12th Bout ~Road To Regeneration~

ACT.1 破壊と再生

01 真相

《カノン A.G》十一月大会の翌日――十一月の第三月曜日である。


 その日の朝、ユーリはすっかり打ち沈んでしまっていた。

 自室の毛布をリビング兼トレーニングルームに持ち出して、それにくるまりながら丸くなって、延々と悶え苦しんでいたのである。


 室内には、小さなボリュームで『ワンド・ペイジ』の楽曲が流されている。少しでも鬱屈した空気を晴らそうと、瓜子がデッキにセットしたのである。しかし、さすがの『ワンド・ペイジ』でも負のスパイラルに陥ってしまったユーリを元気づけることは難しいようだった。


「あのですね、ユーリさん……お気持ちはわかりますけど、そんなに思い詰めないほうがいいと思いますよ? とりあえず、ベリーニャ選手の怪我も大したことはないって話だったんですから、なんとか気持ちを切り替えられませんか?」


「でも……そもそもあの徳久ってお人は、ユーリが目障りだからアトミックにちょっかいをかけてきたんでしょ? それだったら……ベル様があんな目にあったのも、みんなユーリのせいってことになっちゃうし……」


「そんなことはありませんってば。ユーリさんだって被害者なんですから、そんな心配は筋違いっすよ」


「でもでも……荒本さんも、きっとユーリのせいであんな真似をすることになっちゃたんだろうし……」


 ユーリが滅入ってしまった元凶は、どうやら荒本の存在であるようであった。

 ユーリのマネージャー業務の前任者であった荒本は二年ほど前、ユーリに心を奪われてしまい――いきなりユーリにプロポーズしたあげく、それを断られたショックで『スターゲイト』を退社してしまったのだ。そのあたりの顛末は、瓜子もユーリと出会った日に千駄ヶ谷の口から聞かされていた。


(まあ、そのお人が身を引いてくれたからこそ、あたしもユーリさんの担当になれたわけだけど……)


 しかしこのたびは、荒本の暴挙が腹立たしくてならなかった。徳久がどれだけ極悪人でも、暴力で事態を解決することなどはかなわないのだ。それでユーリをこれだけ落ち込ませてしまったのだから、二重の意味で許せないところである。


「でも、昨日のあの暴漢は顔を隠してましたからね。本当にその荒本さんだったかどうかは、誰にもわからないでしょう?」


「うん……でもきっと、本人だと思う……ユーリは一年ぐらい、ずーっと荒本さんと一緒にいたから……顔が見えなくても、雰囲気でわかるんだよぉ……」


 しかしユーリは警察からの事情聴取で、荒本の名を出すことはなかった。瓜子も確証のない話は口にするべきでないと考えていたが、ユーリとしては荒本を庇いたい一心であったようだ。


 荒本はユーリの担当であった期間、獅子奮迅の働きを見せていたのだと聞いている。アイドルファイター・ユーリの基盤を築いたのは、まぎれもなく荒本なのである。それがどれだけの働きであったのか、千駄ヶ谷に聞いてみたところ――「私と同じだけの働きを見せながら、仕事の現場にものきなみ同行するぐらいの熱情でした」という話であったから、それはとてつもない熱量であったのだろう。


 だからユーリは、荒本が何も告げずに姿を消した際も、ものすごくショックを受けていた。

 ユーリにとっても、荒本はそれだけ大切な相手であったのだ。

 そして――荒本の求愛に応えられない自分の体質についても、ユーリはいっそう気に病むことになってしまったのだった。


(そんな大恩人が犯罪者になっちゃったんだから、そりゃあショックは大きいよなあ)


