05 奇妙な晩餐会

 それから、およそ一時間後――ドッグ・ジムに集結した面々は、同じ建物にある食堂でディナーを囲むことになった。

 ドッグ・ジムの関係者が六名に、出稽古でお世話になった瓜子とユーリ、そして突然の来訪者たるサキと理央――実に珍妙な顔ぶれである。


 しかしまあ、瓜子とユーリは当初の計画の延長上であるのだ。だからやっぱり、調和を乱しているのはサキと理央の両名に他ならなかった。

 サキはもともとドッグ・ジムに通っていた身であるが、それは六年ばかりも前の話であるし、最後は喧嘩別れをしたのだと聞いている。それで今回も同行を願った際には「殺すぞ」というお言葉をいただいていたのに、いきなり妹分の理央を引き連れて来訪してくるというのは、あまりに意図が不明であった。


「へー。あのサキいうねーちゃんは、ドッグ・ジムの一員だったんかいな? そいつは初耳やったわ」


 サキがキッチンに引っ込んだのち、沙羅選手はそのように言っていた。この夏に入門した沙羅選手は、サキの話など何ひとつわきまえていなかったのである。榊山蔵人も入門は今年に入ってからということで、それは同様であった。


 そして、古株である他の面々は――サキがキッチンに姿を消した後、その名を口にすることもなかった。大和源五郎がただひと言、「お前さんも手伝ってこい」と榊山蔵人に命じたのみである。

 それも何だか、奇妙な話であった。喧嘩別れをした相手が六年ぶりにいきなりやってきて、食事の準備を始めようとしているのに、まるで黙殺しているのである。特に、直情的な犬飼京菜がぴたりと口をつぐんでしまったのが、何より不思議なところであった。


 しかしまた、中途半端な関係者である瓜子たちが口を出せるような雰囲気でもない。それで瓜子たちもサキの件には触れぬまま、一時間ばかりもトレーニングを続けることに相成ったのだった。


 そうして午後の六時になったならば、簡易シャワーをお借りして身なりを整える。それから食堂まで案内されると、そこにはサキ流の素晴らしいディナーが準備されていたのだった。


「わぁい。サキたんのひさびさの手料理だぁ。どれも美味しそうだねぇ」


 ユーリはひとりではしゃいでいたが、そのディナーの豪華さがいっそう奇妙な空気を作りあげていた。

 しかしまあ、立派なディナーであることは事実である。メインとなるのは鍋物であったが、そちらもトマトとチーズを使ったイタリアン風で、いかにも小洒落ていた。他にもチキンとアスパラガスのソテーやキノコたっぷりのピラフや手作りドレッシングの添えられた生野菜サラダなど、サキの手腕が如何なく発揮されていたのだった。


「こいつはずいぶん凝ったメシだな。レストランにでもさまよいこんだ気分だぜ」


 苦笑しながら、大和源五郎が着席する。

 食器を並べていたサキは、小馬鹿にしきった様子で「はん」と鼻を鳴らした。


「こんな小きたねーレストランがどこにあるんだよ。ドヤ街の酒場がいいところだろ」


 確かに料理は立派であったが、この食堂の有り様はなかなかのものであった。コンクリの打ちっぱなしである壁や床には黒いしみが浮いており、並べられている長テーブルや椅子も骨董品のように古びてしまっている。なおかつ、椅子の数が足りないものだから、テーブルの片面には大きな棚のようなものが横たえられて、穴の空いたカーテンなどが敷かれている始末である。


(きっとここは、閉鎖された工場だか倉庫だかをジムに改装したんだろうな。それで、この部屋は……従業員の休憩室ってところか)


 そんな想念を浮かべつつ、瓜子は謎の棚らしき物体に座らせていただいた。六脚の椅子は本来の所有者たちにお譲りして、外来者たる瓜子たちがそこに座る他なかったのだ。瓜子の左手側に座っていた理央がもじもじしていたので、瓜子はそちらに笑いかけてみせた。


