02 不毛な盤外戦

 その後、ルールミーティングはつつがなく終了した。

 事前に告知されていた通り、前回の大会からルールの変更はない。そして今さらの話であるが、犬飼京菜のAリーグ昇格がその場であらためて告知されていた。


 今のところ、熟練者とそうでない選手のリーグ分けというのは、有名無実の状態である。その生きた証拠が、宗田選手であろう。彼女はこれがMMAのデビュー戦であるというのに、いきなり王座決定トーナメントに組み込まれて、その第一試合がリーグ編成の考査試合と設定されたのだった。


 名目上は、柔道時代のキャリアを鑑みてという話であったが――他の競技でどれだけ実績を積もうとも、それを理由にランク分けされるなどとはナンセンスである。極端な話、いまだ試合で人を殴ったことも殴られたこともない選手を熟練者の側に組み込もうなどとは、正気の沙汰とも思えなかった。


(まあ、人のことはどうでもいいけどさ。どんな相手とぶつかっても、あたしは全力でやりあうだけだし)


 そうしてルールミーティングが終了すると、前回と同じように赤コーナー陣営からメディカルチェックを受けるように指示を出された。青コーナー陣営はこの場に留まって、マットの具合の確認作業だ。


 チーム・フレアの面々や外国人選手たちが、ぞろぞろとケージの外に出ていく。

 その中から、何故だか一色選手が瓜子のほうに近づいてきた。


「あのぉ、猪狩さぁん、ちょびっとだけお時間いいですかぁ?」


「……なんでしょう? 対戦の可能性があるお相手とは、あまり口をきかないほうがいいように思うんすけど」


「いいじゃないですかぁ。ちょびっとだけですよぉ」


 明るく染めたポニーテールを揺らしながら、一色選手はのんびり笑っている。

 瓜子はしばし思案したが、とりあえず了承することにした。どのようにくだらない問答をふっかけられようとも、チーム・フレアや運営陣を瓦解させるネタになりえるかもしれないと考えたのだ。


