04 決着

「おめーはメンタルで、後れを取ったな」


 立松が氷嚢で右足を冷やしてくれている間、背後のフェンスの向こう側からサキがそのように言いたててきた。インターバル中にケージの内に入れるのは、チーフセコンドのみであるのだ。


「おたがいの片足がぶっ壊れて、おめーは五分と思ったか? だけどあっちのメキシコ女は、すぐにチャンスと認識したんだ。右足がぶっ壊れたおめーはサウスポーがしんどくなるから、片足タックルを狙いやすくなるってな」


「しかしそいつは裏を返せば、相手がお前さんのサウスポーを嫌がってたってこった。できればサウスポーに戻したいところだが……右足のダメージはどうだ?」


 真剣な眼差しで問うてくる立松に、瓜子は「押忍」と答えてみせる。


「試してみないと、わかりません。まだちょっと痺れてるような感じがします」


「カーフに限らず、足のダメージはそうそう簡単に抜けねえからな。……もしもサウスポーが無理だったら、オーソで距離を潰していけ。あっちも後ろ足を壊してりゃあ、これまでみたいには動けねえからな」


「おめーもそれで、まんまとスープレックスをくらったわけだからな。後ろ足が壊れたら、攻撃よりも防御がしんどくなるってこった。受けに回れば、不利になる。イノシシらしく、突進してこいや」


 瓜子が「押忍」と答えたところで、『セコンドアウト』のアナウンスが響いた。

 瓜子はゆっくりと立ち上がり、右足の状態を確かめる。

 さきほどよりはマシになったが、まだいくぶん感覚が覚束ない感じだ。


(でも、鼻血は止まったし頭のダメージは抜けた。手持ちの武器で、やるしかない)


 対角線上のマリア選手は、にこやかな表情で左足をぷらぷらと振っている。そちらには、いったいどれだけのダメージが残されているのか――マリア選手のやわらかい面持ちは、下手なポーカーフェイスよりも内心がうかがえなかった。


『セカンドラウンド!』のアナウンスとともに、試合開始のブザーが鳴らされる。

 瓜子はまずオーソドックスの構えでステップを踏んで、右足の状態を再確認した。

 痛みはないが、踏ん張りがきかない。下手に体重をかけると、足首をひねってしまいそうであった。


(後ろ足重心なら、サウスポーでもいけるけど……それじゃあ頭を低くするのも難しいし、そもそも踏み込みが甘くなったら意味がない。ここは、オーソだな)


 瓜子は気合を入れ直して、前進した。

 マリア選手は、小刻みなステップでアウトサイドに回り始める。その動きも軽やかさを取り戻しており、ダメージのほどはまったくうかがえなかった。


(痛みだったら、あるていど我慢することはできるもんな。とにかくこっちは、攻撃あるのみだ)


 瓜子はぐっと頭を屈めて、さらに前進する。

 すると――いきなり左ミドルが飛ばされてきた。


 革鞭のようなしなやかさと丸太のような重さを持つ左ミドルが、ボディをガードした瓜子の右腕に炸裂する。

 瓜子が初めて体験する、防具なしのマリア選手の左ミドルである。その肉厚でバネのある下半身から繰り出される左ミドルの破壊力は、想像以上であった。


(こんなのを何発もブロックしてたら、右腕が効かなくなるな。……というか、左足のダメージは回復したのか?)


 軸足さえしっかりしていれば、痛む足でも蹴ることはできるだろう。

 ただし着実にダメージは加算されるため、普通であればそのような真似はしない。では、マリア選手は普通のファイターであるのかどうか――瓜子には、とうてい計り知れなかった。


(考えすぎるな。こっちはプラン通りにいく)


