09 勇躍

 アウトサイドにステップを踏みながら、青田ナナは右フックを繰り出した。

 左目を閉ざしているユーリには、見えにくい攻撃だ。


 しかしそれほど間合いは詰まっていなかったため、ユーリはバックステップでその攻撃を回避してみせた。相手の手足が視界から消えたら、バックステップかカウンターを発動させるというのが、ユーリの基本的な戦略であった。


 そしてもう一点、ユーリは自分から手を出してペースを握るべし、という作戦も与えられている。

 それを遂行するべく、ユーリが素晴らしい脚線美を持つ左足を振り上げた。

 前蹴りとミドルキックの中間ぐらいの軌道を走り、相手のレバーを中足で狙う、三日月蹴りである。


 青田選手は、右腕を下げてそれをブロックした。

 彼女は合宿稽古でユーリとも立ち技のスパーを行っていたが、あのときにはほとんどの攻撃をステップワークでかわしていた。ユーリの攻撃を防具のない箇所で受けるのは、きっとこれが初めてのはずだ。

 それでいったい、どんな感想を抱くことになったのか――そんなことは一切うかがわせないまま、青田ナナは再びアウトサイドに回り込もうとした。


 ユーリはアップライトのスタイルで、軽妙にステップを踏んでいる。不同視の秘密を明かして以降、ユーリのステップは心なし軽やかになったように感じられた。たとえ片目で距離感がつかめなくとも、ピントがぼやけるという重荷からは解放されることになったので、その影響が出ているのだろうと思われた。


