04 ストライキング・スパー

「あんたたち、いつまで取っ組み合ってるのさ? そろそろ源爺を返してもらうよ」


 犬飼京菜がそんな言葉を投げかけてきたのは、三十分ばかりもグラップリング・スパーに熱中したのちのことであった。

 全員参加のサーキットをやりとげた大和源五郎は、また肩で息をしながら犬飼京菜のほうに向きなおる。


「悪いな。年甲斐もなく、ムキになっちまってよ。ちっとばっかり、インターバルをくれや」


「何それ! 他の連中のせいであたしとの稽古を二の次にするなんて、おかしいじゃん!」


 犬飼京菜はたちまち癇癪を起こして、地団駄を踏む。

 そしてその目は、何故だか罪もなき榊山蔵人へと向けられた。


「……あんたも、いつになく熱心じゃん。下心見え見えで、超キモい」


「し、下心なんてないよ。僕も早く、犬飼さんみたいに強くなりたいから……」


 榊山蔵人のそんな言葉に、瓜子は「おや」と思った。これだけ気弱そうな少年であるのに、犬飼京菜に対してはずいぶんフランクな態度であるように思えたのだ。


「あの、もしかしたら榊山くんは、犬飼さんの同級生か何かなんすか?」


「あ、いえ、そういうわけではないんですけど……」


 それではどういうわけなのか、榊山蔵人も犬飼京菜も語ろうとはしない。その代わりに口を開いたのは、沙羅選手であった。


「くら坊はそこの土手でクラスメートにイジメられとるところを、京菜はんに助けられたんやて。ほんで、京菜はんみたいに強くなるべく、ドッグ・ジムに入門したっちゅう話やな」


「しゃ、沙羅さん、そんな話、恥ずかしいですよ」


 と、榊山蔵人は目を泳がせて、赤面する。

 いっぽう犬飼京菜は、いっそう険しい面持ちになって「ふん!」と鼻息を噴いた。


「そんな話より、やっぱりあんたたちはあたしの邪魔になってるじゃん! あたしの邪魔をしたら叩き出すって言ったよね?」


「そないに目くじら立てるこっちゃないやろ。大和はんが復活するまで、京菜はんもこいつらと遊んだらええやん」


 陽気に笑いながら、沙羅選手はそう言った。


「なんなら、寝技の稽古でもつけてもろたらどうや? この白ブタはんは胸クソ悪いことに、ウチよりも寝技が達者やで」


「興味ないね。あたしは、ストライカーだもん」


「ほしたら、うり坊の出番やな。うり坊は今年になって全試合KO勝利の、ストロー級チャンピオンやで? メイ=ナイトメアちゅうバケモンみたいな選手にも連勝しとるしなぁ」


 そのように語る沙羅選手の目が、悪戯小僧のようにきらりと光る。


「ウチの見立てでは、初見で京菜はんに勝てる日本人選手なんて、数えるぐらいしかおらへんけど、このうり坊はその貴重なひとりや。ええ機会やし、胸を借りたらええんとちゃう?」


 犬飼京菜はたちまち眉を吊り上げて、瓜子ではなく沙羅に詰め寄った。


「あんた、あんまりふざけたこと言ってんじゃないよ! あたしがこんなちびに負けるとでも思ってんの!?」


「うり坊はちんまりしとるけど、京菜はんより十センチも大きいやんか。体重差かて、十キロではきかんやろ」


「あたしは赤星弥生子をぶっ潰すつもりなんだから、こんなちびは眼中ないよ!」


「あんなあ、物事には順序ちゅうもんがあるやろ。ストロー級の化け物を潰せへんかったら、バンタム級の大怪獣を潰すなんざ夢のまた夢ちゃう? そもそも京菜はんは、同階級の雅はんにも土をつけられたことを忘れたらあかんで」


