02 さよならは言わない

 そして翌日の、十一月の第三火曜日――《カノン A.G》にまつわるスキャンダルが満載となった週刊誌が発売されたことにより、世間にはとてつもない反響があふれかえることになった。


《カノン A.G》は格闘技ブームの象徴であった《JUF》と同じ道筋で、反社会的勢力に支配される寸前であったのだ。ユーリの知名度に《JUF》の知名度が加算されたことにより、それはかつての花咲氏の逮捕よりも大きく報道されることになったのだった。


 黒澤代表は何の法律も犯してはいないし、反社会的勢力とも直接関わりがあったわけではないので、刑事責任に問われることはないだろう。ただし、社会的信用は失墜するに違いない。ユーリのスキャンダルを捏造しようとした件と、チーム・フレアの体たらくだけで、信用を失うには十分以上であったのだった。


「あたしの見たニュースなんかでは、一色の入院してた病院にまで報道陣が押しかけてたよー! 親が見たら、泣くだろうねー!」


 灰原選手は、そんな風に言っていた。


「ま、あの週刊誌を読んだだけで、親は号泣だろうけどさー! 顔にもモザイクかかってたけど、髪型と体格で正体はバレバレだもん! 女ふたりに野郎が五人って、AVじゃないんだからさー」


「ちょ、ちょっとやめてくださいよ。おかしな想像をしちゃうじゃないっすか」


「えー? 想像も何も、画像がでかでかと掲載されてたじゃん! アレでもきっと、ソフトな画像を選んだんだろうけどさー。じゃなきゃ、発禁モンだろうしねー」


 かえすがえすも、週刊誌のページを開かずにいたことに安堵の息をつく瓜子であった。

 そんな瓜子に、灰原選手がぐぐっと顔を近づけてくる。


「でもそういえば、うり坊もあのラッパーに誘われてたって話だったよね? もしノコノコとジムまで出向いてたら、おんなじ目にあってたかもしれないんだ! うわー、想像しただけで鳥肌もんだね!」


「想像しないでくださいよ、胸糞の悪い」


 ようやく徳久や黒澤代表の悪行が露見して、事態が解決に向かっているさなかであったが、一色選手のことを考えると、瓜子は気が重かった。

 一色選手の動きが鈍いように感じられたのは、やはりトレーニング不足であったのだろう。練習場所でドラッグパーティーなどが開かれていたならば、まともにトレーニングを積めるはずがないのだ。コーチ陣まで一緒になっていたのなら、なおさらのことであった。


「でもさ、一色はどうかわかんないけど、秋代はきちんと身体を作ってたよね。試合中の動きだって、まったく悪くはなかったしさ」


 そんな風に言いだしたのは、多賀崎選手であった。今日は火曜日で出稽古の日取りではなかったが、瓜子とユーリが昨日稽古を休んだため、他のメンバーも日取りをずらしていたのである。


「んー? だけど秋代も、乱交パーティーに参加してたっしょ。あいつも髪が赤いから、モザイクかかってたってバレバレだもん。……ていうか、そもそもフレア・ジムでは秋代と一色しか練習してなかったみたいだしさ」


「だからさ、それなのにきっちり稽古まで詰めてることのほうが、なんていうか……薄気味悪いんだよな。人間って、そんな簡単にオンオフを切り替えられるわけじゃないだろ?」


「あー、なるほど! 昼は稽古で夜は乱交パーティーって、確かに振れ幅が大きすぎだね!」


「あのな、人様のジムでおかしな言葉を連呼するんじゃないよ」


 意外に純真な多賀崎選手は頬をわずかに染めながら、灰原選手の頭を小突いた。

 すると、小柴選手も「そういえば」と加わってくる。


「黒澤代表がパラス=アテナの運営から手を引いたら、カッパー・ジムやティガーとの提携はどうなるんでしょうね? 残りの人たちが引き継ぐんでしょうか?」


「えー? そんなの、どうでもよくない?」


「いや、どうでもいいことはないですよ。灰原さんたちはコーチ陣のみなさんがMMAスクールの講師を引き受けたから、しばらくジムを離れることにしたんでしょう? これで運営陣から悪い膿が出されたら、もうわだかまりもなくなるんですか?」


