03 痛み分け

 瓜子があらためて前進すると、マリア選手はまたステップワークで瓜子の左手側に回り始めた。

 ただし、これまでとは様子が違っている。ステップの一歩ごとに歩幅が異なっており、なおかつリズムに緩急がつけられていた。先月の赤星弥生子戦で見せた、不規則なステップワークである。


(これは……確かに、踏み込みづらいな)


 マリア選手に不用意に近づけば、組み技の餌食なのである。このステップワークではリズムがつかみづらいため、瓜子もこれまでほど簡単に接近することができなくなってしまっていた。


(でも、こんなステップは相当スタミナを削られるはずだ)


 こんな初回の序盤から、マリア選手がこのステップワークを披露したということは――それだけ瓜子の存在を脅威に感じたという証であろう。

 それは誇らしい限りであったが、瓜子としても手をこまねいているわけにはいかなかった。とにかくマリア選手にはペースをつかまれるなと、コーチ陣には厳命されているのである。


(一番怖いのは、組んで投げられることだ。集中して、いくぞ)


 瓜子はサウスポーのまま、ぐっと頭を低くして前進した。

 マリア選手はすかさず大きなステップで距離を取り、小刻みなステップで軌道修正する。瓜子が強引に前進を続けても、うまい具合にサークリングをして、決してフェンスに詰まったりはしなかった。


 さすがはマリア選手のステップワークである。

 しかしマリア選手のほうも攻撃はできていないため、戦況は五分であろう。瓜子の強引な前進は、確かなプレッシャーを与えているはずであった。


 ただでさえ小柄な瓜子が頭を低くしていれば、マリア選手も簡単には組みつけないはずであるのだ。唯一懸念するべきは首相撲であるが、そちらは十分に対策を練ってきている。プレスマン道場にはユーリを筆頭に首相撲を得意にする選手が多数存在するため、稽古相手には事欠かなかったのだった。


(これだけ距離が詰まってれば、蹴りを出すのもおっかないはずだ。もしパンチを出してきたら、地力で打ち勝つ)


 マリア選手はユーリに負けないぐらい、偏ったファイターである。組み技と投げ技は特級で、蹴り技と寝技のポジションキープ能力は一級、パンチの技術と寝技のディフェンス能力は二級――というのが、こちらのコーチ陣の厳正なる鑑定結果であった。


「それでまあ、お前さんも寝技の技術は二級だから、グラウンドで上を取れば五分の勝負だろう。完全に優位に立てるのは、パンチ勝負だ。蹴りの距離を潰して、組みつかせずにパンチ勝負できれば、ウェイト差なんて関係なくKOを狙えるはずだ」


 立松などは、そのように言っていたものであった。

 つまり、基本がパンチャーである瓜子にとっては、それほど相性の悪い相手ではないということなのだろう。マリア選手のアウトスタイルを突き崩して主導権を握れば、瓜子に勝機があるはずであった。


 そんな思いを胸に溜めながら、瓜子はさらに前進してみせる。

 何度か右ジャブも放っているが、それはまだ届いていない。瓜子の攻撃は届かず、マリア選手も迂闊に蹴ることはできないという絶妙な間合いがキープされて、これほどおたがい動いているのに膠着状態という、なかなか不思議な状況になってしまっていた。


(こっちも出し惜しみはしないぞ)


 マリア選手もスタミナを削ってこのステップワークを見せているのだから、瓜子も同じだけのスタミナを使ってでも主導権をつかみにいく所存であった。

 そのように考えて、瓜子はギアを一段階あげる。

 頭だけは上げないように注意しながら、瓜子はいっそう鋭く踏み込んでみせた。


 そして――そのタイミングで、初めてマリア選手が反撃してきた。

 左ミドルの次に得意な、左ローである。

 瓜子もサウスポーであるため、右の前足の外側に当たるアウトローだ。


 瓜子はほとんど反射的に、左ストレートを射出していた。

 ミドルではなくローであれば、こちらのパンチも届く可能性が高い。よって瓜子はローを出されたらカウンターを返すという反復練習を積んでおり、それが肉体を勝手に動かしていた。


