05 再戦

『青コーナーより、猪狩瓜子選手の入場でェす!』


 耳障りな甲高い声のアナウンスに従って、瓜子は花道に足を踏み出した。

 とたんに、凄まじいばかりの歓声と熱気が瓜子の身体を包み込んでくる。開会式でもそれなり以上の声援を授かった瓜子であるが、やはり試合の本番となるとその勢いも格段に増していた。


(これまでの三試合も、かなり盛り上がる内容だったもんな。まあ、一色選手たちの試合は観てないけど……秒殺のKO劇なら、そりゃあ盛り上がるだろう)


 皮肉なことに、《アトミック・ガールズ》が《カノン A.G》に変じてから、凡戦というものがなくなったように感じられる。瓜子の記憶に間違いがなければ、《カノン A.G》となってからはまだ一度も時間切れの判定決着というものも生じていないはずであった。


 おおよその選手は運営陣とチーム・フレアのやり口に反感を抱き、それを闘志の糧にしている。それが試合にも影響を与えて、激戦の様相を呈するのかもしれなかった。


(運営陣が、ユーリさんを中傷したりしなければ……それ以外の暴言は、試合を盛り上げるためのトラッシュトークで済んだのかもな)


 しかし黒澤代表は、まずユーリを貶めることから新生パラス=アテナをスタートさせた。運営の代表が一選手に事実無根の八百長疑惑をふっかけることなど、決して許されないだろう。

 そしてその後も、盤外ではユーリに対する攻撃がやまなかった。『ベイビー・アピール』の漆原との熱愛疑惑、卯月選手との熱愛疑惑――そうして最後には、中学時代の忌まわしい事件を都合のいいようにねじ曲げて、ユーリの心を傷つけた。それ以外にも、インターネット上においてはユーリに対する数々の誹謗中傷が吹き荒れていたのだという話であった。


 そんな性根の腐った連中が、同じ口で《アトミック・ガールズ》のこれまでを「恥ずべき歴史」などと言いたてたのだ。

 これではユーリ以外の選手たちも、奮起しないわけがなかった。


(だから今日は、絶対に勝つ。イリア選手にも、一色選手にもだ)


 ウェアを脱いでボディチェックを受けた瓜子は、頼もしいセコンド陣にうなずきかけてからケージの内に踏み入った。


 ケージのマットの中央あたりが、赤く染まってしまっている。

 おそらく、ゾフィア選手の血であろう。あれは、ちょっとやそっとの清掃では片付かないぐらいの出血量であったはずだ。


『赤コーナーより、イリア=フレア選手の入場でェす!』


 リングアナウンサーたる「マーくん」の声とともに、イリア選手の入場パフォーマンスが開始される。三人に減じた『オーギュスト』による、奇怪にして幻惑的なダンスパフォーマンスだ。


 瓜子はそちらに背を向けて、ひたすらシャドーボクシングに打ち込んだ。

 フェンスの向こう側では、立松たちが気合の入った眼差しで瓜子の挙動を見守ってくれている。瓜子の次には魅々香選手の試合が控えていたが、さすがに柳原も今はこちらに集中してくれていた。


 やがて三分ほどが経過すると、客席から新たな歓声が巻き起こる。

 パフォーマンスが、終了したのだ。

 瓜子が中央に向き直ると、イリア選手がカポエイラスクールのスクール長とともに、あらためて花道を闊歩していた。


(セコンドにフレア・ジムの人間がついてないってことは、やっぱりイリア選手もそこまで深くチーム・フレアに関わってないってことなんだろうな)


 フレア・ジムというのはいまだ正体が知れないが、とりあえずタクミ選手と一色選手のセコンドについているのは、ヴァーモス・ジムの関係者と思しきブラジル人の一団である。そもそもチーム・フレアというのはタクミ選手を中心に構成されているのだから、真なる意味での生え抜きのメンバーというのは、タクミ選手と前回リタイアしたベアトゥリス選手のみであり、そこに一色選手を迎えたという格好なのだろう。それで、ユーリを潰すためにロシアのオルガ選手を招聘し、名前だけでもチーム・フレアに加入させ、第一期生の四名が誕生したという構図である。


 その後に追加された第二期のメンバーは、メイ、イリア選手、沙羅選手、犬飼京菜という顔ぶれであるわけだが――いずれのジムにも所属せず、独自にトレーニングを積んでいたメイすらフレア・ジムという場所には招かれなかったという話であるのだから、残りの三名もそれは同様なのだろう。彼女たちはそれぞれの思惑で、チーム・フレアに加入したに過ぎないのだろうと思われた。