 しかし、左ミドルを一発あてたことで、マリア選手のステップはいっそう躍動感を増したようだった。

 やはり彼女は蹴ることで、試合のリズムをつかむのだ。

 ならば、蹴りを出せないぐらい距離を潰すしかない。瓜子にとっては、それが最初からの戦略であった。


 が――瓜子も万全の状態ではないためか、なかなか距離が縮まらない。

 そしてそこに、二発目の左ミドルが飛ばされてきた。

 右足ばかりか、右腕までもがじんじんと痺れていく。


 瓜子は思い切って、大きく距離を取ってみせた。

 マリア選手はぴくりと反応したが、すぐには追いかけてこない。瓜子のカウンターを警戒しているのであろう。


(今までの稽古を思い出せ。絶対に勝てない相手じゃない)


 サウスポーのアウトスタイル対策では、サキと愛音が尽力してくれた。

 サウスポーではないものの、俊敏に逃げ回る役を担ってくれたのはメイだ。

 そしてさらに厄介な犬飼京菜とも、何度となくスパーを重ねてきた。

 組み技や寝技の対策では、ユーリや多賀崎選手や立松や、数々の男子選手が力になってくれた。首相撲や肘打ちの対策では、ドッグ・ジムのマー・シーダムがとても有効な助言をくれた。この二ヶ月間、瓜子はどれだけ濃密な稽古を重ねてきたか――それを思い出すことで、瓜子の心は補強された。


(よし、いこう)


 いったん距離を取った瓜子は、自らも相手のアウドサイドに回り込む格好でステップを踏んだ。

 マリア選手はそれよりも大回りで、さらにアウトサイドに回り込もうとする。瓜子の接近を許さぬままに有利なポジションを譲ろうとしない、やはりマリア選手のステップワークは秀逸であった。


(でも、足のダメージなんて、そう簡単に抜けないはずだ)


 瓜子は強引に踏み込んで、右のローを放ってみせた。

 傷ついた右足によるローである。

 マリア選手はほとんど跳びはねるようにして、その右ローを回避した。


 何故に跳びはねるような挙動であったか――それは前足でマットを蹴り、前足でマットに着地したためだ。

 つまりマリア選手は、後ろ足の左足をかばっている。

 その確証を得た瓜子はさらに踏み込み、同じ攻撃を出してみせた。

 マリア選手もまた同じ挙動で回避して、瓜子のアウトサイドに回ろうとする。


 牽制で、瓜子はバックハンドブローを出した。

 しかし、拳は空を切る。まあこれはマリア選手の組みつきを牽制するための攻撃であったので、瓜子としても不満はなかった。


(とにかく先に手を出して、リズムをつかませない)


 とりあえず、二発のミドルでつかまれかけたリズムは打ち消して、五分の状態に戻せたようだった。

 瓜子はさらに前進して、右ローを織り交ぜながらマリア選手を追い込んでいく。


 瓜子はサウスポーの構えを捨てたのだから、右足にダメージがあることはマリア選手にも筒抜けであろう。

 よって、瓜子の右ローを的確にカットすれば、ダメージが溜まるのは瓜子のほうであるのだが――マリア選手はマリア選手で後ろ足を負傷しているために、前足を持ち上げてカットするのは難儀であろう。そうしてカットに失敗して前足にまでダメージを負ったならば、マリア選手も万事休すであるのだ。


 よって、瓜子が右ローを出すと、マリア選手は必ず大きく後退する。

 そうしてひとつでも動きがパターン化すれば、他の動きも読みやすくなるのが必然であった。


(それで追い込まれたくなかったら――)


 瓜子の何度目かの右ローで、マリア選手は下がるのではなく前進した。

 前進することでローの威力を半減させ、そのまま組みつこうという算段だ。


 その展開を待ち受けていた瓜子は、蹴り足も完全に戻らぬうちから左フックを繰り出した。

 瓜子の左拳は、マリア選手の右こめかみにクリーンヒットしたが――マリア選手はぐっと下顎を引いて、その衝撃に耐えてみせた。マリア選手も、瓜子がカウンターを狙っていたことは想定済みであったのだ。


