インターバル

後日談

 赤星道場とドッグ・ジムの関係は、なんとか平穏な形に落ち着きそうだ――と、そんな話を最初に伝えてくれたのは、当事者のひとりである赤星弥生子であった。


 打ち上げの夜、彼女たちはずいぶん長い時間語らっていたが、最終的にはドッグ・ジムの面々が挨拶もなく立ち去ってしまったのだ。それで瓜子が後を追いかけるべきかどうか思い悩んでいると、赤星弥生子が近づいてきてそっと耳打ちしてくれたのだった。


「今度こそ、おたがいに本音を打ち明けられたように思う。これでもなお彼女たちが赤星道場を恨もうというのなら、それはもうどうしようもないことなのだろう」


 言葉の内容は不穏であったが、赤星弥生子の表情は穏やかであった。雷光めいたオーラは緩和されて、瓜子を見やる瞳は常にないほどやわらかい輝きをたたえている。

 そして彼女は、めったに見せない子供めいた仕草でもじもじとし始めたのだった。


「さきほどは、君にもずいぶん不甲斐ない姿を見せてしまった。今度こそ、私は君に愛想を尽かされてしまったのではないだろうか?」


「そんなことはないっすよ。赤星道場とドッグ・ジムの関係が落ち着くようだったら、心から嬉しく思います」


 瓜子が嘘いつわりのない笑顔と言葉を届けると、赤星弥生子はほっとした様子で息をついた。普段の凛々しさとのギャップがすさまじい、彼女ならではの可愛らしさである。

 そして赤星弥生子はユーリのほうを振り返ると、ただ「ありがとう」とだけ告げて立ち去っていった。


「うみゅみゅ? 今のはいったい、何に対するお礼だったのかしらん?」


「さあ、何でしょう。もしかしたら……ユーリさんが犬飼拓哉さんのために泣いてくれた一件についてかもしれませんね」


 ユーリには、そもそも赤星道場とドッグ・ジムの確執に首を突っ込もうという気持ちすら希薄であるのだが――先刻の会談で転機となったのは、まぎれもなくユーリの涙であったのだ。そこから一気に主導権を握ったサキによって、両者の会談は思わぬ方向に転がり始めたのだった。


 そしてその日の打ち上げは平穏無事に終了し、翌日のことである。

 日中の副業を終えてプレスマン道場に向かうさなか、瓜子の携帯端末に大和源五郎からの着信が告げられてきたのだった。


『昨日は、お疲れさん。猪狩さんのおかげで、なんとか丸く収まったよ。とにかくそれだけは、一刻も早く伝えておかなきゃと思ってな』


「丸く収まったのなら、何よりです。でも自分なんて、横で話を聞いてただけっすよ」


『そもそも猪狩さんが世話を焼いてくれなけりゃあ、俺だってお嬢を赤星の連中のところに連れていこうなんて気にはなれなかったからな。なんもかんも、猪狩さんのおかげだよ』