 毛布にくるまったユーリの姿を見下ろしながら、瓜子は深々と嘆息した。

 そんな中、瓜子の携帯端末が音高く鳴り響く。画面に表示されたのは、千駄ヶ谷の名であった。


「おはようございます。何か緊急の事態ですか?」


『はい。もしもお時間があれば、テレビをつけていただきたく思います』


 瓜子は小首を傾げながら、音楽を停止してテレビをつけた。

 画面に映し出されたのは、エンタメ系のニュース番組だ。お笑い芸人や女性アナウンサーが、深刻ぶった顔で芸能人の不倫報道について語らっていた。


「あの、どのチャンネルに回せばいいっすかね?」


『どのチャンネルでもかまいませんが、エイトテレビであれば確実です』


 どのチャンネルでもいいとは、どういう了見であろうか。

 そんな疑問を抱きつつ、瓜子がチャンネルを操作しようとしたとき――画面の上側に、テロップの白文字が表示された。


 瓜子は呆然と、動きを止めてしまう。

 そこには――

『ラップチームTender7のリーダー、馬城雅史ましろ まさしが麻薬所持容疑で逮捕』と記されていたのだった。


「え? え? これって、あのリングアナウンサーのことっすよね?」


『はい。まずはこちらの思惑通りの結果を出すことがかないました』


 朝から絶対零度の声音で、千駄ヶ谷はそのように言いたてた。


『そして次なる攻撃でもって、現在のパラス=アテナを瓦解させることが可能になるかと思われます。……猪狩さん、本日ユーリ選手のお時間をいただくことは可能でしょうか?』


「あ、はい。午前中に頭の精密検査で病院に行かないといけないんですけど、その後でしたら……でも、ユーリさんはずいぶん落ち込んじゃってるんで、あまり無理はさせたくないんすよね」


『ユーリ選手のメンタルケアのためにも、ご足労をお願いいたします。こちらの事情を打ち明ければ、ユーリ選手のご心労を多少ばかりは解きほぐすことがかなうように思いますので』


 昨晩の一件については、もちろん千駄ヶ谷にも報告している。

 瓜子は果然と身を乗り出しつつ、ユーリに聞かれないように声をひそめることになった。


「あの、まさかとは思いますけど……昨日の騒ぎは、千駄ヶ谷さんの指示じゃないっすよね?」


『無論です。荒本がそのような真似に及ぼうとは、私にしてみても完全に計算外でありました。……ただし、荒本には荒本なりの考えがあってのことでしょう。それについて、ユーリ選手にも理解を求めたく思うのです』


 瓜子にはさっぱり意味がわからなかったが、千駄ヶ谷であれば瓜子とはまったく異なるスタンスでユーリを支えてくれるはずであった。


「承知しました。それじゃあ、お昼すぎでかまわないっすか?」


『それでは午後一時に、第二応接室で。ユーリ選手にも、よろしくお伝えください』


 千駄ヶ谷との通話を終えた瓜子は、あらためてユーリの姿を見下ろした。

 巨大な芋虫と化したユーリは、テレビから流される音声も耳に届いていない様子で、悶々と身をよじるばかりであった。


                   ◇


 昨日の試合で瓜子は脳震盪を起こし、ユーリはしこたま頭を殴られることになった。

 それで本日は朝から精密検査におもむくことになったのだが、検査結果はどちらもオールグリーンであった。


 それよりも深刻であったのは、ユーリの左足のダメージである。タクミ選手のカーフ・キックを連発でくらっていたユーリは昨晩から足を引きずっており、今日の朝には自力で階段をのぼることも難しいような状態に陥ってしまったのだった。


「骨や神経に異常はないようですが、かなりの筋繊維が損傷してしまったようです。一週間ほどは安静に過ごして、痛みがひくまでは足に負荷のかかるようなトレーニングは差し控えてください」


 ユーリはそんな診断を下されて、松葉杖をレンタルされる羽目になってしまった。

 普段であれば、一週間もトレーニングが制限されることに大騒ぎするユーリであるが、本日はしょんぼりと肩を落とすばかりで声をあげようともしない。瓜子としては、そんなユーリの悄然とした姿に心を痛めるばかりであった。


(本当にユーリさんは、悲しみに暮れるとそれ一本になっちゃうんだな)


 だから昨年のユーリは、瓜子との間に接触嫌悪の症状が再発してしまっても、負の感情をねじ伏せてにこにこと笑っていたのである。それは、瓜子の負担になりたくないという一心であり――ユーリは死に物狂いで、悲しい気持ちを心から排除していたのだという話であった。


