インターバル
新たな指針
《アトミック・ガールズ》三月大会の翌々日――三月の第三火曜日である。
副業の仕事を終えた瓜子とユーリがプレスマン道場まで出向いてみると、難しい顔をした立松が待ちかまえていた。
「よう、お疲れさん。稽古の前に、ちっとばっかり話があるんだが……とりあえず、着替えを済ませてくれ。そんなに長い話にはならないと思うからよ」
その表情からして、あまり心の浮き立つ話ではないようである。更衣室で着替えをしながら、ユーリは小首を傾げていた。
「いったいどういうお話だろうねぇ。まさか、パラス=アテナがついに破産の危機なのかしらん?」
「だったら、もっと暗いお顔になるんじゃないっすかね。とりあえず、お話をうかがってみましょう」
このたびはユーリも瓜子も深いダメージはなかったので、すぐさま稽古を再開することができたのだ。それで昨日連絡を入れた際には、立松も嬉しそうにしてくれていたのだが――この一両日で、何か思わぬ情報が伝えられたのかもしれなかった。
「いや、そんな心配するような話じゃねえんだ。ま、気を張らずに聞いてくれ」
事務室はジョンが使用しているとのことで、瓜子たちは稽古場で話をうかがうことになった。メイやオルガ選手がグラップリング・スパーに励んでいるのを横目に膝を折ると、立松はあらたまった面持ちで語り出す。
「まずな、パラス=アテナも何とか次の興行を打てるだけの目処が立ったらしい。これもお前さんがたがひと肌脱いでくれたおかげだって、なんべんもお礼を言われちまったよ」
「……そうっすか。それなら、羞恥心をねじ伏せた甲斐があったっすよ」
「お前さんは大事なアトミックを守ってみせたんだから、そんなすねた顔すんな。……ただな、《フィスト》のほうから早々にラウラ選手との再戦のオファーがあったんだ。こっちだけじゃなく、パラス=アテナのほうにもな」
「パラス=アテナに? また合同イベントとか、そういうお話っすか?」
「いや。《フィスト》は五月の最終週に試合を組むつもりだから、アトミックのほうではお前さんの試合を組むなと、圧力まがいの要請があったそうだ」
そう言って、立松は不本意そうに顔をしかめた。
「そりゃあアトミックがいつも通りに第三日曜日の開催だったら、二週連続の試合になっちまうからな。こっちとしても、タイトルマッチを企画してる《フィスト》を優先するのが道理だが……だからって、強要されるいわれはない。わざわざパラス=アテナにそんな圧力をかけるってのは、感心せんやり口だな」
「ああ、それで立松コーチは難しいお顔をしてたんすか。自分としても、同じ気持ちっすよ。別に自分はアトミックをないがしろにしてまで、《フィスト》に乗り込む気はないっすからね」
「うん。お前さんなら、そう言うと思ったよ」
と、立松はたちまち破顔した。
「ただな、駒形さんもそういうことなら《フィスト》を優先してほしいって言ってたよ。むしろ、都合がいいかもしれないってな」
「都合がいい? どうしてっすか?」
「アトミックの五月の興行は、おそらく三百人規模の『新木場LOST』だ。で、うまくいけば七月には千人規模の『恵比寿AHEAD』を目指せそうだって話でな。お前さんを欠場させるなら、五月のほうが都合がいいってこった。ここでごねて《フィスト》の試合が先延ばしにされて、七月の興行に影響が出るほうがおっかないんだとよ」
「ああ、なるほど。興行の運営って、本当に大変なんすね。……でも、自分ひとりの出場どうこうで、興行の結果が変わるわけじゃないでしょう?」
「あちらさんは、それだけお前さんに期待をかけてるってこった。まあ俺としても、ひとりの選手にそこまで期待をかけるってのは、あんまり感心しないんだが……ま、お前さんはそれだけの実績を積んできたわけだからな」
「あはは。立松コーチ、好々爺のお顔になってますぅ」
ユーリが冷やかしの声をあげると、立松は「うるせえよ!」と顔を赤くした。
