04 卯月の考察

 組み分けをしてから三十分ほどで、インターバルが入れられることになった。

 水分補給をしながら稽古場の中央に集合すると、来栖舞と卯月選手が並んで立ちはだかる。


「ひと通り見せてもらったが、これもなかなか見どころの多い稽古だった。……まずは卯月選手にご感想を願えるだろうか?」


 来栖舞に水を向けられると、卯月選手は変わらぬ穏やかさで「はい」と応じた。


「まず、ユーリさん。ユーリさんは、良くも悪くも別人のようでした。この一年ほどで、いったい何があったのでしょうか?」


 ユーリは「ほえ?」と小首を傾げる。

 しかたないので、瓜子が代弁することになった。


「卯月選手もプレスマン道場の関係者なので打ち明けますけれど、ユーリさんは右目の視力が極端に悪かったんです。それで去年の夏以降は、不同視を克服するためのトレーニングを積んでいたんです」


「不同視? ユーリさんが? ……それでユーリさんはスパーの最中、たびたび片目を閉じていたわけですか?」


「はぁい、そうですぅ。そういえば、卯月選手とお会いしたのはそれより前のお話だったのですねぇ」


「……この場にいる方々は、みんなその事実をわきまえているわけですか?」


「はい。それにユーリさんは試合中にも片目を閉じているので、もう交流のない選手の間にも知れ渡っていると思います」


 卯月選手は直立不動のまま、深々と息をついた。


「そうですか。もともとユーリさんのスタンド戦にはちぐはぐなものを感じていましたが、まさか不同視だったとは……それで弥生子に勝利できたというのは、信じ難い話です」


「過去の試合はさておくとして、さきほどのスパーのご感想は?」


 と、来栖舞が鋭く追及する。そういえば、この中で来栖舞と鞠山選手だけは、卯月選手よりも年長であるのだった。


「ああ、失礼。さきほどのスパーは……正直に言って、ユーリさんの特性が失われているように感じられました。以前のユーリさんはウェイトに見合わぬ攻撃力と美しいフォームを有しながら、距離の取り方がまったく稚拙であるという、実に不可思議な存在でしたが……今は距離の取り方が多少ながら向上した分、かつての爆発力が損なわれたように思います」


「それはユーリ様が、スパーでがむしゃらに動くことを禁じられているためであるのです! ユーリ様の爆発力は、日を重ねるごとに向上しているはずであるのです!」


 愛音が不平がましい面持ちでそのように言いたてると、卯月選手は無表情のまま小首を傾げた。


「禁じられているとは、誰に?」


「プレスマン道場のコーチ陣であるのです! ユーリ様は不同視という非業のハンデを克服なさるために、とにかく丁寧に稽古を重ねるべしと厳命されておられるのです!」


「はい。片目をつぶれば相手の姿がぼやけることもないそうですが、それでも遠近感がつかみにくいことに変わりはありません。だから現在のユーリさんは、その状況でも真っ当な打撃戦ができるようにリハビリをしているようなものなんです」


 瓜子がそのように言葉を添えると、卯月選手はしばらく沈思したのち「なるほど」とつぶやいた。


「では、スタンド戦におけるユーリさんの実力を見定めるには、試合の映像を拝見するしかないようですね。そのときを楽しみにしたく思います」


「で? もしかしたら、あんたはピンク頭のことしか見てなかったの?」


 と、灰原選手がいつもの調子で問いかける。どうやら卯月選手を相手にかしこまる必要はないと判断したようだ。

 卯月選手はまったく気を悪くした様子もなく、「いえ」と応じた。


「もちろん、みなさん全員のスパーを拝見しました。……あなたのタックルは勢いまかせで、稽古が足りていませんね。踏み込む際の角度と足の位置、および前進と足を抱える動きの連動を見直すべきかと思われます。それに、気負いすぎているために挙動も読みやすくなっています。まずは、メンタル面をどうにかするべきでしょう」


