03 感慨
瓜子とユーリがしばらく談笑を楽しんでいると、部屋の端から「うりぼー!」と元気な声が飛ばされてきた。
「そろそろ、あたしらとも絡んでよ! 今日はあんまりおしゃべりできてないんだから!」
その言葉の内容から察せる通り、それは灰原選手からのお誘いであった。
ついさきほどまで一緒にいた鞠山選手は離脱して、多賀崎選手だけがかたわらに控えている。そしてその両名と向かい合っているのは――なんと、山寺博人と陣内征生であった。
(うーん、ちょっと気が引ける顔ぶれだけど……自分のいないところで灰原選手にあれこれ語られるのも、ちょっと怖い気がするなあ)
そんな思いを心の片隅に抱きつつ、瓜子は再びユーリと一緒に移動することになった。
するとその行き道で、席を立った愛音が合流してくる。愛音もきっと、ユーリにひっつくチャンスをうかがっていたのだろう。瓜子としても、それを拒む理由はなかった。
「どうも、お疲れ様です。こちらでは、なんの話をしてたんすか?」
「それはもちろん、猪狩さんとユーリさんのお話です! こちらのお二人も、猪狩さんたちとご一緒にトレーニングをされているんですね!」
と、すっかりアルコールで顔を赤くした陣内征生が、灰原選手にも負けない大きな声で答えてくれる。普段は気弱な彼にとって、酒宴というのは思うさま羽をのばすことのできる希少な機会であるのだ。
「こっちはこっちで、うり坊たちの働きっぷりを聞いてたよー! やっぱ撮影の仕事って大変なんだねー!」
「それはもう! 水着姿の猪狩さんたちと演奏するときなんて、僕はずっと目をつぶるしかありませんでした!」
「あはは。きっと煩悩まみれだったら、あんな綺麗な音は出せないんだろうねー! あんたのベース、すっごくカッコいいと思うよ!」
「ありがとうございます! 恐縮です!」
灰原選手と陣内征生のテンションが相乗効果を生んでいるようで、なかなかの騒がしさである。多賀崎選手は苦笑しながらサワーのグラスを口に運んでおり、山寺博人は座卓に頬杖をついて知らん顔をしていた。
「あたしさー、バンド関係のほうでもうり坊が水着姿をさらすって聞いて、ちょっと心配だったんだよねー! ほら、うり坊ってお肌をさらすと色気が十倍増するじゃん? ピンク頭なんかはもう慣れっこだろうけど、おかしなやつにちょっかいかけられたらどうしよーって思ってたんだよ!」
「ちょ、ちょっと、自分の話はもういいんすよ。どうせだったら、今日のライブの話で盛り上がってください」
「その話は、もう盛り上がった後だもん! あたしは、ホントに心配してたんだからね!」
と、灰原選手が横合いから瓜子にからみついてくる。酒が入るとボディタッチが増えるのは、まあ毎度のことであった。
「だいたいさー、バンドのひとつはガラの悪そうな見かけをしてるし、もうひとつはうり坊が昔っからファンだったバンドじゃん! これで心配するなってほうが無理っしょ!」
「僕たちは、決してそんな浮ついた気持ちを抱いたりしませんよ! ね、ヒロくん?」
「うるせえな。俺を巻き込むなよ」
「何を言ってるんですか! 猪狩さんの水着姿に動揺して、おしりを蹴っ飛ばしたくせに!」
「えー、何それ! ひどすぎない?」
「はい、ひどすぎます! だからヒロくんには、猪狩さんのご友人を安心させてあげる義務があると思います!」
山寺博人は無言のまま、無精にのばした自分の髪をぐしゃぐしゃに引っかき回した。
居たたまれないのは、瓜子である。『ワンド・ペイジ』の良心たる西岡桔平が離席している現在、瓜子に何らかの責任が生じそうなところであった。
「そ、そんな昔の話を引っ張り出さないでくださいよ、ジンさん。自分たちがきちんと和解した場面は、ジンさんも見届けてたでしょう?」
「だけどその後も、ヒロくんは猪狩さんをぺちぺち引っぱたいてますよね! 今日もこの場で同じことが起きるかもしれないから、ご友人のみなさんにも事前にご理解をいただくべきだと思います! 僕は――僕はヒロくんが、大切だから……ヒロくんが誤解されて嫌われちゃうなんて、そんなの耐えられないんです……」
と、陣内征生はいきなりぽろぽろと落涙し始めた。これももはや、打ち上げの場では定番の姿であるのだ。
そうして瓜子が頭を悩ませている間に、直情的な灰原選手がいきりたってしまったのだった。
「うり坊を引っぱたくって、何さ! それって、パワハラじゃん! それとも、セクハラなの? どっちにしろ、許せないんだけど!」
