03 開戦

 阿呆なリングアナウンサーに絡まれたのちは、何事もなく時間が過ぎ去って――ついに開会式の開始であった。

 花道に通ずる扉の裏に、青コーナー陣営の選手たちが寄り集まる。本日はプレマッチやリザーブマッチも存在しないので、王座決定トーナメントに出場する八名きっかりだ。


 アトム級の、雅選手とゾフィア選手。

 ストロー級の、瓜子と宗田選手。

 フライ級の、魅々香選手と沖選手。

 バンタム級の、ユーリとベリーニャ選手。


 なかなかマイペースな選手がそろっているためか、試合前の緊迫感を醸し出しているのはフライ級の二名ぐらいであった。

 そうしてソフィア選手から順番に名前を呼ばれて、花道へと出ていく。

 宗田選手と沖選手にはさまれた瓜子は、無言のまま自分の順番を待ち――そうしていざ花道に踏み出すと、凄まじいばかりの歓声がぶつけられてきた。


 会場は、本日も満員札止めであるという。

 そしてその中には、瓜子が懇意にしている人々もたくさん含まれていた。


 セコンド役からあぶれてしまった、多賀崎選手やオリビア選手。

 出稽古までして瓜子の練習につきあってくれた、佐伯とリン。

 すっかり試合の常連客になってくれた、牧瀬理央と加賀見老婦人。

 赤星道場の、赤星弥生子と大江山軍造、マリア選手やレオポン選手。

『ワンド・ペイジ』の、西岡桔平。

『ベイビー・アピール』の、ダイとタツヤ――彼らもまた、ユーリではなく瓜子の名義でチケットを買いたいと、あの撮影地獄の日に申し入れてくれていた。


 そういった人々はのきなみスタジアム席なので、誰がどこにいるのかも判然としない。

 ただ瓜子は、これまで以上にありがたい気持ちで一礼することができた。


 その後も続々と出場選手が入場し、大歓声の中、開会の挨拶である。

 このたびも、一回戦目の最終試合で赤コーナー陣営であるタクミ選手がその役割を担っていた。


『ついに王座決定トーナメントだね! 今年の汚れは今年の内にってことで、恥ずべき歴史にピリオドを打たせてもらうよ!』


 大歓声と同程度の質量で、ブーイングが吹き荒れる。これまでの《アトミック・ガールズ》をこよなく愛してきたファンたちと、そしてユーリ個人のファンたちであろう。


 しかしネットの世界では、タクミ選手に対する期待が日増しに高まっているという評判であった。

 前戦は小笠原選手がベストコンディションではなかったため、タクミ選手の真の実力というものが判然としなかったが、今回はいきなりベリーニャ選手との対戦であるのだ。これはチーム・フレアが運営陣に身びいきされているという風評をくつがえすようなマッチメイクであったし、もしもタクミ選手がベリーニャ選手を打ち破るようであれば、もうその実力に疑いを持つことはできないはずであった。


 さんざん大口を叩いてきたタクミ選手の実力とは、如何なるものであるのか。

 人々の関心は、そこに集まっているようだった。


『どんな理屈をこねたって、大事なのは実力だからね! 全部の試合が終わったとき、ベルトを巻いてるのは誰なのか! みんな、その目で見届けてね!』


 数時間前までのぼんやりとした様子と打って変わって、タクミ選手は快活そのものだ。

 だけどやっぱりその姿は、これまで以上に芝居がかっているように思えてならなかった。


『タクミ選手、ありがとうございましたァ! それでは、選手退場でェす!』


 リングアナウンサーの「マーくん」も、瓜子に対する非礼な真似など忘れてしまったかのように、甲高い声を撒き散らしている。瓜子の試合の勝利者インタビューにおいても、その調子で表面を取りつくろっていただきたいところであった。


 瓜子たちは入場と逆の順番で、舞台裏に舞い戻る。

 扉の裏には、第一試合であるゾフィア選手と第二試合である雅選手のセコンド陣が集結していた。


「雅選手、頑張ってください。控え室で応援してますので」


「うん、ありがとさぁん。瓜子ちゃんも、あんじょうおきばりやぁ」


 雅選手は普段と変わりなく、妖艶に微笑んでいた。

 セコンド陣の鞠山選手たちにもひと声かけて、瓜子たちは控え室に戻る。第三試合の宗田選手だけは、廊下に居残ってウォーミングアップの構えであった。


「さて、まずは犬飼くんの娘さんからか。初めての外国人選手を相手に、どれだけ食い下がれるやらだな」


 立松は、そんな風に言っていた。

 ジョンは心配げに微笑んでおり、サキは感情を殺した仏頂面だ。そして犬飼京菜と同じ階級である愛音はあれこれユーリのお世話をしつつ、肉食ウサギの目つきでモニターを盗み見ていた。