 灰原選手はきょとんとしてから、「あー、そっかー!」と手を打った。


「言われてみれば、そうだったね! でもまあ残りの連中がきちんと運営できるのかもわかんないし、まだまだ何とも言えないよ! そのへんのことは、明日きっちり話をつけるんでしょ?」


「はい。立松コーチと、一緒に話をうかがってきます」


 黒澤代表は、すでに退任することがほぼ決定されているらしい。それで新たな代表となる予定の駒形氏が、ユーリへの謝罪と今後の活動について話し合いをさせていただきたいとプレスマン道場に申し入れてきたのである。


 まだ左足に負担をかけられないユーリは、バランスボールに乗りつつ、サキのかまえたミットにパンチをぶつけている。サキが靭帯を痛めたのちに考案したトレーニングメニューである。見た目は珍妙なことこの上なかったが、バランスボールに乗ったままミットを叩くというのは、相当に体幹が鍛えられるのだという話であった。


 昨日の千駄ヶ谷との対話のおかげで、ユーリはすっかり復調している。

 いや、むしろ、格闘技に対する熱意が増大したようなのである。もともと熱意であふれかえっているユーリであるので、オーバーヒートが危ぶまれるほどであったのだった。


「荒本さんやベル様に申し訳ないって気持ちに変わりはないけど、ユーリが頑張るのをやめたら、ただのかわゆい女の子になっちゃうもんね! 迷いは捨てて、お稽古に打ち込む所存なのです!」


『スターゲイト』からの帰り道、ユーリはそのようにのたまわっていた。

 いちどきに、ふたつの感情を抱えることのできないユーリである。そうして負の感情から脱すると、今度はすべての悲しみを忘れ去ったかのように、これまで以上の意欲を燃やすことがかなうのだった。


(ただ……これだけのスキャンダルにまみれながら、《アトミック・ガールズ》は興行を再開できるのかなあ)


 瓜子がそんな風に考えたとき、表側のトレーニングルームでキック部門の面倒を見ていたジョンが顔を覗かせた。


「ユーリ、おキャクさんだよー。ちょっとジカンをもらえるかなー?」


「ほえ? お客さんと申しますと――」


 そちらを振り返ったユーリは、愕然とした様子でバランスボールから身を起こした。

 そしてすぐさま、「いたーい!」とひっくり返ってしまう。驚きのあまり、左足に体重をかけてしまったのだろう。

 ジョンに続いてこちらのトレーニングルームに踏み入ってきたその人物は、穏やかな笑顔で「ダイジョウブですか?」とユーリに声をかけた。


 頭部に何重もの包帯を巻き、右目を眼帯で隠したその人物は――ベリーニャ選手に他ならなかった。

 ユーリはマットにへたりこんだまま、気の毒なぐらい慌てふためいてしまう。


「ベ、ベ、ベル様! どうしてベル様が、このような場所に? これはユーリの妄念が生んだ幻覚なのでしょうか!?」


「モーネン、ゲンカク、わかりません。ピーチ=ストームのニホンゴ、やっぱりムズカしいです」


 ベリーニャ選手は同じ表情のまま膝を折って、ユーリと目線の高さを合わせた。


「ピーチ=ストーム、ヒダリアシ、ケガしたのですね。ダイジョウブですか?」


「だだだ大丈夫なのです! これしきのケガは、ベル様に比べれば――」


 そこまで言いかけたユーリは、左足に体重をかけないように苦心しながら、その場に這いつくばった。


「そう! ケガのことを謝罪しなければなりません! このたびは、本当に申し訳ありませんでしたー!」


「? どうしてピーチ=ストーム、シャザイしますか?」


「あ、いえ、話せば長くなるのですが……そもそもパラス=アテナの方々はユーリをシッキャクさせるためにチーム・フレアというものを準備したようなので……そちらの毒牙にかけられたベル様のおケガも、ユーリに責任があるのではないかと……」