 沙羅選手が言葉を重ねるたびに、犬飼京菜の大きな目には激情の炎がくるめいていく。そしてそれが最高潮に達したところで、瓜子に向けられてきたのだった。


「上等だよ! だったら、あんたから潰してやる! ほら、さっさとリングに上がりな!」


「それはかまわないっすけど、自分は野試合なんてするつもりはないっすよ。きちんと防具をつけたスパーだったら、お相手します」


「好きにしなよ! あたしはこれで十分だけどね!」


 犬飼京菜が身に着けているのは、おそらく八オンスと思われるオープンフィンガーグローブに、ニーパッドとレガースパッドのみであった。

 瓜子は「駄目っすよ」と首を振ってみせる。


「オープンフィンガーグローブは許容しますけど、せめてヘッドガードは着けてください。十キロ以上も軽い相手の頭を防具なしで殴るなんて、怖くてとてもできません」


「……あんた、なめた口を叩いてくれるじゃん」


「なめてるんじゃなく、安全第一だと思ってるだけっすよ。MMAだって、スポーツなんですからね」


 そうして瓜子は自身も同じだけの装備を身に着けて、リングに上がることになった。

 瓜子の目的はドッグ・ジムと赤星道場の和解であるのだから、こんな喧嘩まがいのスパーは望むところではないのだが――まずは自分に興味を持ってもらわなければ、犬飼京菜とまともに会話できるような気がしなかった。


(それに、この娘さんの実力も気になるところだしな)


 彼女は前園選手やゾフィア選手といったトップファイターを下してみせたのだから、決して侮れる相手ではなかった。また、他に類を見ないファイトスタイルであるため、かなり厄介な初見殺しであるはずであった。


(でも、十キロ以上も軽い相手に負けてたら、上の階級に挑むどころの話じゃないもんな)


 そんな思いを胸に、瓜子は対角線上のコーナーで闘志を燃やす犬飼京菜と相対した。

 レフェリー役となったダニー・リーが、感情のうかがえない声でルール確認をする。


「このジムのスパーでは、肘打ちも関節蹴りも有効にしている。また、あくまでMMAの立ち技スパーであるため、屈んだり、マットに手をついたりすることも有効だ。ただし、タックルやスープックレスは禁止事項とする。時間は、三分一ラウンドで十分だろう」


「押忍。首相撲やクリンチはどうなってますか?」


「有効だ。ブレイクは、ムエタイの基準でかけさせてもらう」


 瓜子はもう一度、「押忍」と応じてみせた。

 肘打ちに関節蹴りというのは厄介であったが そちらは一色選手への対策として磨いてきた項目である。それに、これだけの身長差であれば、通常の肘打ちを警戒する必要はないはずであった。


(サイトー選手のおかげで、自分より小さな相手にも慣れたからな。怖いのは……やっぱりトリッキーな攻撃か)


 リング下では、ユーリが心配そうに瓜子の姿を見上げている。

 そちらに笑顔を返してから、瓜子は持参したマウスピースを噛みしめた。


 ダニー・リーが、「始め」と宣言する。

 それと同時に、犬飼京菜が突進してきた。

 予想通り、試合と同様のファーストアタックを仕掛けてきたのだ。


 ただし、超低空タックルだけは、ルールで禁止されている。また、グラウンドへの移行がなければ、水面蹴りも放つ意味がないだろう。そのふたつを除外できるだけで、瓜子はずいぶん気が楽だった。


(あたしはもう、何回もあんたの試合を観てるからな)


 コーナーから背を離した瓜子は一歩だけ足を踏み出しつつ、相手の接近を待ち受けた。

 そして、相手が攻撃の挙動に移ろうというタイミングに合わせて、アウトサイドにステップを踏む。


 犬飼京菜の小さな身体が、猛然と跳躍した。

 アウトサイドに逃げた瓜子のもとに、横回転した右足が襲いかかってくる。瓜子の動きにあわせたのか、相手は左足で踏み切って、アウトサイドにまで届いてくる右のジャンピングバックスピンハイキックを繰り出してきたのだった。


 瓜子はとっさに腰を落として、両腕で頭部をガードする。

 右の前腕に、相手のかかとが突き刺さった。

 やわな骨をしていたなら、その一撃でへし折られていたかもしれない。それほどの、凄まじい衝撃であった。


(よし)と、瓜子は反撃に移ろうとした。

 しかし、マットに降り立った犬飼京菜は、そのまま瓜子の視界から消え失せた。身を伏せて、今度は水面蹴りを繰り出してきたのだ。


 水面蹴りはキックやムエタイで禁止されているし、MMAでも犬飼京菜の他に使う人間を見たことはない。よって、瓜子は呆気なく足を払われて、その場に倒れ込むことになってしまった。


