02 開会式

 大和源五郎が言っていた通り、ルールミーティングを終えた後も赤星道場の面々と挨拶を交わすことはなかった。

 マリア選手や大江山すみれは遠くから会釈をしてくれていたが、彼女たちも常に赤星弥生子のかたわらにあり、決して余人を近づかせないようなオーラのもとに留まっていたのである。そして赤星弥生子自身は、一度として外部の関係者に目をやろうともしなかったのだった。


(きっと弥生子さんは、試合前に敵陣営の人間と馴れあうのが嫌なんだろうな)


 赤星弥生子は、あまりに頑なで不器用であった。

 そしてそれは裏を返すと、彼女の優しさであるはずなのだ。


 彼女は優しすぎるがゆえに、対戦相手と仲良くしたら闘志が鈍ってしまうのだろう。試合の当日でも対戦相手とにこやかに接することのできるユーリとは、まったく正反対であるのだ。


 瓜子は別に、ユーリと赤星弥生子のどちらが正しいとも思っていない。

 ただ、赤星弥生子がそのように振る舞いたいというのなら、その気持ちを尊重したかった。それで赤星弥生子が完全燃焼できるのなら、今日一日だけ口をきかないことなど、何ほどのことでもなかった。


                   ◇


 そうしてルールミーティングを終えたならば、バンデージのチェックを受ける前に試合衣装へのお召し替えだ。

 試合衣装はこれまでとほとんど同じデザインで、ただ《カノン A.G》のロゴが《アトミック・ガールズ》に差し替えられている。駒形代表が宣言していた通り、これまでに使用していた試合衣装やウェアと交換する形で、これらは無料で配布されていた。


「ユーリ様は、やっぱり白とピンクのカラーリングがもっともお似合いであるのです!」


 ユーリが試合衣装に着替えると、愛音が鼻息を荒くしながらそのように言いたてた。これまでは白、黒、赤、青、黄、緑の六種から二種を選ぶカラーリングであったが、ロゴの変更と同時にピンクのカラーも加えられることになったのだ。なおかつ、《カノン A.G》の試合衣装と交換する際はカラーリングの変更も可という話であったため、ユーリは白とピンクの組み合わせを選ぶことになったのである。


 ただ、当初のユーリは深く思い悩んでいた。プレスマン道場のメンバーはこれまで白と黒のカラーリングで統一していたため、自分だけそこから外れるのは寂しくてやりきれないという思いであったのだ。


「でも、他の選手だって白黒のカラーリングを選んでましたからね。たしか、魅々香選手もそうだったでしょう? 白と黒は道着と帯の色を連想させるから、わりあい好む人が多いのかもしれませんよ」


 瓜子がそのように言いたてても、ユーリの苦悩は晴れなかった。

 それを解消してくれたのは、サキと立松である。


「言っておくけど、アタシが復活したら別のカラーにさせてもらうかんな。白黒ツートンなんざ、アタシの趣味じゃねーや」


「そうだな。プレスマン道場のイメージカラーであるオレンジがあればよかったんだが、そいつがないなら無理に統一する必要もないさ。いっそのこと、俺やジョンも違うカラーにしちまうか」


 ということで、瓜子だけは白黒の組み合わせのまま、道場の人々は思い思いのカラーリングを選ぶことになった。それでユーリも、心置きなくピンクと白のカラーリングに変更することがかなったわけである。


 そしてこれを機に、ユーリと瓜子はジャージのトップスも購入することに相成った。これまでは《カノン A.G》の名前が気にくわず、どうしてあんな連中に儲けさせてやらなければならないのだという思いもあって、Tシャツとジャージのボトムしか購入していなかったのだ。


 しかしティガーとの契約によって、出場選手およびセコンド陣は公式のウェアしか着用してはならない決まりになっている。開会式や閉会式、そして試合の入退場の際も、他なるウェアを纏ってはいけないのだ。そうすると、Tシャツ一枚ではなかなかに不便で身体を冷やしてしまう恐れがあるということが、過去の二大会で立証されていたのだった。


