05 大怪獣ジュニアと摩天楼ジュニア
レオポン選手たちの試合から生まれた熱気も冷めやらない中、メインイベントの開始が告知された。
『青コーナーより、エドゥアルド・パチュリア選手の入場です!』
大歓声の中、巨大な人影がのそりと現れる。
白い空手衣を纏った、二メートルはあろうかという大男である。それは瓜子がこれまで生身で見てきた中で、もっとも図体の大きな人間であったかもしれなかった。
ボディチェックのために上衣を脱いでも、その印象は変わらない。思ったよりも筋骨隆々という感じではなく、全身くまなく脂肪の乗った身体つきであったが、そのぶん図体の大きさがいっそう際立つようだった。
首も腕も胴体も、同じ人間とは思えないほど厚みがあり、グローブをつけた拳も赤ん坊の頭ぐらいありそうであった。
脂肪の目立つ体形をしているが、不摂生な感じはまったくしない。なんというか、野生の熊ならば脂肪をたくわえているのが当たり前、とでもいった雰囲気であるのだ。附田選手のように腹が出たりもしておらず、胸回りと腰回りがほとんど均一で、頑丈な大樹のごとき様相であった。
その顔は彫りが深いために陰影が濃く、遠目に見ても凄まじい迫力である。
空手衣の下だけを纏ったエドゥアルド選手は、本物の熊のようにのそのそとケージに上がり込んだ。
「ふみゅ。ユーリの抱くアメリカの御仁とは、いささかイメージに合わないお姿だにゃあ。長くて立派なお名前も含めて、どっちかというとロシアのお人みたい」
ユーリがそんな風につぶやくと、背後の是々柄が「はい?」と反応した。レオポン選手は大変な出血であったが、外傷は自分の専門外と言って、是々柄はこの場に居座っていたのだ。
「アメリカって、なんのお話っすか? エドゥアルド選手は、ジョージアのお人っすよ?」
「ふみゅ? ジョージアって、アメリカではないのですかぁ?」
「それは、ジョージア州っすね。エドゥアルド選手のお生まれであるジョージアは、ロシアの南側にある元ソ連領の北国っすよ。ひと昔前には、グルジアって呼ばれてたっすね」
「あ、そうだったのですかぁ。また無知をさらけだしてしまって、お恥ずかしい限りですぅ」
べつだん恥じ入っている様子もなく、ユーリはそんな風に言っていた。
まあ瓜子もジョージアが世界地図のどのあたりに位置するかも知らないので、まったく笑える立場ではない。そして今は、エドゥアルド選手の出身地にかまけている場合でもなかった。
『赤コーナーより、赤星弥生子選手の入場です!』
さらなる歓声が、会場に響きわたる。
下手をしたら、レオポン選手が勝利したときよりも大きな歓声であるかもしれなかった。
そんな大歓声の中、赤星弥生子がゆっくりと花道を進んでくる。
背後に続くのは、青田コーチと赤星道場の門下生たちだ。
しかし、赤星弥生子の強烈な存在感によって、セコンド陣の気配はほとんどかき消されてしまっていた。
開会式で見たときよりも、いっそう存在感が増している。青白い雷光がばちばちとほとばしっているかのような、鬼気迫るオーラである。
赤星弥生子はすらりとした長身で、顔立ちもかなり整っている。もっと若かりし頃にはグラビアを飾ることもあったというぐらい、美人さんであるのだ。
しかし今の彼女から、そのように柔弱なイメージを想像することは難しかった。
その切れ長の目には白刃のような眼光が瞬き、秀麗な顔は厳しく引き締められている。美しいには美しいが、それはもはや男女どころか人間の領域をも超えた、抜き身の日本刀のような妖しい美しさであった。
花道をただ歩いているだけであるのに、緊迫感が凄まじい。迂闊に手を触れれば、ばちっと火花でも散りそうな、そんな気迫が彼女の長身に分厚く纏わりついているようなのだ。
ボディチェックのために真っ赤なウェアを脱ぐと、その苛烈な雰囲気と美しさがいっそう強まった。
赤地に白いラインの入った、ハーフトップとハーフスパッツである。
彼女は合宿稽古においても海辺においてもずっとTシャツ姿であったので、瓜子がこうまで彼女の素肌を目にするのは初めてのことであった。
