02 絶対者の孤独

 ケージの中央で試合が再開されると、ユーリは再びぴょこぴょことステップを踏み始めた。

 それに対して、赤星弥生子は無造作に距離を詰めていく。こうして自分から積極的に前に出るのも、赤星弥生子と大江山すみれの大きな違いであった。


 赤星弥生子は相手に接近することで、攻撃の手を誘発しようとしているのだ。

 それでも相手が手を出そうとしないならば、関節蹴りで挑発しつつダメージを狙う。相手が自分よりも小さな女子選手ということで、赤星弥生子もいっそう積極的になっているようであった。


(ってことは、まだユーリさんの怪力にも怯んでないってことか。まあ、当たり損ないの一発だけじゃあ、それも当然だけど……)


 ユーリはピンク色の髪を揺らしつつ、赤星弥生子の前進から逃げ惑う。ユーリはサークリングも不得手であるので、いつフェンス際に押し込まれてしまうかと、瓜子は気が気でなかった。


(逃げてばかりじゃ勝機はない。それにユーリさんの長所は、防御力じゃなく攻撃力のはずだ)


 客席の歓声も、劣勢のユーリを後押ししようと渦を巻いている。

 そんな中、ユーリがふいに逃げるのをやめた。

 そして、両手の拳を額のあたりにまで持ち上げて、背筋を真っ直ぐにのばす。後ろ足重心の、ムエタイ流アップライトだ。


 赤星弥生子は何の感慨を抱いた風でもなく、関節蹴りを繰り出した。

 ユーリはまるで膝蹴りのような勢いで膝を振り上げ、それを跳ね返す。その勢いに押されて、赤星弥生子は一歩だけ後ずさった。


 そこでまた、両者が動かなくなる。

 赤星弥生子がユーリの過去の試合を研究していれば、このスタイルで動きを止めた意味を察知できるはずだ。もともとこのアップライトは、カウンター狙いのために考案されたスタイルなのである。


「なんや、人様のトラウマをほじくり返しよって。それで大怪獣を撃退できるんかいな?」


 沙羅選手が、皮肉っぽい声をあげている。そもそもこのスタイルは、沙羅選手への対策として磨かれたものであったのだ。


 赤星弥生子はさきほどよりも遠い距離から、関節蹴りを飛ばす。

 ユーリのほうも同じ挙動で、それを跳ね返した。


 そんな露骨に一本足となっては、普通であればテイクダウンの餌食である。

 しかし、ユーリの寝技の実力を知る赤星弥生子であれば、古武術スタイルを打ち捨ててまで組みついてはこない――という見込みであるのだろう。


 そしてユーリは、自分からじわりと前進した。

 それを止めるべく関節蹴りが放たれると、膝蹴りでもって迎撃する。数キロばかりの体重差があっても、やはりパワーではユーリのほうがまさっているのだ。今度は、赤星弥生子が下がる番であった。


「おたがいにカウンター狙いいうのは、不毛やね。このままラウンドが終了したら……微差で大怪獣にポイントを取られてまうやろなぁ」


「えー、そうかなー? 正面からぶつかったときは相打ちだったし、それ以外はどっちもどっちじゃん!」


「白ブタの攻撃は相打ちの一発しか届いてへんけど、大怪獣の関節蹴りはいちおうヒットしとるからな。ま、残り一分でいいとこ見せりゃ、ひっくり返せるんちゃう?」


 沙羅選手の言う通り、残り時間は一分を切ろうとしていた。

 しかしユーリは焦る素振りもなく、同じ挙動で相手を追っている。そもそもユーリはポイントや判定などを考える頭もなく、ひたすら最善を尽くそうというタイプであるのだ。


 そんな中、赤星弥生子が何度目かの関節蹴りを繰り出した。

 ちょうどステップの踏み終わりであったユーリは、危なげなく左膝を振り上げる。


 次の瞬間、信じ難い光景が現出した。

 関節蹴りを膝蹴りで防がれた赤星弥生子の身が、後方ではなく上方に浮きあがったのだ。


 五十センチばかりも宙に浮き上がった赤星弥生子は、その体勢で逆の足を振り上げる。

 その中足が、ユーリの顔面を蹴り抜いた。


 ユーリは背中から倒れ込み、赤星弥生子はふわりとマットに着地する。

 瓜子は冷たい手で心臓をつかまれたような心地であったが――倒れたユーリががばりと足を開く姿を見て、ほっと安堵の息をついた。足を開くのはグラウンドでガードポジションを狙おうという基本中の基本である動きであり、ユーリの意識が飛ばされていないことを証明していた。


