08 桃色の怪物と青鬼ジュニア

『青コーナーより、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の入場でェす!』


 リングアナウンサーの聞き苦しい声とともに、『ハッピー☆ウェーブ』の楽曲が流される。

 そうしてユーリが花道に現れるなり、控え室の壁が揺れるほどの歓声が巻き起こった。


 白黒ツートンのウェアを着たユーリは、いつもの調子でひらひらと手を振りながら花道を闊歩する。ピンクの色彩が存在しないスポーティなウェアや試合衣装というものも、ユーリにはこよなく似合っていた。

 そうしてユーリがボディチェックの前にウェアを脱ぎ捨てると、歓声がまたうねりをあげる。どうしてジップアップの服を脱ぐだけでこれほどの色気が生じてしまうのか、それは瓜子にとっても永遠の謎であった。


 ケージインしたユーリはくるくるとターンを切りながら、ケージの内部を一周する。これまで何度となくユーリの試合を見届けてきた瓜子にしてみても、これからライブステージが開始されるのではないかと錯覚するほどの華やかさだ。


 そんな中、BGMが重厚なヘヴィロックに切り替えられる。

 青田ナナの入場である。

 彼女はチーム・フレアである沙羅選手の挑発に乗って参戦した形であるため、客席からブーイングの声があげられることもなかった。


 彼女は沖選手と同じく《フィスト》の王者であり、《アクセル・ジャパン》にも代役出場した実力者であるのだ。実績だけを考えれば、この階級における日本人ナンバーワン選手と称してもいいはずであった。


(何せ《アトミック・ガールズ》には、六十一キロ以下級なんて階級もなかったしな)


《アトミック・ガールズ》は五十六キロ以下級のミドル級より上は、すべて無差別級で一緒くたにされていた。そして無差別級ではそれよりも遥かに重い面々が活躍していたため、六十一キロていどの選手というものはほとんど参戦していなかったのだった。


(小笠原選手や来栖選手はひとつ上、兵藤選手に至ってはみっつ上の階級だもんな。それじゃあチャレンジしようって気になれなくて当然だ)


 運営陣が青田ナナの参戦を受け入れたのは、この階級の選手層の薄さも一因なのではないか――と、かつてサキはそのように推理していた。海外においてはむしろボリュームゾーンの階級であるはずなのだが、国内においてはそれだけのウェイトを持つ選手は多くないし、これまで《アトミック・ガールズ》に参戦していた選手の中ではユーリに対抗できそうな人間も見当たらなかったのだ。

 初参戦の外国人選手などを招聘するよりは、意欲に燃える青田ナナのほうが有用なのではないか――という、そういった計算なのかもしれなかった。


(《フィスト》の王者なら、格式も実力も申し分ないもんな。……ムカつく連中の興行に協力する格好になっちゃって、青田さんはどんな気持ちなんだろう)


 しかも彼女は沙羅選手の挑発に乗って参戦してきたのに、ユーリを潰すための道具として利用され、しかも控え室はチーム・フレアと同じ側であるのだ。そちらには、赤星道場を恨みぬいている犬飼京菜もいたわけであるし――これまでいったいどのような雰囲気であったのか、あまり想像したくないところであった。


 まあ何にせよ、試合で当たったからには全力でぶつかるのみである。

 瓜子としては、ユーリの勝利を祈るばかりであった。


『第七試合、五分二ラウンド、バンタム級、六十一キロ以下契約……王座決定トーナメント、バンタム級第一回戦、第一試合を開始いたしまァす!』


 仕事中もサングラスを外さない「マーくん」が、意気揚々と試合の開始を宣告した。


『青コーナー、百六十七センチ、五十八・四キログラム、新宿プレスマン道場所属……ユーリ・ピーチ=ストームゥ!』


 ユーリは元気いっぱいで、投げキッスのサービスまでしている。


『赤コーナー、百六十七センチ、六十一キログラム、赤星道場所属……青田、ナナァ!』


 いっぽう青田ナナは底光りする眼光でユーリをにらみ据えつつ、手も上げようとしなかった。


 そうして両者がケージの中央に招かれると、予想通りの体格差が示された。

 背丈が一緒であるために、体格の違いが顕著である。青田ナナはオルガ選手ぐらいウェイトを戻してくるだろうと、立松はかつてそのように言っていたが――確かに今の彼女は、規定よりも五キロぐらいは重そうに見えた。


 たった一日で五キロ以上も体重を戻すというのは、瓜子にとって理解の外である。瓜子のこれまでの最高記録は、せいぜい一・五キロていどであるのだ。もともと二、三キロ落とすだけの瓜子には、それ以上のリカバリーを望むすべもなかったのだった。


 五キロや十キロもウェイトをリカバリーするには、やはりドライアウトの手法で減量に臨むのだろう。肉体から水分を絞り取って計量をクリアし、しかるのちに水分補給をして体重を取り戻すのだ。ボクシングなどではお馴染みの手法であったが、時代が進むにつれて、より効率的なやり方が確立されたようだった。


 昨今では、計量後にブドウ糖を点滴で注入するなどというやり方まで存在するという。

 ただし、過度な減量というのは肉体に負担がかかるものであるので、プロモーションによっては禁止されているのだそうだ。肉体から五キロや十キロも水分を絞り取って、それを点滴で回復させるというのは――瓜子にしてみても、あまり健全とは思えないやり口であった。


