04 怪獣の苦悩

 瓜子たちが稽古場に戻ると、赤星弥生子と六丸の姿が消えていた。

 近くにいた門下生に話を聞くと、十分ほど前に二人で出ていってしまったという。それを聞いて、是々柄は「なるほど」と首肯した。


「だったらきっと、屋上っすね。弥生子ちゃんはひとりになりたいとき、いっつも屋上に行くんす」


「でも、六丸さんも一緒みたいっすよ?」


「六ちゃんは、愛犬っすから」


 ということで、瓜子たちもサキにひとこと伝えてから、是々柄の案内で屋上を目指すことになった。

 まずはエレベーターで、最上階の五階を目指す。二階はメキシコ料理店、三階と四階は各種のテナント――そして五階は、赤星家の居住スペースであるのだそうだ。


「だから弥生子ちゃんは、一年のほとんどをこのビルの中で過ごしてるんすよ。中学校すら、ほとんど通ってなかったっすね」


 五階でエレベーターをおりた是々柄は、内心の読めない声でそう言った。

 とても居住スペースとは思えない、殺風景な様相である。そこはコンクリ打ちっぱなしの通路であり、マンションのように金属製のドアがいくつか並べられていた。


 その突き当たりにも同じようにドアがあり、それにもたれて六丸が座り込んでいる。

 瓜子たちが近づいていくと、六丸は「こんばんは」と屈託なく微笑んだ。


「どうしたんですか、ぜーさん? 弥生子さんに、何かご用事でも?」


「はい。猪狩さんが、弥生子ちゃんの相談に乗ってくれるそうっすよ」


「相談?」と、六丸は目を丸くした。

 そうして瓜子のほうを振り返ると、今度はその目が優しげに細められる。


「ああ……あなただったら、弥生子さんも気兼ねなく話せるかもしれませんね。でも、弥生子さんは試合の疲れとナナさんとのやりあいで、すっかりくたびれ果てちゃってるんですよ。申し訳ないですけど、ここから先はおひとりでお願いできますか?」


「ええ。自分はかまわないっすよ」


 そんな風に答えながら、瓜子はここまでついてきてくれた大事なチームメイトたちを見回した。


「それじゃあユーリたちは、ここでうり坊ちゃんのお帰りを待ってるよぉ。何かあったら、大声で呼んでねぇ」


 ユーリはとてもやわらかい笑顔で、そんな風に言っていた。

 メイと愛音は、無言でうなずいている。その姿を見届けて、六丸は金属のドアに手をかけた。


 ドアの向こうはコンクリの階段で、その先にまた同じようなドアが見えている。天井には、切れかけた蛍光灯がちかちかと弱々しく瞬いていた。

 瓜子が階段に足をかけると、背後でドアが閉められる。

 すべての階段を踏破した瓜子は、ひとつ息を整えてからドアに手をかけた。


 ドアを開くと、十月中旬の涼しい夜風が頬に吹きつけてくる。

 屋上には、ボイラーや空調の設備などが無機的に立ち並び――その最果てに、赤星弥生子の背中が見えた。

 屋上は、背の高いフェンスで囲まれている。そのフェンスごしに、赤星弥生子は夜景を見やっているようだった。


「弥生子さん、ちょっとお邪魔していいっすか?」


 瓜子が声をかけると、赤星弥生子のすらりとした背中がぴくりと震えた。

 夜風に髪を乱されながら、赤星弥生子が瓜子のほうを振り返ってくる。


「……猪狩さんだったのか。てっきり、六丸かと」


「はい、すみません。弥生子さんとお話がしたかったんで、六丸さんに入れていただきました」


 瓜子がそちらに近づいていくと、赤星弥生子はふいっと横を向いてしまった。


「私に、話とは? ……私などにはかまわずに、打ち上げを楽しんでもらいたいのだが」


「自分が打ち上げを楽しむには、まず弥生子さんに元気になっていただきたいんですよね」


 赤星弥生子は口もとに苦笑めいたものをひらめかせながら、フェンスに背中を預けた。赤く染まった目を見られたくないのか、まぶたを閉ざしてしまっている。


「私は試合を行うと、次の日までまるまる役立たずなんだ。こればかりは、どんなに優秀なメディカルトレーナーや整体師にもどうにもできないらしい。……みんなそれをわきまえているから、打ち上げの場でもわたしを放っておいてくれてるいるのだよ」