 赤星弥生子はユーリの姿を見下ろしながら、しばし思案する様子であったが、けっきょくは後方に引き下がる。あくまでグラウンド勝負は避けようという心づもりであるらしい。

 レフェリーに『スタンド!』と命じられて、ユーリはしかたなさそうに立ち上がる。


 その姿を見て、瓜子は息を呑んでしまった。

 ユーリの右の目の下が、頬のあたりまで直系五センチばかりも青黒く鬱血してしまっていたのだ。


 その後は、赤星弥生子が前進してユーリが後退するという形に切り替わり――大きな動きも見られないまま、第一ラウンド終了のブザーが鳴らされた。


「さっきのは何なの!? 物理法則を無視してない!?」


「騒ぐなよ。ほら、リプレイだ」


 モニターに、さきほどの映像がリプレイされる。

 赤星弥生子はユーリの左膝に右足の関節蹴りを放ちつつ、わずかに腰を落としていた。

 そして右の足裏がユーリの左膝にぶつかると、左足でマットを蹴る。さらに右足ではユーリの膝を踏むような動きも見られた。そうして赤星弥生子は、空中に跳び上がったのだ。


「……桃園さんの膝を出す動きにあわせて、ジャンプしたってことか。口で言うのは簡単だが、やっぱり化け物じみてるな。あれだけカウンターが得意な弥生子ちゃんだから、たった数発でタイミングを計ることができたんだろう」


 感情を押し殺した声で、立松がそんな風につぶやいた。

 リプレイ映像が終了すると、ユーリ陣営の姿が映される。頭と右目のあたりに氷嚢をあてがわれたユーリは、全身汗だくで荒い息をついていた。


 ユーリは実際の運動量よりも、スタンド状態で頭を使うほうが消耗してしまうのだ。そして今回ほど神経をすり減らす戦いに挑むのは初めてであるはずであった。


「ラウンドは完全に取られちまったが、勝負はまだまだこれからだ。こっちの作戦だって、まだ半分も達成できてないんだからな」


「せやせや。十分健闘しとるやろ。あの古武術スタイルをまるまる一ラウンド乗り切った女子選手なんて、これまでひとりもおらんかったんやからな」


 と、いつの間にか接近していた沙羅選手が、瓜子の頭にぽんと手を置いてきた。


「マリアや青鬼ジュニアなんざ、古武術スタイルが披露されるなり秒殺だったやろ? あのぶきっちょな白ブタはんをこうまで見事に調教できるプレスマン道場の指導力にはびっくりやね」


「ふふん。それも桃園さんの地力あってのことだけどな」


 と、立松がひさかたぶりに笑みをこぼした。

 そして、灰原選手に左腕を拘束され、沙羅選手の手を頭に置かれた瓜子の右手が、強い力でぎゅっと握りしめられる。その主は、爛々と目を燃やしたメイであった。


「ユーリもヤヨイコ・アカボシも、まだまったくポテンシャルを出し尽くしていない。だからコーチ・タテマツの言う通り、勝負はここからだと思う」


「……そうっすね。ユーリさんの逆転勝利を祈りましょう」


 そんな風に応じながらモニターに目を戻した瓜子は、小さからぬ驚きに見舞われた。

 椅子に座った赤星弥生子が、是々柄に手足をマッサージされていたのだ。

 ケージの内側に入れるのは、チーフセコンドのみである。つまり赤星弥生子のチーフセコンドは、是々柄であったのだ。

 大江山軍造と人相を隠した六丸は、後方のフェンス越しに赤星弥生子へと助言を送っている。それで是々柄は無言のまま、ひたすらマッサージに勤しんでいたのだった。


(是々柄さんは、凄腕のメディカルトレーナーだから……インターバル中の回復を任せるために、こんな布陣にしたってわけか)


 驚きの気持ちが消え去ると、瓜子はすっかり腑に落ちた。助言などはフェンス越しで十分なのだから、むしろあっぱれと言いたいぐらいである。赤星弥生子がセコンドの布陣を軽んじていないのなら、むしろ喜ばしく思えるほどであった。


 だが――インターバルが終了して第二ラウンドが開始されると、瓜子の気持ちは逆の方向に突き飛ばされることになった。

 控え室にも、困惑のざわめきがあげられる。赤星弥生子が古武術スタイルではなく、通常の構えでケージの中央に進み出てきたのだ。


「何こいつ! ちょっと一発いいのを当てただけで、調子こいてんの?」


 灰原選手が憤懣の声をあげ、瓜子も重苦しい気持ちを抱えることになった。

「本当は弥生子ちゃんも、真っ当なMMAで勝負したいんすよ」――という、かつて是々柄から聞かされた言葉が脳裏に蘇ったのだ。


(でも……それなら最初っから、古武術スタイルや大怪獣タイムなんて使わなきゃいいじゃん!)