「ち、違いますってば、あれはその、挨拶みたいなもんで……ねえ、ジンさん?」
「いえ! ヒロくんが女性を引っぱたく姿なんて、僕は初めて目にしました! おしりを蹴っ飛ばすなんて、なおさらです!」
「ジ、ジンさん! ジンさんは、話を丸く収めたいんじゃないんすか?」
「だから、ヒロくんを誤解されたくないんです! あれはヒロくんにとって、親愛の気持ちの表れなんです! お母さんやお姉さんに甘える子供みたいなもんなんです!」
「ふざけんな」と、山寺博人が陣内征生の頭を引っぱたいた。
陣内征生は、ゆっくりと山寺博人のほうを振り返り――そしてまた、新たな涙をぽろぽろと流してしまう。
「ヒロくんが僕を引っぱたくなんて、数年ぶりのことです……僕はこれでも年長者なんだから、もっともっと甘えてくれていいんですよ?」
「お前、マジでうるせえよ。……そっちのお前も、勘違いすんなよな」
「し、してないですよ、勘違いなんて」
と、瓜子が慌て気味に答えると、灰原選手が「あーっ!」と反応する。
「確かに今のって、パワハラっぽい! しかも、ナチュラルに甘えてる感じ? どっちにせよ、ムカつくー! うり坊は、あんたの子分でも彼女でもないんだからね!」
「猪狩に抱きつきながらどの口で言ってんだよ、あんたは」
と、今度は多賀崎選手が灰原選手の頭を引っぱたいた。
「このお人らは猪狩たちの仕事仲間なんだから、部外者のあんたがひっかき回すんじゃないよ。コミュニケーションの取り方なんて、人それぞれだろ?」
「でも、うり坊が引っぱたかれるなんて、ムカつくじゃん!」
「サキだって、猪狩や桃園を引っぱたいたりするだろ? あたしだって、あんたを引っぱたくのはしょっちゅうだしさ」
「でも、知らないやつがうり坊を引っぱたいたら、ムカつくのー!」
「それは、あんたの都合だろ。じゃあ、あたしらの知らない誰かがサキにムカつくのは、正しいことなのかい? そんなのパワハラだーってさ」
灰原選手がすねた様子で口をつぐむと、多賀崎選手は苦笑しながらその頭をぽんぽんと叩いた。
「このお人らが理不尽な暴力をふるうような人間だったら、猪狩の上司さんが黙ってないさ。部外者が横槍いれて面倒な話になったら、苦労するのは猪狩なんだよ? せっかくこうして一緒に飲める場をいただけたんだから、あんたもキャンキャン騒いでないで、もっと楽しい話をしなよ」
灰原選手は「うー」とうなりながら、瓜子の頭に頬ずりをしてきた。
その間に、多賀崎選手は山寺博人へと笑いかける。
「こいつは猪狩に懐いてるだけなんで、どうか勘弁してやってください。……でも、女の子を蹴っ飛ばしたりするのは控えたほうがいいと思いますよ」
「わかってるよ」と不貞腐れた口調で言いながら、山寺博人はジョッキの中身をやけくそのようにあおった。そのかたわらでは、涙を引っ込めた陣内征生がにこにこと笑っている。
「多賀崎さんは、すごいですね! ヒロくんがこんなに素直に従うのは、すごく珍しいことなんですよ!」
「あのね、火に油を注いでるのは、あなただと思いますよ。あなたもれっきとしたメンバーのひとりなんだから、どうかよろしくお願いしますね」
「は、はい! ごめんなさい! 今日はいいステージだったんで、ついついお酒が進んじゃって!」
「まったく」と苦笑しながら、多賀崎選手はまた自分のグラスに口をつける。
瓜子は灰原選手に抱きつかれながら、多賀崎選手の手を両手でつかむことになった。
「多賀崎選手、本当に……本当にありがとうございます」
「何をそんな真剣になってるのさ。あんたはどこでも苦労が絶えないねえ」
そうしてその場の騒ぎが一段落すると、愛音がぶすっとした声をあげた。
「今日の主役はユーリ様ですのに、どうして猪狩センパイの話でばかり盛り上がってしまうのでしょう。愛音には、解せないのです」
「そんなの、別にいいんだよぉ。それに今日の主役は、『トライ・アングル』の全員だからねぇ」
ユーリは珍しく良識的な言葉を返していたが、その指先はこっそり瓜子のシャツの裾をつかんでいた。灰原選手がなかなか離れようとしないので、羨ましさのゲージが溜まってしまっているのだろう。
すると背後から新たな人物が、灰原選手ごと瓜子のことを抱きすくめてきた。誰かと思えば、『モンキーワンダー』の原口千夏である。
「もうおさわりタイムなのぉ? それなら、あたしもご一緒させてぇ」
「こらー! カタギのお人に手を出しちゃいけません!」