 しかし現在のユーリは、悲嘆に暮れた姿を隠そうとしていない。

 それが瓜子自身の希望であり、また、このような姿を見せても瓜子がユーリを嫌ったりはしないという信頼の表れであるはずであった。


 だから瓜子はユーリが本音を隠さないでいてくれることを心から嬉しく思っているのだが、それとこれとは話が別である。ユーリのしょげきった姿を見ているだけで、瓜子は物理的な痛みを胸に覚えるほどであった。


(千駄ヶ谷さんは、どんな話でユーリさんを元気づけてくれるんだろう)


 強い期待を抱きながら、瓜子はユーリとともに『スターゲイト』に向かうことになった。

 受付を済ませて第二応接室で待ち受けていると、千駄ヶ谷は本日もぴしりとしたスーツ姿でやってきて、瓜子たちの正面に着席した。テーブルには、愛用のブリーフケースが置かれる。


「昨日はお疲れ様でした。ユーリ選手の左足の負傷は、松葉杖が必要なほどであったのですね。撮影の仕事は木曜日からの再開となりますが、支障はありませんでしょうか?」


「はい、たぶん……ちゃんと笑顔を作れるかどうかが疑問なところですけれども……」


「副業といえども、ユーリ選手はプロのモデルであるのです。それで収入を得ている以上、妥協は許されないかと思われます」


 千駄ヶ谷の冷徹な物言いに、ユーリは「あうう……」と頭を抱え込んでしまう。

 瓜子がすかさずフォローの声をあげようとすると、千駄ヶ谷は軽く手をあげてそれを制してきた。


「そして、ユーリ選手のメンタルケアも、我々の業務の一環であるかと思われます。本日は、ユーリ選手のお心を少しでもお慰めできないものかと思い、ご足労をいただいた次第です。……まずは順序立てて、我々がどのような形で新生パラス=アテナに粛正を施すかをご説明するべきでしょう」


「えーと、リングアナウンサーの逮捕にはびっくりしちゃいました。あのお人がドラッグに手を出していたことを、千駄ヶ谷さんはご存じだったんすか?」


「無論です。それを然るべき機関にリークしましたのも、我々ですので」


 そうして千駄ヶ谷は、さらに恐るべき言葉を口にしたのだった。


「そして夕方以降の報道番組におきましては、チーム・フレアのコーチ陣の逮捕も取り沙汰されることでしょう。逮捕はほとんど同時刻であったはずなのですが、やはりリングアナウンサーたる馬城容疑者のネームバリューが先走ってしまったようです」


「え? なんでチーム・フレアのコーチ陣まで逮捕されるんすか? あのお人たちは、ヴァーモス・ジムの関係者でしょう?」


「正確には、元・関係者です。彼らは多額の報酬に釣られてフレア・ジムに引き抜かれた、ヴァーモス・ジムブラジル支部のサブトレーナーなどであった模様です。……そして逮捕の理由は、馬城容疑者と同じく麻薬所持となります」


 瓜子は、呆気に取られてしまった。

 そしてそんな瓜子の前で、千駄ヶ谷はブリーフケースを開帳する。


「そしてこちらが、我々の放った第二の矢と相成ります。追撃の準備もありますが、まずはこちらの週刊誌の発売によって、新生パラス=アテナの土台を突き崩すことがかなうでしょう」


 それは、ユーリのスキャンダルを捏造した週刊誌の、ライバル誌――かつて卯月選手との熱愛疑惑の際、柳原が匿名でインタビューを受けた週刊誌に他ならなかった。

 その表紙に、三つの見出しがでかでかと記載されている。


『相次ぐユーリ・スキャンダルの真実! 《カノン A.G》運営団体の舞台裏!』

『チーム・フレアのご乱交! カメラが捕らえた禁断の狂宴!』

『エイトテレビ、再びの不祥事!? 《JUF》壊滅の再来か!? 《アトミック・ガールズ》に迫った反社会的勢力の影!』


「こちらの週刊誌は明日刊行されますが、私は見本誌をいただくことができました。……まず最初の記事におきましては、新しい運営陣が意図的にユーリ選手を排斥しようとしていた事実が、内部告発者の証言という形で綴られています。黒澤代表と徳久なる輩の会話も秘密裏に録音することがかないましたため、まず言い逃れはできないことでしょう」


