02 二度目の大晦日(中)

「それじゃあ研究を続けましょうか。次の試合をお願いします」


 瓜子の要請に従って、メイがノートパソコンを操作する。次の試合は二年前、カナダのライトヘビー級の男子選手を相手取ったものであった。

 こちらは九十キロ以上の体格でありながら、動きが俊敏でパンチが鋭い。かなりボクシングを磨いているようで、足技はほとんど使わずにパンチで勝負を挑んでいた。


 相手が俊敏であるために、古武術スタイルの赤星弥生子もずいぶん手こずっているようだ。時には回避が間に合わず、パンチが浅く顔面をとらえる場面もあって、瓜子はひやりとしてしまった。

 三十キロぐらいも重い男子選手の攻撃であるのだから、浅い当たりでも赤星弥生子は尋常ならぬダメージを負ってしまっている。それ以降はふらつく足取りで逃げに徹して、相手の猛攻を紙一重でかわし続ける時間が長く続いた。


 そうして第一ラウンドの終了間際――相手選手が追撃をあきらめると同時に、赤星弥生子は大怪獣タイムを発動させた。

 慌てて繰り出された右フックをかいくぐると、相手の両脇に腕を差して、テイクダウンを奪取する。そして数秒の間に十発以上のパウンドを落として、相手を失神KOにまで追い込んだのだった。


「今のは、薄氷の勝利っすね。もしブザーが鳴る前に仕留められなかったら、次のラウンドには戦う力も残されてなかったはずっすよ」


「うん。凄い決断力だと思う」


 メイもぎらぎらと昂揚をあらわにしながら、次の試合を表示させた。


 こちらは四年も前の試合で、相手はロシアのヘビー級の選手であった。

 この選手は空手の出身であるようで、エドゥアルド選手に負けないほど頑強そうな体格をしている。さらに、エドゥアルド選手よりもフットワークが軽やかで、赤星弥生子の放つ関節蹴りすら回避して、逆にカウンターを狙うぐらいのゆとりを有していた。


 いかに六丸直伝の古武術スタイルでも、これだけの体格差を克服するのは難しいのだろう。このリーチ差では顔面まで攻撃も届かないのだから、レバーやみぞおちの急所にクリーンヒットさせない限り、ダメージを与えることさえかなわないのだ。


 けっきょく一ラウンド目は起伏もないまま終了し、決着がついたのは第二ラウンドである。

 その中盤まではおたがいに攻撃をいなすばかりであったが、赤星弥生子が突如として大怪獣タイムを発動させたのだ。


 相手が右ストレートを繰り出そうとした瞬間、赤星弥生子は身を屈めて前進した。

 相手の右拳を頭上にやりすごし、両腕で前足を抱え込んだかと思うと、肩で腹を押しながら、後ろ足に自分の足を引っかける。変則的な片足タックルであった。


 相手にディフェンスの猶予も与えず、赤星弥生子はマウントポジションを奪取する。

 そうして赤星弥生子が右拳を振り上げると、相手は慌てた様子で自分の頭部を守ろうとした。

 が――赤星弥生子はその拳を振り下ろすことなく、腕を振りかぶった勢いでもって、その身を反転させる。それで彼女がつかみかかったのは、相手の右足であった。

 相手の右足を両足ではさみこみ、足首のあたりを両腕で抱え込む。それで身体をのけぞらせれば、膝十字固めの完成であった。


 相手はたまらずタップをしようとしたが、その頃にはもう赤星弥生子は技を解いて、マットに寝転がっていた。

 タップを空振りした彼は、その手で自分の右膝を抱え込む。一瞬で、膝靭帯にダメージを負ってしまったのだろう。恐るべき正確性と破壊力であった。


「にゃー! これはすごい! 弥生子殿は、大怪獣タイムの間にサブミッションを仕掛けることもできるのだねぇ!」


「ええ。立松コーチはそれを伝えるために、この試合を観ておくように言ってくれたんでしょうね」


 寝技の単純な技術であれば、赤星弥生子よりもユーリのほうが上である。しかし相手がグラウンド状態で大怪獣タイムを発動させたならば――試合がどう転ぶかも判然としなかった。


「うーみゅ、ほんとーにすごい! 寝技の攻防なのに立ち技みたいにびゅびゅっと動いて、パンチを当てるみたいにサブミッションを完成させてしまったよ!」


 そんな風に言ってから、ユーリはふにゃんと微笑んだ。


「でもでも何だか、瞬発力の権化みたいな感じだねぇ。ユーリはやっぱりにゅるにゅると動くベル様の寝技が至高に思えるにゃあ。……あっ! もしかして、こちらではベル様と弥生子殿の対戦も拝見できるのでせうか?」


「うん。僕がベリーニャ・ジルベルトの試合を収集したときは、なかったはずだけど……最近になってサーバーを強化して、古い試合もアップロードしたらしい」


「わー、観たい観たい! ユーリのおねだりスキルを発動いたします!」


「でも、これは試合ごとの購入だから、タテマツ・コーチたちが購入してないと、視聴できない」


 そのように応じつつ、メイはぐいぐいと画面をスクロールさせていった。赤星弥生子とベリーニャ選手の対戦は、もう七、八年ばかりも前の話であるのだ。

 そうしてユーリが期待に瞳を輝かせて見守る中、メイはせわしなく指先を動かし――そして、「あ」と低い声をもらした。


「どうしました? 視聴できませんか?」


「ううん。過去、さかのぼりすぎた。これ、視聴できないけど――」


 テレビのほうで画面を確認した瓜子も、思わず「あっ」と声をあげてしまった。

 そこには金髪碧眼の大男と全身タイツにレスラーマスクの珍妙な選手の姿が映し出されており――画像の横に、『ボリショイ・アブラモフ vs レイ=アルバ』と記されていたのだった。