「そうなんすか。それは大変っすね。そんなお疲れのところに押しかけちゃって、本当にすみません。……自分と喋るのも、しんどいっすかね?」


「私より、私の相手をする人間のほうが、よほど疲れてしまうのではないかな」


 それは赤星弥生子ならぬ、卑屈な物言いであると思われた。

 瓜子は意を決し、こちらを見てくれない赤星弥生子の顔を見据える。


「自分は弥生子さんとおしゃべりしてても、疲れたりしないっすよ。ご迷惑じゃなければ、ちょっとだけお時間をいただけませんか?」


「それはかまわんが……猪狩さんの時間が無駄になるだけだろう」


「無駄かどうかは、自分で決めることだと思います」


 赤星弥生子は、また苦笑した。それもまた、凛然とした彼女には似合わない表情である。


「私は、猪狩さんにも嫌われてしまったようだ。まあ、私みたいに出来損ないの人間では、それもしかたないのだろう」


「嫌いなお相手におしゃべりをお願いしたりしないっすよ。弥生子さんこそ、自分のことが気に入らないんなら、はっきりそう言ってください」


 赤星弥生子はまぶたを閉ざしたまま、きゅっと口をへの字にした。

 それはちょっと子供がすねているような表情に見えて、可愛らしい。


「……なんの用事だかわからないが、私は疲れているんだ。悪いが、座らせていただくよ」


「そうっすね。自分もそうさせていただきます」


 赤星弥生子はフェンスにもたれて座り込み、瓜子はその正面にあぐらをかくことになった。


「さっきから、失礼な口ばっかり叩いちゃってすみません。ただ自分は、弥生子さんのことが心配になっちゃったんです」


「……心配?」


「はい。青田ナナさんと、もめちゃったみたいですね?」


「ああ……あれはいつものことだよ。別に猪狩さんたちのことが原因ではないから、気にしなくていい」


「ええ。原因は、《カノン A.G》についてみたいですね。沙羅選手が弥生子さんを挑発したことが、青田さんの耳に入っちゃったんでしょう? 自分はネットとかに疎いんで又聞きですけど、けっこうな騒ぎになっちゃったみたいっすね」


「ああ。私もインターネットの類いには、まったく興味がない。……だからきっと、ナナの不満もきちんと理解できないんだろうな」


「そうでしょうか? 青田さんはただ、弥生子さんに対する誹謗中傷が我慢ならなかっただけでしょう? 別に難しい話ではないように思います」


 赤星弥生子はまぶたを閉ざしたまま、小さく嘆息をこぼした。


「私はずっと昔から、八百長の疑いというものをかけられてきた。私はもう何年も男子選手ばかりを相手取ってきたし、それらのすべてに勝利してきたから……そのように疑われるのも無理からぬことなのだろう。だけど私は、《レッド・キング》以外の興行に出場するつもりはない。だからその疑いを晴らすことは難しく……それでナナも不満をつのらせてしまったのだろうな」


「弥生子さんは、どうして他の興行に出場しないんすか?」


「私の目的は、赤星道場と《レッド・キング》を守ることだからだ」


 普段よりも力のない赤星弥生子の声音に、ふっと力感が宿された。


「私が他の興行に出場すれば、《レッド・キング》の希少価値が失われてしまう。どれだけ驕っているのだと呆れられてしまうだろうが……《レッド・キング》の過半数の客は、赤星弥生子という見世物を見るためにやってきているんだ」


「見世物だなんて自分を卑下するのは、弥生子さんらしくないように思います」


「しかし、それが事実なんだ。自分よりも大きな男子選手をばったばったとなぎ倒す、化け物のような女……格闘技界のカリスマ・赤星大吾の娘である大怪獣ジュニア……客が見たがっているのは、それだ。彼らはスポーツとしてのMMAではなく、大怪獣ジュニアの暴れる姿を見たいだけなんだ」


