05 暴走
沙羅選手の独壇場であった勝利者インタビューの熱気が冷めやらぬうち――ついに、本日の最終試合が開始された。
『青コーナーより、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の入場でェす!』
大歓声の中、花道にユーリの姿が現れる。
しかしユーリは頭にタオルをかぶったまま、観客たちの歓声に応えようともせず、覚束ない足取りで花道を進んでいた。
さらにボディチェックでは、ウェアを脱いで進み出ようとしたのち、慌てた様子の愛音に引きとめられる。どうやら、マウスピースをくわえるのを忘れていたようだ。
また、試合直後のような汗だくの姿であったため、ボディチェックの前に身体をふくように命じられてしまう。サキが乱暴にユーリの全身をぬぐって、ようやくボディチェックの開始である。
ユーリの常ならぬさまに心配した観客たちは、いっそうの歓声を振り絞る。
ケージに上がったユーリは、そんな人々に謝罪するかのようにぺこりと頭を下げていた。
「……ピンク頭がこんな姿をさらすのは、ちょうど一年ぶりだわね」
鞠山選手は不満そうな声音で、そのように言いたてていた。
去年の十一月大会にて、瓜子はユーリが小笠原選手と対戦する際、セコンドの業務を放棄して逃げ出してしまったため、入場シーンを目にしていなかったのだが――きっと、今日と同様の姿であったのだろう。
瓜子の胸には、こらえようもなく不安と焦燥の感情が駆け巡ることになってしまった。
『赤コーナーより、タクミ=フレア選手の入場でェす!』
いっぽうタクミ選手は、一回戦目と変わらぬ意気揚々とした姿であった。
そして、そんなタクミ選手には盛大なブーイングが届けられる。二度にわたってフェンスをつかんだ反則行為に対する非難であろう。目潰しの反則は誰にも気づかれていなかったため、ベリーニャ選手に勝利した直後は歓声をあびていたタクミ選手であるが、ユーリを相手に反則行為などを見せたら、暴動でも起きてしまいそうな勢いであった。
しかしタクミ選手はいっかな心を揺らした様子もなく、花道を闊歩する。
本当に、一回戦目の入場シーンのリプレイ映像でも見せられているかのようだ。
本心を隠して不敵なキャラを演じているために、彼女はいつでも同じ姿を再現できるのかもしれなかった。
それに付き従うセコンド陣も、やはりへらへらと笑っている。
目潰しの直前にカメラマンを突き飛ばしたということは、きっと彼らも共犯者なのだろう。
彼らはブラジリアン柔術とライバル関係にある、ルタ・リーブリ系の人間であるはずだが――あのように卑劣な行為で勝利を収めることに、なんの恥じらいも覚えないのであろうか?
瓜子がこれほどまでに他者を軽蔑したのは、生まれて初めてであるかもしれなかった。
『本日のメインイベント、第十二試合、五分三ラウンド、バンタム級、六十一キロ以下契約……王座決定トーナメント、バンタム級決勝戦を開始いたしまァす! ……青コーナー、百六十七センチ、五十八・四キログラム、新宿プレスマン道場所属……ユーリ・ピーチ=ストームゥ!』
選手紹介のアナウンスでも、やはりユーリは力ない表情で頭を下げるばかりであった。
『赤コーナー、百六十八センチ、六十一キログラム、フレア・ジム所属……タクミ=フレアァ!』
タクミ選手はふてぶてしい笑顔で、右腕を振り上げた。
これもまた、一回戦目と同じ姿である。
きっと前回の大会でも、彼女はまったく同じ姿を見せていたのだろう。瓜子の目に、もはや彼女は人間そっくりに造られたロボットか何かのように見えてならなかった。
レフェリーに招かれて、両者はケージの中央で向かい合う。
ユーリは悄然とした表情で、相手の顔を見ようともしなかった。
ユーリが肩を落としているために、タクミ選手が余計に大きく見えてしまう。
歓声はユーリを心配するあまり、ほとんど悲鳴まじりになってしまっていた。
観客たちの何割かも、去年の小笠原選手との試合を目にしているはずだ。
あの試合で、ユーリは二ラウンド目の終盤まで、ろくに反撃もできずにサンドバッグと化していたのだった。
(それであのときは、あたしが駆けつけたらユーリさんが別人みたいに暴れ回って、小笠原選手をKOしてみせたんだけど……)
