ACT.5 カノンA.G 2 ~Final round~
01 許されざる真実
しばらくの後、控え室のモニターにリプレイ映像が流されることになった。
地上のカメラマンが転倒している間、別アングルから撮影されていた映像が、そこで披露されることになったのだ。
遠いアングルだが、両者の動きを判別するのに支障はない。
タクミ選手をフェンスに押し込んだベリーニャ選手が、片足タックルから胴体への組みつきに移行したシーンからであった。
タクミ選手は腕を差し返そうとせず、ベリーニャ選手の顔のあたりに両手の先をねじこんで、なんとか押し返そうとした。
パワーだけは、タクミ選手のほうがまさっているはずであるのだ。ベリーニャ選手は顔をそむけてその圧迫をこらえつつ、相手の背中でクラッチを組もうとしていた。
ベリーニャ選手がやや前屈の姿勢であるため、両者の胸から下にはわずかばかりのスペースが空けられている。
タクミ選手はその隙間から、右膝を振り上げた。
しかし隙間がせまいため、ほとんど勢いはついていない。それに、ベリーニャ選手の股間に当たってしまいそうな、きわどい角度であった。
女子の試合においても股間への攻撃は反則と見なされるので、レフェリーも身を屈めてそれを見極めようとしている。
そして――ベリーニャ選手が、いきなりタクミ選手のもとから飛び離れた。
それに追いすがったタクミ選手が、おもいきり振りかぶった右肘を、ベリーニャ選手のこめかみにヒットさせる。
ベリーニャ選手は後ろざまに倒れ込み、それにのしかかったタクミ選手が肘打ちの連打を見せた。
あとは瓜子たちも、リアルタイムで見た通りである。
「……けっきょく、どういうこと? テイクダウンをあきらめたベリーニャが、一瞬の隙を突かれて反撃をくらったってだけなの?」
灰原選手が疑念を呈したが、やはり答えられる者はなかった。
何か、不可解なことが起きたのだ。
しかし、その際の映像を確認しても、その正体がわからない。局部に近い位置への膝蹴りを嫌がったベリーニャ選手が距離を取ろうとして、そこで反撃をくらった――瓜子には、そんな風にしか思えなかった。
(でもあのベリーニャ選手が、そんな油断で負けたりする?)
それに、会場の様子もいささかおかしかった。
タクミ選手は退場し、ベリーニャ選手も担架で運ばれていったのに、セコンドのひとりがまだケージ上でレフェリーと押し問答していたのだ。それはベリーニャ選手のセコンドについていた、壮年の白人男性であるようだった。
控え室のモニターは解説席の音声がオフにされているので、瓜子たちには状況がわからない。ただ、アナウンスの声はカメラが拾ってくれるため、タクミ選手のTKO勝利という裁定がくつがえっていないことは確認できた。
「……けっきょくわけはわからんままだが、試合の勝敗は動かんようだな。おい、ジョン」
「ウン。……ユーリ、ショックなのはリカイできるけど、イマはシアイにキモちをキりカエられるかなー?」
立松にうながされたジョンが、果てしなく優しげな眼差しでユーリに声をかけた。ユーリは瓜子の手を握ったまま、きっとウェアの下の全身を鳥肌まみれにしながら、ずっと声もなく涙をこぼしていたのである。
「ユーリがシアイをアキラメたら、きっとベリーニャもカナしむよー? ベリーニャのためにも、ユーリはこのトーナメントでユウショウするべきじゃないかなー?」
「……はい。わかってます。ユーリは大丈夫です」
まったく大丈夫ではなさそうな声で言いながら、ユーリは瓜子の手から指先を離した。
そうして愛音から渡されたタオルで涙をぬぐうと、見ているこちらが辛くなるような微笑を口もとにたたえる。
「ベル様が負けちゃったなんて、今でも信じられないですけど……ユーリは、試合を頑張ります。それで胸を張って、ベル様に報告します」
「ウン。ユーリは、エラいねー」
ユーリに母性あふるると評されたことのあるジョンは、とてもやわらかい面持ちで微笑を返した。
会場には、ようやく十五分間の休憩時間が告げられる。その後には、それぞれの階級の決勝戦が行われるのだった。
瓜子の出番は二試合目であるため、クールダウンしかかった身体に再び熱を入れるべく身を起こす。
控え室の扉が開かれたのは、そんなタイミングであった。
「******! ***************?」
それはベリーニャ選のセコンドである、白人男性であった。彼もようやくケージを下りて、控え室に戻ってきたのだ。しかしベリーニャ選手はケージから救急病院に直行したはずであるので、この場にはいなかった。
白人男性は真っ赤な顔をしながら、英語で何かをまくしたてる。
すると、ジョンが英語でそれに応じた。
ふたりの間で、しばらく言葉が交わされて――英語を解する人々が、じょじょに顔色を変え始めた。メイと鞠山選手、それに立松である。
「あの、おふたりは何を話してるんすか?」
「いや、俺の英語力じゃ正確なことはわからん。しかし、こいつは――」
立松は厳しい面持ちで、メイを振り返った。
メイは爛々と双眸を燃やしながら、ひとつうなずく。
「ベリーニャ、反則のせいで負けた、言ってる。目潰しの反則で、慌てて身を離したところで反撃を受けた。運営陣の裁定に異議を申請したけど、却下された」
瓜子は、絶句することになった。
目潰しの反則――それでベリーニャ選手は、あんな不自然かつ無防備な形で、タクミ選手から飛び離れることになったわけである。
「それじゃあ、まさか……あっちのセコンドがカメラマンを突き飛ばしたのも、その反則を映されないように……?」