 瓜子は一色選手とともに、ケージを下りた。

 すると、ケージの周囲に控えていたセコンド陣の一部が近づいてくる。その顔ぶれは、サキとメイであった。


「どーしたよ? おめーらは、仲良くおしゃべりするような間柄じゃねーだろ?」


「うわあ、前王者のサキさんですねぇ? サキさんが復帰してたらこのトーナメントももっと盛り上がったのに、残念でしたねぇ」


 一色選手はにこにこと笑いながら、そんな風にのたまわった。


「ちょっと猪狩さんにお話ししたいことがあったんでぇ、ルイのほうからお誘いしたんですぅ。五分もかからないと思うんで、なんとか見逃していただけないですかぁ?」


「はん。耳がかゆくなるような猫なで声だぜ」


 サキは左の耳をほじりながら、かたわらのメイに耳打ちした。

 メイはひとつうなずき、サキだけがケージのほうに向かっていく。一色選手と瓜子が歩を進めると、メイは五メートルほど距離を置いて後をついてきた。


「あははぁ。猪狩さんって、チームメイトに愛されてるんですねぇ」


「……それで、どういったお話でしょうか?」


 リングサイド席の間につくられた通路の真ん中で立ち止まり、一色選手は瓜子のほうに顔を近づけてきた。


「えっとぉ、いちおう確認しておきたいんですけどぉ、猪狩さんは裏でこそこそマーくんと会ったりしてないですよねぇ?」


「マーくん? って、誰っすか?」


「やだなぁ、とぼけないでくださいよぉ。マーくんに、連絡先を渡されたんでしょう?」


 その言葉で、瓜子はようやく思いあたった。


「ああ、もしかしたら、リングアナウンサーのラッパーさんっすか? 名刺をいただきましたけど、一緒にいた上司に処分されちゃいましたよ」


「ええ、本当ですかぁ? いくら上司さんでも、それは横暴じゃないですぅ?」


「横暴かどうかはわかりませんけど、自分もそんなもんに用事はありませんでしたので。あっちが勝手に渡してきただけなんすよ」


「へえ」と、一色選手は目を細めて微笑んだ。

 にこやかな表情に変化はないものの――その細めた目には、何か嫌な感じの光がちらついていた。


「マーくんって、いま話題のラップチームのリーダーなんですよぉ? なのに、興味がないんですかぁ?」


「ないっすね。そもそもラップとか、自分には未知の世界なんで」


「ああ、そっちはロックバンドの人たちと仲良くやってるみたいですねぇ。でも、知名度だったらマーくんだって負けてないはずですよぉ?」


「いや、知名度とか関係ありませんし……そもそもバンドの人たちだって、あくまで仕事のお相手です。それも関わってるのはユーリさんで、自分はマネージャー補佐にすぎませんし――」


「でもぉ、その日はバンドの人たちと一緒に撮影だったんでしょう? しかも、水着姿でぇ。……猪狩さんみたいに可愛い女の子が水着になったら、そりゃあ男のヒトたちはクラクラきちゃいますよねぇ」


 いよいよおかしな目つきになりながら、一色選手はそのように言葉を重ねた。

 そのいかにもアイドルめいた顔が朗らかな笑みを保持したままであるのが、いっそ薄気味悪い。瓜子はなんだか、大きな石の裏にうじゃうじゃとひそんでいる虫の群れでも見せつけられているような心地であった。


「猪狩さんって、ほんとに可愛いですよねぇ。ネットとかでも、みんな夢中ですもぉん。……どうやったら、そういう可愛さをキープできるんですかぁ?」


「いや、なんのお話っすか? 自分もそろそろ戻りたいんすけど」


「だって、気になるじゃないですかぁ。裏であれこれやってるくせに、そんな清純キャラをキープできるなんて、すごいことだと思いますもぉん」


 瓜子よりも十センチ長身である一色選手は、身を屈めていっそう顔を近づけてきた。


「マーくんも、その清純キャラにクラクラきちゃってるんですよぉ。どうやってマーくんをオトしたのか、そのテクニックを教えてくれませんかぁ?」


「……なんか、根本の部分で誤解があるみたいっすね。つきあいきれないんで、自分は失礼します」


 瓜子は腹が立つよりも薄気味悪さが先に立ち、一色選手に背中を向けることにした。

 そうして足早に進みながら、こっそり後方を振り返ると――一色選手は同じ場所に立ったまま、まだにこにこと笑っている。その姿に、瓜子はいっそうぞっとしてしまった。


「ウリコ、顔色悪い。大丈夫?」


 と、進行方向で待ち受けていたメイが、厳しい面持ちで瓜子に寄り添ってくる。表情は引き締まっているが、その眼差しは優しげだ。そんなメイの気づかいが、瓜子の強張った心をすみやかに解きほぐしてくれた。


「押忍、大丈夫です。メイさんの顔を見たら、安心できました」


「冗談、よくない。僕、真剣に聞いてる」


「いや、自分も本気だったんすけど。……とにかく、大丈夫っすよ。なんか、おかしなイチャモンをつけられただけです」


 要するに、一色選手は――あのリングアナウンサーが瓜子にアプローチしてきたことを腹立たしく思っている、ということなのだろう。


(一色選手が、あのお人とつきあってるとか? まあ、お似合いといえばお似合いだけど……まさか千駄ヶ谷さんは、あの二人の恋愛スキャンダルでも狙ってるのかなぁ)


 千駄ヶ谷はかつて、あのリングアナウンサーのことを「無能な敵」などと称していた。その口ぶりからして、彼が《カノン A.G》運営陣の弱点であると見なしているように感じられたのだが――瓜子はなんとなく、空虚な気分であった。


(まあいいや。こんな話は、千駄ヶ谷さんにおまかせしよう。今の一件も、後でいちおう伝えておかないとな)


 メイとともにケージに戻った瓜子は、気持ちも新たに身体を動かすことにした。

 しばらくしたら赤コーナー陣営の選手と交代して、メディカルチェックとバンデージのチェックだ。バンデージを巻くために試合衣装に着替えると、いっそう気持ちは引き締まった。


