03 死闘

 赤星弥生子がグラウンドにつきあおうとしないため、ユーリはまたスタンドに戻るように命じられた。

 そうして立ち上がったユーリは、再び無軌道なコンビネーションを披露する。大きく間合いを取った赤星弥生子は、踏み込むチャンスをうかがうようにじっと目を凝らしているようだった。

 魅々香選手でも、コンビネーションの隙間に攻撃を仕掛けることはできたのだ。カウンター狙いを磨き抜いている赤星弥生子であれば、それをも上回る鋭い攻撃を狙えるのが当然であるように思えた。


 ただしユーリは、すべてのコンビネーションの最後にタックルのフェイントを差し込んでいた。

 どんなに距離が離れていても、おかまいなしに下方へ手をのばすアクションを入れている。

 それに気づいた灰原選手が、「ちょっとちょっと!」と瓜子の腕を揺さぶってくる。


「これ、大丈夫なの? 最後に同じ動きを入れてたら、いっそうタイミングを読まれやすくなっちゃいそうじゃん!」


 最近の灰原選手は週に一回しかプレスマン道場に顔を出していなかったため、ユーリに授けられた戦略もあまり把握していないのだ。

 瓜子は祈るような気持ちで、ユーリの暴風雨めいた動きを見守るばかりである。


 ユーリはぶんぶんと手足を振りながら、少しずつ赤星弥生子のほうに近づいている。

 いっぽう赤星弥生子はそれに合わせて後退していたが、その一歩ごとに歩幅が調節され、いかにもカウンターの間合いを測っている風であった。


 そうしてユーリがワンツーとレバーブローの後に右のハイキックを繰り出して、最後にタックルのフェイントを入れようとしたとき、赤星弥生子の右足がふわりと持ち上げられた。

 左の前足に手をのばしたユーリの顔面を、また前蹴りで蹴り抜こうという動きである。

 なおかつそれは、相手のタックルがフェイントであることを前提にしたタイミングと角度であった。


 本当に、居合斬りを思わせる鋭さである。

 しかし――その右膝を内側からこするような格好で、ユーリの右腕がのばされていた。

 ユーリは片足タックルと見せかけて、低い姿勢からのボディストレートを繰り出したのだ。


 めいっぱいに身体をのばしたユーリの右拳は相手の腹を打ち、一瞬遅れて赤星弥生子の中足がユーリの左肩を打った。ユーリの攻撃のほうが一瞬早かったため、その怪力に圧された赤星弥生子の前蹴りも打点がずれたのだ。


 これはおたがいに、小さからぬダメージを負ったことだろう。

 しかしユーリは慌てる風でもなく引き下がり、赤星弥生子は前進した。


 ユーリのバックステップがもたつくと、赤星弥生子は関節蹴りを射出する。

 するとユーリは、それをかわしざまに再びの片足タックルを仕掛けた。前に下ろされた蹴り足を狙ってのタックルだ。

 まるで精密機械のような緻密さで、赤星弥生子の拳が振り子のように振り上げられる。

 しかしこの際は、その緻密さこそが狙い目であった。まるで一ラウンド目の再現のように、ユーリは身をよじりながら右フックを繰り出す。その前腕あたりが相手の側頭部にぶつかるのも、相手のアッパーがユーリの右頬にぶつかるのも、一ラウンド目と同様であった。


 マットに倒れ込んだユーリは、不屈の闘志で仰向けになり、足を開く。

 赤星弥生子は、やはり後ろに引き下がった。

 レフェリーに声をかけられるまでもなく、ユーリはすっくと起き上がる。

 右目の下の青痣が、さらにどす黒い色合いになっていた。一ラウンド目に蹴り抜かれたのと同じ箇所を叩かれてしまったのだ。


 しかしユーリは動きを止めることなく、ステップを踏み始めた。今度はムエタイ流のアップライトだ。

 関節蹴りに二度もカウンターを合わされたためか、赤星弥生子も一定の距離を取ったまま動こうとしない。

 すると、ユーリのほうから前進した。

 ユーリが蹴りの間合いまで踏み込もうとすると、赤星弥生子は一歩だけ引き下がる。

 ユーリはそれを追って、さらに前進した。


 ユーリの前足が、蹴りの間合いに踏み込む。

 その瞬間、赤星弥生子の右足がふわりと持ち上げられた。

 ユーリの腹を狙った、前蹴りだ。


 だが、それと同時にユーリもアクションを起こしていた。

 左を軸足にして、ユーリの身体がぎゅりんと旋回する。

 ユーリが滅多に見せることのない、バックスピンのハイキックである。

 ユーリは立ち技において派手な技を好んでいるために、この技も昔から反復練習を積んでいた。しかし実戦ではどのタイミングで出せば有効か見当がつけられず、ほとんど出番がなかったのだ。