「ベリーニャのセコンド、そのトラブルに気づいてなかったから、コーチ・ジョンが説明してる。でも、膝蹴りでレフェリーの注意を下に向けてから目潰しを仕掛けたから、完全に故意だと思う。次に対戦するユーリ・モモゾノはくれぐれも気をつけるように、忠告してる」
瓜子は息を呑みながら、ユーリを振り返った。
ユーリは――きっと無意識の内にであろう、自分の右目を手でふさぎながら、死人のような顔色になってしまっていた。
「タクミ選手が……ベル様の目に、指を入れたのですか……?」
「ベリーニャのセコンドは、そう言ってる。ただし、証拠はない。セコンドたちは反対の側で遠かったから、自分たちの目で確認したわけでもない。……ただ、ベリーニャ本人がセコンドたちにそう告げていた」
「ベル様が、そんな嘘をつくわけがありません……それじゃあ、本当のことなのですね……」
ユーリは右目を押さえたまま、小さく震え始めた。
ユーリ自身も稽古中に目潰しをされて、それで大きく視力を損なわれることになってしまったのだ。
瓜子はほとんど発作的に、ユーリの肩をつかんでしまった。
「ユーリさん! ベリーニャ選手は、きっと大丈夫です! 目潰しをされたからって、確実に視力が落ちると決まってるわけじゃないですから……」
ユーリはすがるように、瓜子を見つめ返してきた。
その目に涙は浮かんでいなかったが――その代わりに、凄まじいまでの不安の光が渦巻いてしまっていた。
「……なんやら、やかましなぁ。誰ぞ死人でも出たん?」
と――いきなり飄然とした京都弁が響きわたった。
振り返ると、寝袋で寝入っていた雅選手が半身を起こして、アイマスクをひっぺがしている。そのかたわらには、子犬のように小柴選手が控えていた。試合の開始時間が迫っていたため、ようやく雅選手を起床させることになったのだ。
「お通夜みたいに空気が澱んどるやんかぁ。うちがひと休みしとる間に、何があったんやろ?」
「ベ、ベリーニャ選手が目潰しの反則をされたのに、レフェリーがチェックできなくて、そのまま負けることになっちゃったみたいです」
小柴選手がたどたどしく説明すると、雅選手は「ふぅん」と眠そうな声で応じた。
「で? 他のメンバーはどないなったんやろ? おしおきが必要な人間はおるん?」
「い、いえ。猪狩さんも桃園さんも御堂さんも、みんな決勝進出できましたけど……」
「せやったら、なぁんも問題あらへんなぁ。ま、ベリーニャと懇意にしてたお人らは、ご愁傷様やけど」
と、雅選手は細長い肢体をくねらせて、寝袋から這いずり出た。まさしく冬眠から覚めた蛇のごとき風情である。
そして寝起きであるためか、雅選手は切れ長の目をとろんとさせて、普段とはまったく異なる風情の色っぽさを醸し出していた。
その色香を垂れ流しにした瞳が、控え室の面々をゆっくりと見回していく。
「ま、チームなんちゃらのド腐れどもも、ついに本性を現したいうことやろ? ベルトのかかった決勝戦では、いっそう用心が必要やろねぇ。各々、あんじょうおきばりやぁ」
「……雅選手の言う通りだ。決勝戦の相手は、全員がチーム・フレアになっちまったんだからな」
厳しい面持ちで、立松がそのように言葉を重ねた。
「ベリーニャ選手のセコンド陣が抗議してくれたんなら、レフェリーもこれまで以上に厳しくチェックしてくれるだろう。だが、自分の身を守れるのは自分だけだ。十分に注意して、その上で勝て。……ジョン、桃園さんを頼んだぞ。猪狩、お前さんはウォームアップだ」
「押忍」と答えながら、瓜子はどうしてもユーリの様子が気にかかってならなかった。
ユーリはまだ自分の右目を押さえながら、血の気を失った唇を噛んでいる。その胸中に渦巻くのは、不安なのか怒りなのか――何にせよ、負の感情であるはずであった。
「ユーリ。ベリーニャのシンダンがスんだらレンラクをもらえるように、タノんでおいたからねー。とにかくイマは、シアイにシュウチュウだよー?」
「おめーはブラジル女とのリベンジ・マッチをド汚え反則なんざで潰されたんだから、シャッキリしろや。あの反則野郎を叩きのめすのが、せめてもの供養だろうがよ?」
「ユーリ様! お気持ちは痛いほどに察するのです! でもでも、故意に反則をするような選手にベルトを奪われては、絶対にならないのです!」
ユーリの頼もしいセコンド陣が、先を争うように声をかけてきた。
それでもユーリが動かないので、瓜子はバンデージごしにユーリの拳を握ってみせた。
「ユーリさん。ベリーニャ選手は、ユーリさんのために忠告を届けてくれたんです。どうか試合に勝って……一緒にベリーニャ選手のお見舞いに行きましょう」
ユーリはようやく右手を下ろして、瓜子の顔を間近から見つめてきた。
その瞳には、まださまざな激情がくるめいたままであったが――ユーリは「うん」という小さな声を絞り出した。
「ありがとう、うり坊ちゃん。ユーリはもう大丈夫だから……うり坊ちゃんも、試合を頑張ってね」
さきほどと同様に、ユーリはまったく大丈夫ではなさそうであった。
だが、これ以上はどうすることもできない。瓜子は最後にユーリの拳をぎゅっと握ってから、身を起こすことにした。
「……かろうじて、うちの根性注入は必要ないみたいやね」
と、いつの間にかこちらに近づいてきていた雅選手が、まだ眠そうな声でそのようにつぶやいた。
「こっからが正念場の本番やからねぇ。チーム・フレアを皆殺しにして、アトミック再生の第一歩にせんとなぁ」
そう言って、雅選手は普段のユーリにも劣らない色っぽさで、「あふぅ」とあくびをもらしたのだった。
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