『それでは、第一試合! 青コーナーより、ゾフィア・パチョレック選手の入場でェす!』


 開会式から戻ったばかりのゾフィア選手が、再び花道に現れる。

 褐色の髪をきちきちに編み込んで、淡い茶色の瞳を鋭く輝かせる、ポーランド出身のトップファイターである。彼女はアトム級でありながら百六十一センチという背丈であったが、やはり同じ数字である雅選手よりも厚みのある肉体をしているように感じられた。


『赤コーナーより、イヌカイ=フレア選手の入場でェす!』


 それに対する犬飼京菜は、相変わらずぞんぶんに小さい。大和源五郎、マー・シーダム、ダニー・リーというセコンド陣にも、変わるところはなかった。


『第一試合、五分二ラウンド、アトム級、四十八キロ以下契約……王座決定トーナメント、アトム級第一回戦、第一試合を開始いたしまァす! ……青コーナー、百六十一センチ、四十八キログラム、クロールMMA所属……ゾフィア・パチョレックゥ!』


 白と赤のタンクトップとファイトショーツを纏ったゾフィア選手は、細長い右腕を悠然と振り上げて歓声に応えた。

 不勉強な瓜子には預かり知らぬことであったが、ポーランドには実にさまざまな格闘技が普及しているという。その中で、彼女はもともとキックの選手であったという名うてのストライカーだ。雅選手との対戦成績が一勝一敗のタイという時点で、生半可な実力ではないはずであった。


『赤コーナー、百四十二センチ、四十キログラム、犬飼格闘鍛錬場ドッグ・ジム所属……イヌカイ=フレアァ!』


 犬飼京菜は、もちろん赤と黒のハーフトップおよびハーフスパッツだ。

 赤茶けた癖っ毛を大きな三つ編みでひとつにまとめて、大きな目を野犬のようにぎらつかせている。彼女はなかなかウェイトが増えないようで、ゾフィア選手とは同階級であるのにひと回りも体格が違ってしまっていた。ゾフィア選手が二キロ以上リカバリーしていたなら、体重差は十キロ以上に及んでしまうのだ。


 ゾフィア選手はスタートダッシュ型で、軽量級とは思えぬ馬力を有しているものの、スタミナに難がある。犬飼京菜が勝利するには、初回をしのいで長期戦に持ち込むべきであろう。

 しかしまた、トーナメントの一回戦目は五分二ラウンドであるのだ。それで判定に差が出なければ、もう一ラウンド戦うことになるのだが――二ラウンド目で確実に仕留める自信がない限り、一ラウンド目を逃げに徹するというのも危険な賭けであるはずであった。


(まあこの際、どっちが勝ったって文句はないんだけど……雅選手の苦労が大きくならないように、あんまりあっさり終わってほしくないところだよな)


 そういえば、瓜子は犬飼京菜の試合が二ラウンド目までもつれこむ姿も見た覚えがないような気がした。彼女は予測不能なファーストアタックと古式ムエタイがルーツであるトリッキーな打撃技、そして若年らしからぬ巧みな寝技でもって、全試合を初回で勝利してきたのである。