 青田ナナは左ジャブを放ちながら、慎重に距離を計っている。

 そうして頭部をガードしたユーリの右前腕に左拳をヒットさせると、そこから大きく踏み込んで、右のフックを繰り出した。


 距離感のつかみ方が、素晴らしく優れている。

 もうバックステップは間に合わないタイミングだ。

 ゆえにユーリは堅く頭を守ったまま、右のストレートを射出した。


 おたがいの右拳が、おたがいの左腕を撃つ。

 それでぐらついたのは――青田ナナのほうであった。

 そしてユーリは相手の右フックをブロックしたのち、左拳も射出した。

 右ストレートから左ジャブにつなげる、逆ワンツーである。


 ユーリの左拳は、相手の鼻っ面にぱしんと当たる。

 傍目には軽い当たりだが、ユーリの怪力だ。きっと見た目以上の衝撃であっただろう。

 さらにユーリは左拳を引きながら、右の足を振り上げた。

 逆ワンツーから右ミドルにつなげる、コンビネーションである。


 青田ナナは素晴らしい反応速度で、頭部からボディに腕を下ろした。

 その左上腕に、ユーリのしなやかな右足が突き刺さる。

 しっかりブロックできていたが、青田ナナはその威力に圧されてぐらつくことになった。


 客席は、もう歓声の嵐である。

 こんな至近距離の打ち合いで、ユーリは相手の上を行っている。数ヶ月前には考えられない光景であった。


「やったやった! 立ち技で圧倒できたら、もう勝ったも同然っしょ!」


「全部の攻撃をブロックされてるのに、先走るんじゃないだわよ。……でもまああれだけピンク頭の攻撃をまともに受けてたら、嫌でも腰が引けるはずだわね」


 灰原選手を掣肘する鞠山選手の声も、昂揚を隠しきれていない。

 しかしそれは、すぐさま別の感慨に塗りつぶされることになった。

 青田ナナは腰が引けるどころか、その場に留まってインファイトを仕掛けてきたのである。


 まずは左のボディアッパーで、今度はユーリがぐらつかされる。

 さらに近距離から右ローを打ち、再びの右フックを放つ。

 それを左腕でブロックしてから、ユーリはたまらず後方に逃げた。


 青田ナナは執拗に追いすがり、しかもアウトサイドに踏み込んでいる。

 そして、右ミドルを繰り出した。

 蹴り技は、フックよりも厄介である。左目をつぶっていたならば、ハイかミドルかを見極めることも難しいのだ。


 だが――ユーリはしっかり、ボディを守っていた。

 さらに、それで相手の右ミドルをブロックしたのち、カウンターの右ストレートを繰り出したのだった。


 相手のミドルキックの間合いであったため、拳を当てるにはいささか遠い。

 よって、ユーリの右拳も相手の左頬に浅く当たったのみであった。

 しかしまた、相手は片足の不安定な体勢であり、浅い当たりでもユーリの怪力だ。結果、青田ナナはけっこうな勢いで後方に倒れ込むことになった。


 ダメージではなく、バランスを崩しての転倒であろう。

 しかし、倒れたことに変わりはない。

 ユーリは嬉々として、相手の上にのしかかった。


「すっげー! タイミングばっちりのカウンターじゃん! どうして左目を――いったーい!」


 灰原選手は豊満なおしりをつねりあげられて、言葉を途切れさせることになった。犯人は、もちろん鞠山選手である。


「一美ちゃんもいるんだから、迂闊なことを口走るんじゃないだわよ。どうせ放映で露見するとしても、自分からバラす筋合いはないんだわよ」


 鞠山選手が小声で叱りつけると、灰原選手は涙目で「だったら、口でそう言ってよ!」とわめきたてた。


「でも確かに、今のカウンターはお見事だっただわね。相手の右ミドルもきっちり防いでたし、いささか解せないところなんだわよ」


 と、鞠山選手は答えを求めるように、瓜子をねめつけてくる。

 沖選手の耳を気にして、瓜子も小声で答えることにした。


「ユーリさんはどっちの目を開けておくか、試合中にもなるべく頻繁に変えるように指示を出されてたんすよ。インファイトから逃げたときに、右目から左目にスイッチしたんでしょうね」


 それが、ユーリの不同視を知る青田ナナに対する、基本的戦略であった。

 なまじ不同視の存在を知っているがために、相手の攻撃は偏ったものになる可能性が高い。その裏をかくというのが、立松とジョンの作戦であったのだ。


(ユーリさんはこりゃ大変だーって騒いでたけど、見事にやってのけてくれたな)


 最初のチャンスでグラウンドに持ち込めたのは、大きな収穫であろう。ごく純粋な寝技の技量であれば、ユーリのほうがまさっているはずであるのだ。

 しかし試合であれば打撃技が許されるし、壁を使って立たれてしまうかもしれない。青田ナナの壁レスリングの技量は、こちらにしても未知数であった。


 右足をからまれてハーフガードのポジションとなったユーリは、相手の首を前腕で圧迫しつつ、まずは足を引き抜こうとしている。

 それに対する青田ナナは、しきりに腰を切ろうとしていた。


 青田ナナは、パウンドを警戒していないようだ。ユーリのこれまでの試合をじっくりと研究し、パウンドを振るわれる危険性はほとんどないと見なしているのだろう。残念ながら、ユーリはいまだグラウンドで打撃を混ぜ込むことを苦手にしていた。


 しかしまた、寝技の技術は一級品である。

 相手はパウンドに対する警戒もなしに下からの脱出にすべての力を注いでいるようだが、牛のように重いユーリがそれを許さなかった。相手がフェンスの側に腰を切ろうとすると、すかさず体重を移動してそれを妨害する。青田ナナとて寝技が苦手なわけではないはずなのに、このポジションではなすすべがないようだった。


「よし、いい感じだな。うまくいきすぎて、少し怖いぐらいだぜ」


 立松も、熱のこもった眼差しをモニターに向けている。

 そしてその目が、ふっと瓜子のほうに向けられてきた。


「お前さんも桃園さんも最近は相手が強敵ばっかりで、序盤は攻め込まれるのがセオリーになってたからな」


「押忍。でも今回は、序盤から攻めていくように指示をいただいてましたからね」


「ああ。それでお前さんも桃園さんも、これだけの結果を見せてくれたんだから……これまでは、俺たちコーチ陣のほうが慎重すぎたってことかな」


「そんなことないっすよ。自分だって、今日は初っ端からいいのをもらっちゃいましたしね。トーナメント戦じゃない限り、慎重に様子を見るべきなんでしょう。立松コーチたちの作戦は、いつも完璧です」


