02 王者対決
入場口の裏手に戻ってきたとき、ユーリは澄みわたった微笑をたたえていた。
右目の上を大きく腫らして、目尻からは血を流していたが、とても満ち足りた面持ちである。そうしてしっかりとした足取りで瓜子に近づいてくると、グローブをはめたままの右拳を力強く突き出してきたのだった。
「ユーリはユーリなりに、精一杯の力を振り絞ってきたのです。うり坊ちゃんも、頑張ってね!」
「はい。お疲れ様でした。絶対にベルトは守ってみせますから、控え室で見守っていてください」
瓜子とグローブタッチを交わしたユーリは、「うん!」と元気にうなずいてから立ち去っていった。
ジョンとサイトーも瓜子を激励してから、それを追いかけていく。そしてサキが、瓜子の頭を優しく小突いてきた。
「猛牛女が根性を見せたんで、会場はなかなかの盛り上がりだ。メインイベンターには、これ以上の盛り上がりを見せてもらわねーとなー」
「押忍。自分はベストを尽くすだけですけどね」
瓜子はこれが人生で初めてのタイトル防衛戦であったが、胸中に満ちるのはいつも通りの昂揚のみであった。ベルトがかかっていようがいまいが、すべての力を振り絞ることに変わりはないのだ。余計な気負いなど、邪魔にしかならないはずであった。
『赤コーナーより、猪狩瓜子選手の入場です!』
リングアナウンサーの声に呼ばれて花道に足を踏み出すと、熱気と歓声が渦を巻きながら五体を包み込んでくる。
ここ最近、瓜子は試合を行うたびに、これが今までで一番の声援ではないかという思いを味わわされていたのだが――今回も、その例にもれることはなかった。瓜子は人生で初めての防衛戦であると同時に、《アトミック・ガールズ》においては初めてのメインイベントであるのだ。であれば、観客の期待もこれまでで最高潮なのかもしれなかった。
だけどやっぱり、瓜子の心が乱されることはない。
本当に、試合に対しては図太くできている人間であるのだ。期待をかけてくれている人々にはこれ以上もなく感謝しつつ、瓜子は平常心で花道を進むことができた。
ボディテェック係の前でウェアを脱ぎ、それをセコンド陣に受け渡しつつ、最後の接触を果たす。サキやメイがいつも通りであるのは当然として、立松もまた力強い笑顔で瓜子を激励してくれた。
「まったく心配はいらんようだな。いつもの調子で、暴れてこい」
「押忍」と応じてマウスピースをくわえた瓜子は、ボディテェックを済ませてケージの内へと踏み入った。
対戦相手のラウラ選手は、すました顔で屈伸運動をしている。あちらもあちらで、緊張とは無縁のタイプであるようだ。
そして瓜子が入場を果たすと、他なる人々もケージに踏み入ってくる。パラス=アテナの代表たる駒形氏と数名のスタッフ、そして昨日の調印式でもお会いしたコミッショナー氏である。
『それでは試合に先立ちまして、国歌の清聴です。皆様、ご起立をお願いいたします』
リングアナウンサーの声に従い、客席の人々が起立した。
ラウラ選手も国籍は日本であるため、流される国歌も一曲のみだ。瓜子は去年の七月以来の厳粛な心地で、国歌を聞き届けることができた。
『ありがとうございました。皆様、ご着席ください。……それでは、コミッショナーによるタイトルマッチ宣言です』
タイトルマッチに必要な式典が、粛々と進行されていく。
コミッショナー氏が認定書を読み上げると、チャンピオンベルトがいったん返還され――それでついに、試合の開始であった。
『第十試合、メインイベント、《アトミック・ガールズ》ストロー級タイトルマッチ、五分三ラウンドを開始いたします!』
リングアナウンサーがこれまでの厳粛さをかなぐり捨てて大きな声を張り上げると、揺り戻しのように大歓声がわきたった。
『青コーナー。百六十四センチ。五十一・九キログラム。トゥッカーノ柔術道場所属。《フィスト》ストロー級第三代王者……ラウラ、ミキモト!』
ラウラ選手は実に不敵なる表情で、引き締まった右腕を頭上に突き上げた。
客席からは、歓声とブーイングが半分ずつ吹き荒れている。たとえ動画サイトの人気者であろうと、彼女は昔日から《アトミック・ガールズ》を小馬鹿にしていたのだから、これが当然の反応であるのだろう。しかしエンターテイナーたるラウラ選手は、そんなブーイングをも楽しんでいる様子であった。
