05 後半戦

 十五分間のインターバルの後、本日の興行の後半戦が開始された。

 次なるは第六試合、大村選手とオルガ選手の一戦である。


「おお、オルガ氏の登場だねぇ。出稽古の成果を発揮できるかしらん」


 余人の耳をはばかって、ユーリがこっそりと耳打ちしてくる。やはり週二回も出稽古で顔をあわせていれば、ユーリにも思い入れというものが生じるようであった。


「正直言って、オルガ選手と大村選手じゃ地力が違うだろう。運営陣は大村選手がどこまで粘れるかで、オルガ選手の実力を見定めようとしてるんだろうな」


 と、立松も小声でそんな風に言っている。こちらの控え室には大村選手と懇意にしている人間が多いようであるので、なかなか明け透けには語れないのだ。


 その大村選手というのは、来栖舞よりも年長のベテラン選手だ。かつてはレスリングで実績を残し、三十歳を超えてからMMAに参戦したという、いささか異色の経歴の持ち主であった。

 身長は百七十一センチ、体重は七十五キロの堂々たる無差別級で、トップファイターには一歩及ばないものの、頑丈さと粘り強さには定評があり、負けた試合でもほとんどが判定までもつれこむという、そんな戦績を有していた。


 ただし、彼女は去年の五月大会でベリーニャ選手の調整試合に駆り出されて、そこではあっさりと一本負けを喫することになった。

 まあそれは、ベリーニャ選手が別格の強さであるということであろう。何にせよ、日本人としては規格外の頑丈さを持つ選手であるため、こういう際には重宝されるわけであった。


(でも……やっぱり、オルガ選手に勝つのは難しいんだろうな)


 ケージの中央で相対した両名の姿をモニター越しに見やりながら、瓜子はそんな風に考えた。

 オルガ選手は身長百七十四センチで、本日のウェイトは六十七キロとなる。本日の試合は無差別級であるのだから、計量後にリカバリーする必要もない。よって、両者ともに数字通りの体格であるはずであったが――八キロも軽いはずのオルガ選手が、体格でまったく負けていなかったのだった。


 オルガ選手は、とにかく骨格ががっしりとしている。決してアンコ型ではなく均整の取れた体格であるのに、胴体の厚みなどは瓜子の倍ほどもありそうなぐらいであるのだ。こういう選手を目の当たりにすると、日本人は欧米人に比べて胴体が平べったいという定説をまざまざと痛感させられてしまうのだった。


 それにオルガ選手は、拳が大きい。道場で確認したところ、同じていどの背丈である立松や柳原よりもひと回り大きいぐらいであったのだ。むろん、それに繋がる手首や腕そのものの骨も相応の立派さであり、その頑健なる骨格が立ち技においても寝技においてもとてつもないパワーを生み出すのだった。


 大村選手と対峙したオルガ選手は、冷たい灰色の瞳で相手を見据えている。

 その逞しい長身を包むのは、青と白のハーフトップとファイトショーツだ。さすがにチーム・フレアのイメージカラーであった赤と黒の組み合わせは避けたようだった。


 グローブタッチを交わした両名は、フェンス際まで引き下がる。

 オルガ選手のセコンド陣は、父親たるキリル氏と、深見塾から借りたという若者のふたりきりだ。この若者は単に英語が堪能だという理由で、通訳として抜擢されたようであった。


 試合開始のブザーが鳴らされ、両名はあらためて進み出る。

 オルガ選手はごくスタンダードな構え方で、大村選手はそれよりも深く腰を落としている。オルガ選手はストライカーとして知られているため、大村選手は早い段階から得意の組み技を狙おうという考えであるようだ。