「完璧は言いすぎだろ」と、立松は苦笑しながら瓜子の肩を小突いてきた。


 何にせよ、ユーリは瓜子以上に、コーチ陣の作戦を完璧にこなしていた。

 ただ残念ながら、それ以上はユーリも手を進めることがかなわず、一分ほどが経過したところでブレイクを命じられてしまう。青田ナナは完全に抑え込まれつつ、それでもハーフガードの体勢とサブミッションだけは決して譲らなかったのだった。


「ここでパウンドを使えりゃあ、また展開も変わってくるんだがな。だいぶん穴のなくなってきた桃園さんの、最大の穴ってところか」


 そんな風に言ってから、立松は残りの言葉を瓜子にだけ囁きかけてくる。


「って、片目をつぶりながらスタンドをこなすってのは、無茶苦茶なハンデのはずなのにな。あんまり桃園さんの調子がいいもんだから、ついつい忘れちまうよ」


 確かにユーリは「開く目のスイッチ」を取り入れたことにより、またひと皮むけたように感じられた。

 青田ナナの動きには、若干の迷いが感じられる。きっとさきほどの展開で、ユーリが開く目のスイッチをしていることを察したのだろう。それで、ユーリがどちらの目を開いているのかと気を取られてしまえば、動きが鈍るのも必然であった。


 普通はそのようなことに気を取られることはないのだ。

 青田ナナは不同視の弱点を突こうと考えたあまりに、余計な重荷を背負ってしまったようなものであった。


 いっぽうユーリは、軽やかに攻撃を繰り出している。

 なんだか、ライブステージのユーリを見ているかのようだ。

 もともとユーリは打撃技のフォームが整っているので、ひとつひとつの動きが美しい。そこに軽妙なるリズムが重なって、まるで優雅に踊っているかのように見えてしまうのだった。


 青田ナナもすべての攻撃をブロックしていたが、怪力のユーリが相手では少しずつ手足にダメージが溜まっていくはずだ。

 いっぽうユーリは相手の攻撃を何発かくらっていたが、クリーンヒットは許していなかった。せいぜい何発かのジャブとローをもらったていどである。


 青田ナナはすべての攻撃をブロックしているのだから、「有効打」という観点からは、彼女のほうがまさっているのかもしれない。

 しかしペースを握っているのも、ダメージが軽微であるのも、明らかにユーリのほうであった。

 

 そうして残り時間が、一分半になったとき――

 ユーリが、次なる作戦を発動させた。

 両目を開いて、間合いを無視した、全力のコンビネーションの乱発である。


 片目を閉ざしたユーリはきちんと間合いを測って攻撃を出すために、多少のスピードが犠牲にされている。もとよりユーリはスタンド状態における判断力が機敏なほうではないために、そういった影響も顕著であったのだ。

 しかしそういった細かい話を捨て去れば、その身に備わった化け物じみた身体能力を余すところなく発揮できる。そうすると、相手にとってはいきなりユーリの動きが素早くなったように感じられて、なかなか対応が追いつかない――というのが、オルガ選手との試合から学んだ教訓だ。コーチ陣は、それをも戦略に練り込んでいたのだった。


 ユーリの暴風雨めいたコンビネーションの乱発を初めて眼前に迎えて、青田ナナは逃げの一手である。

 ユーリはスパーリングにおいてこの戦法を封印しているため、実際に試合をしなければ体感することもできないのだ。よって瓜子も想像力に頼る他なかったが――これはきっと、悪夢のごとき迫力なのであろうと思われた。


(この迫力に負けないで、反撃できたのは……たぶん、魅々香選手だけなんだろうな)