「おひさしぶりです、理央さん。この前は、ご来場ありがとうございました」


 理央は恥ずかしそうに、「あい」と首肯する。口のほうもずいぶん麻痺が取れてきていたが、その口調はまだまだ幼子のようにたどたどしかった。


「この料理、理央さんも手伝ったんすか? すごいっすね」


「あい。れも、りおはかんたんなことしかしてないれしゅ」


 と、理央はいっそう恥ずかしそうに身をよじる。

 相変わらず、妖精のように可愛らしい姿である。ユーリに負けないほど色が白く、温かそうなセーターから覗く首や手の先はびっくりするほど華奢な作りをしている。ただその瞳は明るく輝いていたし、会うたびに表情は豊かになっていた。それに、手術のために剃ってしまった頭もようやく小柴選手ぐらいのショートヘアにまで復活して、やわらかそうな栗色の髪を人目にさらせるようになっていた。


 いっぽうサキは、赤星弥生子にも負けない気迫と凛々しさを醸し出しつつ、傲然と座している。また、サキはこの一年と数ヶ月、散髪も染髪もしていないらしく、セミロングになった髪の下半分だけが血のように赤いという独特のビジュアルになっており、それがいっそうワイルドさを際立てていた。


(……前にも思ったけど、やっぱり沙羅選手とは全然似てないよな)


 瓜子はかつてサキと決裂してしまったとき、自分が沙羅選手に親しみを覚えるのはサキの面影を追っているのではないかと疑ったことがあったのだ。しかし、切れ長の目や高い鼻梁や薄い唇やシャープな面立ちや、ふてぶてしい態度や人を食った毒舌家というさまざまな共通点を持ちながら、両名はまったく似ていなかった。不愛想でめったに笑顔を見せないサキと、いつでも陽気で朗らかな沙羅選手であるので、そういう内面の相違がまったく異なる印象を生み出すのだろうと思われた。


「ほーん。ほんまに豪勢なディナーやな。毎度毎度のチャンコ鍋には飽き飽きしとったから、ありがたい限りやで」


 シャワーで湿った髪をポニーテールにした沙羅選手が、笑顔で瓜子の正面に座した。他の面々は無言で着席し、最後に腰を下ろした犬飼京菜がじろりとサキをねめつける。


「で……これは、どういうつもりなの?」


「どういうつもりもへったくれもねーよ。腹が減ったから、メシの準備をしただけのこった」


 犬飼京菜がさらに声をあげようとすると、沙羅選手が手をあげてそれを制した。


「とりあえず、しゃべくりは食べながらにせえへん? せっかくの料理が冷めたら台無しやし、そんな手短に済む話でもあらへんのやろ?」


「そうだな。こいつはうちの材料で作られたもんなんだから、俺たちには食う権利があるだろう。お嬢、栄養補給を始めようぜ」


 大和源五郎も加勢したので、犬飼京菜は仏頂面で押し黙った。

 沙羅選手はにんまり笑って、ユーリに向きなおる。


「よし。ほんなら、空気の読めない白ブタちゃんに、号令をかけてもらおか」


「はいはぁい。白ブタちゃんじゃないけど、承りましたぁ。すべての食材と作ってくださったみなさまに感謝の念を捧げつつ、いっただきまぁす」


「いただきます」と復唱したのは、瓜子と理央、榊山蔵人とマー・シーダムの四名のみであった。

 そうしてしばらくは、食器のふれあう音や咀嚼音だけが響きわたる。そんな時間が三分ほども過ぎてから声をあげたのは、やはり沙羅選手であった。


「今度は、どっちもだんまりかい。なんやら、おこちゃま同士の喧嘩に巻き込まれた気分やな」


「……そうだな。そろそろ、このような真似をする理由を聞かせてもらおうか」


 ダニー・リーが、冷徹な声でそのように言いたてた。


「サキ、お前がこのジムを去ったのは、もう六年も前のことだ。その頃のお前は、まだ十六歳にもなっていなかった。あれから何か心境の変化があって、このような真似に及んだということか」


「うっせーな。それじゃあおめーは、アタシがこのジムを辞めた理由を他の連中に説明したのかよ?」


 ダニー・リーが口をつぐむと、チキンのソテーをかじっていた大和源五郎が「はん」と鼻を鳴らした。


「俺たちは何も聞いちゃいないが、まあ見当はついてるよ。どうせ、犬も食わない何とやら、だろ?」


 とたんに、犬飼京菜が「何それ?」と眉を吊り上げた。


「源爺たちは、こいつが辞めた理由を知ってたってこと? なんでそれを、あたしに教えてくれなかったの?」


「その頃のお嬢は、まだ十歳かそこらだろうが? 小学生には、ちょいと理解が難しい話だったんだよ。……で、それ以降はサキの名前を出すのもタブーな雰囲気になっちまったしな」