「……ずいぶん好き勝手言ってくれるじゃん。それでもあたしは、うり坊のことを何回も倒してみせたんだけど?」


「それは猪狩さんが、誰か別の選手の役割を演じていたためでしょう。猪狩さんが本来の力を発揮していたなら、すべてを回避できていたはずです。また、もう片方の御方からは一度たりともテイクダウンを奪えていないでしょう? スパーリングパートナーから一度もテイクダウンを奪えないなどというのは、恥じるべき結果だと思われます」


「そ、それは、マコっちゃんがレスリングを得意にしてるからで――!」


「しかしあなたも、タイミングと勢いは秀逸であるのです。また、打撃技によるプレッシャーも有効に働いています。ですから、あれほどに不格好なフォームでも猪狩さんからテイクダウンを奪えたのでしょう。きちんとフォームを矯正して、気負いを抑制することさえかなえば、そちらのマコっちゃんという御方からもテイクダウンを奪えるようになるはずです」


 卯月選手がやわらかい口調でたたみかけると、さしもの灰原選手も口をつぐんでしまった。

 卯月選手は糸のように細い目を、愛音のほうに移動させる。


「あなたのステップワークは、高い水準に達しています。ですが、あまりに攻撃力がお粗末です。今回は大柄なお二人が相手であったのでなおさらですが、それでは同階級の相手からもダウンを奪うことは難しいでしょう」


「……愛音は今、身体を作っている最中であるのです。今年になるまでまだ身長がのびていたので、むやみに筋トレをしないように言いつけられていたのです」


「攻撃力は、イコール筋力ではありません。そちらの猪狩さんはこれだけ小柄でありながら、すでに十試合連続でKO勝利を収めているのだと、さきほどジョンさんからおうかがいしました。それは彼女が、正しい攻撃を出しているためなのでしょう」


「……愛音の攻撃は、正しくないのです?」


「はい。具体的には、出す技の種類とタイミングに間違いが見受けられます。あなたもまた、気負いすぎる気性なのではないでしょうか? 格闘技においてアグレッシブな気性というのは大事な要素ですが、頭の中は冷静であるべきです。あなたの場合、早く当てよう、強く当てようという気持ちが先走っているように思います。もっと相手の挙動を冷静に見極め、的確なタイミングで技を出すように努めれば、ダウンを奪えるようになると思います」


 そんな風に語らいながら、卯月選手は来栖舞のほうに向きなおった。


「俺に右ストレートを出してもらえますか? 当たる間合いで、ゆっくりとお願いします」


 来栖舞は何を問い返すこともなく、その指示に従った。

 いや、従おうとした。

 それよりも早く卯月選手の左拳が動いて、来栖舞の鼻先で止められたのだ。


「これが、あなたの技を出すタイミングです。この段階で、こちらの御方の重心はまだ移動していないため、ただ立っている相手を殴っただけの状態になります。……もう一度お願いします」


 来栖舞が同じ挙動で右ストレートを出そうとすると、今度はその右腕がのびきる寸前ぐらいに卯月選手の拳が鼻先まで到達した。


「このタイミングで拳を当てれば、相手の重心移動がそのままカウンターの破壊力に転化します。……これはほんの一例ですが、とにかくあなたは攻撃のリズムがせわしないのです。はやる気持ちを抑制して、相手の挙動をしっかり見定められれば、もっと的確な攻撃を出せるようになるはずです」


 そうして愛音までもが黙り込むと、鞠山選手が大声を張り上げた。


「それじゃあ、わたいはどうなんだわよ? わたいも愛音やウサ公と同じように、試合に向けた課題に取り組んでた身なんだわよ!」


「あなたはずいぶん変則的な相手との対戦を想定しているようですね。多彩な足技を駆使するアウトファイター対策としては、まったく過不足ないように感じられましたが……察するに、あなたもアウトファイターなのでしょう? であれば、もっとその特性を活かすべきなのでは?」


