03 交換条件

 青田ナナが稽古場を飛び出していった後も、打ち上げは穏当に継続されていた。

 女子選手の一行もいつしか数名ずつに別れて、あちこちの人々と交流を深めている。灰原選手はいつもの調子で多賀崎選手を引き連れて、道場の若い衆と楽しそうにやっているし、オリビア選手はエドゥアルド選手やその関係者たちと親密に語らっていた。人見知りである魅々香選手も鞠山選手のサポートのもとに、道場の人々と格闘技談義に励んでいる様子だ。最近すっかり鞠山選手と仲良しの小柴選手も、そちらの輪に加わっていた。


 よって、瓜子の周囲にはプレスマン道場の面々だけが居残っている。

 ユーリと愛音とメイの、三名だ。サキはもともと赤星道場とゆかりが深いため、現在は大江山軍造や年配の人々と酒杯を交わしていた。


「それで、猪狩センパイはどうしたいのです? そんなに赤星弥生子サンが心配なら、さっさと突撃すればいいではないですか」


 細い身体でよく食べる愛音は、ユーリに負けない食欲を満たしながら、そのように言いたてた。


「それはそうなんすけど……突撃しても、かける言葉が見つからないんすよね」


「愛音には、猪狩センパイのお気持ちがよくわからないのです。猪狩センパイは、赤星弥生子サンの《カノン A.G》参戦を願っているのですか? ……愛音としては、大反対なのですが」


「え? なんで反対なんですか?」


「だってあの御方はユーリ様と同じ階級で、なおかつお目の秘密をご存じであられるのです。ただでさえ強敵なのに、それではますます厄介ではないですか。少なくとも、ユーリ様が新たなファイトスタイルをしっかりと体得されるまでは、横槍を入れてほしくないのです」


 肉食ウサギのような眼差しで、愛音はそのように言いつのった。

 瓜子は頭をかきながら、「まあ、そうっすね」と応じてみせる。


「でも別に、自分も弥生子さんの参戦を願ってるわけじゃないんすよ。ただ……青田さんと悶着を起こしてるのが気の毒なんで、それを何とかしてあげたいなって」


「だったら、好きなだけ慰めてくればいいのです。今日はあの御方も力尽きているようなので、きっと篭絡できるのです」


「篭絡って何すか。自分はただ、弥生子さんに元気になってもらいたいだけっすよ」


「だから、とっとと突撃すればいいのです。猪突猛進の猪狩センパイがうじうじしていると、こっちまで落ち着かない心地なのです」


 口は悪いが、愛音も愛音なりに瓜子を心配してくれているのだろう。それをありがたく思いつつ、瓜子は嘆息をこぼしてみせた。


「自分もそうしたいのは山々なんすけど……ただ、とっかかりが見つからないんすよ。それに、徳久のことを話題に出すのは気が引けちゃいますし……」


「どうしてその卑劣漢の話題に触れなければならないのです?」


「だって、元凶はあいつなんすからね。弥生子さんはあいつが《カノン A.G》に関わってるから、赤星の選手を撤退させたんすよ? でも、どうして弥生子さんがそこまであいつを嫌ってるかがわからないから……きっと青田さんも、それで収まりがつかないんだと思います」


「なるほど。だったら、その理由を問い質せばいいのです」


「道場の人たちに言わないことを、自分なんかに言うわけないじゃないっすか。きっとそれだけ、弥生子さんにとっては重要な話なんすよ」


 すると、瓜子のすぐ背後から「ほほう」というとぼけた声が響きわたった。


「なんの密談かと思ったら、弥生子ちゃんについてでしたか。ぶきっちょな弥生子ちゃんに代わって、お礼を申し上げるっすよ」


「……どうして是々柄さんは、いつも自分の背後から登場するんすか?」


「あなたの魅惑的なお肉が、あたしをひきつけるんすよ」


 えんじ色のジャージを纏った是々柄が、にじにじと瓜子たちのほうににじり寄ってきた。その口の端から、ゲソの足がはみだしている。


「確かに最近の弥生子ちゃんは、ずっと鬱屈してるみたいだったっすね。思い返せば、それはそちらの興行の九月大会以降だったように思うっす。そんでもってナナちゃんともあんな感じになっちゃって、ますます思い詰めちゃったんでしょう」