 マリア選手はほとんど瓜子の真正面に位置しており、間合いもそれほど離れてはいない。

 このパンチは、深く当たる――瓜子はほとんど本能でそう確信していたが、次の瞬間に鋭い痛みが右足に走り抜けた。


 マリア選手の左ローは、ふくらはぎの下部を狙ったカーフキックであったのだ。

 頭を低くして前進していた瓜子はこれ以上もなく前足重心であったため、その衝撃を残らず受け止めることになった。


 その痛みをこらえながら、瓜子は左拳を振り抜く。

 瓜子の拳はマリア選手の顔面をとらえたが、衝撃を逃がされた感覚があった。マリア選手はとっさにスウェーバックして、パンチの威力を半減させてみせたのだった。


 瓜子のパンチの威力に圧されて、マリア選手は後方にたたらを踏む。

 瓜子はすぐさまそれを追ったが、その際に右足がずきりと疼いた。

 筋肉の薄い部分を蹴り抜かれて、小さからぬダメージを負ってしまったのだ。前足重心におけるカーフキックの危険性を、瓜子もついに身をもって思い知らされることになったのだった。


(でも、それぐらいで怯んでられるか)


 瓜子が追撃の右フックを繰り出すと、マリア選手はほとんど跳びはねるようにして回避した。

 そして今度は、大きなステップで逃げ始める。緩急をつけたステップよりは厄介ではないものの、あれよあれよという間に距離を取られてしまった。


「逃がすな! ここが勝負だぞ!」

「残り二分! ぶちのめせ!」


 サキとサイトーの荒っぽい声が、瓜子の背中を押してくる。

 瓜子は右足の痛みをねじ伏せて、おもいきり前進してみせた。


 右足をかばってサウスポーをやめたりはしないし、頭の位置も低くした前足重心である。これしきのダメージで、コーチ陣から授かった戦略を打ち捨てる気にはなれなかった。


 マリア選手の姿がぐんぐんと近づき、瓜子の射程に入る。

 それと同時に、マリア選手は再び左ローを飛ばしてきた。

 瓜子も反射的に、左ストレートを返していた。


 マリア選手の左足は瓜子のふくらはぎを打ち、瓜子の左拳はマリア選手の顔面をとらえる。

 同じ場所を蹴られた瓜子は、さきほどの倍ぐらい痛かった。

 しかし今回は、さきほどよりも深くパンチを当てることができた。


 バランスを崩したマリア選手は大きくよろめき、ついに背中をフェンスにぶつける。

 敢然、瓜子は突撃してみせた。


 頭を低い位置に保ったままの、猛ラッシュだ。

 左右のフックに、ボディアッパー。右のフック、レバーブロー、左のアッパーと、そこまで攻撃を繋げてみせた。

 マリア選手は亀になって、それを防いでいる。フックはそれで防がれてしまったが、ボディへの攻撃と下顎へのアッパーはクリーンヒットに近い当たりであった。


 しかしマリア選手は、倒れない。

 驚くべき頑丈さである。

 瓜子の脳裏に浮かぶのは、やはりハワイのラニ・アカカ選手であった。


(だったら――)


 と、瓜子はレバーに照準を絞った。

 いかに頑丈でも、人体の急所は別である。来るとわかっているパンチは意外に耐えられるものであるが、レバーへのダメージは耐えようがないのだ。


 しかし、瓜子の二発目のレバーブローが炸裂すると同時に、マリア選手は瓜子の頭を抱え込んでいた。

 マリア選手のどっしりとした足が、鋭角な角度で振り上げられてくる。

 とっさにボディを守った瓜子の腕に、マリア選手の左膝が突き刺さった。


「距離を取れ! 頭は上げるな!」


 立松の言葉に従って、瓜子はさらに頭を下げることで首相撲のクラッチを解除し、そのまま後方に逃げた。

 これまで瓜子の頭のあったところに、マリア選手の右膝が振り上げられる。

 瓜子はすぐさま距離を詰めなおそうとしたが、マリア選手はそれよりも早くサイドに逃げた。


 が――マリア選手のステップが重い。

 レバーブローが効いたのかと思いきや、マリア選手は左足をかばっているように見えた。


「カーフで自爆したぞ! 追いかけろ!」


 確かにマリア選手は、いまだに二発のカーフキックと膝蹴りしか出していない。それで痛めるとしたら、カーフキックの自爆でしかありえなかった。

 カーフキックが怖いのは、筋肉の薄い部分を蹴られて、ダメージが骨身に伝わるためである。しかしそれは裏を返すと、相手も硬い骨を蹴って蹴り足を痛める恐れがあるということであった。


(カーフキックがクリーンヒットしすぎて、自分の足も痛めたってことか。骨密度さまさまだな)


 そんな想念を頭の片隅によぎらせながら、瓜子は前進する。

 が――それと同時に、瓜子もバランスを崩してしまった。


 右足の先に、力が入らない。

 正座をしすぎて痺れたような感覚だ。

 瓜子の右足もまた、カーフキックによってそれだけのダメージを負っていたのだった。


(くそっ。これじゃあ、痛み分けだ)


