02 ストライキング・スパー

 ゴールデンウィークの合同合宿稽古は、立ち技のスパーリングで幕を開けられることになった。

 まずはこの大人数を活かして、総当たりのサーキットである。小笠原選手や鞠山選手、魅々香選手やオリビア選手と手合わせするのはずいぶんひさびさであったため、瓜子としても楽しみなところであった。


 しかしもちろん、それ以上に楽しみであるのは小笠原選手たちのほうであろう。プレスマン道場で稽古を積んでいる面々は、この数ヶ月でずいぶん様変わりしているはずであった。


「特に桃園なんかは、片目をつぶるっていう荒療治で不同視ってやつを克服したんだもんね。お盆の合同稽古ではまだ手探りの状態だったみたいだから、あれからどれだけ厄介さが増したのか、ずっと楽しみにしてたんだよ」


「あははぁ。せいいっぱい頑張りますですぅ」


 来栖舞を除いても十二名という人数であるため、まずは肩慣らしで二分ずつの総当たりサーキットが開始される。それでもトータルで二十二分間となるのだから、十分に過酷な内容であった。


 瓜子の最初の相手となったのは、鞠山選手だ。

 挨拶のグローブタッチを交わしたあと、鞠山選手は瓜子の記憶にある通りのせわしないステップワークを見せ始めた。


 どこかカエルを連想させる面立ちの鞠山選手であるが、その跳ねるようなステップワークもまた同様である。鞠山選手はこれだけ長きのキャリアを重ねていながら膝にも腰にも故障を抱えておらず、躍動感に満ちみちているのだった。


(ウサギさんみたいな灰原選手とは、またちょっと毛色が違ってるよな)


 灰原選手とは背丈で八センチも差がある上に、鞠山選手は平均よりも手足が短い。しかしその分、鞠山選手は小刻みなステップを得意にしており、灰原選手とは別の意味でつかまえにくかった。


 それに、パンチャーである灰原選手に対して、鞠山選手は豪快なローキックを得意にしている。時にはそれが足払いのように低い軌道で飛ばされてくるため、なかなかに厄介であったのだった。


(それでスタイルはアウトタイプだし、最終的な狙いは組みつきだから……タイプとしては、マリア選手に近いのかな)


 それで瓜子はマリア選手対策でつちかったノウハウを発揮しようかと考えたが、それもうまくいかなかった。マリア選手こそ灰原選手よりも長身であったため、鞠山選手とはまったく感覚が異なるようであるのだ。


 足払いのごときローキックで瓜子がバランスを崩すと、鞠山選手は短いお手々でぽんと膝のあたりに触れてくる。

 組み技ありならここでタックルを取っているぞというアピールである。ストライカーである瓜子を相手に、鞠山選手は余裕しゃくしゃくの面持ちであった。


(ちょっと強引に攻め込んでみるか)


 瓜子は一段階だけギアをあげて、鞠山選手に追いすがった。

 すると鞠山選手もいっそう加速して、ぴょんぴょんと逃げ回る。


 鞠山選手は円の動きで逃げることが得意であるため、真っ直ぐに追っては駄目なのだ。

 瓜子もサイドステップを駆使しながら、さらにスイッチを織り交ぜてみせた。

 アウトサイドに跳びはねた鞠山選手が、それでインサイドの位置となる。


 瓜子が左フックを射出すると、ようやくヘッドガードに拳がヒットした。

 それでも浅い当たりであったため、鞠山選手は逆側に逃げようとする。

 瓜子はほとんど反射的に、バックスピンハイキックを繰り出した。

 左腕を引く動作に連動させての、左ハイだ。

 瓜子の左かかとに重い衝撃が走り抜け、それと同時に「ぷぎゃっ!」という雄叫びが響きわたる。

 瓜子が体勢を整えると、鞠山選手はマットにひっくり返っていた。


「今のは、うまい攻撃だった。君はずいぶんスイッチの練度が高くなったようだ」


 コーチ役の来栖舞が、そのような言葉を飛ばしてくる。


「それに、花子の対戦相手となる篠宮も、左右関係なしのスイッチャーだからな。さらに、猪狩くんよりも手足が長くて、技の軌道が不規則であることを考慮すると、より厄介であるはずだ」