(イリア選手は《アトミック・ガールズ》に思い入れなんて抱いてないだろうから、自分の活躍できる場所としてチーム・フレアを選んだんだろう。こうやって、首尾よくあたしと再戦できることになったわけだしな)


 瓜子とイリア選手が対戦したのは四月の大阪大会であるから、まだ七ヶ月しか経過していない。リベンジ・マッチとしては、いささか早急なスケジュールであろう。

 しかし相手は、もともとつかみどころのないイリア選手であるし、彼女が真剣にトレーニングを始めたというのなら、決して侮れる相手ではない。そもそも四月の試合だって薄氷の勝利であったのだから、瓜子の中に油断が生じる要素はなかった。


『第四試合、五分二ラウンド、ストロー級、五十二キロ以下契約……王座決定トーナメント、ストロー級第一回戦、第二試合を開始いたしまァす!』


 イリア選手がケージの内に入場すると、また甲高い声が響きわたった。


『青コーナー、百五十二センチ、五十二キログラム、新宿プレスマン道場所属……猪狩、瓜子ォ!』


 決して瓜子のほうを見ようとしないまま、リングアナウンサーはそのようにアナウンスした。

 歓声は、怒涛の勢いで渦を巻いている。瓜子は軽く手を上げて、感謝の気持ちを示してみせた。


『赤コーナー、百六十八センチ、五十一・九キログラム、カポエイラスクール・トロンコ所属……イリア=フレアァ!』


 イリア選手はうねうねと両腕をくねらせて、客席からの歓声に応えた。

 とりたてて、ブーイングなども生じていない。イリア選手はもともと《アトミック・ガールズ》においても浮いた存在であったため、チーム・フレアに加入しても印象に変化はないのだろう。また、彼女は観客やファンの前ではいっさい喋らないというキャラクターに徹していたため、チーム・フレアや運営陣の方針にどこまで賛同しているのかも判然としなかったのだった。


(本当に、トランプのジョーカーみたいなお人だよな)


 試合に対して余計な緊張を覚えることもない瓜子は、そんな呑気な想念にひたりながらマットの中央に進み出た。

 顔の前面だけを隠すレスラーマスクのようなものをかぶったイリア選手は、十六センチも高い位置から瓜子を見下ろしてくる。この階級でユーリよりも長身というのは、やはり驚異的だ。そしてピエロらしい派手な縁取りの内側に瞬くイリア選手の瞳は、本日もまったく感情が読み取れなかった。これがあののほほんと笑うのっぽの女性と同一人物なのかと、疑わしくなるほどである。


「それでは、クリーンなファイトを心がけて。……グローブタッチを」


 レフェリーにうながされて、瓜子は両手を差し出してみせた。

 イリア選手はおもいきり腰を引きながら、いかにも怖々といった様子で、ちょんとグローブで触れてくる。そのユーモラスな姿に、客席からは笑い声があげられていた。


「よし。先手必勝だ。序盤からペースをつかんでいけよ」


 フェンス際まで下がると、立松の声が飛ばされてくる。

 瓜子はグローブの感触を確かめつつ、「押忍」と答えてみせた。


『ラウンドワン!』


 試合開始のブザーが鳴らされ、レフェリーが「ファイト!」と声をあげる。

 瓜子は慎重に、マットの中央に進み出た。

 イリア選手も同じように、瓜子へと接近してくる。

 その姿は――両方の拳を顔の前まで上げて、腰を適度に落としつつ、前後に開いた足でステップを踏む、いかにもスタンダードなMMAのスタイルであった。


(なるほど、そう来たか)


 トリックスターとして知られるイリア選手がこんな風に真っ当なファイティングポーズを取るのは、おそらく初めてのことであった。彼女はいつもノーガードで、ステップもジンガと呼ばれるカポエイラ風のものであったのだ。しかも前回の試合などでは、無造作に歩いて前進するという手法で小柴選手をぞんぶんに攪乱していたのだった。


(真っ当なスタイルが相手の裏をかくことになるんだから、本当に愉快なお人だよ)


 しかし瓜子はイリア選手の素っ頓狂な行動にくれぐれも惑わされるなと、コーチ陣から指導を受けていた。

 警戒だけは怠らず、瓜子もいつもの調子で前進してみせる。

 これだけリーチ差があるのだから、瓜子は間合いの外から素早く踏み込んで、自分の攻撃を当てなければならない。まずは尋常に、アウトステップから右ローを――と、瓜子が画策したとき、イリア選手が右足を振り上げてきた。