「……周りの人たちで、なんとかサポートできなかったんすか?」


「それは、六ちゃんの役割っすね。でも今回は、六ちゃんの天然パワーも不発みたいっす」


 遠視用の眼鏡ごしに、是々柄は赤星弥生子のほうをうかがった。

 赤星弥生子はまだ壁にもたれて座り込んでおり、いつしかそのかたわらで六丸も膝を抱えている。それ以外に、赤星弥生子に近づこうとする者はいないようだった。


「で、猪狩さんは弥生子ちゃんのデリケートな部分にまで踏み込みたいと考えてるわけっすか?」


「いや、自分ていどのつきあいで、そんな図々しい真似はできないっすよ。……せっかく仲良くなれそうな弥生子さんに、嫌われたくないっすから」


「だったらあたしが、妙案をお授けしましょうか?」


「妙案?」と、瓜子は思わず身を乗り出してしまった。

 是々柄は感情の読めないぼけっとした顔で、「そうっす」とうなずく。


「あたしには、とっておきの妙案があるんすよ。……それを伝授する代わりに、ユーリさんのお肉をさわらせてもらえないっすか?」


「ええええええっ! 是々柄さんには、人の心がないんすか?」


「人並みにはあるつもりっすけど、お肉への欲求がそれを上回るんすよね。一見脂肪と見まごうユーリさんのお肉には、かつてない魅惑を覚えてやまないっす」


 瓜子は言葉を失いつつ、ユーリのほうを振り返った。

 ユーリは泣きそうな顔になりながら、「あうう……」と頭を抱え込む。


「うり坊ちゃんのお力になりたいという気持ちは山盛りなのだけれども……しかし、うり坊ちゃんがユーリ以外のお人とラブリーな関係になるために、この身を捧げるというのは……ユーリのせっまーい心ではいまひとつ釈然としないような……」


「そうなのです! ユーリ様がそのような犠牲を払う必要は皆無なのです! これは猪狩センパイの問題なのですから、猪狩センパイの身を捧げればいいのです!」


「ちょ、ちょっと騒がないでくださいよ。ユーリさんを生け贄にするつもりなんてありませんから」


「だったら、猪狩さんでもいいっすよ」


 是々柄がけろりと言ってのけたので、瓜子は突っ伏しそうになってしまった。


「だったら最初から、そう言ってくださいよ。……ていうか、自分なんかをマッサージしてどうなるっていうんすか?」


「以前にもお話しした通り、猪狩さんのお肉にも興味津々なんすよ。驚異的な骨密度を持つ猪狩さんにも、一種独特のお肉が備わってる可能性が高いんすよね」


 そんな風に言ってから、是々柄は「ただし」とつけ加えた。


「一見脂肪のカタマリでありながらあれだけの怪力を発揮するユーリさんに比べると、魅惑度は一段階下がるっす。猪狩さんのお肉でしたら、二十分間のスペシャルマッサージで手を打ちましょう」


「ど、どこかおかしなところをさわったりしないでしょうね?」


 瓜子が思わず胸もとを隠蔽すると、是々柄はちんまりとした指先をわきわきと蠢かしながら「心配ご無用っす」と言いたてた。


「脂肪には、興味ないんすよ。自分が魅了されるのは、あくまで鍛え抜かれたアスリートのお肉っす」


「……是々柄さんのマッサージを受けるだけで、その妙案とやらを授けてくれるんすね?」


「ええ。弥生子ちゃんのデリケートな部分に踏み込む秘策をお伝えするっす」


 瓜子は数十回分の溜息を噛み殺しつつ、「わかりました」と応じてみせる。


「二十分っすね? おかしなところをさわったら、遠慮なくぶっとばしますよ?」


「了解っす。それじゃあ、ケアルームに移動するっす」


「え? ここじゃ駄目なんすか?」


「え? ここで下着姿になれるんすか?」


 かくして瓜子は、ケアルームとやらに連行されることになってしまった。

 やはり心配してくれたのか、ユーリたちもぞろぞろと後をついてくる。トイレや電話で離席する人間も多かったので、瓜子たちの行動が他の人々に見とがめられることもなかった。