「まあ、ちょっとばっかり値は張りますけど、《アトミック・ガールズ》のウェアだったら文句はありませんもんね」


「うんうん! ユーリはアトミックに育てられた身でありますので! 公式ウェアは、むしろ嬉しいぐらいなのです!」


 と、ユーリはフードつきのジャージに包まれた豊麗なる肢体を自分の腕でぎゅっと抱きすくめていた。

 折しも時節は冬であるため、控え室に集まった他の面々もおおよそはジャージの上下に身を包んでいる。全員が同じデザインのウェアであっても、カラーリングが多彩なのでとても華やかだ。


(《カノン A.G》のロゴだったときは、不愉快でならなかったけど……)


 しかし今は、全員が同じウェア姿であることが、むしろ心地好く感じられる。この場にいる人間は、誰もが《アトミック・ガールズ》を大事に思っているのだと、そんな感慨を噛みしめることができるのだ。


 今回と次回の大会で結果を残さなければ、《アトミック・ガールズ》は格闘技チャンネルとの放映契約を打ち切られて、壊滅してしまうかもしれない。

 それで《アトミック・ガールズ》がなくなってしまったら、あの悪辣なる徳久どもに負けたも同然であろう。そうはさせてなるものかと、この場に寄り集まった人々の数多くが奮起していたのだった。


「それでは間もなく開会式となりますので、出場選手の方々は入場口に集合してください! セコンドを同伴させる場合は、一名まででお願いします!」


 やがて開演時間が迫ると、そんな言葉が届けられてきた。


「よし、行くか。猪狩と桃園さんは、こいつを忘れないようにな」


 立松の手には瓜子のベルトが、ジョンの手にはユーリのベルトが掲げられている。選手紹介の後に、ベルト交換のセレモニーが行われるのだ。

 出場選手とセコンド陣は、一丸となって入場口の裏手を目指す。

 試合の順番で列を成すと、瓜子の前は犬飼京菜で、後ろは沙羅選手であった。かつてチーム・フレアであった両名も、ウェアのカラーリングは赤と黒から緑と黒の組み合わせに変更されている。どうやらドッグ・ジムの面々は、セコンド陣も同じカラーリングで統一しているようであった。


「赤黒いうのは定番のカラーリングやのに、しばらくは誰も着いへんやろね。ま、ウチらが悪名を振りまいたおかげなんやけど」


 沙羅選手はいつもの調子で、不敵に笑っている。そのしなやかな肩にも、フライ級王座のベルトが担がれていた。


「そういえば、沙羅選手のイメージカラーはグリーンでしたね。うちの邑崎さんも、撮影なんかではグリーンの水着が定番なんすよ」


「はん。あないなガキんちょは眼中ないわ。そういううり坊も、水着は白黒モノトーンがメインやったなぁ」


「ヤブヘビでしたね。試合に集中しましょう」


「ウチらの出番はトリ前やんか。今から気ぃ張っとったら、神経がもたへんわ」


 瓜子も沙羅選手も試合前の緊張とは無縁のタイプであるため、とても軽妙な雰囲気が生まれている。沙羅選手の背後に控えたユーリもにこにこと笑いながら話を聞いているために、なおさらであった。

 しかし、瓜子の前側にいる犬飼京菜はその小さな背中から闘志の炎をたちのぼらせていたし――さらに、彼女と灰原選手をはさんだ場所にたたずんでいるメイなどは、もはや黒い炎と化しているかのような迫力であった。


(メイさんは初めて出会ったときから、こんな感じだったもんな。……まああの頃は、試合の後もずっとこんな風に張り詰めてたけど)


 メイは四ヶ月ぶりの試合であり、なおかつ前の二戦は瓜子に連敗してしまっている。彼女は養父を説得して日本に居残っている身であるのだから、ここで結果を出せないとたいそうまずい事態に陥ってしまうようであるのだ。

 それで相手は『マッド・ピエロ』たるイリア選手であるのだから、メイはなおさら気を張ってしまっていた。瓜子とイリア選手の対戦をセコンドの立場で見届けたメイは、それだけでもう彼女の尋常ならざる力量を理解していたのだった。