剥き出しの肩や腹には、しなやかな筋肉が張り詰めている。そうまで筋肉質なわけではないが、どこか限界まで研ぎ澄ました刀剣を思わせる体躯であった。
赤星弥生子がケージに上がると、いっそうの歓声が渦を巻く。
彼女の苛烈な雰囲気と美しさは、会場中の人間を魅了しているようであった。
『メインイベント、第十試合、五分三ラウンド、男女ミックス、フリーウェイト、インフォーマルマッチを開始いたします!』
リングアナウンサーが、野太くてよく通る声で、そのように宣言した。
『青コーナー、二百三センチ、百三十八キログラム、玄武館ジョージア支部所属、ジョージアの摩天楼ジュニア……エドゥアルド・パチュリア!』
エドゥアルド選手は交差させた腕を腰の脇に振り下ろす、空手式の礼で歓声に応えた。
『赤コーナー、百七十二センチ、六十二キログラム、赤星道場所属、大怪獣ジュニア……赤星、弥生子!』
赤星弥生子は、すっと右腕を上げた。
そんな所作までもが、刀を振り上げたような迫力に満ちている。
しかし――両者の体重差は、倍以上にも及んでしまっていた。
身長差も三十センチ以上で、赤星弥生子の頭は相手の肩にも届いていない。まごうことなき、大人と子供のような差だ。
ケージの中央で対峙した両名は、ヒグマと狼のような風情であった。
ただ赤星弥生子は、臆した様子もなく白刃のごとき眼差しで相手の巨体を見上げている。
それと相対するエドゥアルド選手は、岩でできた彫像のように無表情だ。
レフェリーの指示で両者はフェンス際まで退き、試合開始のブザーが鳴らされる。
もはや怒号のような大歓声の中、両名はそれぞれゆっくりと中央に進み出た。
エドゥアルド選手は胸もとで拳をかまえた、空手家らしいすり足の動きだ。
赤星弥生子は――やはり、大江山すみれと同じように、拳を腰の下あたりに垂らしている。ただしこちらはすり足ではなく、かつてのイリア選手を思わせる挙動で歩くように前進していた。
これだけの身長差であるのだから、間合いにも大きな差が生じてしまう。エドゥアルド選手は赤星弥生子の手足がまったく届かなそうな位置から、まずは下段蹴りを繰り出してきた。
赤星弥生子は踏み出しかけていた左足を下げて、その攻撃をやりすごす。
この体重差では、ローをまともにくらうだけで試合が終わってしまうかもしれない。大江山すみれは試合中ずっと綱渡りをしていたような心地であったはずだと、是々柄はそんな風に評していたが、赤星弥生子はそれよりもさらに過酷な環境に身を置いているはずであった。
エドゥアルド選手は上体を軽く揺らしながら、すり足で前進していく。
赤星弥生子はステップを踏むでもなく、あくまで歩くような動作だ。前後の移動も左右の移動も、その足運びはいかにも無造作であるように見えた。
エドゥアルド選手がぐっと踏み込み、左のボディアッパーを狙う。
赤星弥生子は歩調を速めて後ずさり、その攻撃をやりすごした。
それだけのやりとりで、瓜子は手に汗を握ってしまう。百三十五キロという体重はどれだけ破壊力のある攻撃を生み出せるのか、瓜子には想像することも難しかった。
(でもやっぱり玄武館の選手だから、ジャブを使ったりはしないんだな)
玄武館というのはフルコンタクト空手の流派であり、拳による顔面への攻撃を禁じているのだ。
基本的には至近距離で胴体を殴り合い、隙を見つけて蹴りを織り交ぜる。中には蹴りが主体でアウトタイプの選手も存在するという話であったが、このエドゥアルド選手は明らかにインファイターであった。
しかしこれはMMAの試合であり、エドゥアルド選手もオープンフィンガーグローブを装着している。普段は禁じ手である顔面も、いくらでも殴ることが許されているのだ。体重が半分もない人間が、あの巨大な拳で顔面を殴られたら、いったいどうなってしまうのか――想像しただけで、瓜子はぞっとしてしまった。
エドゥアルド選手は、じわじわとスピードをあげてきている。
決して勇みすぎることもなく、自分のリズムでアクセルを踏み込んできているようだ。