 稽古場を出て、左手側にはシャワールームやロッカールームの扉が並べられている。ケアルームというのは、その向かいに存在した。

 どうやら文字通り、肉体をケアするための部屋であるらしく、そこには保健室のような簡易ベッドが設置されており、戸棚には消毒液やら何やらが取りそろえられていた。


「では、お洋服はこちらのカゴに。なんなら全裸でもいっこうにかまわないっすよ」


「それで全裸になろうって人間がいるとでも思うんすか?」


 どうせ同性ばかりであるのだから、下着姿になることにはばかりはない。

 ただ、ユーリとメイと愛音の三名にじっと見物されていると、さすがに気恥ずかしくなってきてしまった。


「あの、あまりジロジロ見られてると、ちょっと気になっちゃうんすけど……」


「ふみゅ? であれば、お外で待ってるべき?」


「あ、いやいや! 二人きりにされるのも、なんか不安です! あまり目を向けないようにしながら、同席しててくれないっすか?」


「猪狩センパイはワガママなのです。愛音たちだって、好きで打ち上げの場を抜け出してきたわけではないのです」


 瓜子は何回目かの溜息をこぼしつつ、おそるおそるベッドに横たわった。

 腹ばいで寝そべった瓜子の頭上に、是々柄の「大丈夫っすよ」という声が響く。


「本当に、あたしの全テクニックを駆使してマッサージさせていただくだけっすから。あたしのお肉に対する執着心は色情と無関係なんで、安心っす」


「……はい。自分も暴力を行使せずに終わることを願ってます」


「それじゃあ、スタートするっすね」


 是々柄の指先が、瓜子の背中にぐっと圧迫をかけてきた。

 それと同時に瓜子は「あっ」と声をあげてしまい、思わず赤面する。


「どうしたっすか? 痛くはないっすよね?」


「は、はい。痛くはありません」


 それどころか、瓜子は得も言われぬ心地好さに、思わず声をあげてしまったのだ。まったくおかしな意味ではなく、是々柄の指先はピンポイントで気持ちいいツボを押してきたのだった。


(灰原選手なんて、ものの数分で熟睡しちゃうぐらいだったもんな)


 そんな想念にひたる瓜子の背中に、是々柄は次々と指を押し当ててくる。あまりマッサージの経験のない瓜子にしてみても、彼女が生半可ならぬ力量を有していることがすぐに知れてしまった。


 今日は午前中にしか仕事もなく、トレーニングにも及んでいないので、瓜子の身体はまったく疲れていない。しかし、是々柄の指先に背中をもみほぐされることによって、瓜子の肉体が歓喜の声をあげたかのようだった。

 その指先が首筋のほうまで及ぶと、また反射的に声がもれそうになってしまう。瓜子は枕に口もとを押し当てて、それに耐えることになってしまった。


 昨日までのトレーニングや、長時間にわたる観戦などで、ほのかに蓄積されていた疲れや気怠さといったものが、指圧によって体外に押し出されていくかのようだ。逆説的に、瓜子は自分の肉体がわずかながらに疲れていたことを思い知らされたようなものであった。


