04 オンステージ
その後、時計が四時の十分前を表示したところで、『トライ・アングル』の一行は舞台袖に移動することになった。
これまでウォームアップに励んでいたユーリは白い頬をほんのりと上気させて、色香と魅力がさらに加算されている。自前の楽器を抱えた『ベイビー・アピール』の面々も、意気は揚々であった。
薄暗い舞台袖に到着すると、演奏の爆音と大歓声が肌を震わせてくる。
会場の規模がこれまでの十倍以上であったためか、歓声の重圧感もそれ相応に跳ね上がっているようだ。一万人を収容できるというこの場所に、現在はどれだけのお客が集まっているのかは、まったく知るすべもないのだが――ただとにかく、ユーリが大阪で経験した六百人という数字とは桁が違っているはずであった。
しばらくすると三組目のバンドの演奏が終了し、汗だくのメンバーたちが舞台袖にハケてくる。そうして『ベイビー・アピール』のローディーと会場のスタッフたちが、大急ぎで器材のセッティングを開始した。
ユーリは最後の仕上げとばかり、再びのストレッチだ。そうして瓜子と目が合うと、ユーリはにぱっと無邪気に笑った。
「こういう時間は、試合のときと似てるよねぇ。にゃんだかキックミットを蹴りたくてうずうずしちゃいますわん」
「それでテンションが上がるんなら、持参してもいいかもしれないっすね」
ユーリのためのタオルやドリンクが詰まったバッグを手に、瓜子も笑顔を返してみせる。
あっという間に十五分間の転換時間は終了し、会場スタッフが慌ただしく舞台袖に戻ってきた。
「準備オッケーです! やや押しなんで、よろしくお願いします!」
「はいはぁい。でも、一時間きっちり演奏させてもらうからねぇ」
漆原はへらへらと笑いながら、細長い腕をだらしなく頭上に掲げた。
「じゃ、気合を入れていきますかぁ。ほら、ユーリちゃんもぉ」
「はいはぁい」と、ユーリも笑顔で円陣に加わった。
「『トライ・アングル』、ファイト、オー」
漆原の脱力した掛け声に、他の面々も「オー」と適当な声を返す。ユーリも楽しげに、彼らのそんな流儀に乗っかっていた。
「じゃ、ユーリちゃんはまた後でねぇ」
『ベイビー・アピール』のメンバーがステージに出ていくと、また大歓声が会場を揺るがした。
鞠山選手たちも、きっとこの会場に集結してくれていることだろう。格闘技関係者がユーリのライブ観戦に臨むのは六月の『NEXT・ROCK FESTIVAL』以来であるので、なんとも奇妙な心地であった。
『お待ちどうさぁん。一日に二回も俺たちの演奏を聴けるなんて、みんなラッキーだねぇ』
ステージ上でも脱力した漆原のMCに、観客たちはいっそうの声援を張り上げる。
その間に、ユーリが瓜子へと拳を差し出してきた。
瓜子は精一杯の思いを込めて、その拳に自分の拳をタッチしてみせる。
『それじゃあ、始めるよぉ。知ってる人も知らない人も、どうぞよろしくぅ』
漆原の合図で、リュウが『ピーチ☆ストーム』のイントロをタッピングで奏でる。
うねりをあげる大歓声の中、ユーリが元気いっぱいに姿を現すと、さらなる歓声が爆発した。
本日ばかりはユーリもアウェイであるはずだが、まったく問題はないようだ。まあ、余所には四つもステージがあるのだから、ユーリに興味のない人々はそちらに向かっているはずであった。
『みなさん、こんにちはぁ。ワレワレは、「トライ・アングル」と申しまぁす。最後まで楽しんでいってくださいねぇ』
そうして今日も、ユーリのステージが開始された。
ユーリが生演奏のライブを行うのはこれが四度目のことであり、瓜子はその姿をすべて見届けているわけだが、もちろんまだまだ見飽きたりはしていなかった。特に最近のユーリは振り絞るような歌唱をも会得して、格段にパワーアップしているのだ。
やはり歌い慣れたこの『ピーチ☆ストーム』では、そういった成長も顕著に表れている。最近のスタジオ練習では新曲に注力しているものの、既存の曲もまったくおろそかにはされていなかった。
そんな『ピーチ☆ストーム』で客の心をつかんだのちは、すぐさま『ベイビー・アピール』の持ち曲たる『境界線』に移行する。今日は一時間という制限の中で十曲を披露するつもりであるため、極力スピーディーに進行するようにと指示を出されていた。
こちらの『境界線』はユーリの持ち曲よりも勢いのあるアップテンポの楽曲であるため、舞台袖からわずかにうかがえる客席の盛り上がり様も加速する一方であった。