(ベリーニャ選手なんかは、平常体重で試合に臨んでるんだもんな。それは極端な例かもしれないけど……無理に減量をするより、平常体重に近い階級で試合をしたほうが、きちんと実力を発揮できるって面もあるはずだ)


 だから瓜子も、キックの時代から五十二キロ以下級を自分の戦う場に選んでいたのである。瓜子の身長ならウェイトを落として、下の階級でやりあうべきだと言い張るコーチもいなくはなかったが――瓜子がもっとも尊敬する元コーチの赤坂は、瓜子の意思を尊重してくれたのだった。


 そして現在は、ユーリも平常体重に近いウェイトで試合をしている。

 何も考えずにコンディションを整えると、自然に二キロていど落ちるという話であるのだ。偶然にも、それは瓜子が試合で調整するのと同じていどの減り具合であった。


 しかし――現在の青田ナナが五キロていどもウェイトを戻しているなら、ユーリとの差は八キロだ。それは下手をすると、二階級も違うぐらいの大きな差であったのだった。


 ユーリはやたらと肉感的なプロポーションをしているが、青田ナナはひと回りも大きく見える。手足や首の太さと胴体の厚みが、比較にもならないのだ。負けていないのは、バストとヒップのサイズぐらいであるはずだった。


(仮に今の青田さんが五キロも体重を戻してるなら、来栖選手や小笠原選手と同じぐらいってことだもんな。それじゃあ、これだけの差になるのも当然だ)


 レフェリーがルール確認をしている間も、青田ナナは鋭くユーリの笑顔を見据えている。

 沙羅選手の挑発とは関わりなく、青田ナナはユーリや瓜子にいい印象を抱いていないのだ。それは赤星弥生子が初めて外部の女子選手に興味を抱いたことが原因であるという話であったから、子供じみた嫉妬心であるのであろうが――何にせよ、彼女の闘志に拍車をかけることになったのだろう。とにかく彼女の目的は《カノン A.G》の舞台で結果を残して、赤星道場の実力を世間に知らしめるという一点にあったのだった。


 レフェリーの声に従ってユーリがグローブタッチを求めても、青田ナナはそれを無視してフェンス際に下がっていく。

 エプロンサイドで待つのは、父親の青田コーチと雑用係の大江山すみれのみだ。上限三名のセコンドに二名しか連れていないというのは――彼女の行いが赤星道場の総意ではないという証なのかもしれなかった。


「さー、いよいよ勝負だね! 青田ってやつもザコではないんだろうけど、ま、ピンク頭の敵じゃないっしょ」


「《フィスト》の王者をつかまえて、ザコもへったくれもないんだわよ。……まあ、こんなところでつまずいてたら、ベリーニャに挑戦する資格なんてないだわね」


 雅選手が就寝中であるためか、灰原選手も鞠山選手もモニターにかじりついていた。

 そんな中、ついに試合が開始される。


 両者はファイティングポーズを取りながら、ケージの中央にあらためて進み出た。

 青田ナナはケレン味のないMMA風のスタイルで、ユーリはムエタイ流のアップライトだ。


 青田ナナは、ユーリのインサイドに回るべくステップを踏んでいたが――その動きが、途中で止められた。

 きっとユーリが右目を隠すのではなく、左目をつぶっていることに気づいたのだろう。

 アップで映されないとモニターでは確認できなかったが、まずはそのように振る舞うのがこちらの作戦であったのだった。


 青田ナナは、ユーリの不同視について知ってしまっている。

 ならばもう、世間に隠すこともあきらめて、最初から片目を閉ざしてしまおうというのが、立松たちの考案した作戦の第一歩であった。


 目を閉じるのではなく視界をふさぐのであれば、奥手側の右目を隠すしかない。しかし堂々とまぶたを閉ざしてしまうなら、ユーリはむしろ左目を閉ざしたほうが試合をしやすいという話であったのだ。ユーリの視力が悪いのは右目であるが、近距離のものは右目で見る習慣になっていたため、そういう結果になったようだった。


(でもあちらさんは前の試合でユーリさんが右目を隠して戦ってたことを、映像か何かで確認しただろうからな。それで、右手側のインサイドに回り込むって作戦だったんだろう)


 こうしてユーリ陣営がその裏をかいてくると予測していたかは、謎である。

 しかし何にせよ、青田ナナは何事もなかったかのようにアウトサイドへとステップを切り替えた。


 ユーリは左目を閉ざしているために、アウトサイドからの攻撃が見えにくい。フックや横回転の蹴りなどは、ほとんど軌道が見えないぐらいであるのだ。アウトサイドに回り込まれると、いっそうそれが深刻な度合いになってしまうのだった。


 よってユーリは相手と正対できるように、身体の向きを変えていく。

 傍目からは、通常通りの間合いの探り合いに見えることだろう。

 だがしかし、片目をつぶって試合をしていれば、すぐさま世間様にもユーリの不同視が知れ渡ってしまうに違いない。客席からは確認のしようもなかろうが、放映された試合模様を視聴したならば一目瞭然であるのだ。


 ユーリの不同視は、もう隠しておくことも難しい。

 ならばそれを乗り越えた上で、誰にも負けない強さを求める。

 そんな覚悟でもって、ユーリとコーチ陣はこの試合に臨んでいるのだった。

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