と、定岡美代子がすかさず相棒の頭を引っぱたく。
原口千夏が「てへへ」と笑いながら腕を離すと、灰原選手も毒気を抜かれた様子で身を引いた。
「まったくもー! お騒がせしちゃって、申し訳ありませんね! この酔っ払いにはかまわず、お話を続けてくださいねー!」
「いいじゃあん。みよっぺだって、ヒロさんやユーリちゃんと語りたいんじゃないのぉ?」
原口千夏がそのように言い返すと、定岡美代子はタヌキに似た顔をわずかに赤くした。
「あ、あたしはいいの! あんな最高のステージを観られただけで、大満足なんだから! ……ヒロさんだって、ご迷惑だろうし……」
「全然迷惑じゃないですよ! でもヒロくんは不愛想なんで、そこは勘弁してあげてください!」
陣内征生が陽気に言いながら、自分のジョッキを高々と掲げた。
「みよっぺさんも、僕たちのステージを観てくれたんですね! こっちは出番前だったんで、ごめんなさい!」
「い、いえいえ、とんでもないです! ……でもあの、本当に今日は最高でした。もともと『ワンド・ペイジ』は大好きでしたけど、『トライ・アングル』はそれに負けないぐらい素敵ですね!」
「ありがとうございます! 今の僕たちにとっては、最高のほめ言葉ですね!」
斯様にして、ポジティブな話題であれば陣内征生のハイテンションも正しく機能するのだった。
定岡美代子は嬉しそうに笑いながら、ふっとユーリのほうを振り返る。
「あ、あの、会場では失礼しました。あたし、感極まると頭が働かなくなっちゃって……」
「何も失礼なことはなかったですよぉ。『トライ・アングル』のステージをおほめいただき、恐縮ですぅ」
ユーリが社交スマイルを返すと、定岡美代子もほっとしたように微笑んだ。
「ユーリさんは、本当にすごいヴォーカルだと思います。最初に《NEXT》のイベントでワンドさんとコラボするって聞いたときは、しょせんアイドルのくせにとか思っちゃってたんですけど……あの日のステージで、そんな馬鹿な考えは吹っ飛んじゃいました。それで今日は、あの日とも比較にならないぐらい、凄かったです」
「いえいえぇ。ユーリなんて、そんな大したもんじゃないですよぉ。すごいのは、みんな他の方々ですぅ」
「はい。ユーリさんの才能を引き出したって意味では、ワンドさんもベイビーさんも凄いですよね。単純に、相性の問題もあるんでしょうけど……他のどんなバンドと組んでも、こんな凄いユニットにはならないような気がします」
『ワンド・ペイジ』や『ベイビー・アピール』とは異なり、『モンキーワンダー』ではヴォーカルが常識人の座を担っているのだろうか。髪も私服もけばけばしい彼女であるが、その言葉には実に人間らしい温かみや誠実さがあふれかえっているように感じられてならなかった。
そして、そんな感慨を噛みしめる瓜子には、原口千夏がとろんとした目つきで語りかけてくる。
「さっきはごめんねぇ。酔いにまかせて、べたべたひっついちゃったぁ。うり坊ちゃんがあんまり可愛いから、ブレーキが効きにくいのかなぁ」
「そ、そうっすか。あんまり飲みすぎないように、気をつけてくださいね」
「うふふ。そんな心配そうな顔をしなくても、あたしは無理やり襲ったりしないよぉ」
などと言いながら、原口千夏は瓜子の耳もとに口を寄せてきた。
「でも、うり坊ちゃんにオッケーもらえるなら、全身全霊でサービスしちゃうよぉ。この後、二人で抜け出してみなぁい?」
「あ、いえ、ユーリさんをマンションまで無事に送り届けるのが、自分の職務ですので」
「うんうん。そういう真面目なところも、あたしはそそられちゃうなぁ」
すると、しばらく静かにしていた灰原選手が「ちょっと!」と眉を吊り上げた。
「なんか、不穏な雰囲気なんだけど! うり坊におかしなちょっかいを出さないでもらえる?」
「あー、あなたは典型的な、男好きするタイプだよねぇ。美人は美人だけど、あたしは萎え萎えだなぁ」
「意味わかんない! あんたがユニットのメンバーじゃなくってよかったよ!」
灰原選手はいーっと顔をしかめながら、瓜子の腕をぐいぐい引っ張ってきた。原口千夏はけらけら笑いながら、ジョッキに残っていた酒を飲み干す。
宴もたけなわといったところであろうか。瓜子が周囲を見回してみると、あちこちの席でもこちらに負けない賑わいが生まれていた。
小柴選手はようやく覚悟が据わったようで、小笠原選手と一緒に『モンキーワンダー』の男性陣と語らっている。そちらの二名が抜けても、タツヤはまだサキや理央やメイのそばにおり、そこに鞠山選手とリュウが加わっていた。