 よって、ユーリの過去の試合を研究されても、この技を警戒される可能性は薄い。

 そういった思惑もあって、コーチ陣はこの技を戦略の中に組み入れていたのだった。


 ユーリが回転したために、赤星弥生子の前蹴りは完全に無効化されている。

 そしてユーリの右足は、ぞっとするような勢いで赤星弥生子の無防備な頭部へと放たれたが――赤星弥生子もまた人間離れした反応速度で、スウェーバックした。


 前蹴りを出しているさなかで一本足の不安定な体勢であるのに、赤星弥生子は苦もなく身をのけぞらして、ユーリのハイキックを回避する。

 そうしておたがいが蹴り足を戻して、体勢を整えるなり――ユーリが、相手の前足に手をのばした。


 バックスピンハイキック直後の、片足タックルである。

 もっとも高い位置への攻撃から、もっとも低い位置への攻撃だ。

 それでも赤星弥生子は、右拳を振り子のように振り上げていたが――そこに、見る者の背筋を寒くさせるような気配はなかった。タイミングが、わずかに外されていたのだ。もしかしたら、このタックルはフェイントでまた右フックが飛ばされてくるのではないか――という雑念が入り混じったのかもしれなかった。


 それこそが、立松たちの構築した戦略である。

 このタックルは、フェイントではなかった。赤星弥生子の右アッパーに左のこめかみを削られながら、ユーリは相手の左足を抱え込み、リフトして、マットになぎ倒してみせた。


 客席も控え室も、歓声に包まれる。

 ついにユーリが、グラウンドで上を取ったのだ。

 そしてそれは、コーチ陣が授けた戦略をすべて駆使した上での展開であった。


 関節蹴りの直後を狙った、片足タックルをフェイントにしての右フック。

 片足タックルのフェイントを連発して、相手の前蹴りを誘発してからのボディストレート。

 そして相手が関節蹴りをためらう素振りを見せ始めたら、蹴りの間合いに踏み込んでバックスピンハイキック。


 ユーリがこの二ヶ月間でひたすら我が身に叩き込んでいたのは、その三種の攻撃パターンであった。

 そこで相手の精密さに亀裂が入ったら、すぐさまテイクダウンを狙うというのが、最初に遂行するべき戦略であったのだ。


 第二ラウンドも終盤に差し掛かり、ユーリはついに最初の壁を乗り越えた。

 これでようやく、勝負は五分――ただし、赤星弥生子が大怪獣タイムを発動させたなら、その限りではない。

 しかしユーリは臆するところなく、次の一手に進もうとしていた。


 ユーリは横合いから相手の上にのしかかった、サイドポジションである。

 これはポジションキープがそれほど楽ではない姿勢であったが、寝技の熟練者たるユーリはがっちり相手を抑え込んでいた。


 そしてユーリは、相手の右脇を左腕で差しつつ――右腕を振り上げた。

 頭部をガードした赤星弥生子の左腕に、ユーリの右拳が叩きつけられる。

 小笠原選手との対戦で我を失って以来、一年以上ぶりに披露される、ユーリのパウンドであった。

 ユーリもまた、持てる限りの力を尽くして、赤星弥生子に打ち勝とうとしているのだ。


 ユーリがリズムカルに拳を振るい続けると、控え室の壁がびりびりと振動するほどの歓声が伝わってきた。

 ユーリがあの怪力で、動けぬ相手にパウンドを振るっているのである。それはすべて両腕でブロックされてしまっていたが、その腕がへし折れるのではないかというぐらいの勢いであった。


 そうしてきっかり十発のパウンドをふるったのち、ユーリは重心をずらして相手の脇腹に左膝をあてがう。ニーオンザベリーの体勢である。

 赤星弥生子はすかさず腰を切って、ユーリの身を押し返そうとしたが――その鼻っ柱に、ユーリの右拳が放たれた。

 赤星弥生子はたちまち両腕をガードに戻し、ユーリは再びパウンドを乱発する。


 ユーリは今でも、パウンドが苦手である。破壊力そのものは凄まじいのに、そちらに意識を向けると普段のようにくるくると動けなくなってしまうのである。

 そこでコーチ陣が授けたのは、実に素っ頓狂なアイディアであった。

「ポジションを移行するごとに、十発のパウンドを出せ」と命じたのだ。


 普通はそんな、マニュアル通りに動けるはずがない。人間は機械ではないのだし、試合というのは流動的なものなのである。そんな指示に無理やり従おうとしたならば、せっかくのチャンスを潰してしまいかねないだろう。