「か、会話を秘密裏に録音? いったい誰が、そんなことを……」


「パラス=アテナのブッキングマネージャー、駒形氏です。これまで打ち明けておりませんでしたが、駒形氏は黒澤代表が不穏な動きを見せたその日から、我々と手を携えてくださっていたのです」


 千駄ヶ谷は駒形氏とも連絡が取れなくなってしまったため、パラス=アテナの内情はつかめなくなったのだと言っていた。あれも、まるきりの嘘であったわけである。


「そして、二つ目。我々はフレア・ジムの所在を突き止め、そちらで行われている乱行の数々をカメラに収めることがかないました。馬城容疑者は早い段階からフレア・ジムに入り浸り、もともと素行の悪かったコーチ陣と意気投合して……フレア・ジムをドラッグパーティーの会場に仕立てあげてしまったのです」


「ド、ドラッグパーティー? まさか、秋代選手や一色選手は関わってないっすよね?」


「いえ。コカインやマリファナといった違法薬物は興行のドラッグチェックに引っかかってしまうため使用を控えていたようですが、そちらの両名もいわゆる脱法ドラッグを服用していた模様です。そして、馬城容疑者を筆頭とする男性陣と、あられもない行為に耽っていたようですが……私の口から説明するのははばかられますため、ご興味があれば記事のほうでご確認ください」


 瓜子はもう、一ページたりともこの週刊誌を開く気になれなくなってしまった。


「馬城容疑者は撮影スタジオで出くわした際にも強い香水をつけ、サングラスを着用しておりましたね。あれはおそらく、マリファナの残り香りや瞳孔の散大を隠すための処置であったのでしょう。彼もまた、フレア・ジムに関わったがゆえにドラッグ遊びがエスカレートしてしまった模様です」


「……あのお人は、昨日も酔っぱらってるみたいな言動でしたよ。同情の余地もないっすね」


「はい。そして、最後の三つ目となりますが……我々は、徳久なる輩がエイトテレビの重役と接触している証拠を押さえることがかないました。この人物は、かつて《JUF》と反社会的勢力の癒着が露見した際も証拠不十分で難を逃れていたのですが、事実上の責任者であり、徳久なる輩とともに反社会的勢力と手を携えていた疑惑がかけられていました。それが再び徳久なる輩にそそのかされて、《カノン A.G》を第二の《JUF》にするべく画策していた――というのが、そもそもの発端であったようですね」


 千駄ヶ谷はあくまでも冷淡な口調で、そのように言葉を重ねた。


「こちらの記事では、徳久なる輩が――まあ、さすがに実名は出せなかったので仲介業者のT氏とされておりますが、そのT氏こそがエイトテレビの重役と反社会的勢力を結びつけた元凶であるという点にも切り込んでいます。これにて、《カノン A.G》を取り巻く不穏な状況が、すべて世間の目にさらされることになるわけですね」


 そこで言葉を区切ってから、千駄ヶ谷はあらためて瓜子とユーリの姿を見比べてきた。


「これだけのスキャンダルが公になれば、秋代選手も一色選手もしばらくは試合を行えない状況に陥ることでしょう。ゆえに、昨日の試合では何としてでもユーリ選手と猪狩さんに勝利していただきたかったのです。チーム・フレアに勝ち逃げをされてしまったら、興行の立て直しにも小さからぬ影響が出てしまうでしょうし……あらためて、最高の結果を出してくださったお二人に、感謝と慰労の言葉を送らせていただきたく存じます」


「きょ、恐縮です。……でも、すごいっすね。いったいどうやったら、こんな舞台裏の証拠まで押さえられるんすか?」


「内部調査を得意とする調査業者に依頼いたしました。……荒本は、そちらの調査員であったのです」


 これまで覇気のない顔で千駄ヶ谷の言葉を聞いていたユーリが、びくんと身体をすくませた。


「ど……どうして荒本さんが、そんな会社に……?」


「荒本は『スターゲイト』を退社したのち、友人のコネクションによってこちらの調査業者に勤め始めたそうです。私はもともと荒本本人からその話をうかがっておりましたため、こちらの調査業者に調査を依頼することになったのです」