「それでは、選手入場を開始します!」


 スタッフの掛け声とともに、選手が一名ずつ花道に出ていく。

 小柴選手、多賀崎選手、鞠山選手、高橋選手――メイ、灰原選手、犬飼京菜――それでようやく、瓜子の出番だ。

 チャンピオンベルトを抱えなおして、瓜子が花道に踏み出すと、凄まじいばかりの熱気と歓声が五体を包み込んできた。


 およそ二ヶ月ぶりの、熱気と歓声である。ここ二ヶ月はライブステージの舞台袖で間接的に味わわされていたものの、やはり自分自身に向けられる歓声というのはまったく質が異なっていた。


『トライ・アングル』の面々は個々のバンド活動の都合で、残念ながら今回は来場していない。旧友たる佐伯とリンもまた、自分たちの試合が近いので同様だ。本日来場している中でよく見知っている相手といえば、理央と加賀見老婦人ぐらいのものであろう。

 しかし、そのようなことは関係ない。むしろ、個人的なつきあいもない人々がこれほどの歓声を届けてくれるからこそ、瓜子の心はいっそう昂揚するのだろうと思われた。


 なお、この入場時に流されるBGMは、《アトミック・ガールズ》が以前から使用していたオリジナルのイメージサウンドである。

 このBGMに身をひたすのは、なんと半年ぶりであるのだ。瓜子はべつだんこのBGMに深い思い入れを抱いていたわけではないのだが、《カノン A.G》にそれを奪われるという苦い経験を経て、新たな思い入れが生まれたようであった。


 また、ケージの内部で選手の名前を高らかに読みあげているのも、旧知のリングアナウンサーとなる。手品師のように気取った格好をした、小太りでお調子者の中年男性だ。

 マーくんこと馬城雅史の甲高い声音は、どうしても好きになれなかった。そしてBGMと同じ理屈で、今の瓜子にはこのリングアナウンサーの声音がとても心地好く感じられた。


(本当に、《アトミック・ガールズ》が復活したんだ)


 そんな感慨を噛みしめながら、瓜子は犬飼京菜の隣に立ち並んだ。

 次には青田ナナの名が呼ばれ、沙羅選手の名が呼ばれ――さらに赤星弥生子の名が呼ばれると、会場には歓声とどよめきが渦を巻いた。


 ついに伝説の大怪獣ジュニアが、人々の眼前に降臨したのだ。

 現在の《レッド・キング》は二百名ていどの集客力しかなく、この会場には二千名以上の観客が詰めかけている。ならば、肉眼で彼女を見るのは初めてであるという人間がほとんどであるのだろう。


 それらの人々の好奇に満ちた眼差しや歓声を跳ね返すかのように、赤星弥生子は凛然としていた。色とりどりのスポットを当てられてもなお、その身は青白い雷光めいたオーラに包まれているかのようであった。


 そうして赤星弥生子が青田ナナの隣に立ち並び、ユーリの名が呼ばれると――これまで以上の歓声が爆発した。

 大歓声とユーリの名を呼ぶコールが渦を巻き、会場中の空気を震わせる。この二ヶ月でシンガーとしても確かな実績を積んだユーリは、その分まで人気を上乗せされたかのようであった。


 ユーリは心から楽しそうにひらひらと手を振りながら、やがて沙羅選手のかたわらに到着する。

 それでもなお「ユーリ!」のコールはやまなかったが、リングアナウンサーはそれにも負けじと声を張り上げた。


『それではイベントの開始に先立ちまして、チャンピオンベルトの返還と再授与のセレモニーを始めさせていただきます!』


 運営スタッフの誘導で、ユーリ、沙羅選手、瓜子の順番で、ケージの内へと歩を進める。そして解説席からは、妖艶に微笑む雅選手も入場してきた。

 さらには駒形代表とコミッショナー氏、新たなベルトを携えたラウンドガールやスタッフ陣もケージの内に踏み入ってくる。その光景に、人々はいっそうの歓声を振り絞った。


『え、えー、このたびパラス=アテナの新たな代表に就任させていただいた、駒形でございます。本日は《アトミック・ガールズ》と《レッド・キング》の合同イベントに足をお運びいただき、心より感謝しております』