 足を正面に振り上げる、前蹴りだ。

 カポエイラにはもともと前蹴りがあるそうだし、瓜子も四月の試合では同じ技をくらっている。よって、まったく意想外な攻撃ではなかった。

 瓜子はゆとりをもってその攻撃をすかして、相手のアウトサイドに踏み込む。


 その瞬間、相手の姿がかき消えた。

 ほとんど脊髄反射で、瓜子はバックステップを踏む。

 その鼻先に、カマイタチのような斬撃が走り抜けていった。

 右の前蹴りを出したイリア選手は、そのまま上体を倒して右足を旋回させたのだ。出した蹴り足をそのまま別の蹴りに繋げるという、トリッキーきわまりない攻撃であった。


(本当に、すごいお人だな)


 いったん距離を取った瓜子は、めげずに前進した。

 五分二ラウンドという短い時間の中で、自分からペースを握らなければならないのだ。今日の瓜子に、様子見という三文字はなかった。


 が、イリア選手も簡単な相手ではない。

 瓜子の接近を察知したイリア選手は、起こした上体を逆側に倒して、今度は左足を旋回させてきたのだった。

 側転のような形でマットに両手をつき、蹴り足を旋回させる、「シバータ」の連続攻撃である。


 今度は瓜子もステップでかわすことはできず、右腕で頭部をガードすることになった。

 前腕に、ひとかたならぬ衝撃が走り抜ける。それは瓜子の記憶にあるよりも、遥かに重い威力であった。


(連続技のほうが勢いが乗って、威力が増すのか?)


 そんな想念を頭の片隅に浮かべつつ、瓜子は左のボディブローを繰り出した。

 が、イリア選手の姿はあらぬ方向に逃げている。二度目の「シバータ」では本当に側転をして、大きく移動していたのだ。


 瓜子は慌ててそちらに向きなおり――

 それと同時に、視界が揺れた。


 思わぬ衝撃に頭の中身を揺さぶられて、瓜子はこらえようもなくマットに倒れ込んでいく。

 その過程で、瓜子は逆立ちの体勢になっているイリア選手の姿を見た。

 そちらに戻っていく左足が、瓜子の横っ面を蹴り抜いたのだろう。

 イリア選手は、三連続で「シバータ」を繰り出してきたのだった。


(大丈夫。意識は飛んでない)


 旧ルールであれば、ダウンと見なされる倒れっぷりだ。

 しかし新ルールでは、このまま試合が続行される。

 マットに横倒しとなった瓜子は、すかさず仰向けの姿勢を取り、イリア選手のほうに足を向けてみせた。


 上体を起こしたイリア選手は、瓜子のほうに飛び込もうという素振りを見せてから、ぴたりと動きを止める。

 あわよくば、このまま上を取ってパウンドの嵐を降らせようという魂胆であったのだろう――前回の試合で、小柴選手にそうしたように。


 瓜子はゆらゆらと視界が揺れるのを感じつつ、浮かせた足でイリア選手を牽制してみせた。これでもイリア選手がのしかかってこようとするならば、なんとしてでもガードポジションを確保する構えだ。

 しかしイリア選手はひとつ肩をすくめると、そのまま後ずさってしまった。

 イリア選手に追撃の意思がないと見て、レフェリーは瓜子に「スタンド!」と呼びかけてくる。


(ちぇっ。どうせだったら、グラウンドにつきあってほしかったな)


 瓜子がそのように考えたのは、自分のダメージをしっかり自覚していたためであった。もしもテンプルか下顎にくらっていたら試合が終わっていたぐらい、イリア選手の蹴りは痛烈であったのだ。マットに手をついて上体を起こすと、案の定、ぐらりと身体が傾きそうになった。


(開始早々、いいのをくらっちゃったな。……でも、勝負はここからだ)


 レフェリーストップをかけられてしまわないように、瓜子は慎重に立ち上がった。

 なんだか揺れる船の上に立っているような心地である。明らかに、瓜子は軽い脳震盪の状態にあった。


 そんな瓜子を探るように、イリア選手はじっと目を凝らしている。

 彼女の蹴り足には、確かにダメージを与えたという感触が残されていることだろう。そうであれば――瓜子は身を休めるいとまもなく、さらなる追撃にさらされるはずであった。

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