 が、ユーリはマニュアル通りに動くことを何より得意にしていた。おそらくユーリがこれほどまでに寝技に長けているのは、一瞬ごとにマニュアル通りのもっとも正しい選択をしているゆえなのである。


 しかしユーリはその中にパウンドを取り入れないまま、自分のマニュアルを完成させてしまった。そこにパウンドを織り交ぜるとなると、またゼロからマニュアルを構築しなければならないのだろう。それはおそらくユーリにとって、寝技の稽古をゼロからやりなおすというのと同義であったため、コーチ陣はこのように素っ頓狂なアイディアをひねり出すことになったのだった。


 サイドポジションで、パウンドを十回。

 ニーオンザベリーに移行して、パウンドを十回。

 次はマウントポジションを狙い、それに成功したら、またパウンドを十回だ。


 赤星弥生子は、その途中で大怪獣タイムを発動させるかもしれない。

 もしもそうなったら――あとは、出たとこ勝負である。大怪獣タイムだけは誰にも再現することができないため、対策の練りようがないのだ。


 ニーオンザベリーに移行してからのパウンドは、最初の一発を顔面にもらってしまったためか、赤星弥生子のガードがゆるくなっていた。恐るべき怪力を有したユーリの拳が、半分ぐらいはガードをすり抜けて顔面にヒットしているようだ。


 ユーリの攻撃があまりにリズミカルで、力にあふれているため、レフェリーは早くも片膝をついて鋭い眼差しになっている。

 レフェリーストップの可能性が生じたならば、赤星弥生子も大怪獣タイムを発動させざるを得ないだろう。

 瓜子は呼吸をすることさえ忘れて、モニターを見据えることになった。


 そんな中、十発のパウンドを完了させたユーリは、するりと相手の腰にまたがった。

 あの赤星弥生子が、なんの抵抗もなくマウントポジションを奪われたのだ。

 ユーリのパウンドが、赤星弥生子にそれだけのダメージを与えたのだと、瓜子がそのように考えた瞬間――赤星弥生子の右腕が毒蛇のようにのびあがって、ユーリの下顎に拳を叩きつけた。


 普通はグラウンドで下になった人間が拳を振るっても、まともなダメージを与えることなどかなわない。このようにべったりと背中をマットにつけていたら腕の力だけでパンチを出すことになるのだから、それが当然であろう。


 しかし、ユーリは上体をぐらつかせていた。

 赤星弥生子の右拳は、こするようにしてユーリの下顎を斜めに撃ち抜いたのだ。それで多少なりとも頭蓋骨の中身を揺さぶられてしまったようだった。


 そして赤星弥生子はその右パンチの勢いのままに上体をひねって、ユーリの身体を横合いになぎ倒した。

 しかしユーリが肉感的なる両足でもって赤星弥生子の胴体をはさみこむと――そのままユーリの上にのしかかり、凄まじい勢いでパウンドを振るった。


 体勢は完全にガードポジションであり、ユーリであればこの体勢からいくらでも逆転技を仕掛けられるはずであったが――ユーリはひたすら頭部をガードして、動けない。それほどに猛烈なパウンドの嵐が吹き荒れたのだ。


 さきほどのユーリにも劣らない、暴風雨のごときパウンドのラッシュである。

 その何発かは、両腕のガードをかいくぐってユーリの顔面を叩いていた。


 それだけの猛攻を振るいながら、赤星弥生子は石像のごとき無表情だ。

 しかしそれは憤激を押しひそめた阿修羅像を思わせる迫力であり――なおかつ赤星弥生子はユーリのパウンドによって左右の目尻を切っており、そこから流れる赤いしずくがまるで血の涙のようであった。


 そして――やおらレフェリーが、ユーリと赤星弥生子の間に割って入る。

 レフェリーストップになってしまったのかと、瓜子は背筋が凍る思いであった。


 しかし赤星弥生子は何をいぶかる様子もなくユーリの上から身をおこし、開かれた扉からは椅子を抱えたセコンド陣や撮影班たちがなだれこんでくる。どうやら歓声が凄まじい勢いであったため、カメラのマイクではラウンド終了のブザー音を拾うことができなかっただけのようであった。


 マットの上に半身を起こしたユーリは、レフェリーに向かってガッツポーズを作っている。きっと試合を続行できるかという問いに答えているのだろう。

 ユーリの表情はまったくへこたれていなかったが――ただしその右頬の青痣はいっそうどす黒い色合いとなって、ユーリの負ったダメージを如実に物語っていたのだった。

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