その攻撃は、やはりローとボディブローのみである。いくぶん単調で直線的な攻撃であるが、しかし重戦車のごとき迫力であった。
いっぽう赤星弥生子もスピードがあがっただけで、動作に変わりはない。歩幅も大きくなったりはせず、上半身はほとんど不動であるようだった。
だが――そのような動きでは、やはり限界があるだろう。そうだからこそ、近代格闘技においてはステップワークというものが生まれたのだ。両者の間合いは、いつしかじわじわと詰まってきているように感じられた。
このままでは、相手の攻撃が届いてしまうのも時間の問題だ。
そうして瓜子が、胃の重くなるような焦燥を覚えたとき――赤星弥生子が、ふいに右足を振り上げた。
あまりに自然な動きであったために、瓜子がそれを知覚するのも一瞬遅れた。赤星弥生子は相手が右ローの蹴り足を戻すのに合わせて、軸足に関節蹴りを放ったのだった。
そうして相手の左膝を真正面から踏み、その反動を利用して、遠い位置に着地する。足を正面から蹴るというのは大江山すみれに、蹴った反動を利用して後ずさるというのはマリア選手に似た挙動だが――それは話が逆で、きっと彼女たちのほうが赤星弥生子の戦法を参考にしているのだろう。
ともあれ、エドゥアルド選手は左足を持ち上げてぷらぷらと揺すってから、また同じ調子で前進し始めた。
時間はすでに、二分が経過している。
歓声は、いくぶん焦れたような響きを帯びていた。
しかし両者は動じることなく、同じ挙動を繰り返している。
そして、エドゥアルド選手がまた右ローを繰り出したとき、赤星弥生子も同じ挙動で関節蹴りを放った。
エドゥアルド選手はまたぷらぷらと足を振ってから、前進を再開させる。
それは、小虫を払うヒグマのように余裕たっぷりの仕草に見えたが――しかし瓜子は、別の想念にもとらわれた。
(本当にまったく効いてなかったら、リアクションする必要もないはずだよな)
たとえば瓜子が自分の半分の体重しかない小学生に膝を真正面から蹴られたら、どうだろう? しかも蹴り足を戻している最中で、軸足に完全に体重がかかっている状態であったなら――まったくノーダメージというわけにはいかないはずであった。
瓜子の想念もよそに、エドゥアルド選手はぐいぐいと前進している。
その巨体から繰り出される突きと蹴りは、もはや試合開始時とは比較にならぬほどの鋭さを帯びていた。
しかし赤星弥生子の所作は変わらず、危険な距離になりそうなときにだけ関節蹴りを放っている。
そうまで単調な動きであれば、いずれカウンターを取られてしまいそうなところであった。
そして――最初に新たなアクションを見せたのは、エドゥアルド選手のほうであった。
なかなか間合いが詰められないと見るや、顔面に向けて真っ直ぐの右ストレートを繰り出したのだ。
その大砲のごとき一撃を、赤星弥生子はわずかに身をそらせることでかわした。
そして彼女は上半身を後方に反らしつつ、左足を振り上げていた。
右ストレートを出しているさなかであるため、エドゥアルド選手の右半身はがら空きである。
そのがら空きの右脇腹に、赤星弥生子の鋭い三ヶ月蹴りが炸裂した。
レバーをまともに撃ち抜かれたエドゥアルド選手は、巨体をびくんとすくませる。
次の瞬間、信じ難いことが起きた。
蹴り足を前に下ろした赤星弥生子が、そのまま至近距離からインファイトを仕掛けたのだ。
赤星弥生子の右アッパーが、エドゥアルド選手の下顎を撃つ。
左のボディブローは、再びエドゥアルド選手のレバーをえぐった。
その頃になって、ようやくエドゥアルド選手も左の拳を振りかざす。
しかしその頃には、すでに赤星弥生子の身がインサイドに逃げていた。
距離は、詰まったままである。
赤星弥生子は、左のアウトローを相手の右足に叩き込む。
筋肉の薄いふくらはぎの下部を狙った、カーフキックだ。
そしてエドゥアルド選手が向きなおるより早く、右の拳をみぞおちのど真ん中にめり込ませる。
赤星弥生子の攻撃は、すべて人体の急所にヒットしていた。
その機械じみた正確さにぞっとしたとき――瓜子の目が、奇妙な光景をとらえた。
光の反射なのか何なのか、赤星弥生子の双眸が赤く光っているように見えたのだ。