ダイはどこに行ったのだろうと思ったら、千駄ヶ谷の前で小さくなっている。もしかしたら、ステージに瓜子を呼びつけた一件を厳重注意されているのだろうか。『ベイビー・アピール』と『ワンド・ペイジ』のマネージャー陣が、なだめ顔でそのかたわらに控えていた。
あとは――端の席で、西岡桔平と漆原がマンツーマンで語らっている。漆原は、よっぽど創作意欲を刺激されたのだろうか。遠目に見ても、両名は雑談ではなく真面目な話に取り組んでいる気配がうかがえた。
(なんか……いい雰囲気だな)
音楽関係と格闘技関係のメンバーが入り乱れているためか、瓜子はその両方のいい空気を同時に味わえているような心地であった。
とても多忙であった今年を締めくくるのに、相応しい顔ぶれであるのかもしれない。プレスマン道場のコーチ陣や赤星道場およびドッグ・ジムの関係者が不在であるのが、いささか惜しいところであるが――あらためて、瓜子はこの一年間で広がった交流のありがたさを思い知らされていた。
「ねえねえ、何をぼーっとしてんのさ! ちょっとはあたしにもかまってってばー!」
と、瓜子の腕を抱きすくめた灰原選手が、また頭に頬ずりをしてくる。
「さっきから、ずっと一緒におしゃべりしてるじゃないっすか。灰原選手ってお酒が入ると、甘えん坊な面が際立ちますよね」
「だから、そーゆー冷めた物言いが、やなのー! うり坊にはクールキャラなんて似合わないんだからね!」
瓜子は「はいはい」と苦笑するしかなかった。
ユーリには愛音がひっついており、二人で一緒に定岡美代子と今日のライブについて語らっている。これならば、今の内に灰原選手のお相手をできそうであった。
「それじゃあ、おしゃべりしましょうか。本年は、大変お世話になりました」
「何それー! よそよそしい! ……あ、でも、うり坊たちとつるむようになったのは、今年になってからなんだよね」
と、灰原選手の声にも少ししんみりとしたものが入り混じった。
「今年の頭に試合をして、春先の大阪でもちょろっと喋って……それで、ゴールデンウィークに合宿稽古したんだっけ。うわー、なんか、すっごく懐かしいなあ」
「そうっすね。こんなにたくさんの人たちと仲良くなれるなんて、自分は想像もしてませんでした」
「そんなの、あたしもだよー! ジムに通い始めてから、仲良くなれたのなんてマコっちゃんぐらいだったからさー!」
そう言って、灰原選手は白い歯をこぼした。
「来年も、いーっぱいツルもうね! で、来年中にはあたしがタイトル挑戦すっから、それまで負けんなよー?」
「はい。楽しみにしてますよ」
何か胸の中がくすぐったいような心地で、瓜子は灰原選手と笑顔を交わすことになった。
すると、愛音に耳打ちされたユーリがこちらを振り返り、「にゅー!」と眉を吊り上げる。
「あのー、灰原選手! 今日はちょっと、スキンシップの度合いが過剰なのではないでしょうか? いいかげんに、ユーリの羨みが臨界点を突破しそうなのです!」
「うっさいなー。あんたたちは一日中一緒にいたんでしょー? 文句があるなら、あんたもひっついたら?」
「では、そうさせていただくのです!」
と、ユーリが本当に逆側の腕を抱きすくめてきたので、瓜子のほうが慌てることになってしまった。
「いやあの、ユーリさん、大丈夫っすか?」
「何をもって大丈夫とするかは、ユーリにも判然としないのです!」
シャツの襟首から覗くユーリの白い咽喉もとに、ふつふつと鳥肌が立っていく。それを強引にねじ伏せるかのように、ユーリは「うにゅー!」といっそうの怪力で瓜子の腕を締めあげてきた。
「あ、おさわりタイム? あたしもまぜてぇ」
「わー、あんたはこっちに来んな! ほら、ピンク頭、うり坊を取られるよ!」
「うにゃー! 今はユーリが充電中ですので、よそ様はご遠慮くださいませ!」
瓜子を左右からはさんだユーリと灰原選手が足を振り上げて、原口千夏の接近を牽制する。そしてそんな騒乱のさまを、山寺博人や陣内征生がびっくりまなこで見守っていた。
瓜子としては、気恥ずかしいことこの上なかったが――それでもやっぱり、満ち足りた思いのほうがまさっていた。
そんな感じに、本年最後の馬鹿騒ぎは粛々と過ぎ去っていったわけである。
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