「承知してるだわよ!」と、鞠山選手が勢いよく起き上がったところで、最初のラウンドが終了した。


 次なる相手は、魅々香選手だ。

 十一月の試合で右肘を痛めた魅々香選手は、まだその箇所をテーピングで固定していた。


(もう五ヶ月ぐらい経ってるのに、まだ完治してないのか。やっぱり靭帯の怪我ってのは、厄介なんだな)


 そんな思いを抱きながら、瓜子は魅々香選手と相対したが――スパーが開始されるなり、魅々香選手は左右のフックを振りながら距離を詰めてきた。

 背丈はユーリや多賀崎選手と同程度であるが、魅々香選手はリーチが長い。下手をしたら、十センチばかりも長身であるオリビア選手をもまさっているぐらいだろう。そんな魅々香選手に突進されて、今度は瓜子がステップワークを駆使する番であった。


 普段は内向的で物静かな魅々香選手であるが、その突進は女子選手らしからぬ迫力に満ちている。

 そこで瓜子が迎撃の手段として選択したのは、関節蹴りであった。

 もちろん本気で当ててしまうと怪我を誘発する恐れがあるため、遠い距離から浅く当てるのみである。しかし、相手の出足をくじくには十分に有効であるようであった。


「うん。ルールが改正されたのだから、柔軟に対応しなければな」


 来栖舞のアドバイスに、魅々香選手はユーリのように可愛らしい声で「押忍」と応じる。

 そして今度は魅々香選手のほうからも、足技を飛ばしてきた。

 彼女も以前は《G・フォース》に参戦しており、ランカーにまでのぼりつめていたのだ。左右のフックほどの迫力はなかったものの、ローもミドルも前蹴りも、実に洗練されたフォームであった。


 そして瓜子がインファイトを仕掛けようとすると、とたんに豪快なフックが飛ばされてくる。

 パンチとキックで圧力が異なっているため、それが自然に攻撃の緩急となるようだった。


(これは確かに、パンチ一辺倒よりよっぽど厄介だな)


 やはり一階級上のトップファイターというのは、瓜子にとって難敵であった。

 であれば、同じ立場である人々――ユーリや多賀崎選手を相手取るときと同じように振る舞うべきであろうか。

 そのように考えた瓜子は、いっそう身を低くして相手の懐を目指すことにした。


 蹴り技はサイドステップでいなして、豪快なフックはダッキングでやりすごす。そうして懐に飛び込んで、瓜子は堅実に左ジャブを当ててみせた。

 間合いが詰まれば、長いリーチが邪魔になるという面もあるのだ。瓜子は二発目のジャブと右のボディを当てて、すみやかに間合いの外へと離脱した。


 遠い距離では関節蹴りで牽制し、相手の反撃をすかしたならば、また接近だ。やはり魅々香選手を相手取るときは、中間距離に留まらないことが肝要であるようだった。


 魅々香選手は首相撲で対抗しようと試みてきたが、最近はそちらの対策も磨き抜いているので、怖いことはない。それで瓜子がレバーブローを撃ち込むと、魅々香選手は片膝をマットについた。このスパーでは八オンスのオープンフィンガーグローブを着用していたため、相応のダメージを与えられたようであった。


「ふむ……美香が簡単にダウンを取られてしまったな」


 来栖舞のそんなつぶやきが聞こえてきたため、瓜子はそちらを振り返った。


「まったく簡単ではなかったっすよ。組み技ありなら、こんな思い切って近づけませんしね」


「しかし最近の美香は、道子が相手でもダウンを奪われることもないからな」


「道子……ああ、無差別級の高橋選手っすか。それなら魅々香選手は、小柄な相手に慣れてないってことじゃないっすか?」


 来栖舞は厳しい表情でうなずいてから、タイマーを確認した。


「議論は、スパーの後にしよう。あと十秒でラウンド終了なので、美香はそのまま待機だ」


 魅々香選手は荒い息をつきながら、「押忍」と応じた。


 その後も、粛々とスパーリングは続けられていく。

 小笠原選手にオリビア選手というのは、やはり瓜子にとってやりにくい相手であった。何せ、小笠原選手の背丈は百七十八センチ、オリビア選手は百七十五センチであるのだから、男子選手を相手取るのと同様であるのだ。