 いっぽうゾフィア選手もスタートダッシュ型であるのだから、瓜子が何を願おうとも短期決着になってしまいそうな一戦だ。

 そしてそれこそが、雅選手を優勝させまいという運営陣のこすからい戦略であるはずであった。


『ファイト!』


 瓜子がそんな想念にひたっている間に、試合が開始された。

 犬飼京菜はいつもの調子で、相手のもとに突進する。

 それに対するゾフィア選手は――なんと、こちらもまた犬飼京菜に向かって突進していた。

 ゾフィア選手は自らも突進することで、犬飼京菜のファーストアタックを正面から弾き返そうという戦略であったのだった。


 ゾフィア選手は助走をつけて、右膝を振り上げる。

 犬飼京菜も前戦で見せた、飛び膝蹴りだ。

 それに対する犬飼京菜は――相手の足もとに滑り込んでいた。

 まるで野球のようなスライディングである。

 結果、ゾフィア選手の飛び膝蹴りは空振りに終わり、マットに着地した軸足を犬飼京菜に蹴り払われることになった。


 ゾフィア選手は横合いに倒れ込み、犬飼京菜がその上にのしかかる。

 犬飼京菜が相手の腰にまたがった、いきなりのマウントポジションである。

 なおかつ犬飼京菜は寸秒たりとも動きを止めず、そのまま相手の右腕をつかみ取り、左腕をもまたぎ越した。三角締めを狙っているのだ。


 犬飼京菜の細っこい両足が、相手の右腕ごと首をロックする。

 そうして横合いに倒れ込み、自らマットに背中をつけながら、相手の首と右腕を締め上げれば、三角締めの完成となるが――上下が入れ替わった時点で、ゾフィア選手は猛然と下半身を起こした。


 あとは頭と腕を強引にひっこぬくか、逆に相手に体重をあびせれば、三角締めの脅威から脱することが可能になる。

 ゾフィア選手は、後者を選んだ。これだけ体格差があれば、三角締めを潰した上で、有利なポジションをキープできると考えたのだろう。


 その選択が、勝負を分けた。

 ゾフィア選手が勢いをつけてのしかかると、犬飼京菜が下から右肘を繰り出したのだ。

 カウンターの形で、犬飼京菜の右肘がゾフィア選手の額を打った。

 その瞬間、ぱあっと真っ赤な鮮血がしぶいて、観客席と控え室にどよめきをあげさせた。


 犬飼京菜は両足のクラッチを解除して、相手の胴体をはさみ込む。

 これで通常のガードポジションとなった。

 ゾフィア選手は額から滝のように血を流しつつ、パウンドを振るおうと右腕を振りかぶり――そこでレフェリーが、ゾフィア選手の肩をつかんだ。


『タイムストップ! ……ゾフィア選手が出血したため、ドクターチェックを行います』


 会場にはブーイングが飛び交い、ゾフィア選手は憤然とした様子で身を起こした。その間もぼたぼたと血がしたたって、彼女の試合衣装を赤一色に染めていく。かつての《レッド・キング》におけるレオポン選手よりも、さらにひどい出血量であった。


「駄目だなこりゃ。なんちゅう切れ味の肘打ちだよ」


 立松が嘆息をこぼしながら、首を横に振る。

 そしてモニター上ではゾフィア選手の傷口をチェックしたドクターも同じ仕草を見せ、レフェリーは両腕を頭上で交差させた。


『一ラウンド、十八秒、ドクターストップによるテクニカル・ノック・アウトで、イヌカイ=フレア選手の勝利でェす!』


 リングアナウンサーがそのように告げると、歓声とブーイングが交錯した。

 ブーイングは、試合がドクターストップで終わってしまったことに対する不満であろう。しかしそれよりも、プロ二戦目の犬飼京菜が外国人のトップファイターを下したことに対する歓声のほうがまさっていた。


「あの出血で、ドクターストップ? やっぱり日本、北米と基準が違う」


 メイがそのようにつぶやくと、ジョンが「そうだねー」と相槌を打った。


「ホクベイは、シュッケツにカンしてオオらかだよねー。でも、あれだけシュッケツしてたら、キズがコツマクまでタッしてるキケンもあるから、ドクターストップはダトウだとオモうよー」


「うん。それが日本のルールなら、しかたないと思う。別に、文句はない」


 試合場ではゾフィア選手が猛然と抗議していたが、一度くだされた裁定がくつがえされることはなかった。

 けっきょく瓜子の願いも虚しく、秒殺で終了である。


「きっと犬飼くんの娘さんも、打撃でやりあうのは危険と考えてたんだろうな。普段はあれだけ短気なくせに、試合では小器用なやつだ」


 立松がそのようにつぶやくと、ユーリは「にゃはは」と笑った。


「立松先生、複雑そうなお顔ですねぇ。にぶちんのユーリでも、一目瞭然ですぅ」


「うん、まあ、あいつが赤星道場を逆恨みしてなけりゃあ、心から喜んでやるところなんだがな。しかもチーム・フレアなんざに加わってたら、いっそう喜べねえだろ」


 そんな立松の感慨もよそに、犬飼京菜はモニター上でふてぶてしい姿をさらしている。その顔も、ゾフィア選手の返り血で真っ赤に染まっており――まさしく、獲物を噛み殺した狂犬そのものの様相であった。

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