そうして短いMCをはさみ、けだるいイントロとともに『アルファロメオ』が開始されたところで、『ワンド・ペイジ』の面々が舞台袖に到着した。
彼らもすでに、『トライ・アングル』のTシャツに着替えを済ませている。ただ自分たちのステージを終えたばかりの彼らは、誰もが汗で髪を湿らせていた。
「どうもお疲れ様です。こっちのお客にも宣伝しておいたんで、ちょっとは流れてくるかもしれません」
西岡桔平が穏やかな笑顔で、瓜子に耳打ちしてくれた。
すると何故だか、山寺博人が西岡桔平の足を蹴っ飛ばす。タツヤとダイも似たような姿を見せていたことがあったので、瓜子は何だか可笑しかった。
ステージのユーリはマイクスタンドに抱きつくようにしながら、妖しい色香を撒き散らしている。やはりこちらの『アルファロメオ』は現在の持ち曲の中でも異色作であり、ライブのいいアクセントになっているようであった。
そうして重々しい音色でアウトロが締めくくられると、粘ついた空気を粉砕させるべく轟音のギターサウンドが奏でられる。
『それでは新曲、「ハダカノメガミ」でぇす』
『トライ・アングル・プロローグ』で初お披露目された、漆原の手による激しいほうの新曲だ。
これが先刻リュウが言っていた、ユーリの二面性を描いた歌詞であった。
すべてをさらけだしている風でありながら、「お前に理解できるかな?」と挑発する。その歌詞の内容は、そうまでユーリの実像と合致しているわけではないのだが――しかし確かに、ユーリの本質の一面はとらえているように感じられた。
ユーリもこの一年ていどでずいぶんと交流が広がり、他者への態度や姿勢というものもかなり変化してきたように思うのだが――それでもまだまだ根っこには、厄介な本性が隠されているのだ。
それは要約すると、「自分が人に好かれるわけはない・しかしそれでもかまわない」という自虐的かつ排他的な心情であった。
何せユーリは瓜子と出会った当初、あれほど懐いていたサキに対してさえ「どうせ自分は嫌われている」というスタンスであったのだ。
ユーリとサキは半年間ほど同じマンションで暮らし、その間に接触嫌悪症も発症されなくなった。あの当時、サキはユーリにとってこの世界でただひとり、何の心配もなく手に触れることのできる存在であったのだ。
だからユーリは全身全霊でサキに懐いており、むしろ瓜子を邪魔者あつかいするぐらいの有り様であった。まぎれもなく、あの頃のユーリにとってこの世でもっとも大切な存在であったのは、サキであったのである。
そんなサキに対してさえ、ユーリは「どうせ自分は嫌われている・しかしそれでもかまわない」という思いを抱いていた。
それから紆余曲折を経て、ユーリはサキに対してどのような心情を抱いているのか。瓜子も言葉ではっきりと聞いたことはない。ただユーリは、サキにとってもっとも大事であるのは牧瀬理央という少女であり、自分は身を引くべきである――などと考えているフシがあった。
まあ何にせよ、ユーリはそういうきわめて厄介なパーソナリティを有している人間なのである。
(それで厄介というか、わかりにくいのは……ユーリさんの側は、好ましく思う相手が大勢いるってところなんだよな)
プレスマン道場の関係者や女子選手の一同などに対して、ユーリは確実に好意を持っている。赤星道場やドッグ・ジムの面々に対しても、それは同様であろう。千駄ヶ谷や音楽関係の人々にはビジネスライクな面の強いユーリであるが、格闘技の関係者に対してはまじりけのない友愛を抱いているはずであるのだ。
しかしユーリは、相手に好かれることを期待していない。
自分のような人間は嫌われて当たり前という考えが、どうしても消えないようであるのだ。
しかしそれでも、自分の側が好意を抱くことには躊躇いがない。相手の心情などおかまいなしに、ユーリは一方的に好意を注いでいる――つもりであるのだ。
(でも、最初から熱烈だった邑崎さんなんかには、いまだにおっかなびっくり接してる感じだもんな)
本当に相手の心情を顧みていないのなら、愛音の熱情に辟易する理由はないはずだ。だからやっぱり、ユーリも本当は他者から忌避されることを恐れており――その恐怖から脱するために、「誰にどう思われようとかまわない」という考えに取りすがっているのではないのかと思われた。
その何よりの証拠は、やはり瓜子の存在であろう。