 ふちなし眼鏡の奥の目を鋭く瞬かせながら、千駄ヶ谷はユーリの頼りなげな顔を見据えた。


「荒本は、私の期待を上回る熱情でもって、業務に取り組んでくださいました。ガードの堅い徳久なる輩の行状をここまで暴きたてることがかなったのも、ひとえに荒本の熱情ゆえでしょう。……ただ昨晩は、その熱情が行き過ぎてしまったのだろうと思われます」


「あ、荒本さんは、どうしてあんな真似をしたんすか? ここまで悪事の証拠を固めていたんなら、暴力なんてふるう必要はないでしょう?」


「いえ。《JUF》と反社会的勢力の癒着が露見した際も、徳久なる輩はすべての首謀者であるにも関わらず、最後まで逃げきってみせました。おそらくは海外に潜伏して、ほとぼりが冷めるのを待っていたのでしょう。ですから、物理的に足止めをする必要を感じたのではないかと……私は、そのように推測しております」


「推測っすか。荒本さんから直接事情を聞いたわけじゃないんすね?」


「はい。ですが昨晩、荒本から連絡をいただきました。……荒本は昨日づけで探偵業者を退社し、海外に出るそうです」


 ユーリは自分の身を抱きすくめながら、小さく震え始めてしまった。


「それは……ユーリのせいで、犯罪者になっちゃったからですよね……?」


「ユーリ選手の『せい』ではありません。ユーリ選手の『ため』に、荒本はすべてを投げ打つ覚悟であったのです」


 厳しい声音で、千駄ヶ谷はそう言った。


「ユーリ選手の辿るべき道を切り開いたのは、荒本です。私などは、彼の残していった指標を頼りにしているに過ぎません。ユーリ選手に魅了された荒本は、自身の手でユーリ選手をスターに育てあげたいと、全身全霊で業務にあたり――それを、成し遂げたのです。『スターゲイト』を退社した後も、荒本はユーリ選手の活躍を誰よりも誇らしく思っていたのだと語らっておりました」


「でも……ユーリなんかに関わったせいで、荒本さんは……」


「ユーリ選手と巡りあえたからこそ、荒本は本来以上の力を発揮して、何ものにも代えがたい誇りと達成感を手中にすることができたのです。ただ唯一の失敗は、ユーリ選手に恋愛感情を抱いてしまったことだと――荒本は、そのように語らっておりました」


 そこで千駄ヶ谷は姿勢を正し、芝居がかった仕草で咳払いをした。


「いささかならず羞恥心を覚えますが、ここは荒本が口にした通りの言葉を復唱させていただきます。……『僕は女神を見出して、それを世間に知らしめることができた。でも、女神に恋してしまったばかりに、もう崇拝者でしかあれなくなった。あとはもう、他の崇拝者たちと一緒に女神を仰ぐしかない』」


「…………」


「『そして僕は自分を守るために、何も告げずに逃げ出して、君を傷つけた。どうか僕のことなど気にしないで、君は君の道を突き進んでほしい。これからも、僕は君の活躍を陰ながら見守っています』。……昨晩の電話で、荒本はそのように語らっておりました」


 ユーリが深くうつむくと、膝の上に涙が落ちた。

 千駄ヶ谷は、まぶたを閉ざして息をつく。


「徳久なる輩を襲ったのが荒本であったなら、それは法治国家において許されざる行いです。でも、どうかあなただけは荒本を責めず……そして、荒本のためにも、これまで通りの活躍を見せていただきたく思います。荒本にとっては、それが何よりの慰めであるのです」


 ぽたぽたと涙をこぼしながら、ユーリは小さな声で「はい……」と応じた。

 それと相対する千駄ヶ谷は、まだ瞑目している。

 そうしてまぶたを閉ざしているせいか――千駄ヶ谷の冷徹なる顔は、いつになく人間らしいやわらかさをたたえているように感じられてならなかった。

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