04 憎まれ役

「ご挨拶が遅れて、申し訳ない。今の赤星道場の責任者は私なので、何か問題が生じたのなら私が責任を取らせていただきたい」


 そんな堅苦しい言葉を口にしながら、赤星弥生子は父親の隣に膝を折った。

 そのすらりとした長身には、雷光めいた青白いオーラが纏わりついている。若武者めいたその顔も、これ以上もなく張り詰めてしまっていた。


「なんだよ、お前。後から出てきて、偉そうにすんなよな」


 娘に引っぱたかれた頭をさすりながら、赤星大吾は子供のようにすねた口調でそう言った。

 赤星弥生子は切れ長の目を鋭くすがめながら、そちらをねめつける。


「こちらの方々はお前に話があるのだと聞いたので、私も出しゃばらずにいようと考えた。しかし何やら不穏な雰囲気であったので、仲裁に出向いたまでだ」


「仲裁が聞いて呆れるよ。余計に話がこじれるだけじゃねえか」


「……私は、お前とは違う」


 赤星弥生子はそのように言い捨てるなり、両方の拳を床について――そして、深々と頭を垂れたのだった。


「犬飼京菜さん。私は先日、君に失礼な口を叩いてしまった。頭を下げたていどで許されるとは思わないが……それでもどうか、詫びさせてもらいたい」


「……なんだよ、それ? いったい、なんのつもりなのさ?」


 赤星大吾とのやりとりで爆発寸前の状態になっていた犬飼京菜は、片方の膝を立てたまま険悪に問い質した。

 赤星弥生子は頭を下げたまま、静かな声音で答える。


「かつて試合会場で、君たちと出くわした際のことだ。赤星道場を敵視する君に対して、私はすべての責任を父に押しつけ、私やすみれには関係ないことだと一蹴してしまった。その間違いを、ここで正したく思う」


「……とりあえず頭を上げなよ。いったい何がどう間違いだったっていうんだい?」


 大和源五郎の言葉に応じて、赤星弥生子は頭を持ち上げた。


「私は父から赤星道場と《レッド・キング》を受け継いだ。言わば私は、父の築いた栄光を何の苦労もなく手中にしたようなものだ。それならば、過去に生じた確執について知らぬふりを決め込むことなど、決して許されないだろう。……この数ヶ月で、私はそのように思いなおしたのだ」


「ふうん。だけど、拓哉の扱いに関してなんて、お前さんは無関係だろう? あの頃のお前さんはまだ餓鬼で、ひたすら稽古に打ち込んでるだけだったんだからよ」


「しかしそれでも、私が赤星道場の責任者であることに変わりはない。こいつ――父は道場からも格闘技の世界からも身を引いたのだから、私がすべての責任を負うのが当然なのだろうと思う」


 張り詰めた声で言いながら、赤星弥生子は再び頭を垂れた。


「犬飼京菜さん。君がお父上への冷遇に腹を立てているのなら、私に詫びさせてもらいたい。ただ、すみれやナナには一切責任のないことだ。どうか、すべての怒りは私ひとりに向けてもらいたい」


 犬飼京菜はぎりぎりと歯を噛み鳴らすばかりで、何も答えようとしない。

 大和源五郎はそのほっそりとした肩を優しく押さえながら、感情のうかがえない声で言った。


「そいつは殊勝な物言いだがな。事情も何も知らないまま、ただ責任をひっかぶるって言われても、こっちは挨拶に困るだけだぜ」


「事情とは? 父と犬飼拓哉さんが険悪な仲であったことは、私もこの目で見届けている。父は拓哉さんに中量級への転向を強制しようとしていたが、拓哉さんがそれを肯んじなかったというのだろう? それ以外に、何か裏事情でもあるのだろうか?」