「具体的に、どう活かすんだわよ?」


「もし動き負けしない自信があるのなら、あなたもアウトスタイルに徹するのです。アウトファイターというのは接近する相手をいなすのが得手であるぶん、逃げる相手を追うのが不得手であるものですからね」


「だけど相手はストライカーで、このカエル女はグラップラーだぜー?」


 サキが口をはさむと、卯月選手は「そうですか」とうなずいた。


「であれば、相手はなおさらあなたの接近を警戒しているでしょう。それであなたがアウトスタイルに徹すれば、意表を突かれてリズムを崩すかもしれません」


「だけどそれじゃあ、不毛な鬼ごっこでタイムアップだろ。逃げてばっかじゃあ判定負けは確実だろうなー」


「アストスタイルとは、逃げる手段ではありません。ヒット&アウェイで戦況を有利に進めるのが本道でしょう?」


「手前より背の高いストライカーを相手に、ヒット&アウェイで打ち勝てってのか。レムの親父も真っ青のスパルタだなー」


「俺はあまり、ストライカーだとかグラップラーだとかいう区分を好んでいません。もちろん誰でも得手不得手はあるでしょうが、スタンドとグラウンドのどちらを捨てても勝利はできないはずです。……そして、スタンド戦を有利に進められてこそ、テイクダウンのチャンスが生まれるのだろうと考えています」


「まったくもって、同意だわよ。真っ当なアウトスタイル対策が通用しないからこそ、あのピエロはこうまで厄介なんだわよ」


 眠たげなお目々に闘志の炎をたぎらせながら、鞠山選手はそのように宣言した。


「イマジネーションがぐんぐん膨らんできたんだわよ。次のスパーでは、サキと愛音とトキちゃんにお手伝いをお願いしたいんだわよ」


「愛音も自分の課題に取り組みながらでかまわないのです? それなら、お相手するのです!」


「だったら、メイっちょはこっちによこしてよ! 前後の動きが一番鋭いのは、やっぱりメイっちょだろうからね!」


 と、卯月選手に助言を受けた三名は、すっかり火がついてしまった様子である。

 それらの姿を見やりながら、小笠原選手は「やれやれ」と肩をすくめた。


「熱くなるのはけっこうだけど、次は猪狩と桃園と多賀崎さんを優先する番だからね。まずはそっちの内容を決めさせていただくよ」


「あ、でも、小笠原選手だってまだご自分の課題に取り組んでないっすよね?」


「アタシの相手は無差別級の大村さんだから、このメンバーだと具体的な課題の立てようがないんだよ。ま、ブランク持ちのアタシには、こうやって一日中稽古できるだけで十分にありがたいのさ」


 そう言って、小笠原選手は魅力的な顔で微笑んだ。

 いっぽう来栖舞は、真剣きわまりない面持ちで卯月選手のほうをうかがっている。おそらくは、その鋭い鑑識眼に驚かされたのだろう。それは、瓜子も同様であった。


(こんな三十分ていどの見学でそれぞれの選手の特性を見抜けるなんて、ちょっと普通じゃないよな)


 卯月選手はかつてプレスマン道場にも姿を見せていたが、あの頃は一般門下生と鉢合わせしないように夕方には帰還していた。よって、愛音が稽古をする姿もほとんど目にしたことはないはずであるのだ。

 それに、ユーリとはたびたびグラップリング・スパーに励んでいたものの、その他の稽古には関心を寄せていなかった。ユーリや瓜子の立ち技の稽古などは、自身も稽古に取り組みながら横目でうかがっていたていどであったのだ。


 それでも卯月選手は、ユーリや瓜子の立ち技の技量を、しっかり見定めているように思える。

 自分の知らない内にそうまで検分されていたのかと思うと、瓜子は少しおっかないぐらいであった。


(だけどまあ……弥生子さんと同じぐらい頼もしいってことに、間違いはないかもな)


 そんな感じで、卯月選手の存在は合同稽古をいっそう活性化してくれたようだった。

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