「レ、レイ=アルバって選手は、《レッド・キング》にも出場してたんすね」


 レイ=アルバとは、《JUF》の最後の興行で卯月選手を打ち破った謎の選手であり――メイは、その正体が六丸なのではないかと推察していたのだった。

 レイ=アルバはマスクもタイツも赤を基調にしており、そこに金銀のラメで派手な装飾が為されている。覆面レスラーとしては、べつだん珍しくもない姿なのかもしれないが――覆面選手がぽつぽつ存在するMMAにおいても、この試合衣装は型破りであるはずであった。


「他にも、何試合か掲載されてる。《レッド・キング》で実績を作って、《JUF》に出場したと考えるのが、妥当だと思う」


 そんな風に語りながら、メイはじっと目を凝らしていた。


「やっぱり、体格は似てると思う。それに、足運びも似てるはずだけど……動画、視聴できないから、確認できない」


「似てるって、誰にです?」と、ユーリが不思議そうに問い質した。

 メイはいくぶん意外そうに、瓜子に向きなおってくる。


「ウリコ、ユーリにも話してなかった?」


「は、はい。だって、これは秘密だって話だったでしょう?」


「意外。ウリコとユーリ、秘密はないと思ってた」


 するとユーリはたちまちすねたお顔になって、瓜子の袖を引っ張ってくる。


「ねえねえ。疎外感がぐいぐい高まってきたのですけれども。うり坊ちゃんはユーリに孤独死を願っているのでせうか?」


「あ、いや、違うんすよ。これはあくまで憶測の話ですし、ユーリさんは興味もないだろうと思ってましたから……」


「ふむふむ。それでそのようにユーリを仲間外れにしているのですねぃ」


「す、すみません。メイさん、ユーリさんにもあの話をしちゃっていいっすか?」


「僕の秘密じゃないから、かまわない。むしろ、話していないこと、意外だった」


 ということで、瓜子はメイの推察をその場で語ることになったのだが――そうすると、ユーリは「なーんだ」とあっさりご機嫌を回復させたのだった。


「それは確かに、ユーリには関係も関心もないお話だねぇ。うり坊ちゃんが沈黙を守っていたのも納得なのです」


「そ、それは何よりでした。……でも、想像以上にリアクションが薄いっすね」


「ユーリは過去にとらわれない女だもにょ。六丸さんが過去にどのような悪行を為していようとも、ユーリは1ナノグラムも気にしないのでぃす」


「別に、悪行ってわけじゃないっすけどね。……ただ、あんなに弥生子さんを大切にしてそうな六丸さんが《JUF》に出場してたってのが、謎っすけど」


「んにゃ?」と、ユーリは小首を傾げた。


「謎って? 六丸さんが《JUF》に出場すると、何かまずいのかしらん?」


「だって、《JUF》が大ブームになったからこそ、《レッド・キング》は衰退しちゃったんすよ? しかも、このレイ=アルバって選手はこんなに小さな身体で無差別級の精鋭を打ち負かしてたから、《JUF》末期の立役者って言われてたぐらいなんすよ。最後の試合では、卯月選手にも勝ってたんすからね」


 すると、ユーリは「にゃっはっは」と笑った。


「その六丸さんと思しき真っ赤なお人は、卯月選手とも対戦してたんだぁ? それなら、それこそが目的だったんじゃない?」


「え? どういうことっすか?」


「《レッド・キング》が廃れたのは、《JUF》に移籍しちゃった卯月選手のせいでもあるんでせう? 弥生子殿ラブの六丸さんは、そんな卯月選手に天誅をくらわせるために乗り込んでいったのではないのかしらん?」


 瓜子は瞬時、言葉を失ってしまった。

 ユーリはそんな瓜子を見返しながら、にこにこと笑っている。


「何にせよ、みーんな赤星ファミリーのお家事情なのです。ユーリは弥生子殿も六丸さんも卯月選手もそれなりに好いたらしく思っておりますので、深入りはせずにそっとしておきたい所存なのです」


「いやまあ、自分もそんな話に深入りする気はなかったんすけど……まいったなぁ。ユーリさん、いつになく鋭いじゃないっすか」


「おおう。マイルドな罵倒プレイだねぃ。それよりも、弥生子殿とベル様の試合模様は如何でありましょうかにゃ?」


「うん。視聴できる。ヤヨイコ・アカボシの試合、すべて購入したらしい」


「やったー! 若かりしベル様のお姿を堪能させていただきたいのです!」


 そうして画面上には、赤星弥生子とベリーニャ選手の一戦が表示されることになった。

 それは瓜子でも目を離せなくなるような、素晴らしい試合内容であったのだが――瓜子の心の片隅には、まだ先刻の驚きが残されてしまっていた。


(これと同じ日に《JUF》の試合会場で、卯月選手とレイ=アルバの試合が行われてたんだよな)


 もしも本当にレイ=アルバの正体が六丸であるならば――やはりユーリの言った通りの理由で、卯月選手との対戦を望んだのだろうか。

 そんな風に考えると、瓜子は赤星道場の関係者が辿ってきた歴史の苛烈さや目まぐるしさをあらためて思い知らされたような心地であったのだった。

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