 そう言って、赤星弥生子はすっと上体を起こした。


「当時の私は父や兄に追いつきたい一心で、ひたすら稽古に明け暮れていた。だから、父にまつわる揉め事などに心を向けるゆとりもなく、拓哉さんとも距離を取っていた。拓哉さんが孤立感や疎外感を覚えていたというのなら、私も立派な当事者だ。それでも詫びる資格がないと仰るのだろうか?」


 赤星弥生子の言い分は、ごく真っ当であるように感じられた。

 しかし――何がどうとは言えないのだが、瓜子にはどこかしっくりこないように感じられる。それに、犬飼京菜は話が進めば進むほど凶悪な形相になってしまっているし、大和源五郎はずいぶんもどかしげであるように見えてならなかった。


(そもそも大和さんは、もう憎しみを原動力にするのはやめにするって言ってたんだから……赤星道場に悪人なんていないってことを、犬飼さんに伝えようとしてたはずなんだ)


 赤星大吾も赤星弥生子も決して悪人ではないし、両者ともしきりに「自分の責任だ」と言っている。

 しかしやっぱり、何かが足りていないようだった。


「だけどお前は、けっきょく拓哉と大して交流もなかったんだからな。ここはやっぱり、俺が頭を下げるのがスジだろうよ」


 赤星大吾がそのように言いたてると、赤星弥生子は冷たい迫力をはらんだ眼差しでそちらを見据えた。


「そちらはそちらで、いくらでも頭を下げるがいい。しかし、犬飼京菜さんは赤星道場に確執を抱いているのだから、今の責任者である私が他人顔を決め込むことは許されまい」


「いや、だけど……」


「だけどではない。お前はすべてを捨て去ったんだから、何も口出しする資格はないはずだ」


 赤星弥生子は凍てついた刀のような声音で、父親の言葉を断ち切った。

 その苛烈な姿に、大和源五郎は深々と息をつく。


「赤星弥生子さんよ、お前さんは……ずいぶん父親と違う方向に育ったみたいだな」


「無論、このような父親では反面教師にするしかないので、それが必然なのだろうと思う」


「ぷはっ」と空気の抜けるような音がして、瓜子の背筋を粟立たせた。

 それは、ユーリが笑いをこらえかねた呼気であったのだ。ユーリは慌てふためきながら、そのふくよかな唇を両手でふさいだ。


「ごめんなさぁい。弥生子殿のお言葉が、ちょっぴりツボにハマってしまって……どうぞどうぞ、ユーリにはかまわずお話をお続けくださぁい」


 その場には、瓜子が逃げ帰りたくなるほどの張り詰めた空気がたちこめ――

 そしてそれが、「ぎゃはは」という無遠慮な笑い声によって、木っ端微塵に粉砕されたのだった。


「お、おめーなあ、こんなドシリアスな場面で、天然かましやがって……」


 笑っているのは、サキであった。

 あのサキが、腹を抱えて大笑いしているのだ。

 瓜子は呆気に取られてしまい、ユーリは気恥ずかしそうに「にゃはは」とピンク色の頭をかく。


 しばらくは、誰もが信じ難いものでも見るような目でサキを見やっていたが――やがてダニー・リーが「おい」と冷徹な声で呼びかけると、サキは切れ長の目に浮かんだ涙をぬぐいながら笑い声をひっこめた。


「あー、歳の暮れに一年分笑わせていただいたぜ。やっぱ笑いってのは、緊張と緩和が生命ってこったなー」


「……おい」


「うるせーよ、細目野郎。それだけおめーらの確執は、他人様にはどうでもいいってこったろうがよ」


 そんな風に応じながら、サキはすかさず犬飼京菜のほうにストッピングの手を上げた。


「おっと、噛みつくなよ、ジャリ。おめーにとっては死んだ親父の話なんだから、笑い飛ばせねーってのは重々承知してるよ。その上で、他人様にはどうでもいいってこった」


「……だったら、関わらないでよ」


 犬飼京菜は肩を震わせながら、絞り出すような声で言った。

 怒るよりも、大泣きしてしまいそうな気配である。サキは赤黒まだらの髪を引っかき回しながら、その姿を正面から見つめた。


「おめーらは他人様を関わらせなかったから、そうまで思い詰めることになっちまったんだろ。ここでアタシらを排除したら、またしょーもねー悪循環のループに逆戻りだ。死んだ親父を成仏させてーなら、いい加減に覚悟を決めやがれ」


