05 去りし日の熱戦
卯月選手を迎えた日中の稽古はあっという間に終わりを告げて、合宿初日の夜がやってきた。
栄養補給と調理の手軽さを重視した鍋物の夕食を食べ終えた後は、二手に分かれて勉強会だ。食事をともにした卯月選手は、この刻限まで居残っていた。
「卯月さんは桃園と妹さんの試合に関心があるみたいだから、アタシたちも一緒に拝見して考察することにしようか」
小笠原選手の提案で、参加メンバーの半数が卯月選手とともにユーリと赤星弥生子の一戦を視聴することになった。
《アトミック・ガールズ》において過去最高の売り上げを叩き出したという、本年の一月大会のDVDである。それを持参してくれたのは去年と同様、鞠山選手であった。
大きなプロジェクターが設置された武魂会の会議室に、七名の人間が集結する。その顔ぶれは、卯月選手、来栖舞、小笠原選手、鞠山選手、サキ、ユーリ、瓜子というものであった。
鞠山選手がデッキを操作して、白いスクリーンにあの日の熱狂が投影される。
試合が終了するまでの十数分間、卯月選手は本物のお地蔵様と化したかのように、ぴくりとも動かなかった。
「なるほど……確かにこれは、薄氷の勝利であったようですね」
何回見ても心臓を揺さぶられてやまない熱戦が終わりを告げると、卯月選手は最前までと変わらぬ穏やかな口調でそう言った。
「弥生子の敗因は、ただひとつ。ユーリさんの勢いに呑まれて、いわゆる大怪獣タイムというものをラウンド終了の一分前に発動させてしまったことです。あれはせいぜい三十秒ていどでスタミナを使い果たしてしまうため、相手が手ごわいと感じたならなおさら使うべきタイミングを慎重に見定めるべきであるのです」
「はぁい。ですからやっぱり、ユーリはまだまだ弥生子殿の境地には達していないのですよぉ」
「いえ。俺が弥生子の立場でも、きっと同じように振る舞っていたでしょう。こんな言葉は、しょせん虚しい結果論に過ぎないのです」
と、卯月選手は糸のように細い目でユーリを見つめた。
「ユーリさんは、まぎれもなく弥生子を追い詰めました。きっと弥生子は、相手の打ち立てた戦略をすべて突き崩したと安心したところでユーリさんの頑丈さを見せつけられ、冷静な判断力を失ったのでしょう。そこまで弥生子を追い詰めたのは、ユーリさんです。ですからこれは、ユーリさんが実力で勝ち取った結果であるのです」
「でもでも、弥生子殿はユーリなんかより、ずっとずっとお強いですよねぇ?」
「試合は、結果がすべてです。現時点では、ユーリさんのほうが弥生子よりも強いのです。……ただし、十回に九回は負けると判断したユーリさんのお気持ちは、痛いぐらいに理解できます。ことファイターとしての完成度という意味においては、弥生子のほうが遥かにまさっているのでしょうからね」
「ですよねぇ」と、ユーリはどこか満足そうに微笑んだ。
そんなユーリの笑顔を、卯月選手は感情のうかがい知れない眼差しで、じっと見つめている。
「ですがユーリさんは、いまだ二十歳――いえ、もう二十一歳になられたのでしたか。ともあれ、その年齢であれば未完成であるのが当然でしょう。あなたの最盛期は、これからです。今後どのようにトレーニングを積んでいくかで、あなたのファイター人生は大きく変わっていくはずです」
「確かに桃園のおっかなさは、未完成ゆえの得体の知れなさってのが大きな要因なのかもね。アンタは試合のたんびに違った姿を見せつけてくれるから、対戦相手はどれだけ戦略を練っても安心できないだろうと思うよ」
小笠原選手が口をはさむと、ユーリは「はにゃにゃ」と照れ臭そうにピンク色の頭をひっかき回した。
小笠原選手は愉快そうに笑いつつ、卯月選手のほうに視線を転じた。
「ところで卯月さんは、ずっと北米で暮らしてたんでしょう? その間も、妹さんの活躍はチェックしてたのかな?」
「ええ。《レッド・キング》の試合は、スト――ストリーミング? とにかく、海外からでも視聴できる仕様であったため、毎回チェックしていました」
「昔から、ずっと?」
「ええ。彼女がプロデビューしてから、現在に至るまでです」
「そっか。妹さん思いなんですね」
小笠原選手の言葉に、卯月選手は数ミリだけ逞しい首を傾げた。
「俺は、家族を捨てた身です。俺が本当に弥生子の身を思いやっていたなら、赤星道場や《レッド・キング》を見捨てたりはしなかったでしょう」