「だったらそれは、最初に自分をけしかけた立松コーチのおかげっすね」


『あいつに頭を下げるのはシャクだから、猪狩さんに礼を言わせてもらうよ。……本当に、ありがとうな。次の日曜日も、是非こっちのジムに来てくれよ』


 そんな短い会話だけで、大和源五郎との通話は終了した。

 それで瓜子はプレスマン道場に到着するなり、立松に事情を説明したのだが――そちらでも、温かい笑顔とともにお礼を言われてしまったのだった。


「それなら、本当によかったよ。お前さんには、ずいぶん面倒な仕事を押しつけちまったな。いつか美味いもんでも食わせてやるから、それで勘弁してくれ」


「いえいえ、自分は本当に何もしてないんすよ。昨日だって、サキさんの独り舞台だったんすから」


「サキも大和さんも弥生子ちゃんも、みんなお前さんに動かされたってことだよ。邑崎の言う通り、お前さんの人をたぶらかす力ってのは大したもんだなあ」


「嫌だなぁ。ちっとも褒められてる気がしないんすけど」


 瓜子が子供のように頬をふくらませてしまうと、立松は心から愉快そうに笑い声をあげた。そしてそんな立松の姿を見ていると、瓜子もむやみに温かい気持ちになれたのだった。


 それから一週間の日が過ぎて、十二月の第三日曜日である。

 ドッグ・ジムの様子を確認するという意味も込めて、その日も瓜子たちは出稽古でお邪魔することになった。


 ただし本日は第三の刺客、メイも同行している。面倒な話が片付いたら自分も出稽古に同行させてほしいと、メイはかねがねそのように主張していたのだ。

 ちなみに日曜日であれば愛音もフリーであるはずだが、彼女は犬飼京菜に強いライバル心を抱いていたため、ユーリとともに出稽古をしたいという気持ちをぎゅっと押し殺していた。ああ見えて、ここぞというときにはきちんとブレーキのきく愛音なのである。


 そうして横浜のドッグ・ジムに到着してみると――そこには、これまで通りの光景が広がっていた。犬飼京菜とダニー・リーは挨拶もせずに立ち技のスパーに励み、榊山蔵人はおどおどとした会釈、そして残りの三名が笑顔で接近してくるという、もはやお馴染みのパターンである。


「よう、大和はんから事情は聞いたで。うまいこと、赤星の連中を丸め込んでくれたそうやな」


「おひさしぶりっすね、沙羅選手。でも大和さんは、絶対にそんな言い方はしないと思いますけど」


「ご明察だよ。まあ、こいつから軽口を取ったら、何も残らねえしな」


 土佐犬のように厳つい顔をくしゃくしゃにしながら、大和源五郎はそう言った。


「お嬢はああいう性格だから、口に出しては何も言わないだろうけどよ。ずっと胸に溜め込んでたもんを本人たちにぶちまけることができたから、きっともう大丈夫だ。あらためて、どうもありがとうな」


「お礼はもういいっすよ。自分はみなさん全員と仲良くなりたいっていうワガママを通しただけの話ですから」


 瓜子がそんな風に応じると、マー・シーダムが横合いから瓜子の手をひっつかんできた。


「ぼくはまだおれいをいっていなかったので、いわせてください。ぼくもウリコには、たくさんかんしゃしています。……あ、ウリコだけじゃなく、ユーリにもたくさんかんしゃしています」


「ほえ? ユーリは文字通り、なぁんにもしてないですよぉ」


「いえ。ユーリは、タクヤのためにないてくれました。……あのときは、ぼくもつられてなきそうでした」


 と、マー・シーダムはもともと柔和な顔にいっそうやわらかい笑みをたたえた。

 そこで沙羅選手が、「やれやれ」と芝居がかった仕草で肩をすくめる。


「ま、丸く収まったんなら何よりやわ。ほんなら、稽古の準備をしたらどうや? 今日は愉快なゲストさんもひっついてるみたいやしな」


「押忍。今日もよろしくお願いします」


 そうして瓜子たちも準備を整えて、三週間ぶりの出稽古に打ち込むことになった。

 リングを下りてきた犬飼京菜は相変わらずの仏頂面で、やはり立ち入った話は口にしようとしない。そしてその目は強い対抗心を燃やしながら、メイの姿をねめつけた。


「ついにそいつも来たわけね。そいつは《スラッシュ》とかいう団体の王者だったんでしょ? いったいどれだけの実力を持ってるのか、あたしが確かめてあげるよ」


 メイのほうも異存はないようで、ごく速やかに両者の立ち技スパーが繰り広げられることになった。

 が――その結果は、多くの人間の予想を裏切った。瓜子でさえ手こずる犬飼京菜を相手に、メイは開始一分でダウンを奪うことになったのである。


「い、今のはちょっと油断しただけだよ! ダメージなんて、これっぽっちもないんだからね!」


 両者は三点セットの防具を着用していたし、メイはスパーだと攻撃力をセーブする。メイはこれまでに何人ものスパーリングパートナーを壊してしまった経験があるそうで、防具の他に十六オンスの分厚いボクシンググローブを装着しない限り、決して本気で拳をふるおうとはしないのだ。