「覚悟ってなぁ、なんの話だよ?」


 大和源五郎が静かに問い質すと、サキはいつもの調子で「はん」と鼻を鳴らした。


「犬飼と赤星の確執なんて、ガキの喧嘩と同レベルだって現実を認めろって話だよ。要するに、そいつらの親父はどっちも短気な大馬鹿だったから、くっだらねー話で喧嘩別れすることになったってだけの話だろ。アタシもまさか、ここまで底の浅い話だとは思ってなかったぜ」


「サキ。お前だって、京菜がどれだけ苦しんでいたかは知っているはずだ。それを知りながら、お前は京菜を茶化そうというつもりか?」


 ダニー・リーが絶対零度の声音で、そのように言いたてた。

 サキは顔をしかめながら、「うるせーよ」と言い捨てる。


「おめーらがそんな風に深刻ぶるせいで、そのガキんちょは余計に思い詰めることになったんだろ。おめーらにガキんちょの復讐心を笑い飛ばせる度量があったら、こんな風にはならなかったんだよ。ったく、どいつもこいつも役に立たねージジイどもだなー」


「サキさん。それでも君は、部外者だ。部外者がそのように茶化したら、犬飼京菜さんだって居たたまれないだろう」


 赤星弥生子が落ち着いた声で掣肘すると、サキはまた「はん」と鼻を鳴らした。


「ところがどっこい、アタシだってこいつらのオンボロジムの世話になってた身なんだよ。おめーが当時から関係者だって言い張るんなら、アタシだって立派な関係者だろ」


「君は、ドッグ・ジムの門下生だったのか?」


 赤星弥生子は、びっくりしたように目を見開いた。いつも沈着な彼女には珍しい表情である。


「ああ。だけど当時のアタシはこいつらに負けねーぐらいウジウジしてたから、クソの役にも立たなかった。手前のことで手いっぱいだったってのも、本当のところだしなー」


 そう言って、サキは強い眼光でその場にいる面々を見回していった。


「だけど、その頃のアタシは中坊のクソガキだったんだ。それは、おめーも一緒だろ? で、そこのちびタコは今もれっきとしたクソガキだ。ガキが道理をわきまえてねーからって、非難されるいわれがあるか? 悪いのは、ガキみてーに喧嘩してたおめーらの親父だろ」


 その親父の片割れたる人物が、苦笑しながら声をあげた。


「それはまったくその通りだよ。だからこうして、俺も詫びに出向いてきたんだがな」


「おめーは何も詫びてねーだろ。へらへら笑いながら、昔語りをしただけじゃねーか。ったく、でけーだけで役に立たねー親父だな」


 そんな風に言いたてながら、サキはいきなり瓜子をにらみつけてきた。


「瓜。おめーはどう思う?」


「え? ど、どう思うと仰いますと?」


「このビア樽ジジイの昔語りを拝聴して、どう思ったかって聞いてんだよ。真人間の代表として、素直な心情をきりきり語ってみせやがれ」


 瓜子は大いに困惑させられたが――しかし、返事に困ることはなかった。


「……自分は、切ないっすよ」


「何がどう切ねーってんだよ? このうすら馬鹿どもにも理解できるように、嚙み砕いて説明しやがれ」


「ですから、その……犬飼拓哉さんっていうお人は大吾さんを目標にして、いつか試合で倒したいっていう一念だったんでしょう? でも、大吾さんはそんな拓哉さんの心情にも気づかないで、中量級への転向をうながして……それで、拓哉さんに恨まれることになったんですよね。そんなの、切ないじゃないっすか」