 瓜子の胸に去来するのは、激しい口惜しさであった。

 ユーリが甘く見られたというよりも、ユーリでさえ赤星弥生子の孤独を埋めることはできないのか、という――何かまったく理屈にならないような情動である。


 昨年末、マリア選手に打ち勝った赤星弥生子は、とても孤独に見えてしまった。女子選手を相手に古武術スタイルを使うとすぐに勝負が決まってしまうため、あえて序盤はMMAのスタイルで挑むという赤星弥生子の姿勢が、あまりに不憫であったのである。それは本当に、人外の存在が人間と仲良くなるために本当の姿を隠しているような――そんな悲哀さえ想起させてやまなかったのだった。


 しかし赤星弥生子は赤星道場と《レッド・キング》を守るために、誰にも負けることは許されないという危機感を抱いている。だからきっと、意に沿わない古武術スタイルや大怪獣タイムを駆使するしかないのだ。そうして彼女は、誰にも負けない大怪獣ジュニアという偶像に成り果てて――絶対的な孤独を抱え込むことになったのかもしれなかった。


(だから、マリア選手や青田さんが弥生子さんに挑もうとするのも、大江山さんが古武術スタイルを習得しようとするのも……ただ弥生子さんに憧れてるだけじゃなく、自分が弥生子さんを負かして楽にしてあげようとしてるんじゃないかって……そんな風に見えちゃうんだ)


 瓜子の想念がそこまで及んだとき、「……なんだか様子がおかしいな」という立松のつぶやきが聞こえてきた。

 もちろん瓜子も目ではモニターを追っている。今のところ、両者は接触らしい接触もなく、おたがいに距離を測り合っている様相であった。


「桃園さんもクラウチングに戻してカウンター狙いはやめたんだから、弥生子ちゃんも慎重になりすぎだろ。これじゃあわざわざ古武術スタイルを取りためた理由がわかんねえな」


「それを言うたら、白ブタはんもやろ。ここは一気呵成に攻め込む場面ちゃう? テイクダウンを狙える千載一遇のチャンスなんやからな」


 確かに沙羅選手の言う通り、より不審であるのはユーリのほうであった。赤星弥生子はそれなりに前進しているのに、ユーリはぴょこぴょこと逃げるばかりであるのだ。会場には、早くもブーイングが吹き荒れていた。


「もしかして、頭にダメージが残ってるとか? 顔面をまともに蹴り抜かれたわけだからねー」


「でも、足もとは元気そうだよ。打ち合いが嫌なら、いっそうテイクダウンを狙うべきだろ」


 他の人々も、いぶかしそうに声をあげている。

 そんな中、逃げに徹していたユーリがふいに片足タックルを仕掛けた。


 間合いもタイミングも、絶妙である。不同視を何とか克服したユーリは、時おりこういったタックルを繰り出すことがかなうようになったのだ。

 しかし次の瞬間には、多くの人間が息を呑むことになった。

 ユーリはタックルの途中でいきなり身をよじり、自らマットに横倒しになり――それで空いた空間に、赤星弥生子の左膝がぞっとするようなタイミングで振り上げられたのだった。


「えーっ! こいつ、普通のスタイルでもあんなカウンターを狙えるの!?」


「いや……もしかしたら、普通のスタイルに見せかけてただけなんじゃないか? 今にして思うと、ちょっとすり足っぽい動きだったしな」


 マットに倒れ込んだユーリは、すぐさま赤星弥生子に足先を向けて迎撃の姿勢を取っている。

 しかし赤星弥生子は後方に引き下がり――そして、ガードのために上げていた拳を腰の当たりにまで垂らした。


「ほら、バレたとわかって元に戻した。だから桃園のほうも、迂闊に手を出せなかったんだよ」


「なーるほど! でもそれなら、さっきみたいにフックをぶちあてちゃえばよかったのに!」


「今回のカウンターは膝蹴りだったから、それじゃあ桃園のほうがヤバかったんじゃない? 桃園はただ相手の手口を確認するために、タックルをするフリをしたんだと思うよ」


 多賀崎選手の言う通り、ただ片足タックルを仕掛けるというのはユーリの戦略プランに組み込まれていなかった。それではパンチと膝蹴りのどちらが発動されるかわからないため、片足タックルやそのフェイントを仕掛けるときは、必ず相手が関節蹴りを出した直後と決められていたのだ。


 何にせよ、赤星弥生子は古武術スタイルを封印したわけではなかった。むしろユーリを油断させようと、封印したふりをしていたわけである。

 それを理解すると同時に、瓜子の重苦しい気持ちは晴れた。

 赤星弥生子は、全身全霊でユーリに打ち勝とうとしている。それが何より瓜子の心を慰めてくれたのだった。


(ユーリさん! 絶対に勝ってくださいとは言いません! でも……ユーリさんも弥生子さんに負けないぐらいの化け物なんだってことを見せつけてあげてください!)


 瓜子はそんな気持ちがふくれあがるのを、どうしても止めることができなかった。

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