03 思わぬ来訪者
「う、卯月選手? どうして卯月選手が、日本にいるんすか?」
瓜子がそのように呼びかけると、卯月選手は落ち着き払った態度で「はい」とうなずいた。
「俺はトレーニング中に膝を痛めてしまったため、しばらく試合を行えない状態にあります。それで気分転換として、一時帰国した次第です」
卯月選手は、瓜子のように年少の相手にも丁寧な態度で接してくるのだ。
しかし、それはそれとして――相変わらず、お地蔵様のように穏やかで無表情な卯月選手は、内心がうかがい知れなかった。
「それでジョンさんに連絡を入れたら、ユーリさんたちはこちらで合宿稽古を行っているという話だったので、連絡もなしに押しかけてしまったのですが……やっぱりご迷惑だったでしょうか?」
「め、迷惑なことはないですけど……でも、ユーリさんに何かご用事でしょうか?」
「明確な用事というものはありません。ただ、ユーリさんがどれだけレベルアップしたのかは大いに気になっています」
そんな風に語りながら、卯月選手はよどみのない足取りでユーリのほうに近づいてきた。
「ユーリさん。あなたは弥生子に勝利したそうですね。しかし北米では、その試合を観る手段がなかったのです。……弥生子の実力は、如何でしたか?」
「はぁい。弥生子殿は、ベル様と同じぐらいお強いと思いますぅ」
マットにあぐらをかいてきょとんと卯月選手を見上げていたユーリは、子供のようにあどけなく微笑んだ。
「そうですか。弥生子に限って、コンディションを崩すことはないかと思うのですが……ユーリさんは実力で弥生子を下したと、そのように解釈しても差し支えないのでしょうか?」
「はてさて? ユーリ自身、どうして自分が勝てたのか謎な試合でありましたからねぇ。十回やったら九回は弥生子殿が勝つのだと思いますですよぉ」
「では、十回に一回は勝てるという手応えであったのですね。……それは、驚くべき話です」
これっぽっちも驚いているようには思えない調子で、卯月選手はそのように言いつのった。
そして、和やかに言葉を交わす両名のもとに、ずんぐりとした人影が突進してくる。
「その試合のDVDだったら、わたいが持参してるんだわよ! そちらが条件を呑むならば、夜にでも見せてあげないことはないんだわよ!」
甲高いのに濁っている独特の声音で、鞠山選手がそのように言い放った。
その横に平たい顔は、何やら憤激するカエルのごとき形相となっている。卯月選手は小首を傾げつつ、そちらを振り返った。
「その試合がDVDとして発売されているなら、俺もそれを購入しようかと思いますが……条件とは、何の話でしょう?」
「わたいたちに、稽古をつけてほしいんだわよ! 日本最強の男子選手に稽古をつけてもらえる機会を、みすみす見過ごすことはできないんだわよ!」
そんな風に言いたてながら、鞠山選手は大きく肩を上下させている。顔は赤いし、鼻息は荒いし、何をそんなに激昂しているのか――と、そこまで考えたとき、瓜子はようやく思い出した。
(そっか。鞠山選手は、卯月選手の熱烈なファンなんだっけ)
しかし今の鞠山選手は、どこからどう見ても怒り狂っているようにしか思えない。これが憧れの選手を目前にした昂りであるというのなら、なかなかに難儀なことであった。
「なるほど。そういう話ですか」
鞠山選手の荒ぶる姿にもまったく頓着する様子も見せず、卯月選手はゆったりとうなずいた。
「俺は一選手に過ぎませんので、的確な助言をできるかどうかは請け負えません。それでよければ、こちらのトレーニングを見学させてもらえるでしょうか?」
「い、いいんですか、卯月選手?」
瓜子が思わず口をはさむと、卯月選手は「ええ」と応じる。
「どのみち俺はユーリさんのトレーニングする姿を拝見するために、こちらに押しかけてきたのです。それに……現在の日本の女子選手がどのようなレベルであるのかも気になっていました。もしも見学を許してもらえるなら、心からありがたく思います」
「あなたほどの人にそんな風に言ってもらえるのは、光栄な話ですね」
と、穏やかな微笑を取り戻した小笠原選手が、そんな風に声をあげた。
「見学だったら、大歓迎です。それでもし助言のひとつでもいただけたら、こちらこそありがたく思いますよ」
「では、心して見学させていただきます」