「家族間の問題に立ち入るつもりはありませんよ。ただアタシの価値観では、妹さん思いだなと思えるってことです」
そう言って、小笠原選手はゆったりと微笑んだ。
「それじゃあ、桃園に関しては? これまでの試合をDVDとかでチェックしてなかったのかな?」
「ええ。彼女はいまだ未完成でしょうから、試合の内容に大きな関心は持っていませんでした。ただ今回は弥生子に勝ったと聞いたので、興味をかきたてられたまでです」
「ふうん。でも、桃園の実力そのものには関心を持っているんでしょう? わざわざこんな風に押しかけてくるぐらいなんだからさ」
「はい。ユーリさんには、世界で戦えるだけの潜在能力を感じます。本音を言えば、このまま北米に連れ帰りたいぐらいです」
卯月選手の向こう側に陣取っていた鞠山選手が、卯月選手に負けないぐらい目を細めながらユーリのことをにらみつけている。それに気づいたユーリは、「はうう」と頭を抱え込むことになった。
「ですがもちろん、どのような道を進むかはユーリさん次第です。俺は俺にできる範囲でサポートさせていただければと願っています」
「今日一日でも、ずいぶんサポートになったと思いますよ。桃園だけじゃなく、アタシたち全員ね。やっぱり世界を知っているお人は、言葉の重みが違います」
「そうですか。では、明日以降も稽古を見学することを許していただけますか?」
卯月選手の向こう側で、鞠山選手が屹立した。
それをなだめるように笑いかけてから、小笠原選手は卯月選手に向きなおる。
「それはこっちも願ったり叶ったりだけど……でも、いいんですか? 卯月さんだって、そんなにヒマな身ではないでしょう?」
「いえ。今は完全に、オフの身です。正直に言ってしまうと、膝の他にも色々とダメージが溜まってしまったため、トレーナーのレムさんから完全休養を命じられてしまったんです。だからこうして、日本に戻ってきたわけですね」
「卯月選手は、そんなに不調なんすか?」
瓜子が心配して声をあげると、卯月選手は変わらぬ面持ちのまま「ええ」とうなずいた。
「年に一度はこういう状態に陥ってしまいますし、年々その期間が長くなっているように感じます。これも大怪獣タイムなどという馬鹿げた能力の代償であるわけですね」
「代償?」
「はい。あれは尋常でなく肉体に負荷がかかるため、通常ではありえないような疲労が蓄積されるんです。言ってみれば、選手生命を前借りしているようなものですね」
すると今度は、ユーリが真っ青になって直立した。
「そ、それじゃあ弥生子殿も、普通の選手より早く引退してしまうのでしょうか?」
「普通の選手より遅いことはないでしょう。ただ……弥生子は選手生命を一日でものばすために、あの奇妙なスタイルを体得したのだと思います。通常のスタイルよりは試合で負うダメージが少ないため、俺よりも早く力尽きることはないでしょう」
「そうですかぁ……」と、ユーリは心配を消せぬ面持ちで着席する。
そんなユーリの姿を見つめながら、卯月選手は小さく息をついた。
「ユーリさんは、弥生子の去就を大きく気にかけているようですね。いっぽう俺の去就などには一切の興味が見受けられないため、少なからず嫉妬心をかきたてられてしまいます」
「うみゃー! ユ、ユーリはただ、弥生子殿とこれからもたくさん試合をしたいなあと願っているだけなのですよぉ」
「承知しています。俺がただ狭量なだけなので、どうかお気になさらないでください」
であれば、口に出すべきではなかっただろう。卯月選手の向こう側では、鞠山選手がめらめらと嫉妬心を燃やしている様子であった。
「ともあれ、俺がユーリさんばかりでなく他のみなさんのお力にもなれるのなら、喜ばしく思います。今日ていどのコーチングで問題がないのならいくらでもお力になりますので、明日以降も見学を許してもらえないでしょうか?」
「ふうん。アタシらにも、少しばかりは潜在能力ってやつを感じてもらえたってことですか?」
「はい。正直に言って、日本の女子選手の実力がこうまで底上げされているとは思っていませんでした。もちろん世界で戦うには、まだまだ力が足りていないかと思いますが……今後のトレーニング次第では、十分に可能性はあるかと思います」
「それは心強いお言葉ですね。……舞さんと花さんは、どう思う?」