エドゥアルド選手は、咆哮をあげながら右拳を振り上げる。
これだけ急所にクリーンヒットさせても、ウェイト差によって弾かれてしまうのだろうか。
しかしまた、エドゥアルド選手が右フックの挙動を見せたときには、赤星弥生子はすでに身を屈めていた。
赤星弥生子の動きが、常にエドゥアルド選手の一歩先をいっている。
つまりこれは――きっと大怪獣タイムであるのだ。
赤星弥生子は絵に描いたような美しい両足タックルで、倍以上の体重を持つ相手を見事にテイクダウンしてみせた。
エドゥアルド選手はガードポジションを取ろうと足を上げかけたように見えたが、その頃にはもう赤星弥生子の身体が腰を乗り越えていた。
マウントポジションの体勢である。
エドゥアルド選手がブロックを固める前に、赤星弥生子は右肘を振り下ろした。
骨が骨を打つ鈍い音が響き、エドゥアルド選手は横を向こうとした。
そのときには、赤星弥生子の両手がエドゥアルド選手の左腕を抱え込んでいた。
エドゥアルド選手とは逆の側に、赤星弥生子が身を倒していく。いつしか赤星弥生子は体勢を入れ替えて、腕ひしぎ十字固めの形になっていた。
エドゥアルド選手は慌てて両手をクラッチしようとしたが、その指先同士が触れる寸前に、無慈悲に左腕がのばされた。
丸太のように太いエドゥアルド選手の左腕が、真っ直ぐ以上の角度にのばされる。
赤星弥生子がその腕を解放してから、エドゥアルド選手とレフェリーが同時に赤星弥生子の身をタップした。
これもまた、《アクセル・ジャパン》で見せつけられた光景である。
相手が痛みを知覚して、タップアウトに及ぼうとしたときには、すでに技が解かれているのだった。
『一ラウンド、三分二十三秒、腕ひしぎ十字固めにより、赤星弥生子選手の勝利です!』
耳をつんざくような歓声が、会場を揺るがした。
しかし赤星弥生子はエドゥアルド選手の脇に寝そべったまま、起き上がることもままならない。やはり大怪獣タイムを発動させると、すべてのスタミナが枯渇してしまうのだ。
「ふええ……兄君様と生き写しだねぇ。あなおそろしや、大怪獣タイム!」
と、ユーリがひっくり返ったような声で、そんな風に言いたてた。
瓜子が視線を向けると、ユーリは黒縁眼鏡の向こうでふにゃんと目を細める。
「途中から、息をするのを忘れてしまったよ。あんなひゅんひゅん動けるなんて、赤星ファミリー様はすごいねぇ」
「ええ。言葉は悪いっすけど、正真正銘の化け物っすね」
「うんうん。これはきっと、誰にも真似できない所業なのだろうねぇ。……ユーリはひと安心じゃよ」
「ん? 何がひと安心なんすか?」
「ああ、赤星弥生子殿はベル様でさえまだかなわないと見なしておられるお相手なのでしょう? でもでもやっぱり、ユーリが一番ときめくのはベル様の試合のようなのです」
そう言って、ユーリはますます幸福そうに目を細めた。
「これで赤星弥生子殿にときめいても、大怪獣タイムなんて真似っこのしようもないから、見果てぬ理想になってしまうでせう? ユーリのあいでんてぃてぃが崩落しなくてよかったなーって、安心したのじゃよ」
「それはつまり……弥生子さんの試合にまったくときめかなかったってことっすか?」
「うみゅ。もちろんココロの奥底から敬服の念を捧げたいところですけれども……どっちかっていうと、メイちゃまやイヌカイキョーナちゃんに近い感覚かも?」
ユーリの言葉を噛みしめながら、瓜子はケージに向きなおった。
青田コーチに支えられた赤星弥生子が、レフェリーに右腕を掲げられている。その姿に、観客たちは天も割れんばかりの歓声をほとばしらせていた。
赤星弥生子は、感動的なまでに美しい。
瓜子もまた、心の奥底から彼女の化け物じみた強さに感銘を受けていた。
だが――ケージの中央で腕をあげられている赤星弥生子は、これだけの激闘を見せた選手とは思えないほど、どこか痛々しいようにも見えてならなかったのだった。
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