しかし本日は、瓜子がエプロンサイドに駆けつけることもままならない。プレスマン道場を敵視する運営陣であれば、なおさらそれを阻止しようとするはずであった。
ルール確認を終えたのち、レフェリーはグローブタッチを要求する。
ユーリはここでもユーリらしからぬ態度で、拳を差し出さずにそのままフェンス際まで下がってしまった。
エプロンサイドでは、サキたちがしきりに声をあげている。
それが聞こえているのか聞こえていないのか――この段に至っても、ユーリはうつむき加減で視線を足もとに落としていた。
『ファーストラウンド!』
試合開始のブザーが鳴らされ、レフェリーが『ファイト!』の声をあげる。
それと同時に――ユーリが、突進した。
タクミ選手が何歩も進まぬ内に肉迫して、大ぶりの右ハイを繰り出す。
それはまるで、瓜子が初めて肉眼でユーリの試合を見届けた日のような無謀さであった。
しかし幸いタクミ選手はすぐさま反撃に転じようとはせず、ゆとりをもってユーリのハイキックを回避したのち、アウトサイドに回り込む。
ユーリはすぐさまそちらに向き直り、ワンツーから左ミドルのコンビネーションを見せた。
その次は、ふたつのジャブからの右ローだ。
「ちょっとちょっと! コンビネーションの乱発ってのは、堅実にやりあった後で見せる作戦じゃなかったの?」
灰原選手が慌てた様子で、瓜子の肩を揺さぶってくる。週の半分をプレスマン道場に通っている灰原選手は、ユーリの戦略もあるていどは把握しているのだ。
確かにこれは、作戦を度外視した攻撃である。
やはりユーリは、まったく平常心でないのだ。
サウスポーに構えたタクミ選手は悠然とステップを踏んで、間合いを無視したコンビネーションの乱発を難なく回避している。
そして、ユーリが三パターン目のコンビネーションを終了させた直後、大きく踏み込んで右ローを繰り出してきたのだった。
ふくらはぎの下側を狙った、カーフ・キックだ。
ユーリはカットもチェックもせず、まともにその蹴りをくらってしまっていた。
筋肉の薄い箇所を狙うカーフ・キックは、下手をすると一発で甚大なダメージを負ってしまう。
しかしユーリはかまいもせずに、新たなコンビネーションを繰り出した。
「あかんなぁ。こないな雑な攻撃が通用する相手やないでぇ」
寝袋に下半身をうずめた雅選手が、眠そうな声でつぶやいた。
「相手は平気な顔で人様の目ん玉をえぐれる、人でなしやさかいなぁ。こないな勢いだけの攻撃に怯むような人間がましさは持ち合わしてへんやろ」
雅選手のコメント通り、タクミ選手は沈着そのものであった。
無理に反撃しようとはせず、ここぞというタイミングでカーフ・キックを打ち込んでくる。それが三発に到達したとき、ついにユーリの動きが鈍り始めてしまった。
左足に、ダメージを負ってしまったのだ。
足は、すべての基盤である。このような序盤から前足を潰されたら、勝てる可能性も消し飛んでしまうはずであった。
それでもユーリは、コンビネーションの乱発をやめようとしない。
また、途中で片目を閉ざして的確な間合いを測ることもなく、ただひたすら力まかせの攻撃を振るうばかりであった。
「しかも、タックルのフェイントすら入れようとしないじゃん! こんなんだったら、あたしだって逃げ回れそうだよ!」
灰原選手は、惑乱しきった声をあげている。
そして瓜子は、それ以上に心を乱してしまっていた。
(ユーリさん、どうか落ち着いてください! これまでに積んできたトレーニングを無駄にしないで……MMAで、こいつに勝ってください!)
瓜子は痛いほどに拳を握り、そのように祈った。
試合時間は、早くも二分半が経過している。
その頃になって、少しずつ様相が変わってきた。
しかも、悪い方向にである。
ユーリの動きが鈍ったためか、タクミ選手がカーフ・キック以外の攻撃を当て始めたのだ。
もはや、コンビネーションの継ぎ目ですらなく、隙あらばその渦中にユーリの攻撃が当たらない角度から踏み込んで、ジャブやフックを当てていく。
そのたびにユーリはふらついたが、いったん発動させたコンビネーションを停止させることもなく、無軌道に手足を振るい続けた。
ユーリの攻撃は、まだ一発として相手に届いていない。
タクミ選手は闘牛を相手取るマタドールさながらに、ユーリの肉体に的確なダメージを与えていった。
(ユーリさん! ベリーニャ選手の仇を取るんでしょう!?)