 そうして瓜子が倒れている間に、犬飼京菜は距離を取ってしまう。

 ダニー・リーは冷然と「スタンド」の声をあげた。立ち技のスパーであれば、ただのスリップダウンと見なされるのだろう。


(あたしの反撃を封じるために、水面蹴りを仕掛けてきたわけか)


 犬飼京菜も、変則的ながらアウトスタイルの選手であるのだ。ファーストアタックをすかされたのちは、こうして距離を取ろうとするのが当然なのであろう。

 前腕と足首にじんじんとした熱を感じながら、瓜子は立ち上がってみせた。


 犬飼京菜は、間合いの外だ。

 そうして瓜子が立ち上がるなり、彼女はアウトサイドに回り始めた。


 瓜子が距離を詰めようとすると、関節蹴りが飛ばされてくる。

 瓜子はバックステップで回避したが、一色選手対策で稽古を積んでいなければまともにくらってしまいそうな、鋭い蹴りであった。


(佐伯さんだけじゃなく、あたしはメイさんにもスパーをお願いしてたからな)


 プレスマン道場のスパーでは基本的に関節蹴りを禁じていたが、試合の対策という名目さえあれば使用を許される。それで瓜子は、関節蹴りの名手たるメイにスパーをお願いしていたのだった。


 あらためて、瓜子は間合いを測ろうと試みる。

 しかし犬飼京菜は、火のついたような連続攻撃を仕掛けてきた。


 瓜子の鼻先を狙った右のハイキックに、蹴り足を完全に下ろさぬままミドルキックに繋げ、蹴り足を下ろしたかと思えばその爪先でマットを蹴り、跳び上がりながらの左の前蹴り、着地して右のバックスピンキックだ。

 

 こうまで蹴りを飛ばされてくると、なかなか間合いを詰めることがかなわない。まるで目の前で竜巻が荒れ狂っているような心地で、瓜子は後退を余儀なくされてしまった。

 そうして瓜子が後退すると、あちらはぶんぶんと蹴りを放ちながら詰め寄ってくる。これだけリーチ差があるのだから、瓜子が逃げずに踏みとどまってその攻撃をブロックすれば、こちらの攻撃も当てられるはずであるのだが――瓜子はどうしても、自分からその竜巻の中に踏み込もうという気持ちになれなかった。


(なんか……迂闊に近づくと、まずい気がするんだよな)


 犬飼京菜は古式ムエタイという謎めく技術を体得しているため、瓜子が知らない攻撃を仕掛けてくる可能性があるのだ。それも含めて、初見殺しなわけである。


(でも、このままじゃ何の反撃もできずに時間切れだ)


 これが試合であるならば、一ラウンド目は逃げに徹して相手のリズムをつかむというのも有効であろう。しかし二ラウンド目の存在しないスパーでは、なんの成果にもならないのだった。


(ちょっとギャンブルだけど、誘ってみるか)


 犬飼京菜のバックスピンハイキックをスウェーでかわした瓜子は、そのまま下がらずに半歩だけ踏み込んでみせた。

 まだおたがいの拳は当たらない、蹴りの間合いだ。

 そうして瓜子が、右ローを繰り出そうとすると――犬飼京菜の姿が、再び視界から消え失せた。


 背筋に悪寒を覚えつつ、瓜子は右腕で頭を抱え込む。

 その前腕と肘の付け根に、凄まじい衝撃が響きわたった。


 犬飼京菜の、左の中足だ。

 犬飼京菜の本体は、瓜子の左手側で逆立ちの体勢を取っている。

 かつて試合で一度だけ見せた、カポエイラまがいの側転蹴り――『ヤシの実を蹴る馬』であった。


 側転をしながらの蹴りという意味では、イリア選手の『シバータ』とよく似ている。

 しかし、スピードも破壊力もけた違いであったし、技の繰り出されるタイミングもまったく異なっていた。イリア選手の場合はふわりと上体を倒してから蹴りを飛ばしてくるのだが、犬飼京菜の場合はまず蹴り足が真っ先に突っ込んでくるという感覚であった。


