03 空虚な時間

 瓜子は再び大歓声の中、花道を突き進んだ。

 ユーリに対する心配は尽きないが、こればかりは胸の奥底にぐっと吞み込んで、自分の試合に集中するしかない。タクミ選手に対する怒りもまた然りであった。


(もしも運営陣が、これでもタクミ選手を擁護するようだったら……今度こそ、自分も《カノン A.G》を離脱しよう)


 瓜子の内には、そんな思いが芽生えてしまっていた。

 しかしそのためには、まず目の前の試合に勝たなくてはならない。《カノン A.G》を離脱するならば、その前にチーム・フレアの讒言を実力で否定してみせなければならないのだった。


 一色選手を打ち倒し、チャンピオンベルトを獲得した上で、タクミ選手の反則行為を糾弾し、それが改められないようであれば運営陣の不実さを追及し、《カノン A.G》から離脱する。

 それが瓜子の決意であったが、今日の内に果たすべきはチャンピオンベルトを獲得するまでだ。千駄ヶ谷が裏で尽力してくれている以上、自分が勝手な真似をするわけにはいかなかった。


 しかしまた、タクミ選手の行いは決して許すことができない。

 レフェリーの死角を突いた反則行為で勝利を収めることなど、絶対に許されるはずがなかったのだった。


(一色選手も、反則を仕掛けてくるのかな。……まあどっちにしろ、あたしは叩き潰すだけだけど)


 ボディチェックを受けた瓜子は、平静を装いながらケージに踏み入る。

 そうして一色選手の入場を待つ間に、エプロンサイドから立松が声をかけてきた。


「おい、大丈夫か? 間違っても、感情まかせになるんじゃないぞ」


「押忍。大丈夫です。……一番しんどいのは、ユーリさんですから」


 ユーリは薄汚い反則行為によって、憧れの選手を汚されてしまったのだ。

 もしもサキが同じ目にあっていたならば――瓜子とて、平常心で試合に臨めるかどうかはあやしいところであった。


 しかしベリーニャ選手の関係者であれば、きっとこのまま有耶無耶で終わらせたりはしないだろう。

 後日にはタクミ選手の罪が暴かれて、然るべき処断が下される。それでベリーニャ選手の名誉も救われるのだと――今は、そんな風に信じる他なかった。


『第十試合、五分二ラウンド、ストロー級、五十二キロ以下契約……王座決定トーナメント、ストロー級決勝戦を開始いたしまァす!』


 軽佻浮薄なリングアナウンサーが、耳障りな声音でそのように言いたてた。


『青コーナー、百五十二センチ、五十二キログラム、新宿プレスマン道場所属……猪狩、瓜子ォ!』


 腕を上げる気持ちになれなかった瓜子は、ただ一礼してみせた。


『赤コーナー、百六十二センチ、五十二キログラム、フレア・ジム所属……ルイ=フレアァ!』


 一色選手はにこやかな表情で、左腕を振り上げていた。

 彼女も一回戦目は秒殺で勝利しており、ダメージはいっさい負っていない。いっぽう瓜子も脳震盪を起こすほどの一発を負ってしまったが、スタミナは十分に残されている。これならば、ほぼ対等の条件で試合を行えるはずであった。