「だったら、教えてよ! あたしはもうガキじゃないんだから!」


 犬飼京菜はパイプ椅子に座ったまま、地団駄を踏んだ。

 サキは赤黒まだらの髪をかき回しつつ、「牛、瓜」と言い捨てた。


「こっからしばらくの記憶を、抹消しろ。この言いつけを破ったら、尻が四つに割れるまで蹴り飛ばしてやっからな」


「えー?」とユーリが不満げな声をあげかけたので、瓜子は慌ててその耳に囁き声を届けることになった。


「この場の話を聞かなかったことにして、今後絶対口にするなってことっすよ。それぐらいなら、ユーリさんも約束できるでしょう?」


「あー、そゆこと? 記憶消去のスキルなんて持ち合わせてないから、どうしようかと思っちゃったぁ」


 瓜子とユーリの密談など知らぬ顔で、サキは静かに語り始めた。


「……あの頃のアタシは、そこのクソガキに負けないほど根性のひん曲がったクソガキだった。施設の連中はクソみたいなやつばかりだったし、学校でも施設育ちの人間はハブられてたからな。毎日毎日イラついて、気に食わない野郎どもを叩きのめすぐらいしかやることもなかった。……だからこそ、おめーらみたいな連中と気が合っちまったんだろうよ。このジムは、社会不適合者の巣窟みてーな場所だったからな」


 犬飼京菜はぎゅっと口をつぐんだまま、サキの言葉に聞き入っている。

 コーチ陣の三名はそれぞれの気性に見合った表情でサキと犬飼京菜の姿を見守っており、榊山蔵人はおどおどと目を泳がせて――ただひとり、沙羅選手だけは黙々と食事を進めていた。


「このきたねージムでうだうだしてるときだけ、アタシはイラつかずに済んだ。ついでに喧嘩の腕も磨けるから、余計にありがたかったもんだ。アタシがこのジムで世話になったのは、一年ちょいってところか? その一年ちょいだけ、アタシはまともに呼吸できてるような気分だったよ」


「だったら――」と言いかけた犬飼京菜が、また険悪な顔で口をつぐむ。しかしその顔は、なんだか泣くのをこらえているようにも見えてしまった。


「だったら何で、このジムを辞めたんだってか? そいつは……若気の至りだよ。当時のアタシはトチ狂ったクソガキだったから、こんなクソしょうもねー細目野郎に発情しちまったんだ。で、見事に玉砕しちまったわけだな」


 ダニー・リーは、冷徹なる眼差しでサキを見据えている。

 それをうるさそうに跳ね返しつつ、サキは隣に座った理央の短い髪を乱暴にかき回した。


「勘違いすんなよ、細目野郎。当時のアタシは、こいつのせいで余計にトチ狂ってたんだよ。施設の中でひとりだけマシな人間だったこいつが余所の家に引き取られるって話になって、アタシは焦っちまったんだ。だから、おめーに寄生しようって目論んだだけのこった」


「だけど俺には、お前と結婚することなどできなかった。俺みたいな人間が他人の人生にそうまで深く関与することなど、許されるわけもないからな」


 感情の読めない声で、ダニー・リーはそのように応じた。


「それでお前は、ジムにも施設にも居場所を失って……それで、この土地を飛び出したというわけか」


「そういうこった。それでプレスマン道場に行きついたのは、たまたまのこったよ」


「なるほど」と、大和源五郎も低く声をあげる。


「おおかたは想像の通りだったが……お前さんはどういうつもりで、今さらそんな話を蒸し返そうと思ったんだ?」


「……それはおめーらが、アタシの目の前をちょろちょろうろつき始めたからだろ。おめーらを見てると、アタシはあの頃のムカつきを思い出しちまうんだよ」


 理央の頭に手を置いたまま、サキはそう言った。


「アタシは数年がかりで、自分を立て直してみせた。クソみてーな過去にはフタをして、面白おかしく生きてたんだよ。でも……最初にそいつをぶっ壊したのは、こいつだ。こいつこそ、新しい家で面白おかしく生きてるはずだったのに、いつの間にか施設に逆戻りして、昔よりもクソッタレな状況に陥ってたんだよ」


