02 次鋒戦~ガトリング・ラッシュと褐色の荒鷲~

 犬飼京菜の陣営が花道から戻ってくるのと、沙羅選手の陣営が入場口の裏手にやってくるのは、ほぼ同時であった。


 犬飼京菜は子供のようにぽろぽろと涙を流しており、大和源五郎たちは優しい面持ちでそれを取り囲んでいる。

 いっぽう沙羅選手はにやにやと笑っており、榊原蔵人はひどく心配そうにおろおろとしていた。


「マイクを奪って新規門下生の募集を告知やなんて、大和はんもなかなかやるやないの。ま、放映ではまるまるカットかもしれへんけどなぁ」


「それならそれで、かまわねえさ。この会場には二千人以上も客が来てるってんだから、宣伝効果は十分だろ」


「あ、あの、犬飼さん、大丈夫? おなか、苦しくない?」


「うるさいなっ! 腹が痛くて泣いてるとでも思ってんの!?」


 両陣営がぶつかると、大変な騒ぎである。

 しかし、この時点では試合の内容も勝利者インタビューも見届けていない瓜子には、さっぱり事情がわからなかった。


「あの、犬飼さんは勝てたんすよね? どうも、おめでとうございます」


 瓜子がおそるおそる声をかけると、犬飼京菜は涙に濡れた目でキッとにらみつけてきた。

 が――やはり無言のまま、小さな拳を突き出してくる。瓜子は心を込めて、グローブタッチさせていただいた。


「じゃ、俺とマー坊はこのまま沙羅のセコンドだ。ダニー、お嬢を頼んだぞ」


「承知した。……行こう、京菜」


 ダニー・リーに肩を抱かれて、犬飼京菜は通路の向こうに消えていく。

 榊山蔵人がしょんぼりとしたセントバーナードのような風情でそれを見送っていると、大和源五郎が笑いながらその大きな背中を叩いた。


「悪いな。お前さんは沙羅のセコンドとして登録してるから、試合にはどうしても同行してもらわないといけねえんだよ。お嬢のことは心配だろうが、少しだけ辛抱してくれや」


「あ、い、いえ、僕なんかは、何のお役にも立てないでしょうから……」


「何を言ってやがる。格闘技以外の部分でお嬢を支えてくれてるのは、お前さんだろ」


 大和源五郎は愉快そうに笑い、榊山蔵人は純朴そうな顔を赤くする。


「おっと、騒がしくして悪かったな。猪狩さんも、頑張ってくれ」


「押忍。勝って、沙羅選手につなぎますよ」


「せやな。白ブタはどう転ぶかわからへんから、ウチらで全勝しとこうや」


 そうして瓜子と沙羅選手がグローブタッチを交わしている間に、扉の向こうからは瓜子の名を呼ぶアナウンスが聞こえてきた。

 サキに頭を小突かれつつ、瓜子は花道へと足を踏み出す。


 とたんに、開会式のとき以上の大歓声が瓜子の五体を包み込んだ。

「瓜子!」や「うりぼー!」のコールが、わんわんと反響している。その向こう側に、『ワンド・ペイジ』の楽曲がうっすらと聴こえていた。


 瓜子は《カノン A.G》ではなく《アトミック・ガールズ》の舞台に立てるのだという喜びを噛みしめながら、花道を踏み越える。

 ジャージの上下とシューズを脱ぎ捨てて、マウスピースを口に含み、セコンド陣と最後の接触を果たしたならば、顔にワセリンを塗られて、ボディチェックだ。


 体調も精神状態も、上々である。

 熱い闘志が一定のリズムで体内を駆け巡るのを心地好く感じながら、瓜子はケージに足を踏み入れた。


 八角形のフェンスの中で、青コーナー陣営のマリア選手はすでに悠然とたたずんでいる。

 あちらも、今にも笑いだしそうな朗らかな笑顔だ。

 フェンスの向こうに見えるのは、青田コーチとレオポン選手、それに竹原選手である。マリア選手本人よりも、そちらの面々の姿を目にしたことで、瓜子は赤星道場の人間と対戦するのだという実感がわいてきた。


(でも、正々堂々ぶつかるだけだからな)