 ケージの中央で向かい合うと、一色選手はほとんど笑顔で瓜子を見返してくる。

 ただ――やはりその目は、まったく笑っていないようだった。

 タクミ選手の次に薄気味悪い、嘘っぱちの笑顔である。


 レフェリーの声に応じて瓜子が拳を差し出すと、一色選手もごく尋常に拳でタッチしてきた。

 客席には、大歓声が吹き荒れている。普段は自分を鼓舞してくれるその声が、今の瓜子には少しだけ虚しかった。


『ファーストラウンド!』の宣告とともに、試合が開始された。

 瓜子は気持ちを引き締めて、いざケージの中央に進み出る。


 一色選手は、アウトスタイルのサウスポーだ。

 なおかつ、接近戦では首相撲と肘打ちおよび膝蹴りを得意にしている。

 しかし、佐伯とリンによってさんざんしごかれてきた瓜子に、臆する気持ちはまったくなかった。


 一色選手はこれまで通り、軽やかにステップを踏んでいる。

 彼女は瓜子よりも、十センチ長身だ。それに手足もほどほどに長いため、リーチ差はそれ以上に及ぶはずであった。


 ただ――つい先刻、もっと長身のイリア選手とやりあったためであろうか。瓜子には、なんだか一色選手がずいぶん小さく見えてならなかった。

 いや。スパーリングパートナーを務めてくれた佐伯も一色選手とほとんど同程度の背丈であったが、もっと大きく感じてやまなかったのだった。


(なんでだろう……でもまあ、大きく見えるよりはマシか)


 瓜子が前進すると、一色選手はアウトサイドにステップを踏んだ。

 瓜子はそれを追いかけて、先に左ローを打ってみせる。


 想定よりも深く、そのローが一色選手の右足にヒットした。

 もちろんあちらは足を浮かせてカットしていたが、それなりの感触が瓜子の足に残されている。それに、バックステップで逃げる一色選手は、さらににこやかな表情になっていた。


(攻撃が効くと笑顔になる選手って、意外に多いよな)


 そんな想念を浮かべつつ、瓜子は一色選手を追いかけた。

 広いケージでアウトスタイルの選手を追うのは、大変なことだ。

 しかし瓜子はこの日のために、さまざまなトレーニングを積んでいる。佐伯が合流するまでは、サキや愛音にお願いをしてアウトスタイルの対策を磨いてきたのだ。


 その成果を見せるべく、瓜子は一色選手を追いかけた。

 不用意に近づけば反撃をくらってしまうため、相手の手足の届かない距離をキープする。そして相手のステップのリズムをつかみ、ひと息に間合いを潰して攻撃を当てるのだ。


 一色選手もキックやムエタイのトップファイターであったのだから、こちらのやり口はお見通しであろう。

 そこを補う手立ては、立松が与えてくれていた。


 まずはさきほどと同じ手順で、瓜子は左ローをヒットさせる。

 そしてさらに、蹴ったばかりの前足に片足タックルを仕掛けてみせた。


 左拳で攻撃のモーションを見せかけていた一色選手は、慌てた様子でバックステップする。きっと瓜子の左ローにカウンターを合わせようと考えていたのだろう。それを防ぐための、片足タックルであった。


(寝技の勝負なら、自分に分がある。だから、組み技のプレッシャーをかけて、スタンドでペースを握る)


 立松の教えを反芻しながら、瓜子はさらに一色選手を追いかけた。

 一色選手は牽制の右ジャブを振っているが、それが届かない距離をキープしているため、恐れる必要はない。

 瓜子はそのジャブの打ち終わりを狙って、これまでよりも大きく踏み込んでみせた。


 狙いはレバー、左のボディブローである。

 一色選手は俊敏に身を引いたが、それでもそれなりの勢いでレバーをえぐることができた。


 一色選手は、また笑っている。

 そして瓜子は、ひとつの確信を抱くことがかなったのだった。


(一色選手は……佐伯さんよりもステップが鈍いし、リズムも単調だ)


 佐伯であれば、こうもやすやすとパンチを当てさせてくれなかった。瓜子がパンチの間合いまで踏み込もうとすると、とたんに長い腕をのばしてストッピングしてくるか、あるいは逆にジャブを当ててくるのだ。


 佐伯は猫のように軽やかで、パンチも軽いがスピードに秀でている。それに比べると、一色選手は動きがゴツゴツとしており、サークリングしているのにどこか直線的であった。


(後藤田選手との対戦では、もっとなめらかな動きに見えたのにな)