ユーリは確実に、瓜子にだけは嫌われたくないという切羽詰まった思いを抱いており――それゆえに、昨年のような激しい決裂と和解を果たすことに相成ったのだった。
ユーリはきっと、他者からの好意を期待して、それが報われなかったときの痛みを、極度に恐れているのだ。
(鞠山選手や灰原選手みたいにユーリさんを雑に扱うお人たちのほうが、ユーリさんは気楽につきあえるみたいだしな。反面、多賀崎選手や小柴選手みたいに生真面目なタイプには、ちょっと遠慮が出るみたいだし……本当に、難儀なお人だなぁ)
しかしそれでも、ユーリは変わりつつある。さきほどのリュウに対して気まずそうにしていたのも、ただ仕事上の相手ともめるのは困るというだけの心情ではなかったはずだ。瓜子は、そのように信じていた。
瓜子のような若輩者がこのような思いを抱くのは、本当に傲岸で僭越なのであろうが――瓜子は、ユーリの成長を見守りたいと思っていた。ユーリが健やかな人間関係を築けるように、ずっとそばから見守って、時にはフォローしてあげたいと願っているのだった。
(まあ、あたしだっておもいっきり半人前なわけだから……一緒に頑張って成長しましょうね、みたいな感じかなあ)
瓜子がそんな想念にひたっている間に、『ハダカノメガミ』は終了してしまった。
「では、いってきます」と、西岡桔平を先頭にして、『ワンド・ペイジ』の面々がステージに足を踏み入れていく。
また新たな歓声が巻き起こり、そこにユーリの声が重ねられた。
『ここで第二陣、「ワンド・ペイジ」の登場でぇす。でもセッティングの都合がありますので、その時間はユーリたちの余興でおくつろぎくださぁい』
今回も、セッティングの時間は『ジェリーフィッシュ』のアコースティック風バージョンでしのぐことになったのだ。
西岡桔平に席を譲ったダイは、物販のタオルを振り回しながらフロントに躍り出る。そうして漆原のコーラスマイクに駆け寄った彼は、とんでもない言葉を発したのだった。
『マラカスを置いてきちまったよ。瓜子ちゃん、悪いけど持ってきてくれる?』
ぽかんと自失する瓜子の鼻先に、『ベイビー・アピール』のローディーが苦笑を浮かべつつマラカスを差し出してきた。
「いやいやいや! それは自分の役割じゃないっすよね?」
「でも、ダイさんに指名されちゃいましたから。これで俺が出ていったら、ブーイングの嵐ですよ」
瓜子は途方に暮れながら、千駄ヶ谷に向きなおった。
千駄ヶ谷はこめかみに指先を添えつつ、珍しくも嘆息をこぼす。
「中山氏には、のちほど厳重注意させていただきます。マラカスをお渡ししたのちは、すみやかにお戻りください」
千駄ヶ谷にそう命じられては、瓜子に拒絶するすべはない。
まあ、ほんの数秒、ステージ上に姿をさらすだけだ。もとよりこの会場に瓜子を知る人間などほとんどいないだろうから、ここで逃げ腰になるのは自意識過剰というものであろう。
そんな風に理論武装してから、瓜子はマラカスを握りしめてステージの上におずおずと進み出たわけだが――とたんに大歓声に迎えられて、思わず立ちすくみそうになってしまった。
客席は、見渡す限り人間で埋め尽くされている。
こちらのイベントホールは一万人も収容できるという話であったが――本当に、定員いっぱいなのではないだろうか。そんな風に思えるほどの、人間の熱気と圧力であった。
(ユーリさんは、こんな場所でいつも通りに歌いまくってたのか)
これはやっぱり、並の心臓では務まらない仕事である。瓜子と愛音のメンバー加入が事前に差し止められたことを、瓜子は心から感謝することになった。
『わぁい、うり坊ちゃんだぁ。お仕事お疲れさまぁ』
ユーリは嬉しそうに笑いながら、ひらひらと手を振ってくる。そちらにぎこちなく会釈を返しつつ、瓜子はダイのもとへと歩を進めた。
『サンキュー。「トライ・アングル」のマスコットガール、瓜子ちゃんでした!』
ダイもまた、罪のない顔で笑っている。その顔にマラカスを叩きつけてやりたいところであったが、『トライ・アングル』のステージを台無しにするわけにはいかなかったので、瓜子はそそくさと退場することにした。
その帰り道で、アンプのセッティングをしている山寺博人の視線に気づく。その目もとは前髪で隠れていて判然としなかったが、どう考えてもじっとりとにらみつけられているような心地がしてならなかった。
(あたしだって、好きでのこのこ出てきたわけじゃないよ!)