 よって、八オンスのオープンフィンガーグローブを着用するドッグ・ジムのスパーでは、メイもスピード重視で軽く当てるだけのパンチしか放たないわけであるが――スパーを再開して三十秒後には、またメイのパンチが犬飼京菜の顔面をとらえて、ダウンを奪うことになった。どうやら人並み以上にウェイトの軽い犬飼京菜には、メイの手加減をしたパンチでも十分に脅威的であるようであった。


「せやけど、そもそも京菜はんにパンチを当てるいうのは、至難の業やろ。ウチやうり坊かて苦労しとるのに、あいつは何なんやねん?」


「メイさんは、踏み込みの鋭さが尋常じゃないんすよ。ケージならともかく、リングだと犬飼さんも逃げようがないみたいっすね」


 それでけっきょく犬飼京菜は三分のスパーで四度ものダウンをもらうことになり、ほとんど半泣きでわめき散らすことに相成ったのだった。


「あたしが本気になったら、こんな結果にはならないんだからね! 次にやりあうときは、絶対にダウンを奪ってやるんだから!」


「うん。楽しみにしてる」と平坦な声で応じつつ、メイは悠然とリングを下りてきた。そうしてヘッドガードを外しつつ、ちょっと不満げな子供のような顔で瓜子に囁きかけてくる。


「キョーナ・イヌカイ、ウリコでも苦戦すると聞いてたから、期待してた。でも、期待外れだった」


「犬飼さんは、古式ムエタイの技を隠してますからね。まあ、それでも自分は苦戦させられるんですけど」


「ウリコ、苦戦するのに、僕、苦戦しない。何故?」


「いや、何故って言われても……それこそ、相性じゃないっすかね。犬飼さんは機動力が要だから、そこをフィジカルで潰されるとどうにもならないってことじゃないっすか?」


 それでもなおメイが不平がましい顔をしていると、ユーリとグラップリング・スパーに励んでいた沙羅選手が接近してきた。


「ボスとのスパーは、もうおしまいかいな? ほんなら、特攻隊長のウチがリベンジさせてもらおか。前々から、自分のことは気になってたんよ」


「自分……二人称? 日本語、難しい」


 そうして行われたメイと沙羅選手の立ち技スパーは、なかなかの見ものであった。沙羅選手はリーチでまさっている上に、空手ルーツの確かな技術と、インでもアウトでも上手く戦える器用さを有しているのだ。メイが持ち前の突進力を発揮してもなかなか打撃を当てることができず、けっきょくラウンド終了までおたがいにクリーンヒットはなしという結果であった。


「ふふん。ウチにとっては、自分よりうり坊のほうが難敵みたいやな。そら、お次はうり坊の番やで」


「押忍。よろしくお願いします」


 そんな感じで、その日も瓜子たちは充実した稽古を積むことができた。

 そして夜には、当然のようにサキと理央が現れる。今のところ、瓜子たちが出稽古におもむく際には毎回サキたちと出くわしていた。


 シャワーを終えて食堂に出向くと、テーブルには豪勢なディナーがずらりと並べられている。瓜子たちが食事をともにする回数においては、もはや赤星道場よりもドッグ・ジムの面々のほうが上回ってしまっていた。