「そんなもん、悩むまでもないだわよ!」
「うん。卯月選手の助言は的確で、誰にとっても有益だろう」
二人の力強い返答に、小笠原選手は「そっか」と笑った。
「それじゃあこの合宿稽古の責任者として、前向きに検討させていただきます。まあきっと、反対する人間はいないと思いますよ」
「そうですか。では、今日のところはこれで失礼させていただきます」
と、卯月選手がおもむろに立ち上がったので、多くの人間が目を丸くすることになった。
「ずいぶん唐突ですね。いちおうこの勉強会もトレーニングの一環なんだけど、これには参加する意義を感じられなかったかな?」
「いえ。こういったミーティングは、きわめて重要でしょう。できれば俺も、最後まで参加させてもらいたかったのですが……さきほどから、猛烈な睡魔に襲われているのです。おそらく、時差ボケの影響でしょう」
小笠原選手はきょとんとしてから、笑い声をあげた。
「つくづく内心の読めないお人ですね。よかったら、寝室を準備しましょうか?」
「いえ。このように女性だらけの場所では気が休まりませんし、それはそちらも同様でしょう。明日以降の見学が許されても、夜には失礼させてもらいます」
そうして卯月選手は眠気などまったく感じさせない挙動で一礼して、きびすを返そうとした。そこで瓜子が、慌てて声をあげる。
「あの、卯月選手はどちらで夜を明かすんですか? ご実家のほうに戻ったりは――」
「俺は家を捨てた身です。親父はともかく、弥生子を怒らせるだけでしょう」
「でも、せっかく日本に戻ってきたんなら、いっぺんぐらいは挨拶をしておいてもいいんじゃないっすか?」
卯月選手は糸のように細い目で瓜子を見返してから、首を横に振った。
「今は眠気で考えがまとまらないため、考えるのは明日以降にしようかと思います。では、明朝こちらに電話を入れさせていただきます」
そんな言葉を残して、卯月選手はよどみのない足取りで会議室を出ていった。
小笠原選手は苦笑を浮かべつつ、「やれやれ」と肩をすくめる。
「卯月さんってのは、あんな愉快なお人だったんだね。もっとこう、クールでおっかない人なのかと思ってたよ」
「卯月様は、掛け値なしにクールなんだわよ! あのクールさが理解できないなんて、トキちゃんもまだまだだわね!」
「アタシと花さんじゃ、クールの定義が違うのかもね。……さて。それじゃあ勉強会を再開する前に、この場のメンバーには意見を聞いておこうかな。卯月さんの見学を許しても、問題はない?」
「ある」と答える人間は、いなかった。
ただ、サキがうろんげに頭をかき回している。
「それにしても、あいつは手前のことにしか興味のねー人間だったはずだけどなー。どこかの牛にたぶらかされて、ようやく他人様にも目を向けることになったってわけかー」
「ユ、ユーリはたぶらかしてなんかないよぅ。卯月選手は大吾殿のご子息であり弥生子殿の兄君であられるのだから、もともと熱いハートをお持ちだったんじゃないかにゃあ」
鞠山選手の眼光から逃げるべく瓜子の背中に隠れながら、ユーリはそのように弁明した。
すると、来栖舞が「いや」と声をあげる。
「さきほど本人も語らっていた通り、卯月選手は自身の引退というものを身近に感じ始めたのかもしれない。そうすれば、嫌でも後進の育成というものに関心が向いてくるのではないだろうか」
「ふん。重苦しい実感のこもった言葉だなー」
「うん。わたしもアケミも、今は後進の育成に注力している。こうして試合をできない身になっても格闘技に関わっていられるのは、何より幸福なことだと思うよ」
厳しい面持ちの中で目だけを穏やかに瞬かせながら、来栖舞はそう言った。
「しかし、まだ若い君たちには選手として為すべきことが残されている。限られた時間を有効に使うために、勉強会を再開するとしよう」
「ふん。若くねー人間も約一名まぎれこんでるけどなー」
「やかましいだわよ!」
そうして瓜子たちは、勉強会を再開することになった。
確かに卯月選手の言葉には、色々と考えさせられることが多かったが――それでも瓜子たちの為すべきことに変わりはないのだ。今は選手として活動できるありがたさを噛みしめながら、目の前の課題をひとつずつクリアしていくしかなかった。
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