小笠原選手はひとつうなずき、マットに座っている面々を見回した。
「それじゃあ、稽古を再開しようか。たしか、各々の課題に沿って組み分けしようってところだったよね。みんなはどんな課題を持ってるのかな?」
「はいはーい! あたしはねー、組み合いを避けながらのインファイト! ただ逃げ回るだけじゃなく、正面突破してやりたいからさ!」
灰原選手が元気な声で応じると、その場の空気がまたもとの熱気を取り戻したようだった。
卯月選手の来訪は確かに驚きであったものの、男子選手の試合に大きな関心を寄せていない限り、そうまで心を乱す理由はないのだ。瓜子の知る限り、普段から男子の試合までチェックしている人間はそう多くないはずであった。
「ここはやっぱり、試合を控えてる選手を優先させてもらわないとね。でも、八人いっぺんは難しいだろうから、四人ずつの要望を聞いていくことにしようか。灰原さんのインファイト対策には多賀崎さんと猪狩が適役だろうから、二人は後半に回ってもらってもいい?」
「かまわないよ。灰原とインファイトでやりあうのは、こっちにとってもいい稽古になるからね」
「押忍。自分もあとでアウト対策と組み技の対策をさせてもらえれば、十分です」
「ありがとう。桃園なんかも特別な対策はなさそうだから、後に回ってもらうとして……邑崎なんかは、どんな感じ?」
「押忍なのです! 愛音のお相手はインファイターですので、アウトスタイルに磨きをかけたく思っているのです!」
「だったら、アタシとオリビアが相手になろうか。アタシらぐらいのリーチから逃げられたら、怖いものなしでしょ。あと試合を控えてるのは……サキと花さんか」
「アタシも特別な対策は必要ねーよ。頭数から外しとけ」
「じゃ、アンタには花さんのお相手をお願いするよ。あと、仮想ピエロに適役なのは――」
「そっちの黒タコも、一月にピエロとやりあったばっかだろ。見かけに寄らず分析魔だし、イノシシと同程度の役には立つんじゃねーか」
「ん? ああ、メイと猪狩のことね。ややこしいから、名前で呼んでよ」
そんな感じに、組み分けが進められていく。
けっきょく明確な課題に取り組むのは灰原選手と鞠山選手と愛音の三名で、そちらの組からお呼びのかからなかったユーリと魅々香選手と小柴選手で最後の組を構成することになった。
「桃園と美香さんは素早い相手をつかまえるのが苦手みたいだから、小柴が足を使ってかき回してあげなよ。ただし、ボディプロテクターも装着してね」
「押忍。なるべく逃げずに、近距離から中間距離の間で足を使おうと思います」
そうしてあらためて、立ち技のスパーが開始された。
瓜子は多賀崎選手とともに、灰原選手を相手取る役割だ。これはプレスマン道場でもお馴染みの稽古であった。
「あたしはねー、インとアウトの使い分けを磨きたいの! 二人はどんどん突進して、打撃と組みをいい具合に織り交ぜてくれる?」
「了解です。あと、ひとつ提案なんすけど、灰原選手のほうも組み技を仕掛けたらどうっすか?」
「えー? グラップラー相手に上を取れても、後が怖いっしょ! ひっくり返されたら大ピンチだしさ!」
「いや、灰原選手ぐらいパンチ力があったら、下になった相手は恐怖っすよ。パウンドでプレッシャーを与えたら、そうそう自由には動けないと思います」
「うん。深追いさえしなければ、十分に有効だと思うよ。立松コーチも、もっとタックルのフェイントを入れてみろって言ってたろ?」
「あー、そういうフェイントを入れると、打撃も当たりやすくなるって話ね! 理屈はわかるんだけどさー。あたしなんかがタックルのフェイントを入れても、相手は動じないんじゃない?」
「あはは。自分も立松コーチに、同じ言葉をよく返してましたよ。でも、攻撃の幅を広げるのは大事だと思います」
「そうそう。パウンドでKOしてやるってぐらいの意気込みがあったら、タックルにも迫力が出るだろうしさ。あんたはそれだけスタンドが上達したんだから、そろそろ次のステップに進んでもいいんじゃないのかね」
「んー、わかった! とりあえずチャレンジしてみるよ! とにかく、カラダを動かそー!」
ということで、まずは瓜子が灰原選手のお相手をすることになった。