 オルガ選手はどっしりと構えて、大村選手の動きをうかがっている。

 それがどれだけの圧迫感を生み出すものであるかは、瓜子も出稽古のスパーで嫌というほど思い知らされていた。


 大村選手はそのプレッシャーに対抗するべく、前進する。

 いきなり大振りの、右フックだ。

 オルガ選手は慌てず騒がず、その場に留まったまま左腕で頭をガードする。


 すると大村選手は、そのままオルガ選手に組みつこうとした。

 するとオルガ選手は、無造作に右膝を振り上げた。


 まともに膝蹴りをくらった大村選手は、身体をくの字にする。

 オルガ選手は一歩だけ後退し、適切な間合いを取ってから右の拳を打ち下ろした。

 左のこめかみを打ち抜かれた大村選手は、がくりと膝をつく。

 その顔面に、オルガ選手が左フックを叩き込み――大村選手が力なく倒れ込んだところで、レフェリーが割って入った。


『一ラウンド、十四秒! グラウンド・パンチにより、オルガ選手のKO勝利です!』


 会場に、大歓声が吹き荒れる。

 頑丈さと粘り強さが売りである大村選手が、たった三発の攻撃で秒殺されてしまったのである。控え室にも、驚きと困惑のざわめきがたちのぼっていた。


「……あーあ、ゆっくりウォームアップしようと思ってたのに、台無しだよ。あとは沖さんに期待だね」


 そんな憎まれ口を叩きながら、亜藤選手が控え室を出ていった。

 こちらでは、立松が「よし」と立ち上がる。


「こっちも、最後のウォームアップを始めるぞ。想定よりも、早い出番になるかもわからんからな」


 瓜子は「押忍」と応じながら、ユーリとともにウォームアップを開始した。ユーリの出番まであと二試合、瓜子の出番までは三試合だ。

 そんな中、大村選手のセコンド陣であった人物が、荷物を取りに駆け込んでくる。大村選手は下顎の骨を痛めた可能性があるため、救急病院に向かうのだという話であった。


 愛音も病院送りであったため、控え室はずいぶん人数が少なくなってしまっている。そんな中、試合に勝利した奥村選手や後藤田選手は悠然とモニターを観賞しており、KO負けをくらった宗田選手や金井選手は奥のほうでぐったりと身を休めていた。なんというか、普段以上に悲喜こもごもといった雰囲気だ。


(最近は仲のいい選手さんたちと同じ陣営だったから、こういう雰囲気もひさびさだよな)


 瓜子がそんな風に考える中、第七試合が開始された。

 多賀崎選手と沖選手の一戦である。ウォームアップに励みつつ、瓜子としても無視はできない試合であった。


 多賀崎選手と沖選手は、共通点の多い選手だ。多賀崎選手はレスリング、沖選手はグラップリングを得意にしており、おたがい立ち技も決して不得手ではないが、最終的には寝技の攻防となって、判定勝負までもつれこむことが多い。《アトミック・ガールズ》においては、地味めと評されている両名であった。

 また、いかにも質実そうな面立ちで、がっしりとした体格という風貌までもが、よく似通っている。身長も一センチしか変わらないため、愛音と大江山すみれに負けないぐらい、鏡あわせのごとき姿であった。


(ただ、多賀崎選手は沖選手に連敗してるんだよな)


 両名は、《アトミック・ガールズ》と《フィスト》の舞台で一度ずつ対戦し、どちらも沖選手が勝利しているのだ。ただしそれらも、結果は判定決着であったのだと聞かされていた。


(でも、実力に大きな差がないなら、勝ち越してる側だってやりにくいはずだ。あたしだってメイさんと三度目の試合が決まったら、無茶苦茶やりにくいもんな)


 しかも沖選手は本来格下であったユーリと沙羅選手に連敗し、多賀崎選手は格上であったマリア選手とオリビア選手に連勝している。のぼり調子であるのは明らかに多賀崎選手のほうであり、しかも今回こそは沖選手に勝利を収めるのだという意欲に燃えさかっていた。


 そうして、試合は開始され――まずは尋常に、スタンドの打撃戦が展開された。

 どんな相手ともしっかりと打撃の交換をして、その渦中にテイクダウンのチャンスをうかがうというファイトスタイルまで似通っている両名であるのだ。


 ただ今回は、多賀崎選手の勢いがまさっていた。

 多賀崎選手はかつて合宿稽古の場において、「積極的にKOを狙うべきである」と赤星弥生子に助言をもらい、少なからず意識が変わったようであったのだ。

 実際にKOできるかどうかは別として、それぐらいの意気込みがなければスタンドで主導権を握ることはできないと、赤星弥生子の助言にはそんな含蓄が込められていたのだ。それで多賀崎選手はストライカーたるオリビア選手にもKOを狙う勢いで打ち合いを臨み、そこから得意なレスリング勝負に持ち込み、見事に勝利をもぎ取ってみせたのだった。