舞台袖まで帰りつくと、瓜子の心臓は早鐘のように胸郭を乱打していた。
千駄ヶ谷は冷徹な面持ちで、「お疲れ様です」と瓜子の預けていたバッグを差し出してくる。
「どうにか問題なく、やりすごせたようです。しかしこちらの想定以上に、猪狩さんの存在はファンの間に知れ渡っているようですね」
「ファ、ファンって言っても、この会場はユーリさんのファンばかりじゃないでしょう?」
「それは、不明です。ですが、『ハッピー☆ウェーブ』特装版の売り上げは一万枚以上に達しましたため、本日の観客の過半数が猪狩さんの存在を見知っている可能性もゼロではないのでしょう」
瓜子は、目眩でも起こしてしまいそうだった。
そんな中、エレキギターのクリーントーンで『ジェリーフィッシュ』が奏でられる。『ベイビー・アピール』の手による『ワンド・ペイジ』の楽曲の披露ということで、会場は大盛り上がりであった。
演奏が静かめであるために、コーラスマイクを通したダイのマラカスの音色もうっすらと聞き取れる。
そこに要所要所でスネアやタムやシンバルの音が重ねられるのも、前回のライブの通りであった。
そして――驚くべきことが起きた。
『ジェリーフィッシュ』が後半に差し掛かり、ユーリの甘ったるい声に力強さが加えられると、そこに山寺博人の歌声までもが重ねられたのだ。
山寺博人は、これまで頑なにコーラスを拒否していた。マイクを通さないシャウトの他に、彼がユーリの歌声に自分の歌声を重ねたことはなかったのだ。
しかもこれは主旋律ではなく、いわゆるハモりのパートであった。『ワンド・ペイジ』の楽曲には存在しないハモりのコーラスを、山寺博人がぶっつけ本番で披露してみせたのだった。
ユーリの甘ったるくて力強い歌声と、山寺博人のハスキーで切迫感に満ちた歌声が、静かな演奏の中で深く絡み合う。
その瞬間、瓜子はぞくりとしてしまった。
自分の大好きなふたつの歌声が、突如として融合を始めたのだ。瓜子は背骨がうずうずと疼き、居ても立っても居られないような心地であった。
最後にはセッティングを終えた西岡桔平も演奏に加わり、『ジェリーフィッシュ』は完奏される。
メンバー間の会議で「余興」と銘打つことになった繋ぎの『ジェリーフィッシュ』は、そうしてこれまでと同等以上の歓声を授かることに相成ったのだった。
『じゃ、俺たちはひとまず撤退なぁ。みんな、お疲れさぁん』
『ベイビー・アピール』の面々は舞台袖に引っ込み、ステージでは『リ☆ボーン』の演奏が開始される。
その演奏に負けない大声で、漆原ががなりたてた。
「やべえな! また創作意欲をかきたてられちまったよ! この前の新曲もまだ完成してないってのにな!」
漆原の気持ちは、痛いぐらいに理解できた。さきほどのユーリたちの歌唱は、漆原と山寺博人の創作意欲をかきたてた撮影の日にも負けないぐらいのインパクトであったのだ。
(こういう不測の事態で真価が発揮されるってのは、いかにもユーリさんらしいな。……まあ今回の主犯は、ヒロさんだけど)
瓜子はむやみに心臓が高鳴ってしまい、山寺博人に責任を取ってほしいぐらいであった。
しかし彼がステージを下りたならば、また子供じみたいがみ合いが勃発するのだろう。おかしな関係に発展するよりは、まあ望ましいところである。
ステージ上では、ユーリがくるくるとステップを踏み、その手前には一心にギターをかき鳴らしている山寺博人の姿がうかがえる。
さきほどの歌声で情緒を乱された瓜子の心には、そんなユーリたちの姿がこれまで以上にくっきりと鮮烈に刻みつけられることに相成ったのだった。
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