 そうしてバンデージのチェックを終えたところで、瓜子は千駄ヶ谷に一報を入れてみる。

 ワンコール目が終わる寸前に、千駄ヶ谷の冷徹な声が響きわたった。


『どうされました? 何か緊急の事態でも?』


「あ、いえ、そんな大した話じゃないんすけど……さっき、一色選手に絡まれちゃいまして」


 瓜子が事情を通達すると、千駄ヶ谷は『なるほど』と納得した。


『おおむね想定の範囲内です。なるべく相手を刺激しないように振る舞っていただければと思います』


「そうっすか。まあ試合の時間が迫ってきたんで、もう絡まれることはないと思いますけど……次に絡まれたら、相手にしないで逃げちゃっていいっすか?」


『ええ。そうしていただくのが最善であるかと思われます。決して短慮を起こさず、冷静に対処してください』


「了解です。お忙しい中、失礼しました」


『お忙しいのは、そちらでしょう。私は仕事が立て込んでいるため観戦にはおもむけませんが、猪狩さんとユーリ選手の健闘を心より願っております』


 こんな激励の際にも凍てついた声音の千駄ヶ谷であるが、瓜子には十分ありがたかった。

 お礼を返して通話を終了し、瓜子はふっと息をつく。そうして控え室に戻ろうときびすを返すと――その眼前に、意想外の人物が立ちはだかった。リングアナウンサーの「マーくん」である。


「なんだ、ケータイ持ってるじゃん。だったら何で、連絡してくれないんだよォ?」


 彼は今日もサングラスを着用しており、香水のにおいをプンプンと撒き散らしていた。


「……すいません。連絡を差しあげる用事がありませんでしたので」


「そんなつれないこと言うなよなァ。なに、そうやってすました顔で引いた態度を取るのが、キミの作戦なのォ? 見た目によらず、やり手じゃん」


「……試合の準備があるんで、失礼します」


 瓜子がその横を通りすぎようとすると、「マーくん」は身体をずらして進路をさえぎってきた。


「もうそういうのはいいからさァ。焦らした分、ご褒美をちょうだいよォ。試合前の選手って、コーフンしてるんでしょ? 俺が発散につきあってあげるよォ」


「あの、いい加減にしてもらえませんかね? 運営に苦情を申し立てますよ?」


「うるせえなァ。いいから、来いってェ」


 ごてごてと指輪をつけた手がのばされてきたので、瓜子は素早くバックスッテプしてみせた。

「マーくん」はたたらを踏みながら、歪んだ笑みを口もとに浮かべる。


「おいおい、あんまり俺を怒らせるなよォ? 試合前に、足腰立たなくしてやろうかァ?」


「何なんですか。まるでチンピラですね。……もしかしたら、酔っぱらってるんですか?」


 しかし彼は香水の匂いがきついため、それも判然としなかった。ただ、どうにもシラフとは思えないような挙動であるのだ。


「いいから、大人しくしろってェ。俺、キミみたいに清純っぽいのがタイプなんだよねェ。周りの連中はユーリユーリって騒いでるけど、あんなの見るからに****じゃん。そんな****に****だって、こっちは興醒めだからさぁ」