「まあそんなわけで、《フィスト》からも正式なオファーをいただいた。五月の最終日曜日、PLGホールでラウラ選手との再戦、今度はあちらさんのベルトを懸けたタイトルマッチだ。このオファー、受けるか?」
「アトミックの興行に影響がないなら、お受けします。自分としても、一昨日の試合は不完全燃焼ですからね」
「よし、決まりだな。……《フィスト》のベルトがうちに来るのは、早見が戴冠して以来だ」
と、立松は不敵に微笑んだ。プレスマン道場のエースたる早見選手は《フィスト》の王座を戴冠した上で、北米に進出したのである。
「で、桃園さんのほうだけど……猪狩が欠場する分は、是が非でも出場してほしいらしい。ただ案の定、対戦相手に難渋してるみたいだな。小笠原さんも復帰するみたいだが、まさかいきなり桃園さんにはぶつけられんしな」
「そうですかぁ。ユーリはどなたがお相手でも、まったく不服はないのですけれども」
「ああ。桃園さんもハードな試合が続いてたから、調整試合でちょうどいいぐらいなんだけどな。やっぱりパラス=アテナとしては、目玉が欲しいんだろう。集客に問題はないとしても、放映の視聴率まで考えなきゃならんわけだからな」
「視聴率っすか。でも、一昨日の興行の放映が好評だったら、向こう一年は問題なく放映が継続されるんすよね?」
「ああ。だけど来年度の契約まで見越すと、どの興行でも手抜きは許されないんだろう。本当に、興行の運営なんて俺には務まらんよ」
そうして立松が苦笑しながら肩をすくめたとき、稽古場に新たな人物が入室してきた。トレーニングウェアに着替えを済ませた、サキである。
「お、サキも来たか。ちょうどいいタイミングだったな。ちょうどこっちの話は終わったところだぞ」
サキはずいぶん長くなってきた髪をひっかき回しながら、こちらに近づいてきた。その姿に、ユーリが「ほへー」と声をあげる。
「サキたん、もはやセミロングの域を突破しつつありますわねぇ。そのままロングヘアーを目指すおつもりなのかしらん?」
「うるせーな。こんなもんは勝手にうじゃうじゃのびてきやがるんだから、アタシの知ったこっちゃねーや」
サキも出会った当時は瓜子と大差のないショートヘアであったのに、今では肩を越えるほどの長さである。その毛先の赤い部分が、すなわち二年ほど前までショートヘアを形成していたわけであった。
「じゃ、次はサキの話だな。自分で話すか俺が話すか、どうするよ?」
サキは答えをはぐらかすかのように、無言のまま肩をすくめた。
このやりとりに、瓜子は期待と不安をかきたてられてしまう。
「サキさんがどうかしたんすか? もしかして……サキさんの復帰に関わる話っすか?」
「ん、まあ、そういうことだな。それで、いい話と悪い話があるんだが……どっちから話したもんかなぁ」
「な、なんすか、それ? よけい不安になっちゃうじゃないっすか!」
「わりあい、デリケートな話題なんだよ。まあ、お前さんが爆発する前に、いい話から伝えておくことにするか」
そう言って、立松は瓜子をなだめるように微笑んだ。
「サキも何とか、復帰の目処が立ったんだ。このまま何事もなければ、五月の興行にも出場できるだろう」
瓜子は思わず言葉を失い、ユーリはそのかたわらで「わーい!」と喜びの声をほとばしらせた。
「すごいすごーい! ついにサキたんが復帰なのですね! いまだにごっついサポーターが手放せないようですので、まだまだお時間がかかるのかと思っておりましたー!」
「ああ。もともとサキの怪我は、百パーセントの完治を望めるような類いのもんではなかったからな。でもまあ、今ぐらいの故障を抱えて試合をしてる人間はざらにいるだろう。よくあのひどい状態からここまで回復したもんだと思うよ」
「六丸さまさまなのですね! 今度お会いしたならば、ユーリからも感謝の言葉を乱打したく思うのです!」
「それじゃあ……悪い話っていうのは、何なんすか?」
瓜子がそのように口をはさむと、立松は気まずそうにサキを見やった。