 何にせよ、ここは攻勢をかけるべき場面であった。

 逃げる一色選手に追いすがり、瓜子はジャブからストレートまで当ててみせる。

 そしてタックルのフェイントに繋げると、一色選手は反撃もできないまま後ずさった。


 瓜子は息をつく間も与えず、右のミドルを繰り出す。

 一色選手はかろうじて腹を守ったが、その笑顔はダメージのほどを如実に示していた。


 一色選手は腰から上が細いため、ボディが打たれ弱い様子である。

 この調子で上下を散らしていけば、もっと有効な打撃を当てられそうなところであった。


「二分経過! そのペースで攻めていけ!」


 大歓声の向こうから、立松の声が聞こえてくる。

 それに従い、瓜子は再びのレバーブローと返しの右フックを当ててみせた。

 どちらもクリーンヒット一歩手前の、深い当たりだ。

 いっぽう瓜子は、まだ一発の攻撃ももらっていなかった。


 順調すぎて、恐ろしいほどである。

 もしかしたら――一色選手は、佐伯よりもずいぶん技量が下回っているのかもしれなかった。佐伯があまりに強敵であったため、一色選手の動きが鈍く思えてならないのだ。


 それに、イリア選手である。

 イリア選手の有する、あの圧迫感――いつどこからどのような攻撃が飛んでくるかもわからない、あの嫌らしいプレッシャーが、まだ瓜子の肉体に残されている。それに比べると、一色選手はあまりに動きが単調で、ただ背が高いだけの相手にしか思えなかった。


(よくないな。余裕をかまして、ディフェンスがおろそかになっちゃいそうだ)


 瓜子はいったん攻撃の手を止めて、気持ちを引き締めなおそうとした。

 その瞬間、一色選手が猛然とつかみかかってきたのだった。


 バックステップが遅れた瓜子は、一色選手に首の裏を抱え込まれてしまう。

 彼女が得意とする、首相撲の体勢だ。


「……調子に乗るなよ、ちび」


 耳もとで、そんな言葉が囁かれた。

 そして足もとから、鋭い膝蹴りが飛ばされてくる。

 瓜子はなんとか、それを右腕でガードしてみせた。


(大丈夫だ。思ったほどの威力じゃない)


 それに、首裏の拘束もそれほど堅く感じられなかった。

 首相撲に関しては、リンからたっぷり稽古をつけてもらっているのだ。それにプレスマン道場でもジョンが首相撲の熟練者であるため、もともと入念に稽古を積まされていたのだった。


 瓜子は肘打ちを警戒しつつ、相手の内側に腕を差し入れる。

 そのとき、再び悪意のしたたる囁き声が耳の中に注ぎ込まれてきた。


「ジタバタするんじゃねえよ。一生子供を産めないカラダにしてやろうか?」


 試合中に相手を罵倒するなど、下の下のやり口である。

 しかしこれだけ密着した上での囁き声であるから、レフェリーのもとには届いていないのだろう。会場には歓声が吹き荒れていたので、なおさらであった。


 瓜子は一色選手の下劣な行いを黙殺し、首相撲の解除に取り組んだ。

 腕を差し返しながら距離を詰めているので、これならば膝蹴りで腹を狙われる恐れはない。あとは肘打ちさえ警戒しておけば――


 そこまで考えたとき、瓜子の体内に電流のような痛みが走り抜けた。

 これまでに感じたことのないような、股下から背骨まで突き抜けていく痛みである。

 瓜子が思わず前屈みの姿勢になると、「ブレイク!」の声が響きわたった。


 首相撲を解除された瓜子はわけもわからぬままふらついて、背後に迫っていたフェンスに寄りかかる。

 激烈な痛みは一瞬で去っていたが、おかしな箇所がじくじくと痛んでいた。女性用のファールカップ、アブスメントガードで守られた、股間の周辺である。


「お、おい、大丈夫か? 男に比べりゃマシなんだろうが……」


 と、フェンス越しに立松の心配げな声が飛ばされてくる。

 どうやら瓜子は、一色選手の膝蹴りで股間をまともに蹴りあげられたようだった。


(びっくりした……股間を蹴られると、あんな痛みが走るんだ)


 局部が急所と見なされているのは、おそらく男性のみであろう。しかし、女性は女性で繊細かつ神経が多く通った場所であるため、独特の痛撃が走るようだった。


(……一生子供を産めないようにとか言ってたよな。つまりこれも、故意の反則ってことか)


