02 出番待ち

 リハーサルの終了後は、そのまま慌ただしく本日のイベントが開催されることになった。

 昼の部は十二時ジャストのスタートで、各アーティストの持ち時間は一時間。転換で十五分の時間が取られ、終了予定時刻は午後の五時である。そしてすぐさま夜の部もスタートされて、すべての終了予定時間は午後の十時とされていた。


 昼夜ぶっ続けで八組のアーティストが出演するというだけで大ごとであるのに、しかもそれが五つのステージで同時進行されるのだ。なおかつ明日も、同じだけのステージが予定されているわけであるからして――出演アーティストの総数は八十組、観客の動員数は十万近くにも及ぶのだという話であった。


 こんな大規模のイベントに出演できるというのは、それだけで栄誉なことであろう。現在国内にどれだけのアーティストが存在するのかは知れないが、『トライ・アングル』というのはいまだに楽曲もリリースしていない、生まれたてのユニットであるのだ。とりわけユーリなどは副業として歌の仕事に勤しんでいる身であるのだから、このようなチャンスを生んでくれた『ベイビー・アピール』と『ワンド・ペイジ』にはひたすら感謝するばかりであった。


 よって瓜子も大きな感謝の念とともに、大勢の関係者がひしめく控え室でユーリの面倒を見ていたのだが――ようやく手が空いてひと息ついたとたん、どこからともなく出現した山寺博人に頭を小突かれてしまったのだった。


「いきなりのご挨拶っすね。自分に何か、不手際でもありましたか?」


「……お前、俺にムカついてんだろ。だったらハッキリ、そう言えよ」


「ムカつくって? どうしてです?」


「……俺が遅刻したからに決まってんだろ」


 山寺博人は朝に弱いようで、本日はひさびさに大遅刻をしでかしてしまったのだ。

 しかしまあ、運営スタッフの取り計らいでリハーサルの順番が入れ替えられたため、ユーリには何の害も及んでいない。よってこれは、一方的な難癖と見なす他なかった。


「別に自分はムカついてなんかいませんし、そうだとしても小突かれる筋合いはないように思うんすけど」


「そんな不貞腐れた顔されたらこっちもムカつくから、下手に内心を隠そうとするなって言ってんだよ。お前は感情がだだもれだって言ってんだろ」


「だから、ムカついてませんってば。むしろ、わけもなく小突かれたことが腹立たしいぐらいっすけど」


「ほら、ムカついてんじゃん。下手な嘘つくなよな」


「だから、違うって――」と、瓜子が本気で腹を立てそうになると、横から現れた西岡桔平がぺしんと山寺博人の頭を引っぱたいた。


「毎度毎度すみませんね、猪狩さん。……お前なあ、人様の楽屋にまで出張って、何をやってんだよ。猪狩さんと絡みたくて難癖つけてるのかって誤解されちまうぞ」


「そんなんじゃねえよ。また俺を不眠症にさせるつもりか?」


「猪狩さんとゴタつくたんびに、お前は不眠症になるのかよ? そりゃあ下手な恋心より厄介だな」


 山寺博人が不貞腐れきった顔で口をつぐむと、西岡桔平はいつもの穏やかな笑顔を瓜子に向けてきた。


「本当にすみませんね。この駄々っ子には、よく言って聞かせておきますんで。……でも、猪狩さんは何かあったんですか?」


「え? どうしてです?」


「いや、猪狩さんはちょっと元気がないのかなって、俺も少し心配してたんですよ。ヒロにはそれが、不機嫌な顔に見えたんじゃないですかね」


「ああ……」と、瓜子は赤面することになった。


「それはあの、違うんすよ。自分は会場に来るまで、五つもステージがあるなんてことを知らなくって……」


「それで何か、問題でも?」


「……『ベイビー・アピール』と『トライ・アングル』は同じステージですけど、『ワンド・ペイジ』だけ別のステージですよね。そうすると楽屋も別々になるから、モニターでステージを拝見することもできないなって……」


 誠実さの権化たる西岡桔平に嘘をつくつもりにはなれなかったため、瓜子は大きな羞恥心をさらけ出すことになってしまった。

 西岡桔平はきょとんとしてから、また笑顔となって山寺博人の頭を小突く。


「聞いたろ? 猪狩さんは、そんなことで気落ちしてくれてたんだってよ。それを誤解して難癖つけるなんて、本当に筋違いなやつだなあ」


「うるせえって。毎回毎回、俺をダシにするんじゃねえよ」


「お前が勝手に墓穴を掘って落ちてるから、そいつを助けてやってるだけだろ。まあ、お前のおかげで俺は猪狩さんに常識人認定されてるかもしれないなぁ」


「なんだよ、それ。カミさんにチクってやるからな」


「この会話も、もう何度目だかな。……それじゃあ俺たちも、自分の楽屋に引っ込みます。ユーリさんも千駄ヶ谷さんも、またのちほど」


 仏頂面の山寺博人を引っ張って、西岡桔平はこちらの楽屋から立ち去っていった。

 絶対零度の眼差しでこれらのやりとりを見守っていた千駄ヶ谷は、その眼差しに相応しい声音で瓜子に語りかけてくる。


「猪狩さん。あなたにも山寺氏にも後ろ暗い感情は隠されていないと、私自身はそのように認識しております。ですが、よからぬスキャンダルをでっちあげられないように、くれぐれもご注意ください」