 確かに赤星弥生子は、先刻のように自分を卑下しているわけではないようだった。

 ただその代わりに、深い懊悩がにじみ出ている。そしてそれが、青白い雷光のごときオーラに変じているようであった。


「私の父は現役当時、総合格闘技を五輪の競技に認めさせるんだと息巻いていた。しかし、客が求めているのは大怪獣が暴れる姿であり……父が膝の故障によって欠場しがちになると、目に見えて客足は遠のいた。そうして世間ではブラジリアン柔術やバーリトゥードに基づく新たなMMAの様式がもてはやされ、父の築きあげた総合格闘技の理念やルールは時代遅れのものと見なされた。それで父は、両方の膝と一緒に心をへし折られてしまったのだよ」


 瓜子に相槌を打たせる隙も与えず、赤星弥生子はそのように言いつのった。


「だけど私は、納得がいかなかった。ルールなんて、どうでもいい。父が五体満足なら、どんなルールにだって適応できただろう。大江山師範代や青田コーチだって、同じことだ。もしもみんなが二十歳若かったら、近代MMAのルールでも結果を残すことができたはずだ。だから、私は……証明したかった。父たちの築きあげてきたものが無意味ではないと、この身で証明したかったんだ」


 赤星弥生子は、ぐっと握りしめた拳を自分の額に押し当てた。


「だけど私はそれ以上に、赤星道場と《レッド・キング》を守りたかった。私はそれ以外に自分の居場所を持たなかったから……赤星道場と《レッド・キング》が、私のすべてだったんだ。だから私は世間を見返すことより、自分の居場所を守ることを優先した。ナナはきっと……私のそういう部分が我慢ならないのだろう」


「青田さんが、そう言ったんすか? 自分は、立派な行いだと思いますけど」


 瓜子がようよう口をはさむと、赤星弥生子は雷光のようなオーラをゆるめて、ふっと微笑した。


「もちろん、おたがいの気持ちはしょっちゅうぶつけあっている。私はナナより六歳年長なだけだが、忙しいご家族に代わってナナのおしめを替えてあげたりしていたんだよ。そうしておたがい物心ついたときから、父親の背中を追い続けて……それで、今に至るんだ。私たちは内心をさらけだした上で、けっきょく反目しあっている」


「それじゃあ……弥生子さんがどうして徳久のことを嫌っているかも、青田さんはご存じなんすか?」


 赤星弥生子は、ぴくりと肩を震わせた。

 やわらいでいた剣呑なオーラが、倍の勢いでその身を包み込む。


「どうして急に、あの輩の話になってしまうのかな。私はその名を耳にするだけで、不快でならないのだが」


「すみません。でも弥生子さんはそういう気持ちもあって、なおさら《カノン A.G》に出場する気にはなれないんでしょう? ていうか、マリア選手や大江山さんも《カノン A.G》から撤退させるんすよね。その理由を青田さんに伝えているかどうかは、けっこう重要なポイントだと思うんすけど」


「……果たして、そうだろうか?」


「はい。だって、青田さんは弥生子さんが出ないんなら自分が出るって言ってましたよね。それをきちんと引きとめるには、弥生子さんが徳久を嫌う理由を説明するべきじゃないっすか?」


 赤星弥生子はしばし思案していたが、やがてゆるゆると首を横に振った。


「それはべつだん、重要な話ではないように思う。君は知らないかもしれないが、ナナもあの輩のことは恨み抜いているんだ。あいつだけではなく、レムさんや兄のこともまとめてね」


「え、そうなんすか?」


「ああ。当時は兄が道場を出た影響で、《レッド・キング》も赤星道場も存亡の危機に立たされていたからね。その頃のナナは、まだ十歳かそこらだったと思うが……兄たちを絶対に許さないと言って、ずっと泣きわめいていた。そして今でも、兄たちを恨み抜いている」