 ただし、オリビア選手に対するやりにくさは、以前よりも減じていた。

 それはおそらく、オルガ選手とのスパーの経験が活きているのだろう。両者は背丈もほとんど同等で、パワーや技の多彩さに関してはオルガ選手のほうが上回っているのだ。また、フルコンタクト空手出身のオリビア選手は直線的な動きが主体であるため、サイドステップを得意とする瓜子とは相性も悪くなかった。


 いっぽう小笠原選手は長身なばかりでなく、技も多彩である。こちらはグローブ空手の出身であるためボクシングテクニックにも隙はないし、しかも空手家らしいスイッチも巧みであるのだ。そしてその技には力強さとしなやかさが備わっており、瓜子がどれだけステップワークを駆使しても、なかなか懐に跳び込めるものではなかった。


(半年間のブランクなんて、まったく感じさせないな。むしろ、攻撃が鋭くなったぐらいだ)


 小笠原選手とのスパーで苦労をすればするほどに、瓜子はそんな喜びを噛みしめることに相成った。


 そうして十一ラウンドに及ぶサーキットが終了し、誰もが汗だくでマットにへたりこむ。

 それらの姿を見回しながら、来栖舞が「よし」と声をあげた。


「わたしの目から見ても、ずいぶん実りのあるスパーだったと思う。まず、朱鷺子から感想を聞かせてもらいたい」


「うん。誰も彼もが見違えてて、びっくりさせられたよ。まあ、アタシの腕が落ちたって可能性も、なきにしにもあらずだけどさ」


「なーに言ってんのさ! トッキーこそ、医者に隠れてトレーニング積んでたんじゃないのー?」


「本当っすよ。半年も休んでたなんて、信じられないぐらいです」


 灰原選手と瓜子がそのようにたたみかけると、頭からタオルをかぶった小笠原選手は「そっか」とはにかむように笑った。


「だったらみんな、本当に強くなったね。特に、プレスマン道場で稽古を積んでるメンバーは、すごい成長っぷりだと思うよ」


「具体的には、どのあたりが?」という来栖舞の問いかけに、小笠原選手は「そうだなあ」と考え込む。


「まず驚かされたのは、ステップワークの向上かな。アウトタイプのサキや邑崎ばかりじゃなく、誰も彼もがつかまえにくかった。アタシなんかはリーチ差があるから、逆に近づかせもしなかったけど……百六十センチ台のメンバーは大変だったんじゃない?」


「はい。これがキックの試合だったら、わたしはストロー級以下の方々全員に負けていたと思います」


 そのように答えたのは、魅々香選手である。

 すると来栖舞は、すかさず「そうだな」と声をあげた。


「さっき猪狩くんからも指摘があったが、こちらの道場には美香よりも小柄な選手がほとんどいないため、余計に翻弄されてしまったのだろう」


「えー? ミミーが一番ちっちゃいなんて、想像つかないね! つまり、女子選手が少ないってこと? ……ですか?」


「うん。もちろん女子の門下生は複数名所属しているが、プロ選手として活動しているのは美香と道子のみとなる。美香と対等以上のスパーを行えるのは、道子と男子門下生のみだ」


「それじゃあ、うり坊みたいにすばしっこい相手は、なかなか目が慣れないだろうね! ていうか、あたしもけっこうステップワークを磨いてきたつもりなんだけど!」


 灰原選手が威勢のいい声をあげると、小笠原選手が笑顔で間を取り持った。


「灰原さんこそ、驚かされたよ。インファイトがあれだけ強いくせに、もう立派なアウトファイターとしてやっていけるぐらいじゃん。つかまえにくさは、猪狩や小柴以上だったよ」


