02 老練の毒蛇と幼き狂犬
十五分間の休憩の後、四大王座決定トーナメントの決勝戦が開始された。
まずはアトム級、雅選手と犬飼京菜の一戦である。
瓜子の出番は雅選手の次であったため、実際にその試合を見届けることはできない。ただ瓜子は、後日の放映でその内容を確認し――そうして大きな感慨にとらわれることになったのだった。
雅選手は、三十五歳か三十六歳。十年以上にわたるキャリアの中で三回もの戴冠を果たした、この階級のトップファイターだ。
それでも彼女がこの階級の日本人ナンバーワン選手と呼ばれていたのは、数年前までのことである。三度の戴冠を果たしたということは、二度の転落を経験したということでもあるのだ。
瓜子が小学生であった頃、雅選手はまぎれもなくこの階級の絶対王者であった。
また、《アトミック・ガールズ》の創世期にはやたらとメディアに露出しており、「妖艶なる美人ファイター」として広告塔の役割をも果たしていた。
KOパワーは持たないが、空手仕込みの苛烈な打撃で相手を追い込み、最後はアナコンダのごときグランドテクニックで勝負を決める。瓜子の好みとは合致しなかったが、その強さはまぎれもなく本物であった。
しかし時代が進むにつれて、有望な若い選手が次々に出てくると――雅選手は、トップファイターのひとりという存在に見なされることになった。数年前にベルトを失った際には、ついに引退かという声まで囁かれていたのである。
しかし雅選手は蛇のごとき執念深さで勝利を積み重ね、ついに昨年、ベルトを取り戻した。そこからは連勝を重ねて、《カノン A.G》の発足までは王座を守り通してみせたのだ。
いっぽう対戦相手の犬飼京菜は、いまだ十七歳の新人ファイターである。
たしか彼女は愛音のひとつ上の世代のはずなので、高校に通っていれば三年生の世代であろう。雅選手とは、十九歳の年齢差であった。
しかし彼女は早世した父親の無念を晴らすために、幼い時分からトレーニングを積んでいたのだという。サキから聞く限り、それは年齢にそぐわぬ過酷なトレーニングであったようだった。
その結果として、彼女は今年の頭に《G・フォース》のアトム級王座を獲得することになった。また、柔術の大会では白帯の部ではあるが軽量級と無差別級において同時優勝したのだと聞いている。
そんな実績をひっさげて、彼女はMMAの世界に殴り込んできたのだった。
執念深さでは、雅選手とどちらがまさっているのか、瓜子には判別することも難しい。
ともあれ――そんな両名が、《カノン A.G》のアトム級の王座をかけて、雌雄を決することに相成ったのだった。
後日の放映で確認した際、雅選手はケージインしてもまだ眠そうな顔をさらしていた。
いっぽうの犬飼京菜は、いつも通りに凶悪な闘争心を撒き散らしている。
雅選手はやたらと頑丈なアレクサンドラ選手を相手に二ラウンドの中盤までやりあい、かたや犬飼京菜は無傷の秒殺であったのだ。スタミナの残量などは、最初から比較にもならなかった。
ただでさえ若い犬飼京菜のほうだけが、万全の状態で試合に臨んでいる。それだけで、大ベテランの雅選手には大きなハンデであるはずであった。
そうして、試合は開始され――犬飼京菜はこれまで通り、相手に突進した。
ジャンピングバックスピンキック、胴回し回転蹴り、水面蹴り、超低空タックル、飛び膝蹴りと肘打ちの同時攻撃、そして相手の足もとへのスライディング――これだけバリエーションの存在する犬飼京菜のファーストアタックを完全に見切るのは、不可能に近いだろう。
よって、雅選手は相手のアクションを無効化する作戦を取った。
弾丸のように疾駆する犬飼京菜を眼前に迎えながら、そのままぺたりと腰を落とし、フェンスすれすれの場所でマットに背中をつけてしまったのだ。
犬飼京菜は、そのまま跳躍して雅選手の上に躍り乗るかと思われたが――すんでのところで、それをこらえた。おそらくは、雅選手のグラウンドテクニックを警戒したのだろう。犬飼京菜もそれなり以上の技術を有しているはずだが、それは大江山すみれを数分がかりで仕留められるというていどの力量であるのだ。大江山すみれも瓜子よりは寝技が達者であったものの、それでもユーリや鞠山選手には手も足も出ないレベルであったのだった。
雅選手の足先で急停止した犬飼京菜は、蹴りの一発も放とうとはせずに、そのまま後ずさった。
雅選手はレフェリーにスタンドを命じられ、ケージの中央で試合再開である。
スタンド勝負を望んだ犬飼京菜は、果然と猛攻を繰り出した。
古式ムエタイをルーツにする、トリッキーな大技の連発である。