「にゃー!」と、ユーリが雄叫びをあげた。


「それはつまり、ユーリがベル様に軽量級への転向をおすすめされるようなものではありませぬか! しかもベル様には何の悪気もなく、至極ナチュラルにユーリの存在がアウトオブ眼中という状態なのでありますね?」


 と、ユーリはとろんと垂れた目にじんわりと涙を浮かべたのだった。


「それで憧れの思いが恨みの思いに転化してしまうなんて、あまりに切ないのです……! ユーリは今! ようやくイヌカイキョーナちゃんのお父上の無念を理解できたような気がしますぞよ!」


「ユ、ユーリ様。何も、ユーリ様がお泣きになられることはないのです」


 愛音が慌てふためいて、自前のハンカチをユーリに手渡す。

 それで涙をぬぐいながら、ユーリはぷるぷると頭を振る。


「そんな話、涙せずにはいられないよぉ。だってユーリも去年の春までは、全然勝てないへっぽこアイドルファイターだったもの。あの頃にベル様と出会って、そんな仕打ちを受けていたら……ベル様を恨むことにはならなくても、自分が頑張ってきた時間は何だったんだろうって、ココロを木っ端微塵にされちゃうに決まってるし……」


 そう言って、ユーリはキッと赤星大吾をにらみつけた。


「赤星大吾殿は、ひどいのです! あなたのデリカシーのなさが、すべての引き金であったのです! ユーリは猛省をうながしたく思うのです!」


「だから俺も、恨むなら俺ひとりにしてくれって言ってるんだよ」


 赤星大吾は困ったように笑いながら、髭もじゃの顔を撫でさすった。

 するとサキが、「ターコ」と罵倒する。


「そこでおめーがへらへらすっから、話が進まねーんだよ。憎まれ役を買って出るぐれーの器量はねーのか、おめーにはよ」


「憎まれ役って言われてもなあ。俺はすべて、正直に話したろ?」


「おめーの独りよがりの昔語りをな。おい、大怪獣親子。おめーらは似ても似つかねー外見と性格だけど、根っこの部分が一緒なんだよ。おめーらは、自己完結しすぎてんだ。手前がすべての責任をかぶればいいっていう考えにあぐらをかいて、これっぽっちも他人様の心情を慮ってねーんだよ」


「私は、何が至っていないのだろうか?」と、赤星弥生子がサキのほうに膝を進めた。


「確かに君の言う通り、私は不出来な人間だ。あまりに不出来すぎて、自分に何が足りていないのかもわからない。君が何がわかっているのなら、それを教えてほしく思う」


「……おめーらはな、心の中身まで頑丈すぎるんだよ。だから、どんな理不尽な目にあっても、全部呑み込んじまう。人間様には、それが本音を隠してるように思えちまうんだよ」


 赤星弥生子はいまひとつ理解できていない様子で、眉をひそめた。

 サキは溜息をつきつつ、言葉を重ねる。


「だったらアタシが、憎まれ役を買ってやるよ。……おい、ガキんちょ。おめーはこれでも、赤星の馬鹿どもを恨もうってのか? 親父同士の喧嘩なんざ、どっちもどっちの話だったろ。おめーの親父が本音をぶちまけてりゃあ、話がこじれることもなかったんだろうからな。これで赤星を恨んでも、逆恨みにしかならねーだろ」