『赤コーナー。百五十二センチ。五十一・八キログラム。新宿プレスマン道場所属。《アトミック・ガールズ》ストロー級第五代王者……猪狩、瓜子!』
ブーイングがかき消えて、大歓声が渦を巻く。
ストロー級第五代王者――その肩書きの重さだけはしっかりと噛みしめながら、瓜子はケージの中央でラウラ選手と向かい合った。
身長差は十二センチであるため、ラウラ選手は瓜子よりも頭半分ほど大きい。
金色に染めあげた髪は、こまかく編み込まれている。まったく今さらの話であるが、これはコーンロウというヘアスタイルであるらしい。地肌にそってぴったりと編み込まれるために寝技の攻防で邪魔にならず、沙羅選手やベリーニャ選手など数多くの選手がこの髪型で試合に臨んでいるのだった。
まあ、髪型などはさておくとして――ラウラ選手は、きわめてしなやかな身体つきをしていた。やはりブラジルの血であるのか、手足が長くて引き締まった体格であるのに、しっかりとした厚みも感じられる。趣味はダンスであるとのことであったが、イリア選手と似た革鞭のごときしなやかさを感じさせつつ、さらに力感でまさっていた。
目鼻立ちのくっきりとした端整な容姿で、健康的な小麦色の肌をしている。試合衣装は白と黄色のカラーリングで、ハーフトップとショートスパッツだ。いかにもアスリートらしいプロポーションであるが、どことはなしに芸能人めいた華やかさも感じられた。
(とにかく、テイクダウンだけは用心だ)
彼女のセコンドを務めている父親はブラジルからの移住者で、茨城に柔術道場を開いている。それで彼女は物心ついた頃から柔術に取り組んでおり、二十四歳という若さで黒帯の腕前であったのだった。
まあ鞠山選手いわく、柔術というのは柔道のように昇段の規定が一定ではないため、誰から帯をもらうかが肝要であるとのことであったが――少なくとも、MMA歴二年強の瓜子とは比べるべくもないだろう。これまでの《フィスト》や《NEXT》における試合においても、彼女は長いリーチを活かした打撃技で相手を翻弄しつつ、最後は得意の寝技で一本を狙うというファイトスタイルであった。
「では両者、クリーンなファイトを心がけるように。……グローブタッチを」
レフェリーの言葉に従って、瓜子は右手を差し出してみせた。
するとラウラ選手は、横合いから平手で瓜子のグローブを引っぱたいてくる。強気な選手には珍しくもない所作であったが、会場には当然のようにブーイングがあげられていた。
瓜子自身は平静な気持ちで、フェンス際まで引き下がる。
すると、フェンスの向こうから立松が呼びかけてきた。
「熱くなるなよ。一ラウンド目は、じっくり攻めていけ」
瓜子は手首をほぐしながら、「押忍」と応じてみせる。
そんな中、試合開始のブザーが鳴らされた。
地鳴りのような大歓声に包まれて、瓜子はあらためてケージの中央に進み出る。
同じように前進してきたラウラ選手は、アップライトのサウスポーだ。ただし彼女は右利きであり、これは組み技を有利に進めるための右構えであった。
前戦のマリア戦と同じく、瓜子もサウスポーで迎え撃つ。彼女はオーソドックスの相手に左足への片足タックルを仕掛けることを得意にしているため、それを避けるための対処であった。
ラウラ選手も、もちろん前回の試合は研究しているのだろう。瓜子のサウスポースタイルをまったく意外がる様子もなく、軽妙なステップで距離を測っている。
背筋は真っ直ぐのばされているし、完全に後ろ足重心だ。彼女はグラウンドで下になることも厭わないため、スタンドではキックの選手のように大胆に振る舞うのが常であった。
(いわゆる、ムエタイ&柔術ってやつだよな)
現在のMMAはボクシング&レスリングが主流であるそうだが、それは堅実に勝つことを主眼にして生まれたスタイルだと聞いている。まあ、たとえどのようなスタイルでも、重要なのは熟練度であるはずであった。
(この選手は前後の動きが鋭いけど、左右の動きはそうでもない。相性は、それほど悪くないはずだ)
瓜子はそのように考えつつ、相手のアウトサイドに回り込もうとした。
ラウラ選手は俊敏に距離を取り、正対してくる。やはりリーチが長いため、懐の深さはなかなかのようであった。