 相手を憎むことなく、敵視することなく、妥協することなく、容赦することなく――ただひたすら、おたがいの力をぶつけ合うのみだ。中学時代から格闘技の経験を重ねてきた瓜子に、そこで躊躇いが生まれることはなかった。


『第八試合。フライ級。五十六キロ以下契約。五分三ラウンド……《アトミック・ガールズ》vs《レッド・キング》、次鋒戦を開始いたします!』


 常と変わらぬ名調子で、リングアナウンサーがそのようにアナウンスした。


『青コーナー。百六十五センチ。五十五・九キログラム。赤星道場所属……マリア!』


 マリア選手は肉感的な両腕を振り上げて、観客たちにアピールした。

 赤と青のハーフトップとショートスパッツに、黄褐色の肌が映えている。のびやかで、野生動物を思わせる雰囲気だ。


『赤コーナー。百五十二センチ。五十三・八キログラム。新宿プレスマン道場所属。《アトミック・ガールズ》ストロー級第五代王者……猪狩、瓜子!』


 瓜子が右腕を掲げると、さらなる歓声が渦巻いた。

 前回よりも、前々回よりも、その歓声に熱いものが込められているように感じられる。きっと誰もが《アトミック・ガールズ》の復活を喜んでくれているのだと、瓜子はそんな風に信じることができた。


 大歓声の中、レフェリーに招かれてケージの中央に進み出て、マリア選手と向かい合う。

 マリア選手は、ユーリとほとんど変わらない体格だ。年末の《レッド・キング》では六十キロを超えるウェイトであったが、今はきっちりとシェイプされていた。

 が、それでもひとつ上の階級の選手である。マリア選手も筋肉質のタイプではなかったが、ぱんと張り詰めた肉体にとてつもない力感が感じられた。


(心なし、ユーリさんより大きく感じるな……それだけ、リカバリーが大きいってことか)


 マリア選手とは合宿稽古をともにしていたが、あれはもう五ヶ月以上も前のことだ。あのときの手応えは参考ていどに留めて、まっさらな気持ちで挑むようにと、瓜子はコーチ陣から言い含められていた。


「それでは、グローブタッチを」


 瓜子が両手を差し出すと、マリア選手は両手でそれをぎゅっと握ってきた。

「よろしくお願いします」と、マリア選手の口もとがほころぶ。

 無駄な発言は咎められるが、このような言葉であればレフェリーも文句をつけたりはしない。瓜子は心を込めて、「押忍」と返してみせた。

 そうしてフェンス際まで戻ると、さっそくサキの声が飛ばされてくる。


「さー、初っ端が肝心だぞ。ぜってー相手にペースを握らせんな。出し惜しみしねーで、かき回していけ」


 そちらにも、瓜子は「押忍」と返してみせる。

 そんな中、試合開始のブザーが鳴らされた。


 マリア選手は喜び勇んで、ステップを踏み始める。

 野兎か鹿を思わせる、躍動感に満ちたステップだ。灰原選手も最近は似たタイプのステップを習得していたが――やはり本家本元は、力強さが違っていた。


(それにやっぱり、階級もひとつ上だからな)


 マリア選手は灰原選手よりも九センチばかり長身であるので、そのぶん一歩の歩幅が大きい。さらに、減量嫌いの灰原選手は平常体重もほどほどであるが、マリア選手は五キロ以上もリカバリーしている可能性があった。その大きな肉体が、これだけの躍動感を生み出すのだ。


 なおかつマリア選手は、アウトスタイルのサウスポーだ。

 ユーリの天敵と目されていたマリア選手であるが、アウトスタイルのサウスポーを相手取るのが得意な選手など、そうそういないだろう。本来の階級でも小柄の部類である瓜子も、もちろん例外ではなかった。


 しかし瓜子はこの日のために、二ヶ月ばかりも対策を練ってきた。

 そしてプレスマン道場には、サキに愛音という素晴らしいアウトファイターが居揃っている。それに、メイも凄まじい瞬発力を有しているため、逃げに徹すると追いかけるほうは大変であるのだ。


(それに最近は、犬飼さんともさんざんやりあってきたからな)