 犬飼京菜はぎゅっと唇を噛みながら、サキの顔をにらみ返した。

 しかし、何も言い返そうとはしないし――そんな犬飼京菜のことを見つめるサキの目にも、鋭さというものは皆無であった。


「ついでに大怪獣ジュニアのほうは、親父の栄光を受け継いだなんざ言ってやがったが、そんなもん重荷にしかならねーだろ。それでこいつは《レッド・キング》っつー存在に縛られて、十年以上もひきこもることになっちまったんだからな。世間では八百長ファイター呼ばわりで、ついた仇名は裏番長だ。表舞台に出れもしねーで、集客二百人ていどのマイナープロモーションで、十年以上も細々とやりあうしかなかったんだぞ。しかも、野郎連中との試合なんていうリスクを背負ってな。こんなもん、何が栄光だっつーんだよ?」


「…………」


「だけどそいつは、自分で選んだ道だ。こいつは自分が脚光を浴びるより、道場や興行を守ることに腐心してるんだよ。こうやって馬鹿騒ぎしてる仲間や場所を守りたくって、歯を食いしばって苦労を背負ってんだ。まったく、健気なもんじゃねーか。こんなやつを恨んだって、おめーの格が下がるだけだよ」


「じゃあ……」と、犬飼京菜は小さな声を振り絞った。

 その目に、大きな涙の粒が浮かんでいる。


「じゃあ、あたしはどうすればいいの……?」


「おめーが世間を見返してーってんなら、これまで通りアホみてーに稽古をすりゃいいだろ。大怪獣や鬼どものジュニアをぶっ倒してーんなら、好きにすりゃいいさ。おめーの親父がこいつらの親父どもにかなわなかったってのは、まぎれもなく事実なんだからな。それが無念だってんなら、好きなだけつけ狙えよ」


「それなら、今までと変わらねえな」と、大和源五郎が静かな声でつぶやいた。

「変わらねーよ」と、サキも落ち着いた声で応じる。


「打倒・赤星を掲げるってのは、何も悪いこっちゃねーだろ。赤星の女どもは、どいつもこいつもいっぱしの実力者なんだからな。実に立派な目標じゃねーか。……ただ問題は、どういう心意気で挑むかってところだろ。何せおめーらは、赤星道場がどれだけ落ちぶれたか証明してやるなんて息巻いてたんだからよ。そんな話、身内でもなけりゃあ容認できねーだろ」


「他者の容認など、俺たちは求めていない」


 ダニー・リーが冷たい声音でつぶやくと、サキはとたんに怒気をあらわにした。


「おい、瓜。アタシは手が届かねーから、その細目野郎の頭を引っぱたいとけ」


「そ、それはちょっと、勘弁願います」


「あのなー、細目野郎。おめーらのそういう陰気くせー部分が事態を悪化させたんだって、なんべん言やあわかるんだよ? 他人様をおろそかにしてきたから、おめーらはこんなざまになったんだろ? 身内だけで結束を固めて、それで満足か? それでおめーらがくたばった後はどうなるんだって、なんべん言わせるつもりなんだ? おめーらは、手前の無念をそのガキんちょにおっかぶせて――」


 黒い風が、瓜子の鼻先を通り過ぎた。

 ダニー・リーが足もとに広げられた皿やグラスを跳び越えて、サキの胸ぐらを引っつかんだのである。


「……拓哉を知りもしないお前が、知った風な口を叩くな」


「ああ。アタシはその親父が死んだ後に、入門した身だからな。だからアタシも、本当の身内にはなりきれなかったんだよ。何せおめーらは、その親父の存在を中心に据えて、がっちり結束を固めてやがったからよ」


 サキは激した様子もなく、そのように言い返した。

 赤星弥生子が鋭い表情で膝を立てているが、そちらを手で制しつつ、サキはさらに言いつのる。


「おめーらは、また他人様を拒絶すんのか? 犬飼拓哉って親父と深く関わってない人間は、おめーらとつるむこともできねーのか? そこの牛なんざ、見たこともねー親父のために泣いてみせたんだぞ? おめーらだって怪獣親子とおんなじで、これっぽっちも他人様の心情を慮ってねーんだよ」