しかし瓜子はキックの時代から長身の選手を相手取ってきたし、ここ最近は出稽古のメンバーも充実している。また、イリア選手や一色選手やマリア選手など、ここ最近は長身の選手との対戦が続いていたため、まったくやりにくさは感じなかった。
「いいぞ! 距離を測りながら、手を出していけ!」
立松の声を聞きながら、瓜子はあらためて間合いを測った。
相手は積極的にテイクダウンを狙ってくるだろうから、迂闊に蹴るのは危険である。序盤はパンチ勝負でペースをつかむというのが基本戦略であった。
その作戦を遂行するべく、瓜子は慎重にステップを踏み――
そこに、相手が大きく踏み込んできた。
相手の左足が、低い軌道で飛ばされてくる。
恐ろしく思い切りのいい、奥足からのアウトローだ。あちらはテイクダウンを恐れていないために、大胆に蹴ることができるのだろう。
なおかつ、通常のローよりも、さらに軌道が低かった。
これは――ふくらはぎの下部を狙った、カーフキックだ。
瓜子がマリア選手のカーフキックで足を痛めた前戦を研究して、それを狙ってきたということだろうか。
しかし、キックでキャリアを積んできた瓜子には、さして怖くないスピードであった。
ただしこちらはテイクダウンを警戒した前足重心であるため、そうまで素早く足を浮かせることはかなわない。また、足を浮かせればテイクダウンの危険が高まるため、最低限の動きで対処するべきであった。
瓜子はなるべく重心を前側に残しつつ、わずかばかりに上げた右足を外側に開く。相手の蹴りを、脛で迎え撃つのだ。
鞭のようにしなったラウラ選手の左足が、瓜子の右足に激突した。
おたがいに、脛の下部がヒットした格好である。
なかなかの衝撃であったものの、キックの時代に脛を鍛えあげた瓜子には、何ほどのことでもなかった。
(よし。このていどの蹴りなら、まともにはくらわないぞ)
前回は左ローを出されたらパンチでカウンターを返すという作戦であったため、まともにカーフキックをくらうことになってしまったのだ。それに、躍動感の塊であったマリア選手に比べると、ラウラ選手の蹴りは勢いに欠けていた。
そうして瓜子は攻勢に転じるべく、足を踏み出したわけであるが――その眼前で、ラウラ選手が足をもつれさせていた。
その顔から、余裕の表情が消えている。まだ慌てるほど距離は詰まっていないのに、おかしな足取りで後方に逃げようとしていた。
「自爆したぞ! 追い詰めろ!」
と、サキの声が飛ばされてくる。
自爆ということは――カーフキックを一発ふせがれただけで、自分の足を痛めてしまったのだろうか。
ともあれ、ラウラ選手は隙だらけである。瓜子が手を緩める理由は、どこにも存在しなかった。
それでも瓜子はテイクダウンを警戒しつつ、アウトサイドから相手に接近する。
本当にラウラ選手は左足がきかないようで、もたもたと瓜子に向きなおってきた。
その顔面に、右ジャブをお見舞いする。
利き手による、強いジャブである。グローブを通して、確かな手応えが伝わってきた。
瓜子はさらに左ストレートを叩き込み、右のボディアッパーから左フックまで繋げてみせた。
すべてが、クリーンヒットである。
これはいけると踏んだ瓜子は、とどめの右フックを振りかぶる。
すると、ラウラ選手の身体がすとんと沈み込んだ。
(まずい! 欲張りすぎた! テイクダウンを取られる!)
瓜子の右拳は、空を切る。
が、テイクダウンを取られたりはしなかった。
ラウラ選手はその場にへたり込み、そしてそのまま横合いに倒れ込んでしまったのだった。
瓜子はわけもわからぬまま、大慌てでバックステップを踏む。
ラウラ選手の顔を覗き込んだレフェリーは――厳粛なる面持ちで、両腕を頭上で交差させた。
『一ラウンド、五十八秒! 左フックにより、猪狩選手のKO勝利です!』
呆気に取られる瓜子の耳に、そんなアナウンスが聞こえてくる。
暴風雨のごとき大歓声が渦を巻き、リングドクターとセコンド陣がラウラ選手のもとに駆けつけた。
それらの様子を見届けてから、レフェリーは瓜子の右腕をつかんで頭上へと引っ張りあげる。すると、さらなる大歓声が吹き荒れた。
かくして、瓜子にとって人生初となる王座の防衛戦は、人生初となる秒殺KO勝利で幕を閉じることに相成ったのだった。
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