「そうだな。灰原くんには、美香もまったく太刀打ちできていなかった。……その代わり、自分と同等か大柄な相手に対しては、美香がもっとも上手く戦えていたように思う」


「ええ。正直、あたしは手も足も出ませんでした。こんな言い方は不適切かもしれませんけど……沖さんより、よっぽど手ごわいと思ったぐらいです」


 多賀崎選手が真剣な面持ちで発言すると、オリビア選手が「ワタシもですー」と朗らかな声で追従する。


「やっぱりミカは、パワーがすごいですねー。去年よりも、圧力が増したと思いますよー」


「ありがとうございます。……でも、わたしは沙羅選手に勝てませんでした。つまり、スピードタイプの相手に弱いということなのでしょうか?」


 魅々香選手が必死な眼差しでそのように言いたてると、来栖舞は他の面々を見回した。


「それこそ、実際に手を合わせた面々に聞いてみるべきだろう。アウトファイターとして昔から名を馳せているサキくんにも意見をうかがいたい」


「その前に、おめーはそんなかしこまった呼び方をするような人間だったっけか?」


 恐れを知らないサキがそのように指摘すると、来栖舞は雄々しい顔に苦笑を浮かべた。


「あまり交流のない面々をいっぺんにお相手することになったから、呼称は統一するべきかと考えたんだ。不快だったら、あらためるが」


「不快とまでは言わねーけど、背中がむずむずしてくるぜ。……で、スキンヘッドの手応えだったか? そいつは確かに、自分よりちーせー相手が苦手みてーだな。ま、野郎連中や無差別級とばっかりスパーを積んでたんなら、それも当然だろうぜ」


「うん! ミミーは明らかにやりにくそうだったね! でも、沙羅ってそんなにすばしっこかったっけ?」


「あの階級の中では、スピードのあるほうだと思いますよ。自分はドッグ・ジムで手合わせさせてもらいましたけど、とにかく攻撃が鋭くて、あとは行動の判断が早いんで、余計に俊敏に感じられるんだと思います」


「ふーん。だったらいっそ、ミミーは階級を上げちゃえば? 前にも言ったけど、ミミーはもっとお顔に肉をつけたら、カッコよくなると思うんだよねー!」


 魅々香選手が困惑したように目を泳がせると、来栖舞が厳しい面持ちで応じた。


「アトミックの六十一キロ以下級というものがきちんと確立されていれば、それもひとつの選択肢だっただろう。しかしあれは《カノン A.G》の時代に秋代を活躍させるために制定された階級であるため、条件を満たす選手がほとんど存在しないというのが実情だ」


「あ、そーお? でも、トッキーは今度こそきちんと調整して、その階級でやってくつもりなんでしょ?」


「うん。でもそれは、今後の選手活動を見越しての選択だったんだよね。何せ本場の《アクセル・ファイト》でも、六十一キロ以下級より重い階級ってのは存在しないからさ」


 小笠原選手は落ち着いた面持ちで、そのように言った。


「でも、現状のアトミックではその階級に見合う選手がほとんど存在しないんだよ。何せ、王者の桃園からして、本来はひとつ下の階級なわけだからね」


「うーん、そっかぁ。それ以外でバンタム級ってのは、大怪獣ジュニアと青鬼ジュニアと、それにオルガっちと……あれ? それしかいないってこと?」


「そう。海外ではボリュームゾーンの階級なのに、日本ではすっぽり穴になっちゃってるんだよね。青鬼ジュニアも《フィスト》では、外国人選手ばかりとやりあってたみたいだしさ」


「へーえ。だったらトッキーも、無理して体重を落とさないほうがいいんじゃない?」


「でも、無差別級にはもうライバルがいないんだよ。何せ、舞さんとアケミさんが引退しちゃったからさ」


 小笠原選手が屈託のない笑みを届けると、来栖舞は穏やかな表情でそれを見返した。


「もちろんアタシはブランクを抱えちゃったから、大村さんや高橋さんを相手取るつもりだけどさ。そのお二人を無事に撃破できたら、もう相手がいなくなっちゃうの。だったら、たとえ少数精鋭でも化け物ぞろいの階級に乗り込んだほうが、楽しみは多いでしょ?」