「そら、こいつは手土産だ」


 と、食事が開始されて早々、サキがテーブルの空いていたスペースに一冊の雑誌を放り出した。何かと思えば、格闘技マガジンの最新号である。


「おー、そういえば、おとついが発売日やったな。今回の号は、人気投票の結果発表やろ? 女子選手はどういう結果やったん?」


「手土産でくれてやったんだから、手前で確認しろや。こっちはメシを食うので手一杯だからなー」


「ほんなら、お行儀悪いけど拝見しよか。うり坊らも、結果が気になるところやろ?」


「あ、いえ。自分たちは毎回、スターゲイトの上司が結果を伝えてくれるんすよね」


 そんな風に答えながら、瓜子は大いに恐縮することになった。そうせざるを得ないような結果が、そこには掲載されているのである。


「ほほー! 白ブタはんとうり坊でワンツーフィニッシュかいな。こいつは快挙やなぁ」


「そんなの、素直に喜べませんよ。パラス=アテナの騒ぎがなかったら、小笠原選手が二位をキープしてたでしょうからね」


 しかし今回、小笠原選手は六位にまで落ちてしまっていた。本年の下半期はタクミ選手としか対戦しておらず、それがああいう結果であったから、大きく順位を落とすことになってしまったのだ。

 しかし沙羅選手は膝に置いた誌面に視線を走らせながら、「いやいや」と首を振った。


「たとえ小笠原はんがあの試合に勝っとっても、うり坊の順位は揺るぎないやろ。下半期の活躍ちゅう意味では、比較にもならへんしな」


「そりゃあまあ、試合数は多かったっすけど……でも、やっぱり納得いきません」


「納得いこうがいくまいが、これがお客さんらの本音やで。……なるほどなるほど、小笠原はんが下がった分、ウチと雅はんと弥生子はんが繰り上がった格好かいな」


 その言葉に、犬飼京菜がぴくりと反応した。

 沙羅選手は、人の悪い笑みをそちらに投げかける。


「弥生子はんは、上半期が六位で今回が五位やで。京菜はんは、ここでも大怪獣ジュニアを追い抜かなあかんとちゃう?」


「ふん! 人気投票なんて、眼中ないよ!」


 犬飼京菜は、やけくそのように炊き込みご飯をかきこんだ。

 沙羅選手はにやにやと笑いつつ、また誌面へと視線を落とす。


「ま、ちょうどアトミックと赤星の対抗戦をぶちあげたタイミングやったから、弥生子はんもいっそう話題になったんやろね。で、アトミックの王者四名が上位を独占、と」


「ふうん? 猪狩さんたちはともかく、お前さんまでそんな上位なのか? ヒール役で暴れてたわりには、たいそうな結果じゃねえか」


 大和源五郎がそのように口をはさむと、沙羅選手は「ははん」と鼻を鳴らした。


「ウチは結果を残したし、チーム・フレアがぶざまに爆散する前に脱退を宣言したからやろ。京菜はんも雅はんに負けへんかったらランクインしとったかもなぁ」


「いちいちお嬢の神経を逆なでするんじゃねえよ。……他に俺たちが知ってるような選手はいるのか?」


「んー、七位が魔法少女、八位がラウラ・ミキモト、九位がバニーガール、十位が魔法少女二号やね。魔法少女の師弟コンビはロクに試合もしてへんけど、あの何やらいう動画チャンネルの効果やろな。バニーガールは……ウチの次ぐらいに色気たっぷりやから、人気が高いんやろ」