しかしサキが長い前髪で目もとの表情を隠したまま無言であるため、溜息まじりに言葉を重ねる。
「悪い話ってのはな……サキは、平常体重が五十キロを切っちまったんだよ」
「え? そ、そうだったんすか? 見た目はまったく変わってないようですけれど……」
「ああ。筋肉量は落ちてないようだし、コンディションもよくなってるぐらいだろう。本人いわく、昔よりもよっぽど規則正しい生活に身を置いてるって話だしな」
瓜子と出会った当初、サキは鳶工の仕事に励んでいた。ただ日程は不規則で、収入も不安定であったがために、ユーリのマンションに居候をしていたのである。
それが去年の頭ぐらいからは、あけぼの愛児園で住み込みのバイト職員という身分を手に入れた。それは早朝から夕方までの勤務であるという話であったので、確かに規則正しいことに疑いはないのだろう。
「だからきっと、サキにとっては今のほうがベストコンディションなんだろう。そうしたら、平常体重も五十キロ未満で落ち着いちまったってわけだな」
「それじゃあ、つまり……」
「試合に向けて調整したら、余裕で一キロ以上は落ちるだろう。それなら、四十八キロ以下級が適正ってことだ」
瓜子は再び、言葉を失うことになってしまった。
もとよりサキは規定に足りないウェイトで五十二キロ以下級の試合に臨んでいたのだ。それが無理なく四十八キロ以下級に調整できるようになったのなら――階級を変更しない理由は、どこにも存在しないはずだった。
「もともと俺は、サキに階級を落とせと指示していた立場だったからな。サキの骨格はどう考えても、四十八キロ以下級なんだよ。それでもまあ試合で結果を出せてたから、俺も無理強いはできなかったが……こうなったからには、選択の余地もない。だからまあ、そんなに気落ちするな」
「え……それは、自分へのお言葉っすか?」
「当たり前だ。お前さんは、サキとの再戦を楽しみにしてたんだろ? そもそも、サキに憧れて格闘技を始めたって話だったわけだしな」
立松は、ものすごく心配そうな顔になってしまっている。
それを安心させるために、瓜子は無理やり笑ってみせた。
「それはもちろん、自分はサキさんを目標にしてましたけど……でも、階級が同じになったのは、たまたまの結果ですからね。別に、サキさんを倒すことを目標にして格闘技を始めたわけではありませんから……それよりも、サキさんが復帰できることが嬉しいっすよ」
「いや、そんな泣きそうな顔で言われてもな」
「泣きませんよ。本当に嬉しいんですから」
と、瓜子がそのように答えたとき、ずっと沈黙を守っていたサキが腕をのばして瓜子の肩を抱いてきた。
「おめーなぁ、文句があるなら、おめーがウェイトを落としてみろや。おめーはアタシより十センチもチビスケなんだからよ」
「いや、自分が四キロも落としたら、骨ガラになっちゃいますよ。自分は骨の重みでウェイトがかさんでるんすから」
「だったら、それぞれの階級で王座を目指すしかねーな」
ぶっきらぼうに言いながら、サキは自分のこめかみを瓜子のこめかみに押しつけてきた。
「で、おたがい相手がいなくなったら、王者対決でもぶちかましゃあいいだけのこった。そんときは、おめーの階級でリベンジマッチを受けてやんよ」
「それは、遠大な計画っすね」
そんな話が実現するかどうかは、まったくもって計り知れない。
しかし瓜子は、サキの気づかいが嬉しかった。サキも決して瓜子の心情を二の次にしているわけではないのだと、その手や頭の温もりが、そんな風に告げてくれているのだ。
いつもはサキのスキンシップに目くじらを立てるユーリも、今は優しげな眼差しで見守ってくれている。
立松もまた、ほっとした様子で口もとをほころばせていた。
そんな優しい人々に囲まれながら――瓜子はあらためて、サキとの対戦が実現するまではこの王座を守ってみせようという気持ちを新たにすることに相成ったのだった。
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