「ピーチ=ストーム、セキニンありません。《カノン A.G》にサンセンする、キめた、ワタシジシンです。サミングのハンソク、フセげなかったのも、ワタシのセキニンです」


 そう言って、ベリーニャ選手は寂しげな微笑をもらした。


「ジルベルトジュージュツ、ゴシンジュツです。ルールにアマえて、サミングをヨソクできなかったこと、オオきなハジです。ワタシ、ミジュクモノのショウコです」


「いえいえ、とんでもない! ベル様が未熟者であられたら、ユーリなどはゾウリムシ以下なのです!」


「ゾウリムシ、ワかりません。でも、ピーチ=ストーム、ユウショウしてくれました。ワタシ、とてもウレしいです」


 と、ベリーニャ選手はますます切なげな面持ちになっていく。


「ワタシ、ピーチ=ストームとシアイをするため、ニホンにノコることにしました。でも、ジブンのシッパイで、そのキカイ、ウシナいました。とてもザンネンです」


「な、何を仰るのですか! あの卑劣な反則行為さえなかったら、きっと優勝していたのはベル様なのです! ユーリのほうこそ未熟者の極致ですので、ベル様にかなう道理がないのです!」


「いえ、ピーチ=ストーム、ジツリョク、ミチスウです。だから、シアイしたかったです。……でも、そのネガい、かないません。ワタシ、カリフォルニア、カエります」


「えっ!」と、ユーリは絶句してしまった。

 ベリーニャ選手は、とても申し訳なさそうにユーリを見つめている。


「ワタシ、カゾクにハンタイされていたのに、ニホン、トドまりました。そのケッカ、ジルベルトジュージュツのカンバン、ヨゴしてしまったのです。カゾク、とてもオコっているので、カエるしかありません。……カエって、《アクセル・ファイト》とのケイヤク、メザします」


「《アクセル・ファイト》……やっぱりベル様も、《アクセル・ファイト》に参加するのが目的なのですね……」


「ワタシのモクテキ、ツヨいアイテとタタカうことでした。だから、ピーチ=ストームとタタカいたかったです。……でも、ジカンギれです。ホントウは、コトシにハイってすぐ、カリフォルニアにカエるヨテイだったのです。カゾク、もうマってくれません」


 そうしてベリーニャ選手は、こらえかねた様子でユーリの手を取った。


「だけどワタシ、ピーチ=ストームとのシアイ、アキラめていません。フタリとも、センシュをツヅけていれば、いつかチャンス、クるはずです。……ユーリ、センシュをツヅけますか?」


「……はい。ユーリの夢は、ベル様のように強くてかわゆいファイターになることなのです。その夢を達成するまで、絶対に格闘技をやめたりしません」


 ユーリは全身に駆け巡っているであろう悪寒も知覚していない様子で、にこりと微笑んだ。

 切なげであったベリーニャ選手の顔にも、優しくてやわらかい微笑がよみがえる。


「アりがとうございます。ピーチ=ストームとサイカイするヒ、タノしみにしています」


「はい! ユーリも楽しみにしているのです!」


 ユーリとベリーニャ選手が初めて顔をあわせたのは、去年の十一月大会だ。

 その日にふたりは対戦し、もともと右拳を負傷していたユーリが敗れ――それから一年が経過して、再戦のチャンスが訪れたかに思われたが、タクミ選手の非道な行いによって、それは叩き壊されてしまった。


 次にふたりが相まみえるのは、いったいいつの頃になるのか。そもそも本当に、再会することはできるのか。

 そんなことは、誰にもうかがい知ることができなかったが――ふたりは信頼しきった眼差しで、おたがいの姿を見つめていたのだった。

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