ただこれもサキ情報であるが、犬飼京菜の打撃技のすべてが古式ムエタイをルーツにしているわけではないらしい。むしろ基本は、アメリカン空手とジークンドーなのではないかという話であった。
「あの陰険な細目野郎が、そっちの使い手だったからなー」
と、サキはいかにも不機嫌そうな面持ちで言っていたものである。
ちなみに細目野郎というのはドッグ・ジムのコーチのひとり、ダニー・リーなる人物のことである。サキ自身も十六歳になる寸前までドッグ・ジムに通っていたそうだが、どうやらこのダニー・リーという人物と関係がこじれて、縁を切ったようであった。
そうと見てみれば、犬飼京菜とサキのスタイルに共通点を見いだせないこともない。サキもまた、半身の構えから蹴りの大技を繰り出すことを得意にしていたのだ。
しかし犬飼京菜の場合は、サキよりも偏っていた。彼女はほとんどパンチを使わず、蹴りの大技だけで試合を組み立てている節があるのだ。
それはおそらく、彼女が小さな体躯というハンデを負っているゆえなのだろう。
自分のパンチが届くほどの間合いに踏み込むのは、危険であると判じているのだ。
それにまた、彼女の体格ではパンチで効果的な技を出すことも難しいのだろうと思われた。
蹴りで大技を連発するのも、そのハンデを補うためであるように思えるのだ。
彼女は全身を躍動させて、回転系の蹴りを繰り出す。ただ体重を乗せるだけでは足りないため、大きな挙動で勢いをつけているのだろう。それで初めて、誰よりも小さな彼女にKOパワーが生まれるのであろうと思われた。
上、中、下段のバックスピンキックに、大ぶりのハイキックとミドルキック――それに、相手の足を薙ぎ払う水面蹴りに、カポエイラを思わせる側転からの蹴り。彼女が主要の武器にしているのは、そういった大技の数々であった。
その猛攻にさらされた雅選手は、いかにも危うげな様相であった。
もとよりスタミナ残量の少ない雅選手はステップが重いし、相手が俊敏で蹴り技を多用するために、なかなかリーチ差も活かせない。犬飼京菜の大技を腕でブロックするたびに、雅選手のスレンダーな肢体は頼りなげにふらついていた。
相手にこれだけ動かれては、テイクダウンを狙うことも難しいだろう。
なおかつ、身長差は二十センチ以上にも及んだため、足もとへのタックルを仕掛けるのも至難の業であるはずであった。
結果、雅選手は一発の攻撃を当てることもできないまま、第一ラウンドが終了である。
決勝戦は五分三ラウンドであったが、時間が進めば進むほどに、スタミナのないほうが不利になっていくはずであった。
そうして二ラウンド目が開始されても、状況に大きな変化は見られなかった。
エプロンサイドの鞠山選手たちもしきりに声をあげているようであったが、なかなか苦境を打開することはできない。もとより雅選手はリーチ差を活かして遠い位置から打撃を当てるのが本領であったため、犬飼京菜を相手にインファイトを仕掛けるというのも難しいようであった。
それでけっきょく二ラウンド目も、同じ調子で終了である。
防戦一方であった雅選手は白い肌をしとどに汗で濡らして、肩で息をしてしまっていた。
テレビの画面ごしにも、その両腕が真っ赤になってしまっているのがうかがえる。犬飼京菜の蹴り技というのは、それほどに強烈であるのだ。
クリーンヒットは一発も許していないものの、このままいけば判定負けは確実である。
しかも犬飼京菜はこれだけの運動量をこなしながら、インターバル中も椅子に座ろうとしなかった。それだけ、スタミナに自信があるのだ。
そうして訪れた、最終ラウンド――やはり、流れは変わらない。
いや、攻撃をブロックし続ける雅選手は、これまでよりもはっきりと弱々しくふらつくようになっていた。
このままでは、判定にまでもつれこむことなく、KO負けをくらってしまうかもしれない。
きっとリアルタイムで観戦していた人々の大半は、そのように感じていたことだろう。実際に戦っている犬飼京菜こそが、それを一番強く実感しているはずであった。
このままのペースでやりあっても、犬飼京菜の判定勝利は確実である。
しかし、犬飼京菜のバックスピンハイキックで雅選手が大きくぐらつくと――犬飼京菜は狂犬そのままの様相で、これまでと異なる攻撃を繰り出した。
一歩の助走で跳躍する、飛び膝蹴りである。
その細い両腕は、肘打ちを繰り出すべく、高々と掲げられていた。
前回の試合で前園選手を葬った、飛び膝蹴りと肘打ちの同時技――それが『牙を突き合わせる象』と『鬼の都ロンカーを渡る猿王ハヌマン』という名を持つ古式ムエタイの技の複合であることを、犬飼京菜をライバル視する愛音がインターネットの検索機能を駆使して突き止めていた。
飛び膝蹴りと、両腕の肘打ち。KOパワーを有するふたつの技を組み合わせた、恐るべき技だ。
