくいくかもしれないなぁ」
「う、うちの子って何すか? これ以上、自分を巻き込まないでください」
「だって、子はかすがいって言うでしょう? よかったら、うちに養子に来てくれない?」
「い、いかないっすよ! なんか、本気っぽくて怖いです!」
「だって、本気だもん。じゃあさ、ヒロくんと瓜子さんで子供を作って、それを養子に――」
「やめてくださいってば! 悪い冗談です!」
瓜子が悲鳴まじりの声をあげると、円城リマはにっこりと微笑んだ。
「うん。今のは、冗談。でも、わたしまで瓜子さんに夢中になっちゃいそうだなぁ」
瓜子はソファの背もたれにぐったりともたれながら、もういっぺん嘆息をこぼしてみせた。
「なんか、異様に疲れました。……でも、お二人はお似合いだと思いますよ」
「あら、本当にぃ?」
「はい。きっとリマさんみたいな人と巡りあえたから、ヒロさんはあんな素敵な歌詞を書けるんでしょうね」
円城リマは細長い身体をのけぞらしながら、自分の左胸に手をあてがった。
「うわぁ、心臓を射抜かれちゃったぁ。瓜子さんって、ものすごいことをさらりと言うんだねぇ」
「すみません。自分もキャパオーバーなんで、言いたいことを言っちゃってます」
「すごいすごい」と言いながら、円城リマはぶかぶかのトップスに包まれた胸もとをまさぐった。
「あ、ちなみにわたしってガリガリだけど、何故だか乳房だけは異常に発達してるの。こういうところも、瓜子さんとは正反対だよねぇ」
「よ、余計なお世話っすよ! そういうセクハラは間に合ってますんで!」
瓜子がわめき声をあげると、山寺博人が初めてこちらを振り返ってきた。
「お前……マジですげえな」
「な、何がっすか? ヒロさんまでおかしなこと言わないでくださいよ?」
「……この偏屈女と初対面でまともに言い合いをできる人間なんて、初めて見たんだよ」
「あはは。瓜子さんがそういう人間だから、ヒロくんも夢中になっちゃったんでしょう?」
「だから、違うって言ってんだろ」
怒った声で言いながら、山寺博人は円城リマの華奢な肩を優しく小突いた。
円城リマはくすくすと笑いながら、山寺博人の肩を小突き返す。
「それじゃあ、話はこれでおしまいかなぁ。瓜子さん、今日はわざわざごめんねぇ。わたしたちにとっては、いちおう人生の分岐点だったからさぁ」
「いえ。納得してもらえたんなら、よかったです。自分はこれからも、スタッフとして頑張っていきたいんで」
「うん、ありがとう。それじゃあこれは、お詫びの品ねぇ」
円城リマが両腕をのばして、ソファの背後に隠されていたものを引っ張りあげた。
何かと思えば、古びたギターケースである。プロのギタリストが持ち歩くようなしっかりとしたものではなく、ナイロン素材のソフトケースだ。
「はい、どうぞ」
「いや、どうぞと言われましても……自分、ギターなんて弾けないっすよ?」
「うん。ギターを弾きたいなら、ちゃんとしたやつを買うべきだろうねぇ」
円城リマは悪戯小僧のように微笑みながら、ギターケースのジッパーを開いた。
ギター本体は、ケースよりも古びている。そしてそれはペグがひとつ欠けており、千切れた弦がとぐろを巻いていた。
「こ、これってヒロさんのギターじゃないっすか! こんなの、いただけないっすよ!」
「でも、瓜子さんはワンドのフリークなんでしょ? だったら、喜ぶかと思ってさぁ」
そんな風に言いながら、円城リマは覚束ない手つきでギターを裏面にひっくり返した。
木目のボディに、黒と赤で渦巻き模様がペイントされている。ただそれもずいぶん古い時代に描かれたものであるらしく、ところどころが剥げてしまっていた。
「これ、わたしの落書きなんだよねぇ。だからヒロくんも捨てるに捨てられなくって、わたしのマンションに置いていっちゃったの。だからこれは、わたしから瓜子さんへのプレゼント」
「い、いや、だけど……」
「わたし、ヒロくんと離婚する覚悟だったからさぁ。気持ちにけじめをつけるために、これをあなたに押しつけようと思ってたの。でも、離婚しないで済むみたいだから、これはお詫びと感謝のしるしとしてプレゼントさせてもらえないかなぁ?」
瓜子はまた大きな混乱に見舞われながら、円城リマと山寺博人の姿を見比べることになった。
山寺博人は長い前髪に目もとを隠したまま、「ふん」と鼻を鳴らす。
「お前が受け取らないなら、粗大ゴミ行きだ。どっちでもいいから、さっさと決めろ」
「こ、こんなの絶対に捨てちゃ駄目っすよ! わかりました、自分がお預かりします!」
「あはは。ありがとうねぇ」
円城リマはあどけなく笑いながら、ケースに戻したギターを瓜子のほうに押しやってきた。
それを受け取ろうとした瓜子の手に、円城リマの手がそっと重ねられる。
それはまるで血が通っていない蝋人形のように青白い指先であったが――しっかりと、人間らしい温もりを宿していた。
「それでね、最後にひとつだけ言っておきたいんだけど……」
「はい。なんすか?」
「もし瓜子さんが心変わりしたら、まずわたしとヒロくんを離婚させてねぇ? 順番を間違えたら、わたしに一生うらまれることになっちゃうからさぁ」
「心変わりはしません! 絶対に!」
円城リマはもう一度、子供のような顔で「あはは」と笑った。
そうして瓜子は、ついに山寺博人の伴侶と相まみえ――とほうもない疲労感と得も言われぬ満足感を同時に授かることになったのだった。
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