「うん。やっぱり猪狩さんのお肉も、とっても個性的っすね。あたしの目に狂いはなかったっすよ。……お次は、腕を拝借するっす」


 瓜子の右腕が横合いにのばされて、肩から順番に揉みほぐされていく。それもまた、首筋に劣らず悦楽の極致であった。


「猪狩センパイの筋肉は、そんなに個性的なのです?」


「ええ。骨密度との因果関係は不明っすけど、しなりのあるゴムみたいなお肉なんすよね。特にこの、靭帯の手触りが格別っす」


 是々柄の指先が、肘関節をくにくにと揉みしだいた。

 瓜子がたまらず「あう」と声をあげてしまうと、その力加減がわずかに弱まる。


「大丈夫っすか? 痛くしてない自信はあるんすけど」


「……はい。痛くはありません」


「猪狩さんは、ストライカーなんすよね。やっぱりご自分のパンチでかかる負荷が、関節部分に蓄積されてるっすよ。……格闘技のキャリアは六、七年ってとこっすか」


「そ、そんなことまでわかるんすか?」


「いや、当てずっぽうっすよ。普通だったら十年選手ぐらいの指ざわりっすけど、猪狩さんは真面目そうだから平均より肉体を酷使してるんじゃないかって当たりをつけたっす」


 そんな風に言いながら、是々柄は両手で瓜子の手の平を包み込み、あらゆる箇所を圧迫してきた。


「ふむふむ。指関節のお疲れは、パンチの負荷ほどじゃないっすね。寝技のお稽古に熱心になったのは、この一年半ぐらいってところっすか」


「すごーい! ぜぜちゅかサンは魔法使いみたいですねぇ」


「よかったら、ぜーでけっこうっすよ。弥生子ちゃんですら妥協するぐらい、あたしの名前は発音しにくいらしいっすから」


「あー、確かに赤星弥生子殿も、ぜぜちゅかサンをぜーさんとお呼びになられていましたねぇ。ぜーさんは、弥生子殿とも仲良しなのですかぁ?」


「そりゃあまあ、あたしは大吾さんの現役時代から働いてましたから。あのお人らは、親子そろって魅惑的なお肉なんすよね。卯月くんが家を出ちゃったのが惜しまれてならないっす」


 そんな調子で是々柄はユーリたちと親睦を深めつつ、瓜子の両腕を揉みほぐしていった。


「よし。背中と腕は完了っす。上を向いてもらえるっすか?」


 瓜子は何だか気持ちよさのあまりに、消耗してしまっていた。感覚的には、迫りくる睡魔と必死に戦っているような心地である。


「眠たくなったら寝ちゃってかまわないっすよ。睡眠時の弛緩したお肉も、オツなもんっす」


「あ、いえ、大丈夫です」


 そろそろ約束の時間の半分ぐらいは過ぎたことだろう。瓜子はこれから赤星弥生子と真剣な話をするつもりであるのだから、いぎたなく眠りこける気にはなれなかった。


「では、上から攻めていくっすね。脂肪には触れないんで、ご心配なく」


 是々柄の指先が肩の前面から鎖骨、肩と首の付け根、脇の下から腹の横にまで下がっていく。不思議と、脇の下に触れられてもくすっぐたいことはまったくなかった。


「ふむふむ。腹筋も腰まわりも、見事なもんっすね。ていうか、猪狩さんって想像以上に骨が細いみたいっすね」


「ほうほう。それもあって、五十二キロプラスアルファとは思えぬようなスレンダーボディなのでせうか?」


「はい。きっと筋肉量そのものは、同じ階級の選手に負けてないと思うっすよ。ただ、骨が重くて細いから、こんなシャープなお姿なんすね。……猪狩さん、右膝を立ててもらえるっすか?」