 マリア選手の右腕は、瓜子の足もとにのばされている。

 ただし、左腕は瓜子の肩口にのばされていた。

 タックルや組みつきではなく、片足をすくって押し倒すニータップだ。


 その動きが、ひどくゆっくりと感じられた。

 瓜子はまったく無自覚のまま、あの不思議な領域に踏み込んでいたのだった。


 瓜子は左足をすくわれるより早く、右膝を振り上げる。

 右足の先を痛めていても、膝蹴りであれば問題はない。瓜子は全力で、マリア選手の土手っ腹を蹴り抜いてみせた。


 しかし、マリア選手の突進は止まらない。

 おそるべき頑丈さである。

 この頑丈さが、瓜子の集中力を極限まで引き上げてくれたのだろう。最初のきっかけとなったラニ・アカカ選手も、マリア選手に負けないぐらい頑丈であったのだ。


 ともあれ、右膝を振り上げた瓜子は、きわめて不安定な体勢である。

 しかも、軸足の左足に手を掛けられてしまっている。あとは右肩を押されてしまえば、なすすべもなく倒れるしかなかった。


(それなら――)


 瓜子はマリア選手の腹にめりこませた右膝を支点にして、自らマットに身を沈めた。

 マリア選手の左手は、瓜子の右肩をかすめて通りすぎていく。マリア選手のニータップより先に身を倒すことで、瓜子は相手の突進力を頭上にいなしてみせたのだった。


 瓜子の背中がマットについて、マリア選手の上半身がその上を通りすぎていく。

 勢い余ったマリア選手は前方転回して、背中からマットに落ちた。


 ふたりが立ち上がったのは、ほとんど同時である。

 やはり、マリア選手の反応速度も尋常ではなかった。


 しかし、その時点ですでにパンチの当たる距離だ。

 欲をかかずに、瓜子は左ジャブを繰り出した。

 鼻っ柱を叩かれたマリア選手は、後ろに逃げる動きが一瞬遅れる。

 その間隙に、瓜子は右ストレートを繰り出した。

 マリア選手の左頬に、瓜子の右拳がクリーンヒットする。


 しかし、マリア選手は倒れない。

 メイのように衝撃を逃がすのではなく、持ち前の頑丈さで耐えてみせたのだ。


 やはり、予測できる攻撃でマリア選手を倒すことは難しい。

 そんな風に知覚すると同時に、瓜子は左足を振り上げていた。


 マリア選手は瓜子の顔を見据えながら、アウトサイドに逃げていこうとする。

 その逃げる先に、左足を叩きつけるのだ。

 もっと高く、もっと高く――自分より十三センチも大きい相手の頭に届くように――痛んだ右足でしっかりとマットを踏みしめ、瓜子は左のハイキックを振り上げてみせた。


 マリア選手の姿は、ゆっくりと遠ざかっていく。

 そうして瓜子から離れようとしたために、パンチの間合いにいたマリア選手はキックの間合いに到達し――瓜子の左ハイキックでこめかみを撃ち抜かれることになった。


 重い感触が、瓜子の左の足の甲に走り抜ける。

 そしてそれを支える右足に、びりびりとした痺れが走り抜けた。

 瓜子はそれをこらえながら、左足を振り抜いてみせる。


 マリア選手は横合いのフェンスに激突してから、マットに倒れ伏した。

 そして右足の感覚を失った瓜子も、それを追うようにして倒れ込むことになった。


 静謐な世界が散り散りに消えていき、大歓声が耳を打つ。

 瓜子はぜいぜいと息をつきながら半身を起こしたが、マリア選手はぴくりとも動かなかった。

 そしてそれを見定めたレフェリーが、両腕を頭上で交差させたのだった。


『二ラウンド、三分五十五秒! 左ハイキックにより、猪狩瓜子選手のKO勝利です!』


 さらなる大歓声が、瓜子の頭上で渦を巻く。

 レフェリーに「立てるかね?」と問われたので、瓜子は息も絶え絶えに「いえ」と答えてみせる。するとレフェリーは片膝をついて、瓜子の身を支えながら右腕を高く掲げてくれたのだった。

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