(イリア選手はマットに手をついてから、蹴り足を振り上げる。犬飼さんは横合いにジャンプして、その勢いで蹴りながら、そのあとにマットに手をつくから……その差が出るわけか)


 頭の片隅で瞬間的に考えながら、瓜子は半ば無意識に足を踏み込んでいた。

 瓜子はイリア選手と対戦した際、『シバータ』をブロックできたら即座に距離を詰めると強く意識していたため、肉体のほうがそれを思い出して、勝手に動いてしまったようだった。


 ともあれ、側転をして身を起こした犬飼京菜は、まだ攻撃の体勢を取れていない。

 瓜子はそこに、右の拳を振り下ろしてみせた。


 犬飼京菜の小さな身体が、その拳の風圧に押されたかのように横回転する。

 瓜子はとっさに、左腕でボディを守った。

 今度は上腕に、電流のごとき衝撃が走り抜ける。

 犬飼京菜は瓜子の攻撃を回避しながら、バックスピンエルボーを繰り出してきたのだった。


(でもまだ、拳の届く距離だ)


 瓜子は右足を踏み出しながら、横合いに逃げた犬飼京菜に正対する。

 すると犬飼京菜は、瓜子が手を出す前に、自分から接近してきた。

 接近しながら、マットを蹴って跳躍する。

 その右膝が、真っ直ぐ瓜子の腹を狙っていた。


(まさか――)


 犬飼京菜の両腕は、肘打ちを繰り出すべく頭上に掲げられているのだろうか。

 犬飼京菜の上半身はすでに視界の外であるので、瓜子に確かめるすべはない。目や首を動かす前に、瓜子はその攻撃を回避しなければならなかった。


(ていうか、この感覚は……)


 犬飼京菜は目にも止まらぬ俊敏さで猛攻を仕掛けているはずであるのに、瓜子はいちいちその動きに驚嘆させられていた。

 時間の流れが遅くなり、瓜子に思考の猶予を与えているのである。

 瓜子はいつの間にか、あの奇妙な領域の内に没入していたのだった。


(化け物の卵、か……)


 練習前に沙羅選手から聞かされた言葉を反芻しつつ、瓜子は両腕を突き出して、身体をのけぞらせた。

 軽く握った瓜子の両拳が、犬飼京菜の平べったい胸と衝突する。そこを力点として、瓜子はさらに背中を反らせた。


 犬飼京菜の膝蹴りは、その挙動で生まれた隙間を走り抜ける。

 頭上から振り下ろされた両腕の肘は、瓜子のヘッドガードをわずかにかすめた。


 瓜子は後方に引いた右足で踏ん張り、重心を前側に移動させる。

 反らした背中を戻しながら、右腕だけを懐に戻した。


 犬飼京菜の身体は、まだ宙に浮いている。

 このタイミングならば、瓜子の攻撃も間に合うはずだ。

 まだ犬飼京菜の胸もとに当てている左拳が、間合いの感覚をキープしてくれていた。


 犬飼京菜がマットに着地すると同時に、瓜子は左腕を引く。

 左腕を引きながら、右拳を繰り出した。

 下側から腹部をえぐる、ボディブローだ。


 犬飼京菜も尋常でない反応速度で後方に逃げようとするが、瓜子はもう右拳が届くことを確信していた。

 そして――あらゆる情報が瓜子の脳内を走り抜け、ひとつの結論を導き出したのだった。


(このまま攻撃を当てたら、たぶん相手の身がもたない)


 この勢いで、この角度で、瓜子の拳を犬飼京菜の左脇腹に当ててしまったら、おそらく肋骨をへし折ってしまう。さきほど犬飼京菜の胸もとに触れたときの感触が、瓜子にそんな確信を与えていた。


(だったら――)


 勢いに乗った拳を止めることは、もはや不可能である。

 その代わりに、瓜子は拳を開いてみせた。

 手首を反らして、指を開き、拳ではなく掌打を当てるのだ。


 掌打でも相応の衝撃が生じるであろうが、拳よりは数センチだけ射程が短くなる。その数センチが、犬飼京菜の肋骨を守ってくれるはずであった。


(こんなの、ほとんどオカルトだな。まあ別に、誰に説明する気もないからいいけど)