 理央は親切な人間に養女として引き取られたはずであったが、そちらで酷い目にあってあけぼの愛児園に戻ることになり――そしてさらに、園の職員の虐待によって自殺未遂にまで追い込まれてしまったのだった。

 理央はわずかに目を細めて微笑みつつ、テーブルの下でサキの膝に手を置いている。


「それでアタシも、クソみたいな人間に逆戻りだ。だけど、そのときは……おせっかいなタコスケどものおかげで、なんとか立て直すことができた。で、ようやく人間らしい生活を取り戻せたと思ったら、おめーらだ。おめーらが昔のまんまうじうじやってるのを見てると、胸クソが悪くてたまらねーんだよ」


「だったら、どうしようってんだい?」


「どうするもこうするもねーよ。おめーらクソジジイどもは、手前でどうにかしやがれ。でも、ガキを真っ当に育てるのは、ジジイどもの仕事だろうがよ?」


 サキは白刃のような眼光で、三名のコーチたちを睨み回した。


「アタシは去年、クソみてーな心地で何回か試合をした。勝とうが負けようが、気分はクソだったよ。おめーらはこんなクソみてーな気分を味わわせるために、そのクソガキを育ててんのか? おめーらだって、最初からそんなクソ人間として格闘技を始めたわけじゃねーんだろ?」


「しかし、ドッグ・ジムの再興は我々全員の――」


「うるせーよ、細目野郎! 新人門下生が二人も入って、万々歳じゃねーか! それにな、そっちのプロレス女はフライ級王者だし、クソガキだってあれだけの試合を見せつけたんだ! もう女子格闘技を追っかけてる人間で、ドッグ・ジムの名前を知らねーやつはそうそういねーだろ! 世間なんざ、十分に見返せてるじゃねーか!」


 口は悪いが滅多に大声をあげないサキが、激情のままに怒声をほとばしらせていた。


「死んだ親父の無念を晴らしたいってんなら、勝負はこっからだろうがよ? クソみたいな怨念に凝り固まったまんま、そんな正念場を乗り越えられんのか? そもそもそれで赤星の連中を潰せたとして、後に何が残るんだよ? 老い先短いおめーらと違って、そのクソガキには何十年もの人生があるんだぞ? 人様の人生に関わろうってんなら、手前がくたばった先のことまで考えやがれ!」


「ちゆみちゃん」と、理央が優しくサキの膝を揺さぶった。

 サキは大きく息をつき、理央の髪を再びぐしゃぐしゃとかき回してから、言葉を重ねる。


「……そのクソガキは、ようやく十七歳だ。だったらまだまだ、いくらでも立て直せるだろ。あとは、周りにいるジジイども次第だよ」


「お嬢のために、わざわざそれを伝えに来てくれたってわけか」


 大和源五郎がどこかしんみりとした口調でそう言うと、サキは他者からの視線を拒むようにぎゅっとまぶたを閉ざしつつ、感情を押し殺した声を振り絞った。


「あの頃のアタシは、手前のことしか考えられねークソガキだった。それに……すべての人間にそっぽを向かれたような心地で、ゴミ虫みてーにいじけてたからな。そこのクソガキには三人も頼もしい人間がひっついてるんだから、アタシひとりがいなくなったって痛くもかゆくもねーだろって思ってたんだ。それなのに……アタシひとりのことでギャンギャン泣かれて、死ぬほど迷惑だったんだよ」