「それはきっと、アトミックで試合をできなかった灰原選手への応援票でしょうね。それで一月大会への出場が発表されたから、いっそう期待をかけられたんだと思いますよ」


「なぁるほど。で、ラウラ・ミキモトいうのは誰やねん? ウチが知らんいうことは、アトミックと無縁で階級も違う選手なんやろな」


「ラウラ選手は自分と同じ階級で、《フィスト》の王者です。アトミックをイロモノ団体あつかいして、毛嫌いしてるらしいっすね」


「ほぉん。せやったら、うり坊が《フィスト》に乗り込んでぶっ潰したれや。アトミックと《フィスト》の王者対決なら、盛り上がるやろ」


「それよりも、今はアトミックの立て直しが先決っすね。とうてい余所の団体までは手が回りません」


「せやけど、アトミックに出場もせんのに第八位いうのは、なかなかのもんやろ。出る杭は打たないと、足をすくわれるで?」


「自分も人気投票なんかに、左右されたくありません。もちろん応援してくださる人たちの存在はありがたいっすけど……いいことばかりじゃありませんしね」


 そうして瓜子が溜息をつくと、沙羅選手は「あん?」と小首を傾げた。


「そのアンニュイな溜息は、何やねん? 人気をゲットして損になることなんて、あらへんやろ」


「そんなことないっすよ。不本意な企画に引っ張り出されたりするじゃないっすか。あの忌まわしい撮影会を、もうお忘れですか?」


「なんや、まだそんなことにガタガタ言うとるんかいな。いい加減、成長せんなぁ」


 沙羅選手はにまにまと笑いつつ、大和源五郎のほうに格闘技マガジンを差し出した。


「つまり、こういうこっちゃな。往生際の悪いイノシシ娘やで、ほんま」


「おお、こりゃ目の毒だ」


 瓜子は箸を取り落とし、慌てふためいてそちらを振り返ることになった。


「な、なんすか、そのリアクションは? まさか、人気投票の結果で水着姿が掲載されたりしてないっすよね?」


「あん? 上司から連絡があったて言うてたやろ」


「じょ、上司から聞いてたのは結果だけです! ひ、人に断りもなく水着姿を掲載するなんて、ひどいじゃないっすか!」


「ひどい言うても、こいつは例の特集号んときのピンナップやからなぁ。著作権は格闘技マガジンに帰属するんちゃう?」


「わあ。ウリコ、きれいですね」


 マー・シーダムはにこやかに微笑み、榊山蔵人は真っ赤になって目をそらす。そして瓜子は、榊山蔵人以上に顔を赤くすることになった。


「ちょ、ちょっと! そんなもん、没収します! サキさん、なんてものを手土産にするんすか!」


「何を今さらオタついてんだよ。おめーのエロ画像なんざ、ネットでも見放題だろ」


「エロくありません! とにかく、没収です!」


 斯様にして、その日もいわれのない羞恥心をかきたてられる瓜子であった。

 しかしまあ、その場にはこれまで以上に和やかな空気が形成されている。犬飼京菜とダニー・リーは何も語らないまま、ただ瓜子たちの存在を許容したような雰囲気を漂わせていた。


 そうしてディナーを食べ終えたなら、帰宅の刻限である。

 今日も大和源五郎が駅まで送ってくれるというので、瓜子は素直に甘えることにした。

 そして――その帰り際に、冷徹な面持ちをしたダニー・リーがひたひたと忍び寄ってきたのだった。


「猪狩瓜子、桃園由宇莉。……少しだけ、時間をもらえるだろうか?」


 ダニー・リーが自分から語りかけてくるのは、これが初めてのことである。

 瓜子は大いに驚かされたが、大和源五郎が笑顔でうながしてくれた。


「それじゃあ俺たちは、車で待ってるからな。身体を冷やさないように気をつけろよ」


 サキはうろんげにダニー・リーの横顔をねめつけたが、そのまま無言で後部座席に乗り込んでいった。

 他の人々は表に出てきていないため、路上には瓜子とユーリとメイとダニー・リーの四名だけが残される。

 ダニー・リーは、感情のうかがえない眼差しで瓜子とユーリの姿を見比べて――そして、言った。


「……あの夜にサキが言っていた通り、俺たちは自分の無念を京菜に背負わせていたのかもしれない。……それぐらい、俺たちにとっては拓哉の存在が大きかったんだ」


「そうっすか。できれば自分も、犬飼拓哉さんにお会いしてみたかったです」


 ダニー・リーは、何かをこらえるように眉をひそめた。


「猪狩瓜子。君は、本当に……考えもなしに、そんな言葉を口にすることができるんだな」


「考えなしの言葉でしたか。不愉快にさせてしまったのなら、申し訳ありません」


「そうじゃない。今さら拓哉に会いたいなどと言ってくれる人間がいることに、驚かされただけだ」


 そう言って、ダニー・リーは深く息をついた。


「だけど、俺たちが赤星道場を恨み続けていたら……きっと拓哉は、怨霊じみた存在に成り下がってしまっていたのだろう。それを食い止めてくれたのが、君たちなのだと……俺は、そんな風に思っている」