 彼女こそ、アウトファイターとしてはもっとも厄介な相手であった。瞬発力に優れているのみならず、トリッキーな大技を得意にし、しかも的が小さいものだから、瓜子はたびたび試合のときのような集中力の限界突破を強いられていたのだった。


 それらの経験が、瓜子に大きな自信を与えてくれている。

 その自信に従って、瓜子はおもいきり前進した。


 マリア選手は、素晴らしい躍動感でアウトサイドに逃げようとする。

 それに対して、瓜子はスイッチをしてみせた。

 去年からたゆみなく研鑽を積んできたスイッチングだ。マリア選手はいささかならず虚を突かれた様子で、逆の側に回り始めた。


 瓜子はすかさずオーソッドクスに戻して、さらに前進する。

 マリア選手はインサイドに位置していたため、様子見の左ジャブを射出した。

 頭部をガードしたマリア選手の右腕に、瓜子の左拳がヒットする。


 浅い当たりだが、いい感触である。

 瓜子はさらに踏み込んで、二発三発とジャブを放った。


 それを嫌がるようにして、マリア選手はアウトサイドに逃げようとする。

 瓜子はすかさずスイッチして、今度は右ジャブを出してみせた。


 瓜子もこれまでに少しずつスイッチをお披露目していたが、序盤からこれほど多用するのは初めてのことだ。

 マリア選手は明らかに動揺している様子で、自分の攻撃を出せずにいた。


 マリア選手は、リズムに乗せると厄介さが倍増する。

 それを踏まえての、サキのアドヴァイスであったのだ。それはまた、ユーリとマリア選手の対戦が決まった一年前から何度となく聞かされていた言葉であった。


 マリア選手は相手のアウトサイドに回りながら、のびのあるローやミドルで相手の出足を止めるのが真骨頂である。それに焦れた相手が接近戦を挑んできたならば、得意の組み技と投げ技で対処する。そうして、リズムを作るのだ。


 まずは最初の段階から、そのリズムを打ち崩す。

 そのための、スイッチングであった。


 瓜子の強い右ジャブをくらって、マリア選手はまた逃げる方向を転ずる。

 それにあわせて、こちらもしつこくスイッチだ。

 瓜子のジャブは、相手の腕に届いている。ならばリーチでまさるマリア選手も打ち放題であるはずだが、手が出ない。何より、これだけ距離が詰まっていれば、一番の得意技である左ミドルも出しにくいはずであった。


「マリア、惑わされんな! 相手に合わせないで、自分のペースで動け!」


「ずっと右回りでもいいぞ! とにかく、もっと距離を取れ!」


 相手のコーナーが近いために、レオポン選手や青田コーチの言葉がよく聞こえた。

 マリア選手は、得たりとアウトサイドに軌道修正する。瓜子がサウスポーにスイッチしても、今度は止まらなかった。


(それなら――)


 瓜子は右足を踏み込んで、左のミドルハイを繰り出した。

 まあ、瓜子としてはハイキックのつもりであるのだが、身長差があるために自然と相手の肩口を狙う格好になるだけのことである。


 ともあれ、マリア選手はまだ射程圏内であったため、そのミドルハイも完全にヒットした。

 そして瓜子はそのまま左足を前に下ろして、右のストレートにつなげてみせる。

 マリア選手の左頬に、瓜子の右拳がクリーンヒットした。


 小柴選手や小笠原選手から習い覚えた、空手流のコンビネーションだ。

 瓜子はさらに、左のボディブローにつなげようとしたが――それよりも早く、両手で突き放されてしまった。


(おっとっと)


 ただ突き放されただけであるのに、瓜子は何歩もたたらを踏んでしまった。

 ここで追いかけられていたら危ういところであったが、幸いなことにマリア選手も後方に逃げていた。そして眉を下げながら、打たれた左頬をグローブでぬぐっている。その唇は、「いったー」という形に動いていた。


(痛いだけかよ。クリーンヒットだぞ)


 押しているのは完全に瓜子であったが、マリア選手のパワーと頑丈さを一気に体感させられた心地である。

 瓜子はいっそう昂揚しながら、マリア選手のもとを目指すことになった。

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