 そんな多賀崎選手に攻め込まれた沖選手は、途中から明らかに下がる場面が多くなった。

 そうして遠い距離から組みつきを狙おうとするが、レスリング巧者の多賀崎選手に通用するわけがない。多賀崎選手は力強い所作でそれらの組みつきを弾き返し、さらなる打撃技で応戦してみせた。


 客席には、けっこうな声援が巻き起こっている。この両名の対戦であれば、もっと地味な展開になるものと目されていたのだろうか。優勢に試合を進めている多賀崎選手がテイクダウンを仕掛けないため、第一ラウンドが終了するまでひたすらスタンドの打撃戦に終始することになったのだ。


 きっと青コーナー側の控え室では、灰原選手が大騒ぎしていることだろう。インターバル中も、多賀崎選手は実に雄々しい表情をキープしており、いっぽう沖選手は明らかにダメージが溜まっていた。


 そうして開始された、第二ラウンド――沖選手は、また遠い距離から両足タックルを繰り出した。

 多賀崎選手はバービーの動きで回避して、そのまま後ずさる。沖選手は仰向けになってグラウンド戦を誘ったが、もちろんそれにも乗ろうとはしなかった。


 レフェリーにうながされて立ち上がった沖選手は、明らかに動きが重い。打撃戦におけるダメージばかりでなく、強引な組みつきやタックルでスタミナを使ってしまっているのだろう。

 試合が再開されると、多賀崎選手は力強いステップで前進した。

 しかし、油断の色などは皆無であり、クラウチングの姿勢でしっかり腰を落としている。相手の組みつきを最大限に警戒しつつ、打撃戦を仕掛けようという意欲に満ちみちていた。


 これではならじと判じたか、沖選手もまた覚悟を決めた顔で前進した。

 その心意気は賞賛に値したが――ダメージとスタミナロスに焦りの気持ちまでもが掛け合わされて、沖選手は防御もおろそかになってしまっていた。そしてあまりに強引な踏み込みであったために、多賀崎選手の右フックをカウンターで下顎にもらい――そのまま、膝から崩れ落ちることになった。