しかし、犬飼京菜がそれを繰り出した瞬間――前の攻撃でふらついていたはずの雅選手が、しゅるりと前進した。
頭と腹を同時に守ることは、不可能である。それで雅選手は前進して距離を潰すことで、どちらの攻撃も無効化してみせたのだった。
それでも犬飼京菜の膝蹴りは、雅選手の胸もとに炸裂した。距離を潰したために威力が半減したとしても、相当な衝撃であったことだろう。
しかし雅選手は犬飼京菜の両肘が振り下ろされるより早く、空中に浮かんだその身を抱え込み、マットに押し倒してみせた。
ついに、寝技の展開である。
犬飼京菜の小さな身体にまとわりついた雅選手は、まさしくアナコンダそのものであった。
相手の身体にねっとりと絡みつき、じわじわと締め上げて抵抗の力を奪っていく。犬飼京菜のほうは、大蛇に襲われたポメラニアンさながらであった。
だが、その時点で残り時間は二分足らずだ。
これをしのがれたら、雅選手は判定負けが確実である。
そして犬飼京菜も驚異的な粘りを見せて、なんとかフェンス際まで這いずり、壁を支えにして立ち上がろうとした。
そして――その際に、雅選手に背中を預けてしまったのだった。
おそらくは、「立ちたい」という気持ちが先走ってしまったのだろう。また、昨今では相手に背後を取られてでも立ち上がるというのが、近代MMAのセオリーであると、瓜子は教わっていた。
しかし相手は、百戦錬磨の雅選手だ。
犬飼京菜の小さな背中にへばりついた雅選手は二匹の蛇めいた両腕で犬飼京菜の首を絡め取り、体重をかけつつ足を引っかけて、再びグラウンド地獄に引きずり込んだ。
雅選手の細長い腕は、チョークスリーパーを狙うのに適しているのだろう。
犬飼京菜は懸命にあらがったが、はねのけてもはねのけても雅選手の両腕は執拗に左右から首に回されて――最後には、完全にクラッチされてしまったのだった。
犬飼京菜は、その小さな身に宿された力のすべてを使って暴れ回り――そして、ぱたりと動かなくなった。
レフェリーにストップをかけられて、雅選手は相手を解放する。犬飼京菜はタップアウトすることなく、ブラックアウトしてしまったのだった。
三ラウンド、四分二十四秒、チョークスリーパーにより、雅選手の一本勝ち。
それが、瓜子が後日の放映によって見届けた試合の結果であった。
『なかなかおもろいスタイルやったけど、うちの前に立ちはだかるには、十年ばかり早かったなぁ』
試合の後、《カノン A.G》アトム級王座のベルトを授かった雅選手は、そんな風に言いたてていた。
意識を取り戻した犬飼京菜は、セコンド陣に頭からタオルをかぶせられつつ、がっくりとうなだれている。彼女が人前で初めてさらす、弱々しい姿であった。
『ま、このちびっこがどこまでド腐れどもの思想に染まっとったかは知らへんけど、つるむ相手は考えたほうがええで? 本日壊滅する恥知らずのド腐れどもは、土下座の準備をしときやぁ』
本日はリングアナウンサーも決してマイクを手渡そうとしなかったので、雅選手もマイクを破壊することはできなかった。
しかし客席は、歓声の嵐である。まずは雅選手が、《アトミック・ガールズ》生え抜きの選手の強さを証明してくれたのだ。
その大歓声は、瓜子も入場口の裏側で拝聴していた。
そしてそこに、チャンピオンベルトを細い肩に引っ掛けた雅選手が凱旋してきたのだった。
「ああもうしんどいわぁ。あんだけ隙を見したったのに、最終ラウンドまで近づいてきいひんのやさかい。もうへとへとやでぇ」
入場口の扉をくぐるなり、雅選手はベルトを放りだして、その場にへたり込んでしまった。
灰原選手は慌てふためきながら、「ちょっとちょっと!」と雅選手の身体を支える。
「おねーさんさ、せっかくのベルトを床にほっぽるんじゃないよ! だから肩を貸そうかって言ったでしょ?」
「ファンのみなさんの前で、そないな情けない姿を見せられるかいな。……でもまあ、ベルトより先にうちに手ぇ貸したとこは評価してやらのうもあらへんで」
「ったく、強情っぱりなんだからー! ……あ、うり坊! あんたも頑張りなね!」
「押忍。雅選手もセコンドのみなさんも、お疲れ様でした。……絶対に勝ちますので、どうか見届けてください」
雅選手は汗だくの顔で妖艶に微笑み、灰原選手はにぱっと笑いながらサムズアップしてくる。ベルトをつまみあげた鞠山選手は威勢よく鼻息を噴き、セコンドに必要な器材をひとりで抱え込んだ小柴選手は力強い視線を向けてくる。
そんな頼もしい面々に見守られながら、瓜子はいざ決勝戦の舞台に向かうことになったのだった。
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