「はい。ですけど、あんな険悪な姿を見せてたら、誤解のされようもないんじゃないっすか?」


「傍目には、兄妹喧嘩のように微笑ましく見える構図です。それを痴話喧嘩と誤解されないようにご注意ください」


 瓜子は万感の思いを込めた溜息とともに、「わかりました」と応じるしかなかった。

 そんな瓜子たちのかたわらで、ユーリはひとりメイクに勤しんでいる。本日はメイク係の都合がつかず、そもそもメイク係を招けるような環境でもなかったため、自力でメイクをするしかなかったのだった。


 しかし、身を飾ることが大好きなユーリは、もちろんメイクも得意にしている。持参した鏡と向き合いながら、ユーリの顔は見る見る間に魅惑的なメイクに彩られていった。


「よし、でっきあっがりー! まだまだ出番は先ですので、そのときにまたお直ししますねー」


「はい。それまではどうぞ、ゆっくりおくつろぎください」


 ユーリの出番は昼の部のトリで、予定時間は三時四十五分とされている。現在は十二時半ていどで、こちらのステージのトップバッターである『ベイビー・アピール』の演奏が折り返し地点に入ったところであった。


「小笠原選手たちも、もう客席にいるはずなんすよね。打ち上げの話は、けっきょくどうなったんでしょう」


「はてさて。どなたからもメールは来ていないようですし、真相は闇の中ですにゃあ」


「まあ、こっちのグループだけでもけっこうな人数ですもんね。意見をまとめるだけで大変そうです」


 本日来場している関係者は、八名。小笠原選手、鞠山選手、灰原選手、小柴選手、多賀崎選手、愛音、サキ、理央という顔ぶれである。昼の部のみの観戦であればチケット代も半額という話であったが、それでも五千円の出費であるのだから、ずいぶんな人数にふくれあがったものであった。


「メイさんなんかは、忘年会だけ参加するって話でしたよね。サキさんと理央さんまでチケットを買ってくれたのが、意外でした」


「うみゅ。よもや理央ちゃんは、うり坊ちゃんが水着姿で登場すると期待しているのかしらん? だとしたら、さぞかしガッカリしてしまうだろうねぇ」


 瓜子はまたほっぺたをつついてくれようかと考えたが、メイクの直後であったので勘弁してあげることにした。


「理央さんも来てくれたから、余計に合同の打ち上げってのが心配なんすよね。理央さんが強面のお人たちに怯えちゃったら、あまりに気の毒ですし……」


「ほうほう。それは心配してなかったにゃあ。理央ちゃんて、あのスイーツな外見とは裏腹に、けっこう豪胆なお人じゃない?」


「豪胆? どうしてそう思うんすか?」


「だって、ドッグ・ジムでディナーをご一緒するときでも、理央ちゃんはふにゃんと笑っておられるでせう? ユーリは『ベイビー・アピール』の方々よりも、ダニー・リー氏のほうがケタ違いに迫力満点なのではないかと思う所存でありますぞよ」


 瓜子はいささかならず、虚を突かれた思いであった。


「言われてみれば、その通りっすね。なんか、自分の迂闊さが恥ずかしいっす」


「いえいえ。それだけ理央ちゃんが、あの場に自然に溶け込んでいたということなのでありましょう。まあ、サキたんの古巣という安心感もあったのかもしれないねぇ」


 そんな風に言ってから、ユーリはくいっと瓜子の袖を引いてきた。

 瓜子が耳を寄せると、甘ったるい囁き声が注ぎ込まれてくる。


「理央ちゃんはあちこちでひどい目にあわれたというお話だったけれど、人を怖がる気配は皆無なのです。だからきっと、ユーリよりもよっぽど豪胆なのではないかと思うのだよねぇ」


 瓜子は思わず、まじまじとユーリのことを見つめてしまった。

 ユーリとて、どんな相手を恐れることもない不敵さを有している。が――瓜子は十九歳以降のユーリしか知らなかったのだった。


 ユーリの義理の父が最初によからぬ行為に及ぼうとしたのは十二歳の頃で、学校の教師に襲われかけたのは中学時代の頃であるという。

 それからユーリがどのような人生を経て、家を飛び出すことになったのか――それからユーリがどのようにして、このように明るく笑えるようになったのか――瓜子は、まったく関与していないのである。


「……そういう一面も、確かにあるかもしれませんね。でも、それならどうして自分の誕生日パーティーでは知恵熱なんて出しちゃったんでしょう?」


「それはやっぱり、喜びと期待感でオーバーヒートしちゃったのじゃないかしらん。人見知り属性の発露であったなら、お熱ではなく腹痛を発症しそうなところだしねぇ」


「実感がこもってますね」と、瓜子はユーリのカーディガンの裾をつかんでみせた。

 ユーリは「にゃはは」と笑いながら、瓜子のシャツの裾をつかみ返してくる。


「思わずシリアスな方向に舵を切ってしまったわい。今の会話は忘れておくんなまし」


「忘れたりしないし、自分はまったくかまいませんよ。そういう気分のときは、遠慮せずに何でも語ってくださいね」


「うみゃあ。ユーリもうり坊ちゃんへの愛おしさでオーバーヒートしちゃいそうですわん」


 大勢の人間が寄り集まった楽屋の中、瓜子とユーリの周囲にだけ、ふっと穏やかな空気がたちこめたような心地であった。

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