 瓜子の右掌打が、犬飼京菜の左脇腹に叩きつけられた。

 犬飼京菜は「かはっ!」と息を吐きながら、スローモーションのように倒れ込んでいく。

 それにつれて、瓜子の五感も平常の状態に回帰していった。


「ダウン。……いや、終了だ。シーダム、京菜の手当てを」


 ダニー・リーの冷静な宣告に、マー・シーダムがあたふたとリングにあがってくる。マットに倒れ込んだ犬飼京菜は脇腹を抱え込みながら、ひゅうひゅうと苦しげな呼吸を繰り返していた。


「お見事やな。せやけど、こないな勝ち方するとは想像の外やったわ」


 と、苦笑を浮かべた沙羅選手もリングに上がり込んでくる。


「もっとこう、一瞬のスキを突いた渾身の一撃で、KOするイメージやったんやけどな。最後の攻防は、なんやねん。ゼニも取らんスパーで、あんな人外バトルをお披露目する必要ないやろ」


「こっちも必死だったんすよ。それだけ犬飼さんが強敵だったってことです」


 そんな風に応じながら、瓜子も犬飼京菜のもとに屈み込んだ。


「大丈夫っすか、犬飼さん? 最後の攻撃は、こっちも背筋が凍りましたよ」


 犬飼京菜は人喰いポメラニアンの形相で、金魚のように口をぱくぱくとさせていた。

 その口もとに耳を近づけたマー・シーダムが、瓜子ににこりと笑いかけてくる。


「うるさい、もういちラウンドだっていってます。……でも、キョウナにはインターバルがひつようです」


 ちょっとたどたどたどしいが、リスニングには不自由のない日本語がやわらかい声音で語られる。瓜子がこの若者の声を聞くのは、これが初めてであるかもしれなかった。


「承知しました。それじゃあ自分も、インターバルをいただきますね」


 これで犬飼京菜と親睦を深めることは可能なのだろうかと内心で首をひねりつつ、瓜子はヘッドガードを外した。

 するとそこにダニー・リーが忍び寄ってきて、瓜子に耳打ちしてくる。


「……君は何故、途中で拳を開いたんだ?」


 瓜子はぎょっとして、ダニー・リーの骨ばった顔を見返すことになった。あれは一秒にも満たない間の出来事であったはずなので、肉眼で見て取ることが可能だとは思っていなかったのだ。