 今度は、瓜子が思案する番であった。


「えーと……それで、その徳久が《カノン A.G》の運営に絡んでることも、青田さんはご存じなんすか?」


「もちろん、知っている。マリアやすみれを撤退させるにあたって、道場の全員に事情を通告しているからね」


「でも、青田さんにとっては沙羅選手の挑発のほうが重要だったってわけっすね。そこのあたりのギャップは何なんでしょう?」


「ギャップ?」


「はい。自分はべつだん、どちらの心情も理解できるように思います。運営陣の腐ってる《カノン A.G》に近づきたくないっていう弥生子さんの気持ちも、そうだからこそあんな挑発が許せないっていう青田さんの気持ちも……だって、沙羅選手ってのはチーム・フレアの所属なわけですからね。腐った運営とべったりのチーム・フレアの人間にそんななめた口を叩かれたら、頭に来るのが当然じゃないっすか?」


「…………」


「それでもって、チーム・フレアのリーダーはタクミ選手です。弥生子さんでも青田さんでも、階級はタクミ選手と一緒でしょう? タクミ選手を試合で潰せば、徳久のやつにも一泡ふかせることができるわけです。そうだからこそ、あいつもわざわざ姿を現して、弥生子さんが出場しないように牽制したんでしょうしね」


「それで……ギャップとは?」


「はい。弥生子さんは、ご自分だけじゃなく赤星道場のみんなを《カノン A.G》に関わらせたくないんすよね? どうしてそうまで《カノン A.G》から距離を取ろうとするのか、青田さんにはそれがわからないんじゃないっすか? ……ていうか、それを疑問に思っていたのは、自分なんすけど」


「…………」


「弥生子さんは、お兄さんやレムさんを恨んでないんすよね? それなのに、どうして徳久だけをそんなに恨んでるんすか?」


 赤星弥生子はまぶたと一緒に、口まで閉ざしてしまった。

 いくぶんうつむき加減であるために、長い前髪が濃く影を落としている。ぴりぴりと張り詰めたオーラはそのままに、赤星弥生子はとても苦しそうに見えてしまった。


「いえ、もちろん自分なんかにそれを打ち明ける筋合いはありません。でも、青田さんに打ち明ければ、もしかして理解が深まるかもしれないっすよ?」


「いや……それだけは、言いたくない」


「そうっすか。子供の頃からのつきあいである青田さんにも言えないようなお話なんすね」


「違う。そういう相手だから、言えないんだ。私は……ナナたちを失いたくない」


 瓜子は俄然、身を乗り出すことになった。


「さっき是々柄さんに、弥生子さんは同門の相手だからこそ見せられない部分があるんだって言われました。もしも自分で力になれるような話があったら、なんでもご相談に乗りますよ」


「それも違う。私は虚勢を張っているのではなく……ただ、ナナたちに嫌われたくないだけなんだ」


「どうして徳久なんかの話で、弥生子さんが嫌われることになるんです? そんなこと、ありえないように思うんすけど」


 赤星弥生子はきつく唇を噛み――そして、ふいにまぶたを見開いた。

 白目の部分が真っ赤に染まった赤星弥生子の切れ長の目が、真正面から瓜子を見据えてくる。

 その中心では黒い瞳が、子供のように不安げな光をたたえていた。


「あいつは……徳久という輩は……父の築いたものを台無しにするために、兄を道場から引き離したんだ」


「え? あいつは大吾さんに恨みがあったんすか?」


「恨み……というのだろうか……あいつは、天辺で輝いている存在を地べたに引きずりおろし、汚い足で踏みにじるのが無上の喜びだなどとほざいていた」


 とても不安げな眼差しをしたまま、赤星弥生子の声に怒気が入り混じる。

 そしてそれは、ごく速やかに瓜子の怒りをもかきたてた。


「なるほど、あいつがユーリさんを蹴落とそうとする理由がようやくわかりましたよ。本当に、心の奥底から見下げ果てたやつなんすね。……それで過去には、格闘技界のカリスマだった大吾さんにも目をつけてたってわけっすか」


「ああ。だけどあいつが手を下すまでもなく、父は引退を決意していた。だからあいつは、その後継者と見なされていた兄を《JUF》にスカウトしたんだ。そうすれば、赤星大吾の築きあげてきたものも、すべて水泡に帰すだろうという目論見で」