 多賀崎選手は今度こそ、その上にのしかかろうとしたが――それは、レフェリーに制止された。

 沖選手はマットにへたりこんだまま、頼りなく上体を揺らしている。脳震盪を起こして、それ以上は動くこともままならないのだ。


 レフェリーはそんな沖選手の身を支えながら、片腕だけを頭上で振る。

 試合終了のブザーが鳴らされて、いっそうの歓声がわきたった。


『二ラウンド、五十六秒! 右フックにより、多賀崎真実選手のKO勝利です!』


 ユーリは「やったやったー!」と喜びの声をあげながら、ジョンの構えたキックミットに重い右フックを叩きつけた。


「ユーリとしてはお二人のグラップリング勝負を拝見したかったところなのですけれども、でもでも勝利することが一番ですものね」


「もちろんっすよ。今のは会心のカウンターでしたね」


 沖選手の身をリングドクターとセコンド陣に託したレフェリーは、あらためて多賀崎選手の右腕を掲げた。

 大歓声の中、多賀崎選手は左手で顔を覆っている。

 多賀崎選手は、二度までも敗れた相手に雪辱を果たし――なおかつ、生涯で初めてのKO勝利を収めてみせたのだ。

 あちらの控え室に戻ったならば、多賀崎選手は赤星弥生子とどのような言葉を交わすのか。それを想像しただけで、瓜子は何だか胸が温かくなってしまった。


「それじゃあ、ユーリはシュツジンだねー。ウリコも、ガンバってねー」


 ジョンの言葉に、ユーリがあわあわと瓜子のほうを振り返ってくる。そちらに向かって、瓜子は笑顔を届けてみせた。


「大丈夫っすよ。ゆとりをもって入場口に向かいますから、激励はそのときまで取っておきましょう」


「絶対だよぉ? うり坊ちゃんが来るまで、ユーリは動かないからねっ!」


 そんな言葉を残して、ユーリはセコンド陣とともに出陣する。ジョン、サキ、サイトーが行ってしまったため、こちらに残されるのは立松とメイのみだ。

 が、ほとんどそれと入れ替わりで、愛音と柳原がひょっこり姿を現した。瓜子のパンチをミットで受けていた立松は、「なんだよ」と目を丸くする。


「本当に戻ってきちまったのか。お医者のオッケーはもらってるんだろうな?」


「はいなのです! そもそもコレは、そんな大した傷でもないのです! 試合を止められたことを理不尽に思うぐらいなのです!」


 そんな風にわめきたてる愛音は、左目の上にガーゼを張られていた。確かに元気はいっぱいのようだが、大きくはだけたウェアの隙間から、血まみれのハーフトップが覗いていた。


「確かに出血はひどかったですけど、それほど深くはなかったそうです。傷口も縫わずに、テープの固定で済みましたしね」


 柳原がそのように言葉を添えると、立松は「そうか」と息をついた。


「だったら、大人しく観戦しとけ。反省会は、道場に戻ってからだ」


「はいなのです! この口惜しさは、すべて明日からの稽古にぶつける所存なのです!」


 そうして愛音はじんわりと浮かんだ涙を乱暴にぬぐってから、空いていたパイプ椅子に腰を落とした。


 モニター上では、ようやく『オーギュスト』のパフォーマンスが終了したところである。イリア選手に続いて亜藤選手も入場し、第八試合の開始であった。


 控え室では瓜子の趣味に合わない物言いを繰り返していた亜藤選手であるが、実力は確かである。この階級においてはもっともレスリングが巧みであり、テイクダウンとポジションキープの技量では他者の追随を許さないと評されていた。

 なおかつ彼女は、イリア選手を打ち負かしたことのある数少ない一人である。イリア選手のトリッキーな打撃技をかいくぐり、テイクダウンからポジションキープという勝ちパターンを全ラウンドで完遂し、フルマークの判定勝利をものにできるほどの実力者であるのだ。


(でもそれは、もう一年以上も前の話なんだよな)


 イリア選手は、この一年ほどで格段に厄介さを増している。それを理解していなければ、亜藤選手も辛酸をなめさせられそうなところであった。

 なおかつ、亜藤選手もここ最近は、メイに秒殺されたあと、グラップリング・マッチにおいてもベリーニャ選手に敗北を喫し、どちらかというと下り気味である。イリア選手も格下の小柴選手に勝利して以降は瓜子とメイに連敗しているのだから、これは負けの込んできたトップファイター同士のサバイマルマッチでもあったのだった。


 大歓声を浴びながら、両者はケージの中央で相対する。

 イリア選手は百六十八センチ、亜藤選手は百五十五センチで、身長差は十三センチだ。そのぶん亜藤選手は体格ががっしりとしており、いかにもレスラーらしい重量感に満ちていた。


 試合が開始されると、イリア選手は真っ当なMMAファイターらしい挙動で進み出る。

 亜藤選手はまったく惑わされた様子もなく、重心を落としたクラウチングのスタイルでそれを迎え撃った。


 亜藤選手は、とにかく組みつきのステップが鋭いのだ。イリア選手が迂闊に大技を出したなら、すぐさまその間隙を突いてやろうという気迫が感じられた。

 しかしまた、イリア選手はこの数ヶ月でさまざまな新しい技を習得している。それを証明するように、まずは遠い距離から関節蹴りを射出した。


 亜藤選手は鋭いバックステップでそれを回避して、またじりじりと前進する。

 イリア選手は前後のステップで距離を修正しつつ、再びの関節蹴りを放った。

 今度はバックステップが間に合わず、亜藤選手は膝を曲げることで衝撃に耐える。そうしてすぐさま両足タックルの挙動を見せたが、今度はイリア選手が軽妙なるバックステップでそれを回避した。


 イリア選手がトリッキーな動きを見せないために、ごく真っ当なMMAの試合が展開されている。それを不満がるかのように、客席からは煽るような歓声や口笛が飛ばされ始めた。