「いえ、別に……とっさの判断で開いちゃっただけなんですけど……」


「そうか」と、ダニー・リーは身を引いた。

 そしていきなり、瓜子の右拳をグローブごとわしづかみにしてくる。


「……硬い拳だ。やはり君は、骨密度が尋常でないようだな」


「そ、そうっすね。数字的に、けっこうなものらしいです」


「あのまま拳を握っていたら、京菜の身も無事ではなかっただろう。……君の判断に、感謝する」


 無表情のまま言い放ち、ダニー・リーも犬飼京菜のもとに向かった。

 すると、入れ替わりで近づいてきた沙羅選手が、笑いながら瓜子の肩を抱いてくる。


「ほんま、自分は大したもんやなあ。MMAでてっぺん取るには、うり坊もターゲットにせなあかんくなるわ」


「自分はフライ級にチャレンジする側っすからね。いつか試合で当たる可能性もゼロじゃないっすよ」


 すると、リング下に待機していたユーリが、平手でぱちぱちとエプロンサイドを叩き始めた。


「だから、愛情あふるるスキンシップは禁止ですってばー! うり坊ちゃんも、そんなまんざらでもないお顔でユーリの嫉妬心をかきたてないでくださいます?」


「何なんすか、今日は? 灰原選手はもっとべたべたひっついてきますけど、最近はユーリさんも文句を言ったりしないっすよね?」


「灰原選手はユーリも顔をあわせる機会が多くなって、距離感が微妙なのです! 沙羅選手には、遠慮をする理由がないのです!」


「なんやそら。このままうり坊に接吻でもかましたろか」


「むきーっ!」


 と、ユーリが憤然と両腕をあげたところで、大和源五郎が「おいおい」と声をあげた。


「楽しそうなのはけっこうだが、まがりなりにも稽古中だぞ。ちっとは気を引き締めたらどうだ?」


「せやけど、京菜はんとうり坊の一戦ですっかりテンション上がってしもうたんよ。大和はんかて、内心穏やかやあらへんのやろ?」


「ふん。面白い見世物だったことは、確かだがな」


 そんな風に言ってから、大和源五郎はがりがりと坊主頭を掻きむしった。


「とにかく、稽古に集中しろ。……蔵人、そろそろメシの支度をする頃合いじゃねえか?」


「あ、は、はい。で、でも、犬飼さんが……」


「お前さんがひっついてても、なんも変わりゃしねえよ。……猪狩さんにユーリさん、あんたがたも食ってくかね?」


「え、いいんすか? 食事までいただくのは、ちょっと心苦しいんすけど」


「食事ったって、何のひねりもねえチャンコだよ。……ま、今日は色々と面白いもんを見せてくれたからな」


 瓜子の主眼はドッグ・ジムの面々と親睦を深めて、赤星道場との和解をうながすことであるのだから、夕食をご一緒できるのはもっけの幸いであろう。

 瓜子がそんな風に考えて、お礼の言葉を返そうとしたとき――廊下に通ずるサッシのドアが、荒々しく開かれたのだった。


「おー、タコスケどもが雁首そろえてんなー。汗くせーったらねーぜ」


 瓜子はユーリと一緒に、きょとんと目を見開くことになった。

 そして、ようやく身を起こすことのできた犬飼京菜が、憤懣やるかたない様子で声をあげる。


「……なんだよ。あんたまで何をしに来たのさ?」


「うるせーなー。アタシは可愛くもねー後輩どもがひでー目にあってねーか、様子見に来ただけだよ」


 そう言って、サキは傲然と腕を組んだ。スカジャンにカーゴパンツに雪駄という、いつも通りのワイルドなファッションだ。

 そして――サキの横合いから、さらに意想外の人物がひょこりと顔を覗かせたのだった。


「り、理央さん? 理央さんまで、いったいどうしたんすか?」


 それはサキの妹分たる、牧瀬理央に他ならなかった。瓜子と目があった理央は白い頬をほんのりと染めながら、嬉しそうな笑顔で会釈をしてくる。ずっと車椅子の身であった彼女はリハビリの甲斐あって、ようやく松葉杖で歩けるようになったのだ。


「このタコスケもおめーに挨拶をしてーって言うから、しかたなく連れてきたんだよ。ま、リハビリにはちょうどいい距離だしなー」


 サキと理央が暮らしているあけぼの愛児園は同じ横浜にあるので、まあ徒歩でも来られる距離であるのだろう。だがしかし、これはあまりにも意表を突いた来訪である。同じ感慨を抱いたらしいダニー・リーが、切れ長の目を光らせながらリングの下に下りた。


「……それで? 見ての通り、お前の後輩たちは問題なく稽古に取り組んでいる。満足したのなら、帰るがいい」


「うるせーなー。おめーに指図されるいわれはねーよ」


 ダニー・リーにも負けない鋭さで、サキも切れ長の目を光らせる。目つきと雰囲気がよく似た両名であるのだ。


「ここは我々のジムであり、お前は部外者だ。ならば、こちらが指図をするいわれはあろう」


「うるせーって言ってんだろ。ビクついてんじゃねーよ、細目野郎。アタシに闇討ちされる覚えでもあんのか?」


 両者の間に、冷たい空気がたちこめる。

 その冷気に巨体をすくめながら、榊山蔵人が大和源五郎に向きなおった。


「あ、あの……食事の準備はどうしましょう?」


 瓜子は思わず、ずっこけそうになってしまった。なかなかどうして、ユーリのように空気の読めない少年のようである。

 すると、サキが「食事か」と言い捨てた。


「そーいえば、アタシも腹が減ってきちまったなー。ここの小汚ねーキッチンでも借りるとするか」


「キッチンだと? お前は、いったい何を――」


「うるせーよ、細目野郎。……昔はそうやって、アタシがおめーらのメシの世話をしてやってただろ」


 そんな言葉を残して、サキはきびすを返してしまった。

 理央はもういっぺん瓜子に微笑みかけてから、それをひょこひょこと追いかけていく。

 瓜子はさっぱりわけがわからないままであったが――とりあえず、サキもドッグ・ジムの面々に喧嘩を売りに来たわけではないようであった。

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