「その窮地を、まだ十六歳だった弥生子さんが救ったってわけっすね。とても立派な話じゃないっすか。どうして青田さんたちに秘密にしないといけないんです?」


「……あいつがそんな話を私に打ち明けてきたのは、私が初めての試合を行った夜のことだった。そのときに、あいつは……」


 と、赤星弥生子は泣き顔になるのをこらえるように、深く眉根を寄せた。


「私が悪あがきをしなければ、他のみんなは解放されたのに……私が余計な真似をしたせいで、誰もが赤星大吾の栄光という呪縛から逃れられなくなった。打ち上げ花火のように盛大に弾け散れば幸福だったものを、今後はみじめに落ちぶれていくことになる……私が赤星道場と《レッド・キング》に関わるすべての人間を不幸にするのだと……あいつは、そんな風に言っていた」


「まさか、そんな妄言を真に受けたんすか?」


「それは君が、赤星大吾の子ではないから言えることだ!」


 赤星弥生子はにわかに激昂して、瓜子の胸ぐらをつかんできた。


「私がその言葉にどれだけの恐怖を覚えたのか、君には想像もつかないのだろう。実際にあいつの言葉通り、《レッド・キング》は衰退した。かつては総合格闘技の第一人者であったのに、今では集客二百人ていどのマイナープロモーションだ。客の目をひくために男女の混合戦などを行い、財政をまかなうために屋台まで出して……あげくに私は、八百長ファイターと侮蔑されている。私さえ、身にあまる希望などに取りすがっていなければ、みんなをこんなことに巻き込まずに済んだんだ」


「巻き込むって何すか。大江山師範代も青田コーチもその娘さんたちも、みんな自分の意思で弥生子さんについてきたんでしょう? それを自分のせいだなんて考えるほうが、よっぽど傲慢っすよ」


 赤星弥生子に胸ぐらをつかまれたまま、瓜子はそのように言ってみせた。


「マイナープロモーション、上等じゃないっすか。灰原選手やオリビア選手も、《レッド・キング》は面白いって言ってましたよ。小柴選手や鞠山選手は、弥生子さんの強さに感服してました。もちろん自分やユーリさんだって、同じ気持ちです。そりゃあ非公式マッチとかは、自分にとっても馴染みのないものですけど……でも、《JUF》の末期に比べれば、自分は《レッド・キング》のほうが好みです。アリーナ会場で何万人ものお客を集めたって、つまらない試合はつまらないっすよ。少なくとも、今日の《レッド・キング》でつまらない試合なんて、ひとつもありませんでした。それはきっと、赤星道場のみなさんがこの興行を成功させようと、一致団結してるからだと思います」


 赤星弥生子は感情の入り乱れた眼差しで瓜子を見据えたまま、無言である。それをいいことに、瓜子はさらに言いつのってみせた。


「それに、道場のみなさんはあんなに楽しそうじゃないですか。夏の合宿も今日の打ち上げも、みんな心から楽しんでいます。弥生子さんが守りたかったのは、あの場なんでしょう? 弥生子さんが頑張ってきたから、みんなあんな風に楽しく過ごせてるんです。夏の合宿の頃から、自分はすごいなあって思ってましたよ。だから、弥生子さんのことを尊敬して、もっと仲良くなりたいなって思ったんです」


「…………」


「正直に言って、自分は不勉強の若輩者なんで、大吾さんの築きあげてきたものの凄さってのが実感できません。だから、それを受け継いだ弥生子さんの苦労も理解できていないんでしょう。でも、弥生子さんの築いてきたものの素晴らしさは理解してるつもりですよ。自分はどっぷりプレスマン道場に浸かっちゃってるんで、今さら移籍とかはできないですけど……そうじゃなかったら、赤星道場に入門したかったぐらいです。だからそんな、卑下しないでください。赤星道場も《レッド・キング》も、みじめに落ちぶれたりなんかしていません。門下生の人たちもお客さんたちも、弥生子さんの築きあげてきたものを、かけがえのないものだと思ってくれているんです」