瓜子はもはや、邪魔をする人間を叩きのめしてでも、ユーリのもとに駆けつけたい心境であった。
そんな中、タクミ選手のボディブローがユーリのレバーをえぐり――ついに、ユーリの足が止まった。
さらにタクミ選手は、前蹴りでユーリの白い腹部を蹴り抜く。
ユーリは身を折って、まろぶように後方に下がった。
タクミ選手は躍動感のあるステップで踏み込み、右腕を大きく振りかぶる。
ちょうど背後からのカメラであったため、その発達した広背筋がユーリを叩きのめすべく脈動するのが見て取れた。
そして、正面から映されたユーリは――
左目を、固く閉ざしていた。
まるで鏡映しのように、ユーリも右腕を振りかぶる。
おたがいの右拳が、おたがいの右テンプルを撃ち抜いた。
タクミ選手は、おそらくユーリより五キロ以上も重い。
しかし――上体を泳がせたのは、タクミ選手のほうであった。
ユーリもユーリで足もとをふらつかせたが、転倒をこらえるようにして、タクミ選手の首裏を抱え込む。
とても首相撲とは言えないような、乱雑なつかみ方だ。
そしてユーリは、右膝を振り上げた。
カメラはいつしか、フェンス越しの下側からのアングルに切り替えられている。
ユーリの白くてなめらかな右膝が、タクミ選手の顔面にめり込んだ。
瞬間、真っ赤な鮮血が弾け散る。
タクミ選手は、もんどりうってマットに倒れ込んだ。
今度はフェンス上のカメラが、その姿を俯瞰でとらえる。
タクミ選手は、整形手術で新たに獲得した鼻梁を、完膚なきまでに叩き潰されていた。
おびただしい鼻血が、気管にまで流れ込んでしまったのだろう。仰向けの体勢で水揚げされた魚のようにのたうち、口からあぶくまじりの血を吐き出す。
その目はぐるりと白目を剥いて、意識を失っていることが明白であった。
そして――
ユーリは荒く息をつきながら、なんの感情もこもっていない目つきで、タクミ選手の無惨な姿を見るでもなしに見下ろしていたのだった。
タクミ選手の姿を覗き込んだレフェリーは、すぐさま頭上で両腕を交差させる。
客席には歓声が爆発したが、控え室には重苦しい空気がたちこめていた。
「……これは試合じゃなく、喧嘩だな。たまたま桃園さんの攻撃が深く当たったから、たまたま勝てただけのことだ」
立松は、そんな風につぶやいていた。
瓜子の胸にも、喜びはない。ただ、ユーリが負けなかったという安堵の思いと――そして、痛烈なる共感の思いだけが胸の中に渦巻いていた。
ユーリはきっと、激烈な虚脱感にとらわれていることだろう。
ほんのついさっき、瓜子があの場所で同じ思いにとらわれていたように。
『一ラウンド、四分四秒、ユーリ・ピーチ=ストーム選手のKO勝利でェす!』
リングアナウンサーはこれまで通りの浮ついた声で宣言し、観客たちはいっそうの歓声を振り絞る。
だけどやっぱり、その歓声にも若干以上の困惑の思いが込められているように思えてならなかった。
タクミ選手はセコンド陣に担がれて、ケージを下りていく。
そしてそれと入れ替わりで、黒澤代表とコミッショナーがケージに上がってきた。
その手にチャンピオンベルトを掲げた黒澤代表は、脂ぎった顔に引きつった笑みをたたえている。
チーム・フレアの三名は決勝戦で敗北し、唯一勝利を収めた沙羅選手はチームの脱退を宣言しているのだ。
このような状況に陥った際、黒澤代表はどのような形で話をまとめる心づもりであったのか――その表情を見る限り、まったくノープランであるように思えた。
『それでは見事なKO勝利を収めたユーリ選手に、バンタム級のチャンピオンベルトが進呈されまァす!』
リングアナウンサーの声に従って、黒澤代表がユーリの背後に回り込む。
そしてそのくびれた腰に、《カノン A.G》と刻まれたチャンピオンベルトが巻かれようとしたとき――ユーリは猛然と身体をひねって、ベルトもろとも黒澤代表を弾き返してしまった。
マットにへたり込んだ黒澤代表は、呆然とユーリを仰ぎ見る。
ユーリは――滂沱たる涙を流しながら、何かわめき散らしていた。
マイクを通していないために、その声は歓声にかき消されてしまっている。
するとサキがリングアナウンサーに忍び寄り、その手からマイクを強奪した。
そして、何くわぬ顔でユーリのかたわらに進み出ると、顔の近くにそっとマイクを差し出したのだった。
『……こんなベルト、ユーリはいりません! ユーリはもう、こんな気持ちで人を殴りたくないんです!』
ユーリの涙声が、歓声を圧して響きわたった。
『ベル様にひどいことをしたタクミ選手を、ユーリはどうしても許すことができませんでした! こんな風に、相手を憎みながら殴り合うなんて……こんなの、スポーツじゃありません! ユーリはMMAが好きだから、たくさんお稽古して、みんなに試合を観てもらいたいんです! こんなの……こんなの、ユーリが大好きな格闘技じゃないんです!』
瓜子は、ユーリの言葉に胸をえぐられる思いであった。
瓜子もまた、ユーリと同じ気持ちに苛まれて――瓜子はそれで虚脱感を覚えたが、ユーリは激情をかきたてられたのだった。
『この三年間、ユーリはすごくすごく幸せでした! 最初の一年間は負けっぱなしでしたけど、それでもすっごく楽しかったんです! 《アトミック・ガールズ》でデビューして、みんなの前で試合ができて、ユーリは心から幸せだったんです! ユーリがこんなに幸せだと思えたのは、生まれて初めてのことでした!』
そうしてユーリは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、その場にうずくまってしまった。
が、サキは執拗にそれを追いかけて、突っ伏したユーリの近くにマイクを置く。
『でも、こんなのちっとも幸せじゃありません! 《カノン A.G》なんて、チーム・フレアなんて、大っ嫌いです! ユーリの大好きだった《アトミック・ガールズ》を返してください!』
最後に魂を振り絞るような痛切なる言葉を残し――そうしてユーリは、子供のように泣きじゃくってしまったのだった。
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