 瓜子は半ば忘我の状態で、是々柄の指示に従った。

 温かい指先が、まずは膝関節をすべての角度から圧迫してくる。それがじわじわと大腿筋を下っていき――股関節にまで達したところで、瓜子は「あの」と我に返った。


「ちょっとその、きわどい部分に近づきすぎじゃないっすか?」


「いえいえ。あたしの目的は関節部分なんで、心配はご無用っす」


 是々柄の指先は容赦なく、瓜子の股関節をもみほぐしてきた。

 腰と腿の付け根などは、気が遠くなるほど気持ちいい。

 しかしその指先が股関節の内側にまで及んでくると、瓜子も黙ってはいられなくなった。


「ですから、ちょっときわいですってば!」


「大丈夫っすよ。恥部には触れないっすから」


「恥部とか言わないでください! ……あっ」


 瓜子が声をあげたのは、あくまでこれまでと同質の心地好さが跳ね上がったためであった。

 是々柄の指先が股関節の内側から内腿のあたりをまさぐると、とてつもない気持ちよさが駆け巡ったのだ。


「長内転筋が、だいぶお疲れみたいっすよ。蹴り技と寝技のお稽古の負荷がたまってるみたいっすね」


「あ、ちょっと……やっぱり恥ずかしいっすよ!」


「大丈夫大丈夫。どれだけ恥部に近かろうとも、性的な快感とは別物っすから」


「ううむ……しかしそのような部位をまさぐられているうり坊ちゃんが切なげにあえいでいると、やはりヨコシマな妄想をかきたてられてしまいますにゃあ」


「だ、誰もあえいでなんかいませんよ! ……あ、ちょっと!」


「ふむふむ。やっぱり右足のほうが、いっそうお疲れみたいっすね。ここ、たまらなく気持ちいいでしょう?」


「是々柄さん! わざとやってますね!?」


 それから十分ほどが過ぎて、ようやく悦楽に満ちた拷問のごときひとときが終了した。

 身体はとてつもなく軽くなったのに、やはり瓜子はぐったりしてしまっている。さして親しくもない相手に全身をまさぐられるというのは、精神的にも疲れるものであった。


「猪狩さんのお肉は、想像以上のお味だったっす。どうもごちそうさまでした」


「……約束っすよ。弥生子さんに対する妙案ってやつを教えてください」


「ああ。猪狩さんは、弥生子ちゃんのデリケートな部分にまで踏み込みたいんすよね?」


 是々柄はマッサージの余韻を楽しむかのように両手の指先を蠢かしながら、言った。


「実のところ、そんなに難しい話じゃないっすよ。……真正面から、ぶつけちゃえばいいんす」


「は? それのどこが妙案なんすか?」


「弥生子ちゃんは自分が道場を引っ張っていくんだっていう使命感で、がんじがらめなんすよ。だから、道場の関係者が相手だと、どうしても気が張っちゃうんすね。弱みなんて見せてたまるかって、無意識の内に鎧を纏っちゃうんすよ」


 いつも通りのぼけっとした面持ちで、是々柄はそのように言葉を重ねた。


「その点、猪狩さんは外部の人間ですし……おまけに、弥生子ちゃんのお気に入りっす。弥生子ちゃんがあんな風に余所さまに心を開くのって、六ちゃんの登場以来なんすよね。ちなみに弥生子ちゃんが六ちゃんと出会ってからは、もう十年以上も経ってるんすけど」


「それなら、六丸さんが相談に乗ってあげれば――」


「六ちゃんは仙人みたいに浮世離れしてるんで、俗人の苦悩が理解できないんすよ。……いや、理解はできても共感ができないって感じなんすかね。犬とか猫とか抱き枕とか、そういうポジションとして弥生子ちゃんを癒やすことはできるんすけど、同じ場所に立つ人間として相談に乗るっていうのは、無理なんす」


 そうして是々柄は両手を合わせると、神仏に拝むかのごとく深々と頭を垂れてきた。


「あたしも最近の弥生子ちゃんは心配でならなかったんすよ。猪狩さんが相談に乗ってあげてくれたら、心から感謝するっす。今すぐにでも、弥生子ちゃんの話を聞いてあげてくれないっすか?」


「だ、だったら今の時間は何だったんです?」


「これはあたしが自分の肉欲を制御できなかった結果っす。もしお断りされてたら無条件でお話しするつもりだったっすけど、猪狩さんって本当に善人っすよね」


 そんなふざけたことを言いながら、ゆっくりと顔をあげた是々柄は――眼鏡のせいで個性的に見えるその顔に、ぽわんとした笑みを浮かべていた。


「弥生子ちゃんも、赤ちゃんみたいに善良なんすよ。だからきっと、猪狩さんみたいに真っ直ぐなお人に心をひかれたんだと思うっす。どうか弥生子ちゃんが元気になれるように、お力を貸してほしいっす」

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