 駒形駒代表が汗をふきふき挨拶をしても、ブーイングを飛ばす人間はいなかった。伝説の裏番長たる赤星弥生子を参戦させたことにより、駒形代表の評判も飛躍的に上昇したのではないかと思われた。


『ほ、本日は《レッド・キング》との初めての合同イベントという記念すべき日であると同時に、《カノン A.G》から《アトミック・ガールズ》に立ち戻るという、我々にとってきわめて重要な日になりました。数々の不祥事を起こして、数多くの方々にご迷惑をおかけしてしまったこと、あらためてお詫びを申し上げます。我々は今度こそ本道に立ち戻れるように粉骨砕身の覚悟で臨む所存でありますため、皆様にもお見守りいただけたら幸いでございます』


 歓声は、駒形代表を急かすようにうねりをあげている。駒形代表を非難する気持ちはなくとも、早く試合を観たいという気持ちが抑えきれないのだろう。それを悟ったかのように、駒形代表は居住まいを正した。


『そ、それでは《アトミック・ガールズ》復活の第一歩目として、ベルトの返還および再授与の式を行いたく思います。《カノン A.G》において新たな王者に認定された四名、ユーリ選手、沙羅選手、猪狩選手、雅選手は、まぎれもなく王者に相応しい実力者でありますため、そのまま《アトミック・ガールズ》の新王者に認定させていただきたく思います』


 大歓声の中、階級の軽い順番に《カノン A.G》のベルトを返還していく。

 そして瓜子たちの腰には、あらためて《アトミック・ガールズ》のチャンピオンベルトが巻かれることになった。


 これもまた、瓜子たちが大いなる災厄を退けたという証である。

 瓜子は、半年前に初めて暫定王者のベルトを獲得したときと同じぐらいの喜びを抱くことができた。


『ベルトの再授与式は、以上となります! 引き続き、選手代表のユーリ選手に開会の挨拶をお願いいたします!』


 リングアナウンサーはにこやかに笑いながら、ユーリにマイクを手渡した。

 ユーリもそれに負けないぐらいにこにこと笑いながら、マイクを受け取ったのだが――そのふくよかな唇が言葉を発する前に、やや垂れ気味の目からぽろりと涙がこぼれ落ちた。


『みなさん、こんばんは! ユーリは……ユーリは、《アトミック・ガールズ》が大好きでした! だから、《アトミック・ガールズ》を復活させるために頑張ってくれた駒形さんに、とても感謝しています!』


 ユーリがいきなり大声を張り上げると、大歓声がそれに応じた。

 ユーリはにこやかに笑いながら、ぽろぽろと涙を流している。そしてユーリは涙声で、さらなる大声を振り絞った。


『それに、駒形さんだけじゃなく、ユーリとおんなじ気持ちで頑張っていた他の選手の人たちにも、ジムや道場の人たちにも……ユーリたちを待ってくれていたお客さんたちにも、いっぱいいっぱい感謝しています! ユーリたちはこれからも一生懸命頑張りますので、どうぞよろしくお願いします!』


 ユーリのシンプルな言葉には、嘘いつわりのない情感が込められていた。

 遠く離れた観客席の人々も、それを聞き違えることはなかっただろう。もとより人気は絶大であるユーリであるが、そのときに巻き起こった歓声にはこれまで以上の熱意が込められているように感じられてならなかった。


 そして瓜子もまた、抑えようもなく胸が熱くなってしまっている。

 まるでステージでユーリの歌声を聴いているときのような感覚だ。

 ユーリは言葉にまじりけのない感情を込めると、これほどまでに人の胸を揺さぶることがかなうのだった。


(もしかして……シンガーとしての経験が、ユーリさんのカリスマ性を補強したのかなぁ)


 そんな恐ろしい想念を噛みしめつつ、瓜子は目の裏まで熱くなるのを感じた。

 そうして、瓜子たちは――《アトミック・ガールズ》の舞台に帰ることがかなったのだった。

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