「うん。それに海外には、ベリーニャを筆頭とする強豪選手がひしめいているからな。朱鷺子がそれを見越して階級を下げるというのは、理解できる。しかし、五十六キロ以下級の美香は、立場が異なっているはずだ」


「そうだね。大怪獣と青鬼のジュニアはそうそうアトミックに参戦しないだろうから、実質的にこの階級は桃園とオルガとアタシしかいないんだよ。で、オルガはいつ離脱するかわからないし、それじゃあほとんど機能してないも同然なんだよね。アトミックはしばらく外国人選手を呼ぶ財力もないって話だから、なおさらにさ」


 そこで、魅々香選手がようやく「はい」と声をあげた。


「もちろん桃園さんと小笠原さんがいらっしゃるだけで、参戦する価値はありすぎるぐらいだと思います。でも……そのお二人に挑むには、わたしの実績が足りていません。わたしはまず、もともとの五十六キロ以下級で満足のいく結果を残すべきではないでしょうか」


「うん。まずは沙羅のやつから王座を奪わないと、階級を上げる気になんてなれないよね」


 多賀崎選手が勇ましい面持ちで声をあげると、灰原選手が「そっかー!」と手を打った。


「今のその階級って、マコっちゃんが沖とマリアをぶっ倒して、ミミーがジジとマーゴットをぶっ倒したところなんだもんね! 言ってみれば、マコっちゃんとミミーと沙羅のやつが、新たなトップスリーってわけかー!」


「そう。それであたしらは、どっちも沙羅に負けてるし……あたしと御堂さんがやりあったのも、もう二年近く前だ。だから、そのあたりの番付もまだ済んでないってことにさせてもらいたいもんだね」


「うんうん! ミミーは沖に勝ち越さなきゃだし、マコっちゃんはジジをぶっ倒さないとね! そんでもって、マコっちゃんとミミーのどっちが先に、沙羅をぶっ倒すのか! こんな盛り上がってる階級を捨てちゃうのは、もったいないね!」


「美香ちゃんは最初っから、その階級のトップを狙ってるんだわよ。階級を上げちゃえとか言いだしたのは、どこかの低能ウサギなんだわよ」


「うっさいなー! あたしはミミーがもっとお肉をつけてカッコよくなるのを見たいだけなの!」


「その発言こそが、低能まるだしなんだわよ。舞ちゃん、朱鷺ちゃん、軌道修正をお願いするだわよ」


「うん。余談が長くなっちゃったね。この後は、各々の課題に沿って組み分けでもしてみようか」


 小笠原選手がそのように応じたとき、小柴選手が「あ」と小さく声をあげた。

 その視線を追ってみると、出入り口の扉に設置されたランプが点滅している。玄関口のチャイムが鳴らされた合図である。


「なになに? お客さん? また『西の猛牛』が押しかけてきたとか?」


「今さらアケミさんが連絡もなしに押しかけてくることはないでしょ。とりあえず、見てくるよ」


 この場の責任者である小笠原選手が立ち上がり、鍛錬場を出ていった。

 昨年は合宿稽古の最終日に、兵藤アケミが乗り込んできたのである。今年はいったい誰が来訪したのかと、瓜子たちが待ち受けていると――やがて小笠原選手が、意想外きわまる人物を引き連れてきたのだった。


「えーと……アケミさんじゃなかったけど、やっぱり桃園にお客さんだったよ」


 ユーリはきょとんと目を丸くして、瓜子は息を詰まらせることになった。

 おそらくは、誰もが同じような反応であったことだろう。それは本当に、想像を絶した人物の来訪であったのだ。


「おひさしぶりです、ユーリさん」


 その人物は、ごく平然と挨拶の言葉を述べたててきた。

 百八十三センチの長身に、均整の取れた逞しい体躯――お地蔵様を思わせる柔和な面立ちに、糸のように細い目――

 それは北米でトレーニングに励んでいるはずの、赤星弥生子の実兄にしてレム・プレスマンの秘蔵っ子、卯月選手に他ならなかったのだった。

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