 ダニー・リーは表情が乱れるのをこらえるように、ぐっと肩を震わせる。

 サキは「へん」と鼻を鳴らして、ダニー・リーの骨ばった指先を胸もとから引き剥がした。


「そんなに犬飼拓哉って親父に心酔してるなら、ちっとはその生きざまを見習いやがれ。その親父は、どういう心情でこのビア樽親父をつけ狙ってたんだよ? この化け物みてーな存在をいつかぶっ倒したいって一心だったんだろ? それとも、自分をないがしろにした赤星道場や《レッド・キング》をぶっ潰したいとでも抜かしてたのか? そいつがそんなゲス野郎だったら、おめーらがそうまで心酔するとは思えねーけどな」


 ダニー・リーはだらりと手を垂らし、くずおれるようにして元の場所に腰を下ろした。

 サキは長い前髪をかきあげつつ、怪獣親子へと視線を飛ばす。


「いい加減に喋り疲れたぜ。あとは手前らで何とかしろや」


「うん。サキさんのおかげで、理解できたよ。確かに俺たちは、自分が責任をかぶりゃあそれでいいって考えにあぐらをかいてたんだろうな」


 赤星大吾はしみじみと言いながら、犬飼京菜のほうに向きなおった。

 犬飼京菜は大きな目に大きな涙を溜めながら、じっと歯を食いしばっている。


「犬飼京菜さん。俺は自分の気持ちを押しつけるばっかりで、君の話をこれっぽっちも聞こうとしなかった。よければ、今度は君の話を聞かせてもらえないか?」


「…………」


「その前に、軍造と芳治も呼んでおこうか。俺たちは、もっと拓哉や君のことを知るべきだと思うんだ」


 犬飼京菜は押し黙ったまま、何も答えようとしなかった。

 その目には、まだまだ反感の火が燃えあがっていたが――もはや人喰いポメラニアンの形相ではない。それは身内にだけ見せる、すねた幼子のような顔つきに他ならなかった。


(やっぱり部外者の自分じゃあ、なんの力にもなれなかったな)


 そんな思いを込めて、瓜子はサキのほうを振り返った。

 すると、長いリーチでこめかみを小突かれる。


「ったく。おめーのせいで、また熱弁をふるうハメになっちまったぜ。このオトシマエは、いずれつけてもらうかんな」


「え? どうして自分のせいなんすか?」


 サキは怖い顔をして立ち上がり、瓜子のこめかみに軽く頭突きをくれてから、囁き声を耳の中に注ぎ込んできた。


「部外者のおめーがそうまで世話を焼こうってんなら、知らんぷりはできねーだろ。アタシはこれでも、関係者の末席なんだからよ」


「そうっすか。自分はサキさんに惚れなおしましたよ」


「……だから、イノシシハーレムなんざ御免だって言ってんだろうがよ」


 サキはぐりぐりと、額で瓜子のこめかみを圧迫してきた。

 ユーリは「イチャイチャ禁止ー!」とわめきながら、サキのシャツを引っ張っている。


 稽古場の他の空間では、いよいよ宴もたけなわの様子であった。

 先刻などはサキがダニー・リーにつかみかかられていたのだが、それを気にとめた人間もいない様子である。何せ稽古場のそこかしこでは、酔っ払い同士でグラップリング・スパーまがいの行いに興じていたり、もっと真面目にサブミッションの実地考察に取り組んでいたりする騒ぎであったのだった。


 そんな中、赤星大吾に呼ばれた大江山師範代と青田コーチが、のそのそと近づいてくる。しかもそのかたわらには、それぞれの娘さんまで同行していた。

 犬飼拓哉と同時代を生きた人々とその子供たちが、あらためて語り合うことになったのだ。

 もはや部外者の出る幕はないだろう。瓜子はユーリたちをうながして、それらの人々に席を譲ることにした。


 数年間にわたる不和の関係が、この一夜で解消されるかはわからない。

 ただこれは、それを解消するための貴重な一歩になるはずであった。

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