「迷惑、ね。お前さんらしい言い草だな」


「うるせーよ、クソジジイ。……アタシはもう、自分の知らないところで自分の大切にしてた人間が不幸になるのは、嫌なんだよ」


 いつしか、サキに頭を抱えられた理央も、静かに涙を流していた。

 そして――ずっと無言であった犬飼京菜が、いきなり椅子を蹴って猛然と立ち上がったのだった。


「なんだよ、今さら! それでもけっきょくちゆみちゃんは、あたしを捨てて出ていっちゃったじゃん!」


 いつだったかの試合会場と同じように、犬飼京菜は怒った顔のままぽろぽろと涙をこぼしてしまっていた。


「それにダニーは、なんで何にも教えてくれなかったのさ! ちゆみちゃんが出ていっちゃったのは、ダニーのせいなんでしょ? だったら、ダニーも同罪じゃん!」


「いや、それは……」


「ダニーがちゆみちゃんと結婚してあげればよかったんだよ! そうしたら、ずーっとちゆみちゃんと一緒にいられたのに! ダニーのばかーっ!」


 そうして犬飼京菜はテーブルに突っ伏して、わんわんと泣き始めてしまった。

 するとマー・シーダムが眉を下げて微笑みながら、榊山蔵人の分厚い肩をそっと押す。榊山蔵人は目を泳がせながら、犬飼京菜のもとに駆け寄った。


「あ、あ、あの、犬飼さん、泣かないで……ダニーさんも、悪気があって隠し事をしていたわけじゃないんだろうから……」


「うるさいよ! あんたなんて、関係ないじゃん! 関係ない人間は引っ込んでてよ!」


 そんな風にわめきながら、犬飼京菜は榊山蔵人の胸に取りすがった。

 榊山蔵人はあたふたとしながら、犬飼京菜のほっそりとした両肩に手を置く。そうしてマー・シーダムにうながされて、犬飼京菜とともに別室へと消えていったのだった。


「……今はお嬢も、頭の整理が追いつかねえんだろ。お嬢は本当に、サキのことを気にかけてたからな」


 坊主頭を撫でながら、大和源五郎はそう言った。


「お前さんは、拓哉が死んでから初めての門下生で、しかも同じ女だったからよ。お前さんがジムに残っててくれりゃあ、お嬢ももうちょっとは違う風に育ってたのかもな」


「……この期に及んで、まだアタシに責任をおっかぶせようってのか?」


「いやいや、責任を感じてるんだよ。俺たちはお嬢の家族づらをしておきながら、ちっとも家族らしいことをしてやれなかったんだってな」


 そう言って、大和源五郎は土佐犬のような顔をくしゃくしゃにして笑ったのだった。


「確かに、お嬢のファイター人生はここからだ。拓哉の無念を晴らすっていう目的を二の次にすることはできねえが、その道中を楽しむぐらいのゆとりがなけりゃあ、続かねえわな」


「はい。ぼくたちはキョウナにかくとうぎのぎじゅつばかりをおしえて、かくとうぎをたのしむことをつたえられていなかったのですね」


 寡黙なマー・シーダムがそのようにつぶやいて、にこりと微笑んだ。


「でも、シャラやクランドのおかげで、さいきんはキョウナもすこしふんいきがかわってきました。それに……ユーリさんとウリコさんは、とてもたのしそうです。ふたりがなかよくしてくれたら、キョウナももっとかくとうぎをたのしめるかもしれません」


「ああ、本当にな。……よかったら、今後もちょいちょい顔を出してくれねえか? 今のところは、おたがいの選手がぶつかることもねえだろうしよ」


「そ、そうっすか。ただ……うちのアマチュア門下生が、犬飼さんをライバル視してるんすよね。あんまり自分たちに手の内をさらしちゃうと、のちのち不利になっちゃうかもしれませんよ?」


「それよりも、今はお嬢の中身の成長を一番に考えるべきだろうさ。……もしかしたら、サキにおせっかいをしたタコスケってのは、お前さんがたのことなのかい?」


「ピーピー……タダイマ、キオクノショウキョチュウ。ゴシツモンニハヘントウシカネマス」


 両方の人差し指をこめかみに当てたユーリがそんなふざけた言葉を返すと、大和源五郎は愉快そうに笑った。


「ユーリさんは、日曜日に道場が閉まってるのが不満だってんだろ? だったらその日だけでも、うちに顔を出してもらえねえもんかな?」


「えー! いいのですか!? それでしたら、ユーリは光栄の極致なのです!」


「それに、サキもよ。たまにでいいから顔を出してくれたら、きっとお嬢も喜ぶぜ?」


「はん。アタシにメシの支度を押しつけるつもりなら、バイト代の準備でもしておくこったなー」


 サキはすっかりいつもの調子に戻った様子で、土鍋に新たな具材を投下した。

 そんなサキを見つめながら、理央は優しく微笑んでいる。


 この一日で、犬飼京菜の心境がどれだけ変化したかはわからなかったが――それでも瓜子は、サキのおかげで確かな一歩を踏み出せたような感触を得ることができていた。

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