灰原選手の対戦相手である奥村選手の試合は、瓜子もこれまでにさんざん目にしている。彼女は左右のフックを振りながら突進し、隙あらば組みついて寝技に引きずり込もうとするインファイターのグラップラーだ。だから本当は、魅々香選手こそがもっとも近いタイプであるのだが――魅々香選手では、スピードが足りていないのだろう。同じ階級の瓜子でさえ、灰原選手をつかまえるのはひと苦労なのだ。
タイムキーパーとなった多賀崎選手の合図で、スパーを開始する。
瓜子は奥村選手になりきって、前進した。
瓜子の場合は背丈が足りていないため、それはスピードと小回りで補う所存である。瓜子が左右のフックを振るうと、灰原選手はそれをいったん回避してから距離を詰めてきた。
灰原選手の左ジャブが、ヘッドガードで守られた瓜子の右頬に当てられる。
それを無視して、瓜子は灰原選手の胴体に組みつこうとした。
灰原選手はすかさず距離を取り、左のローを飛ばしてくる。
その衝撃にも耐えて、瓜子はなおも灰原選手の胴体へと腕をのばした。奥村選手というのは、これぐらいしつこい選手であるのだ。
灰原選手は腕を突っ張って瓜子の接近を食い止めて、後ろに逃げようとする。
瓜子の繰り出した左フックは、ぎりぎりでかわされた。やはり灰原選手のステップは力強くて、反応速度もなかなかのものであった。
(ただ、今のもフックじゃなくてジャブだったら、当てられたのにな)
MMAには、フックを多用する選手が多い。もちろんジャブやストレートといった直線系のパンチだってトレーニングしているのであろうが、キックやグローブ空手を学んできた選手に比べると、明確に使用頻度が下がるのだ。特にこういうとっさの場面では、得意にする攻撃が出やすいのだろうと思われた。
(その点、灰原選手は真っ直ぐの攻撃が上手くなったよな)
これはプレスマン道場の名コーチ、ジョンのもたらした功績なのだろう。もともとムエタイを学んでいたジョンは、MMAにおけるジャブとストレートの有効性を重要視しているのだった。
いったん距離を取った灰原選手は、左ジャブで牽制してくる。
奥村選手はこういう際にもサイドに踏み込んだりはしないので、瓜子も愚直に前進してみせた。
すると――灰原選手の頭が、ふっと沈み込んだ。
瓜子の繰り出した左フックは宙を切り、胴体に重い衝撃が走り抜ける。
そうして膝裏を抱えられた瓜子は、背中からマットに倒れ込むことになった。
「わー! うり坊からテイクダウンを取れちゃった!」
技を仕掛けた灰原選手のほうこそが、驚きの声をあげている。
それを眺めながら、多賀崎選手が苦笑まじりの声をあげた。
「あんたはそれだけ当て勘がいいんだから、タックルのタイミングだってつかみやすいはずなんだよ。うちのコーチ連中も立松コーチも柳原さんも、みんなそう言ってたろ?」
「でも、組み技の稽古でこんな綺麗に倒せたことないもん!」
「だから、打撃戦の最中のほうが、テイクダウンを取りやすいって話だろ。あんたの相手をする人間はパンチを警戒して、足もとがお留守になりがちなんだからさ」
「はい。今のは完全に予想外でした。灰原選手に組み技を仕掛けるように助言した手前、油断なんかもゼロでしたしね」
「えへへ。やったやったー!」と、瓜子にガードポジションを取られながら、灰原選手が当てないように拳を振り回してくる。それが本気のパウンドであったなら、下の人間は大慌てのはずであった。
「やっぱりこれは、有効だと思いますよ。今からでも戦略のひとつに組み込む甲斐はあると思います」
「よーし、もう一本ね! うり坊も、本気でテイクダウンを狙ってきてよー?」
そんな感じで、こちらの組は有意義に稽古が進められていった。
他の組の選手たちも、きっとこちらに負けない熱意でそれぞれの稽古に取り組んでいることだろう。そして、コーチ役たる来栖舞と見学者の卯月選手は別々に鍛錬場を巡回して、それらの稽古をまんべんなくチェックしているようだった。
十年以上も前からプロ選手として活躍し、現在では《アクセル・ファイト》のトップファイターにも手のかかった卯月選手の細い目に、瓜子たちの姿はどのように映っているのか――瓜子としても、その内心が気になるところであった。
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