 瓜子はしかたなく、痛めた右足を後ろに回して前進した。前足は踏み込みの要であるため、このような状態ではステップを踏むこともままならないのだ。


 いっぽうマリア選手のほうは痛めたのが左足であったため、これまで通りサウスポーの構えでステップを踏んでいる。

 おたがいに、ステップのスピードが半減してしまっていた。

 片足以外は元気であるのに、なんとも情けない姿である。


「残り一分! ペースをつかませるな!」


 サキの言葉が、瓜子の心に違和感をもたらした。

 このような状態でペースもへったくれもあるだろうかと、そんな疑念がわいたのだ。


 しかしそれは、瓜子の大いなる考え違いであった。

 おたがいにスピードが半減したため、条件は五分であるかと思ったのだが――ひょこひょこと逃げ惑うマリア選手の顔に、楽しげな表情が蘇っていたのだ。


 瓜子がその理由を悟るより早く、マリア選手がアクションを見せた。

 瓜子の左足を狙った、前足タックルである。

 瓜子がオーソドックスに戻したため、アウトサイドに回るマリア選手にとって、前足が狙いやすくなっていたのだ。


 瓜子は何とかその攻撃を回避して、後ろに逃げようとする。

 その際に後ろ足重心になってしまったため、力の入らない右足が瓜子の身体をぐらつかせた。


 そして――瓜子が体勢を立て直すより早く、マリア選手がさらに踏み込んできた。

 その両腕が、しゅるりと瓜子の両脇に回される。

 瓜子は慌てて踏ん張ろうとしたが、それもまた傷ついた右足のためにままならなかった。

 かくして瓜子は、もっとも警戒していたフロントスープレックスをまともにくらうことになってしまった。


 マリア選手の肩越しに見える世界が半回転して、次の瞬間に意識が粉々に砕かれる。

 次に瓜子が世界を認識したとき、マリア選手はサイドポジションを取っていた。


 瓜子はほとんど本能で、頭をガードする。

 そこに、パウンドが飛ばされてきた。

 想像していたよりは、重くない。皮膚の表面がびりびりと痛むようなパウンドだ。

 つまりそれは、回転力を重視した攻撃であった。マリア選手の拳は驟雨のように連発されて、ガードの隙間から瓜子の顔面やこめかみを乱打した。


「ぼけっとしてたら、止められるぞ! 生きてるなら、動け!」


 サキの言葉に尻を叩かれて、瓜子はすかさず身をよじろうとした。

 が、マリア選手の身体はぴったりとついてくる。グラウンド状態におけるポジションキープ能力は一級と見なされているマリア選手であるのだ。


(だったら――)


 瓜子は可能な限りの勢いをつけて、マリア選手の背中に膝蹴りを打ち込んだ。

 むろん、こんな攻撃でダメージを与えられるわけがない。自分は元気だとレフェリーにアピールするための悪あがきである。


 さらに瓜子は右腕のブロックを外して、マリア選手の顔を横合いから殴りつけてみせた。角度的に拳はあてられないので、小指側の側面を使った鉄槌だ。

 マリア選手は顔をそむけつつ、さらにパウンドを落としてくる。それと同じだけの鉄槌を、瓜子も相手にぶつけてみせた。


 傍目には、きわめて稚拙な攻防に見えることだろう。

 しかし瓜子は、必死であった。現時点では、これしか対抗するすべを見いだせなかったのだ。


 それに思いの外、マリア選手は瓜子の攻撃を嫌がっている様子である。

 オープンフィンガーグローブの側面は生地が薄いため、ほとんど素手と同様であるのだ。それゆえに、瓜子の骨密度が意外な破壊力を生み出しているのかもしれなかった。


 そんな不毛な攻防が、何十秒も継続され――そして、ラウンド終了のブザーが鳴らされた。

 マリア選手はひょこりと身を起こし、瓜子の顔を覗き込んでくる。

 マリア選手は、左の目尻から血を流していた。

 いっぽう瓜子は、鼻血が咽喉に流れ込んでくるのを知覚していた。


「……猪狩選手、さすがです」


 先に身を起こしたマリア選手が、瓜子に手を差しのべてくる。

 それをつかんで、瓜子も立ち上がってみせた。

 そうして瓜子とマリア選手は、それぞれ片足を引きずりながら自分のコーナーに戻ることに相成ったのだった。

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