 イリア選手はピエロの覆面であるために表情もうかがえないが、亜藤選手は余裕の表情だ。

 イリア選手がトリッキーな技を使わないなら、むしろ好都合とでも思っているのだろうか。そうだとしたら――危険な兆候であった。


 亜藤選手はぐっと腰を落として、また前進しようとする。

 そこに、イリア選手の蹴りが飛ばされた。

 これまでの関節蹴りと、まったく同じタイミングで――ただしその軌道は、数十センチばかりも高かった。イリア選手の細長い足がするするとのびあがり、亜藤選手の顔面を蹴りぬいたのだ。


 十三センチもの身長差がある上に、亜藤選手がずいぶん腰を落としていたため、簡単に顔まで足が届いてしまったのだろう。間合いが遠かったために浅い当たりであったものの、亜藤選手は完全に面食らった様子で後ずさろうとした。

 そこに、イリア選手の身体がぐんと近づく。イリア選手は蹴り足をそのまま前に下ろして、大きく踏み込んだのだ。


 これもまた、イリア選手が初めて見せる挙動であった。瓜子が小柴選手たちから習い覚えた、空手流の踏み込みである。

 さらにイリア選手は、その前進の勢いのままに右ストレートを繰り出した。

 ほとんどパンチを使わないイリア選手が、実に優美なフォームで右ストレートを放ったのだ。


 その拳もまた、小気味よく亜藤選手の顔面を撃ち抜いた。

 フォームもタイミングも完璧であったが、肉の薄いイリア選手であるので、破壊力はいまひとつなのであろう。しなやかな革鞭のごとき筋肉を有するイリア選手は、もっとしなりのある攻撃のほうが本領を発揮できるはずであるのだ。


 ただし、想定外の攻撃を連続でくらった亜藤選手は、明らかに動揺している。

 なおかつ、さしたるダメージはないようであったので――その動揺が、逃避ではなく攻撃に駆り立てたようであった。


 亜藤選手は怒りの形相で、イリア選手につかみかかろうとする。

 その腕をすりぬけて、イリア選手は横合いに上体を倒した。

 側転の格好で蹴りを繰り出す、『シバータ』だ。


 亜藤選手は、ぎりぎりのタイミングで頭部をガードする。

 側転をしたイリア選手は、間合いの外で身を起こした。


 勇躍、亜藤選手はそちらにつかみかかろうとしたが――その頃には、イリア選手が背中を向けていた。上半身をねじってから後ろ回し蹴りを射出する、『アルマーダ』だ。


 亜藤選手は再び頭部を守りながら、臆せずに前進する。というよりも、もはや足を止められるタイミングではなかったのだ。それでも咄嗟に頭部をガードできたのは、さすがの反射神経であった。


 しかし、『アルマーダ』で狙えるのは頭部だけではない。

 上半身を追うようにして旋回したイリア選手の右足はマットと水平の角度であり、なおかつ膝が直角に曲げられていた。


 頭部を守った亜藤選手の右肘をかすめるようにして、イリア選手の右かかとがレバーに突き刺さる。

 亜藤選手は苦悶の形相で崩れ落ち、イリア選手は十分に距離を取ってから勝利の舞を披露した。


「よし、行くか」


 立松にうながされて、瓜子は控え室を出た。

 入場口の裏手では、ユーリがジョンの構えたミットに重い蹴りを叩き込んでいる。そのピンクの髪から舞った汗の粒が、薄闇の中にきらめいた。


「お待たせしました。いよいよ、ユーリさんの出番っすね」


 瓜子のほうを振り返ったユーリは、汗の浮かんだ顔で「うん!」と微笑んだ。

 ほんの少しだけウォームアップが過剰であるように思えたが――ジョンが許しているのなら、許容の範囲内であるのだろう。ユーリの笑顔には普段通りの活力と明るさがみなぎっていたので、瓜子も不安になることはなかった。


「頑張ってください、ユーリさん。兵藤選手の思いを受け止めるには、勝つことが一番だと思います」


「うん! もとより、そのつもりであるのです!」


 ユーリは笑顔で、右の拳を突き出してきた。

 瓜子も笑顔で、その拳に自分の拳を押し当ててみせた。

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