「どうして君は……そんな風に、私なんかのことを……」


「だから、尊敬してて仲良くなりたいと思ってるからですってば! そんな相手が『私なんか』とか言ってたら、黙っていられないでしょう?」


 赤星弥生子は、こらえかねたように目を伏せてしまった。

 瓜子の胸もとをつかんだ手は、小さく震えてしまっている。


「いったい……どんな人生を送ってきたら、そんな風に真っ直ぐ感情を叩きつけられるようになるんだろうな」


「知らないっすよ。強いて言うなら、ユーリさんのおかげっすかね。……あ痛っ!」


 赤星弥生子が、いきなり瓜子に頭突きをくらわしてきた。

 そしてそのまま瓜子の額に自分の額を押しつけると、何事もなかったかのように身を引いていく。


 瓜子の胸もとから手を離した赤星弥生子は、あらためて背後のフェンスにもたれかかった。

 そうしてしばらく、何かを噛みしめるように沈黙を守り――やがて、囁くような声音で言った。


「……ありがとう。君のおかげで、胸のつかえが取れたように思う」


「本当っすか? それなら、嬉しい限りっすけど」


「本当だ。……明日、ナナともう一度話してみようと思う」


 凛然とした表情を取り戻して、赤星弥生子はそう言った。


「ただ、私とナナはもともと相性が悪いというのか、意見がぶつかるのが当たり前みたいな関係なので、すべてを正直に話しても理解し合えるかどうかは知れたものではないが……」


「それでも本音を隠してたら、絶対に理解し合えないっすよ。ていうか、本音をさらけだした上でぶつかるなら、本望じゃないっすか」


 赤星弥生子は何か眩しいものでも見るように目を細めつつ、夜風にかき乱される前髪をかきあげた。


「君の強靭さには、感服させられる。……だけど私もなけなしの力を振り絞って、君を見習おうと思うよ」


「自分なんかを見習ったら、しっちゃかめっちゃかになっちゃいそうっすけどね。でもそのときは、喜んでお力になりますよ」


「ありがとう」と言って、赤星弥生子は少しだけうつむいた。

 そして、真っ赤な目でおずおずと瓜子を見上げてくる。


「……ところで私は自分のことばかりにかまけて、まだ君に謝罪していなかった。まったく今さらの話なんだが、それを聞いてもらえるだろうか?」


「謝罪? って、なんのお話っすか?」


「うん。……九月のあの興行で、打ち上げに参加せずに勝手に帰ってしまったことを……君は怒ってはいないだろうか?」


 瓜子は、呆気に取られてしまった。

 そして赤星弥生子は、そんな瓜子を見て顔を赤くする。


「あのときは私も徳久のせいで頭に血がのぼり、きちんと挨拶をすることもできなかった。だからずっと、君に申し訳なく思っていたのだ。君だって、それを不快に思っていたから……この一ヶ月、私を避けていたのではないのか?」


「いやいやいや! 弥生子さんのことは心配でしたけど、連絡を入れるタイミングを見つけられなかっただけっすよ。それに、自分も徳久のことを気にかけてたから……余計に連絡しづらかったんです」


「余計に、とは?」


「ええまあ、弥生子さんが徳久について何か知ってるなら、それを教えてほしいなって思ってたんすけど……弥生子さんにとってはずいぶん深刻そうな話みたいだから、そんな自分の都合を押しつけたくなかったんです」


 赤星弥生子は額に手を当てて、妙に感慨深げな嘆息をこぼした。


「若い門下生が君のことで騒いでいる理由が、本当の意味で理解できたような気がする。……そんなに愛くるしい容姿をしている上に、そんなに真っ直ぐで優しい気性をしていたら、それは恋心のひとつも芽生えてしまうのだろうな」


「な、なんすか? タチの悪い冗談はやめてください!」


「生憎、冗談を言えるほど器用な性格はしていないんだ」


 そう言って、赤星弥生子はまた静かに微笑んだ。

 その目は相変わらず、血に濡れたように真っ赤であったが――それは夏の合宿でも見せてくれた微笑とまったく変わらぬ、魅力的な笑顔であったのだった。

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