「いえ。みなさんの心を動かしてくれたのは、サキさんですよね?」


「サキも、もちろん含まれている。あいつこそ、俺たちを恨んでもおかしくない立場であったのに、思い出したくもない過去をほじくり返して、俺たちを救ってくれたんだ」


 そうして、ダニー・リーは――鉄の仮面が無理に動くようにして、ぎこちなく微笑んだのだった。


「俺たちは、今度こそ正しい形で世間を見返そうと考えている。だからどうか、君たちにもそれを見守ってもらいたい」


「もちろんです。まずは来月の、《レッド・キング》との対抗戦ですね」


「ああ。君たちと同じ陣営で戦えることを、喜ばしく思う」


 ざんばら髪に半ば隠された痩せぎすの顔で微笑みながら、ダニー・リーはそのように言葉を重ねた。


「それで、京菜だが……京菜は俺たちのせいで、負の感情しか表にさらせない人間に育ってしまった。でも、君たちには心から感謝しているので……どうか見放さないでもらいたい」


「自分たちの周りにもけっこう素直じゃない人は多いんで、そんなことで犬飼さんを見放したりはしませんよ。ねえ、ユーリさん」


「はいはぁい。でもユーリの存在なんて、イヌカイキョーナちゃんは眼中ありませんでしょうねぇ」


「そんなことはない。君は、拓哉のために泣いてくれたからな。京菜にとって、それは何より嬉しいことのはずだ」


 そのように語るダニー・リーの瞳には、はっきりと人間らしい温かみが宿されていた。


「きっとサキも、君たちのような人間に巡りあえたからこそ、あんな優しい人間になることができたんだろう。俺では、サキを救うことができなかったから……そちらでも、感謝の言葉を伝えたいと思っていた」


「サキさんは、自分が出会った頃からああいうお人でしたよ。そんな言葉を聞かせたら、怒り狂っちゃうんじゃないですかね」


「そうだな。あいつには、何回殴られてもしかたのないことだ」


 そう言って、ダニー・リーは何の前触れもなく見をひるがえした。


「引きとめてしまって、悪かった。また会える日を楽しみにしている」


 黒ずくめの格好をしたダニー・リーの姿が闇に溶け、そのまま建物の入り口に消えていった。

 瓜子はふっと息をついてから、のほほんとしたユーリの顔を見上げる。


「今日はお礼尽くしの一日でしたね。自分なんか、本当に何もしてないんすけど」


「うり坊ちゃんはそこにそうして存在するだけで周囲の人々にパワーを与える、歩くパワースポットのごとき存在なのでありましょう。その恩恵にもっともあずかっているのは、このユーリちゃんでありますからねぇ」


 ふにゃんと笑いながら、ユーリはそう言った。


「ではでは、帰還いたしませう。たっぷりお稽古してたっぷり栄養補給したから、ユーリはすっかりおねむさんなのです」


「食べてすぐ寝たら牛になりますよ。……あ、もう手遅れでしたか」


「うにゃー! うり坊ちゃんだって、ホルスタインカラーのお水着がトレードマークのくせにぃ!」


 そうしてやいやい騒ぎながら、瓜子たちも古びたワゴン車に乗り込むことになった。

 今年の終わりを目前にして、瓜子は大きな山を乗り越えたような気持ちである。

 赤星道場の面々もドッグ・ジムの面々も、まだ出会ってから数ヶ月の仲であるというのに――瓜子の胸には、得も言われぬ充足感が満ちてしまっていた。


(あたしって、こんなにおせっかいな人間だったかな)


 そんな思いが頭をかすめたが、瓜子は気にしないことにした。

 これはきっと、おせっかいをしたくなるような相手がたくさん増えただけなのだ――と、そんな思いのほうがよほど大きく、瓜子の心を満たしていたのである。

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