 魅々香選手と初めて対戦したときには、ユーリもまだコンビネーションの乱発という武器を備えていなかった。そして今年の再戦時に、魅々香選手は初めてその脅威を体感したわけだが――彼女は過去の試合映像からユーリのコンビネーションのパターンを把握し、攻撃のつなぎ目に反撃してみせたのだった。


 それがどれだけの勇気と努力の結果であったのか、瓜子はあらためて思い知らされた心地であった。

 今大会のひと月前まで、青田ナナの出場は決まっていなかったのだから、きっとユーリのコンビネーションのパターンを分析する時間などは取れなかったことだろう。しかし、たとえそれを分析することができたとしても、果たして反撃は可能であるのか――あの暴風雨の隙間に飛び込むというのは、蛮勇に等しい覚悟が必要であるはずであった。


 実際、青田ナナは逃げるばかりで、まったく反撃できていない。

 しかもユーリはコンビネーションにタックルまで織り交ぜているため、余計に近づけないようだった。


 第一ラウンドの終了まで、残り三十秒だ。

 ポイントは、確実にユーリのものである。


 そして――ユーリの猛攻に距離を取りすぎた青田ナナは、ついにフェンスに背中をぶつけることになった。

 それと同時に、ユーリの右足が振り上げられる。

 右ストレートとレバーブローから続くコンビネーションの最後の一手、右のハイキックである。


 青田ナナはかろうじて、それを左腕でブロックしてみせた。

 その勢いにぐらついたが、倒れるまでには至らない。

 そこにユーリが、足もとへと組みついた。

 きっとこれも、適当に織り交ぜた両足タックルであったのだろう。しかし相手がフェンスに詰まっていたために、ユーリの両腕が膝の裏まで回されることになった。


 本来であればそのまま後方に押し倒す場面であるが、フェンスがあるためそれはままならない。

 ユーリは即時にそれを理解して、相手の身体を横合いに引き倒した。打撃技の判断は遅くとも、組み技に関しては寝技に匹敵するぐらいの判断力を持つユーリであるのだ。


 体勢は、サイドポジションである。

 ユーリは相手の右腕をとらえつつ、左膝を脇腹に乗せた。

 アームロックを狙うのか、ニーオンザベリーからマウントポジションを狙うのか――答えは、後者であった。


 青田ナナは混乱状態にあるのか、まったく反応できていない。

 ユーリはパウンドのひとつも振るおうとはせずに、そのまま横合いに倒れ込んでいく。ユーリの狙いは、腕ひしぎ十字固めであったのだ。


 青田ナナは両手をクラッチして、猛然と下半身を起こす。

 するとユーリは、右腕ごと相手の首を両足でからめ取った。

 ユーリお得意の、腕ひしぎから三角締めへのコンビネーションだ。


 ユーリの肉感的な白い足が、相手の首をぎゅうぎゅうと締め上げる。

 クラッチを解除した青田ナナの左腕が、ぱたりとマットに落ち――それと同時に、ラウンド終了のブザーが鳴らされた。


 ユーリはすみやかに、相手の首と右腕を解放する。

 しかし青田ナナは、そのままぐんにゃりとユーリの上にのしかかった。

 レフェリーが肩に手をかけても、無反応である。


 レフェリーは青田ナナの首を支えながら仰向けに返し、その顔を覗き込んでから、何か大きな声を発した。

 ラウンドは終了していたため、ケージの扉はすでに開かれている。青田コーチと大江山すみれの後から、リングドクターも慌てて踏み込んできた。


 そちらに青田ナナの身を託してから、レフェリーは頭上で両腕を交差させる。

 大歓声が爆発し、灰原選手は「やったー!」と瓜子に抱きついてきた。


『一ラウンド、四分五十九秒、三角締めにより、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の勝利でェす!』


 ユーリもまた、第一ラウンドで難敵を退けてみせたのだ。

 灰原選手の温もりに包まれつつ、瓜子は心から安堵の息をつくことがかなったのだった。

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