 瓜子が顔を上げると、一色選手は心から申し訳なさそうな面持ちで、ぺこぺことレフェリーに頭を下げていた。

 そんな彼女に、観客たちが盛大なブーイングをあびせかけている。タクミ選手も目潰しの反則は見逃されてしまったが、その前にフェンスをつかむ反則を二度も見せていたのだ。これだけ反則が続けば、観客たちの反感を買うのも当然であった。


(で……どうせテレビの放映では、反則のシーンもカットされるんだろうな)


 瓜子の胸に、また虚しさが広がった。

 試合中にこのような虚しさを覚えるのは、人生で初めてのことである。

 自分は何のために、このような場所で痛い目にあっているのか――ふとすれば、そんな疑念にとらわれてしまいそうだった。


「……再開できるか? ダメージがあるなら、もうしばらくインターバルを置くが」


 レフェリーが事務的な口調で、そのように問うてきた。

 瓜子はフェンスから背中を離して、「いえ」と答えてみせる。


「大丈夫です。試合を再開してください」


 何もしないまま時が過ぎれば、それだけ虚しさがつのってしまいそうだった。

 瓜子がケージの中央に進み出ると、一色選手は眉を下げながら頭を下げてくる。

 ただやはり、その目には嘲弄の光が渦巻いていた。


「今の反則は口頭注意に留めるが、悪質な反則は一回で失格負けだからな。両者、クリーンなファイトを心がけるように」


 レフェリーの言葉に従って、瓜子は仕方なく一色選手とグローブをタッチさせた。

 瓜子を励ますように、ブーイングは歓声に変じている。しかしそれすらも、今の瓜子には慰めにならなかった。


(あたしはMMAをやりたいんだ。喧嘩をしたいわけじゃない)


 そんな思いにとらわれながら、瓜子は一色選手と相対した。

 レフェリーが試合の再開を告げるなり、一色選手は再び躍りかかってくる。アウトスタイルを打ち捨てたかのような、左右のフックの乱発だ。瓜子がどんなに集中を乱していても、そんなお粗末な攻撃をくらう理由はなかった。


 瓜子がバックステップすると、大ぶりの左ハイが追いかけてくる。

 お次は届くはずもない、横殴りの肘打ちだ。


 一色選手は勝手にエキサイトして、勝手にペースを乱してしまったようだった。

 瓜子は胸中に広がる虚脱感をぐっと吞み下して、決意とともに拳を固める。


(こんな試合、すぐに終わらせてやる)


 瓜子は逃げるのをやめて、迎撃の体勢を取った。

 そこに、乱雑な右ローが飛ばされてくる。


 勢いは凄まじいが、高さの設定が無茶苦茶だ。カーフ・キックにしては高すぎるし、通常のローキックであれば低すぎた。

 これならば、キック流のカットではなくMMA流のチェックで十分であろう。

 一瞬の間にそう判断した瓜子は、前足重心のまま膝を相手の蹴り足の方向に向けた。


 瓜子の左膝に、一色選手の右すねが正面からぶち当たった。

 その瞬間――瓜子の膝に、見知らぬ感触が炸裂した。


 痛みではない。

 何かゴリッという石をこすりあわせる音色にも似た奇妙な感触が、瓜子の左膝に走り抜けたのだった。


 まさか、膝の皿を割られてしまったのか?

 瞬時、瓜子はそんな不安感に見舞われることになったが――そうでないことは、すぐに理解できた。

 カウンターで右フックを振るおうとした瓜子の眼前から、一色選手の姿が消えたのだ。


 一色選手は、瓜子の足もとに倒れていた。

 そして、自分の右足を抱え込みながら、獣のように絶叫をあげていたのだった。


 その右足は、すねの真ん中でくにゃりとおかしな方向に曲がっている。

 瓜子の左膝をまともに蹴り抜いた彼女の右足は、脛骨がへし折れてしまったようだった。


 レフェリーが試合の終了を身振りで示し、リングドクターとセコンド陣がケージになだれこんでくる。

 困惑まじりの大歓声の中、耳障りなアナウンスが響きわたった。


『一ラウンド、三分二十二秒、レフェリーストップにより、猪狩瓜子選手のTKO勝利でェす!』


 そんな言葉を聞かされても、瓜子の胸から虚しさが消えることはなかった。

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