「聞くに堪えないっすね。いい加減にしないと――あっ」


 瓜子が思わず声をあげたのは、彼の背後にある控え室の扉が開いたためであった。

 そこから顔を出した人物が、仁王のごとき形相になって突進してくる。瓜子が止める間もなく、その人物は「マーくん」の肩をわしづかみにした。


「おい、うちの門下生になんの用事だ? 話があるなら、俺が聞こうじゃねえか」


 それは、コーチの立松であった。

 そして開かれた扉からは、ユーリとメイと愛音が木陰にひそむリスのように顔を覗かせる。場違いなぐらい、そちらは可愛らしい様相であった。


「や、やだなァ。何なんすかァ? 暴力ふるったら、出場停止ですよォ?」


 と、「マーくん」はへらへらと笑いながら情けない声をあげる。

 立松は同じ形相のまま、「ふん」とその肩を突き放した。


「用事がないなら、消え失せろ。こっちは試合前の大事な時間なんだよ」


「マーくん」は「へへへ」と無意味な笑い声をこぼしつつ、這う這うの体で逃げ出していった。

 その背中が完全に見えなくなるのを待ってから、立松は瓜子に向きなおってくる。


「何なんだよ、あいつは? まさか逢引きでも楽しんでたんじゃねえだろうな?」


「ま、まさか! おかしな因縁をつけられて困ってたんすよ。立松コーチのおかげで助かりました」


「……うちの道場は個人主義だが、いくら何でもあんな浮ついたやつとの交際は許さんぞ」


 立松の背後で、愛音が「ぷはっ」と笑い声をもらした。


「立松コーチ、まるでお父さんみたいなのです。愛音の父と、気が合いそうなのです」


「あははぁ。ジョン先生は母性あふるる御方だから、立松先生は道場のお父さんなのかもねぇ」


「や、やかましいぞ、お前ら!」


「ごめんなさぁい」と言いたてながら、ユーリだけがぴょこぴょこと近づいてきた。


「でも、今日はいったいどうしたのぉ? うり坊ちゃんの周りにぶんぶんおかしな虫が飛び回ってるみたいで、ちょっぴり心配なユーリちゃんなのです」


「すみません。ユーリさんは、どうか試合に集中してください」


「ユーリのほうは大丈夫だけど、うり坊ちゃんが心配なのです」


 ユーリは健気な大型犬のような眼差しで、瓜子のことをじっと見つめてくる。

 ユーリの耳にあの薄汚い讒言が届かなくて、本当によかった、と――瓜子はそんな感慨を噛みしめることになった。


「自分も大丈夫っすよ。あんな馬鹿どものせいで集中を乱したりしません。タイトル獲得に向けて、頑張りましょうね」


「うん! ベル様の見ておられない場であれば、ユーリも安請け合いできるのです!」


「いや、ベリーニャ選手もこちらをうかがってるみたいっすけど」


「またまたぁ。そんな見え見えの手口でユーリを驚かそうったって……きゃー! ベル様が見ておられる!」


「ハイ。ワタシ、ジャマですか?」


 ユーリの抜けた穴を補うかのように、ベリーニャ選手が扉から顔を出していた。いつも通りの、とても穏やかな笑顔だ。


 阿呆の「マーくん」からもたらされた不快な気持ちが、ユーリたちのかもしだす温かい空気によって速やかに排除されていく。

 自分がどれだけ人の縁に恵まれているか、瓜子はあらためて思い知らされた心地であった。

 そして――いささかならず唐突な感じで、瓜子の脳裏には沙羅選手の姿が浮かびあがったのだった。


(沙羅選手。やっぱりそいつらとは、深く関わらないほうがいいみたいですよ)


 沙羅選手もメイのように名ばかりのチーム・フレアであるのなら、それでいい。しかし、沙羅選手は自らのコネクションでタクミ選手や一色選手のお世話をしていたようだし――いささかならず、心配なところであった。


 去年の夏、エメラルドグリーンの水着姿ではしゃいでいた姿や、入院先の病室で何とか空元気を振り絞っていた姿が、次々と浮かんでは消えていく。

 やっぱり瓜子は、沙羅選手のことを憎からず思っているのだ。今では両手の指に余るほど、たくさんの女子選手たちと懇意にさせてもらっている瓜子であったが――そういえば、MMAの世界で最初に気安い関係となった外部の選手は、沙羅選手が最初のひとりであったのだった。


(……この興行が終わったら、沙羅選手と腹を割って話してみよう)


 瓜子はひそかに、そんな決意をすることになった。

 なんだか「マーくん」を起点にして、チーム・フレアがいっそう危なっかしい存在であるように思えてきてしまったのだ。選手として対立する分には致し方のない面もあったが、瓜子はあんな信用ならないチームに沙羅選手が在籍していることが、心配でたまらなくなってしまったようだった。


(でもそれも、今日の試合を終えてからだ)


 そんな思いを込めて、瓜子はユーリを振り返った。

 ベリーニャ選手の姿に泡をくっていたユーリは、きょとんとした顔で瓜子を見返してから、まったく事情もわかっていない様子でにこりと微笑む。そんなユーリの天使みたいな笑顔が、瓜子をいっそう澄んだ気持ちにさせてくれた。

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