03 赤鬼と荒鷲

『それでは、第一試合を開始いたします! 青コーナーより、大江山選手の入場です!』


 リングアナウンサーの声に応じて、大江山すみれがあらためて入場してきた。

 セコンドは、彼女の父親と赤星道場の若い門下生たちだ。大江山すみれはアマチュア選手であるのにレガースパッドやニーパッドを装着しておらず、ただ青いヘッドガードだけをかぶっていた。

 赤コーナー側から登場した高崎誠二なる男子選手は、しっかり足もとまで防具で固めている。それを確認して、瓜子はまた背後の是々柄を振り返った。


「ハンデって、防具の有無っすか? でも、防具を外したほうが有利ってことにはならないっすよね? 攻撃力が上がる代わりに、防御力は落ちちゃうんすから」


「もともとすみれちゃんやマリアちゃんは、相手の攻撃をくらわないように心がけるスタイルっすからね。あとはグローブのほうも、すみれちゃんは四オンスで相手のぼっちゃんは八オンスっす」


 それだけで、十分なハンデと言えるのだろうか? 相手選手も小柄なようだが、それでも男子選手であるのだ。大江山すみれはただでさえ細身であるため、ケージ上で向かい合うとその差が顕著であった。


『第一試合、五分二ラウンド! 男女ミックス、フリーウェイト、アマチュア・スタンダードルール、インフォーマルマッチを開始いたします!』


 リングアナウンサーがそのように言いたてると、是々柄がまた解説してくれた。


「インフォーマルマッチってのは、非公式マッチってことっすよ。女子対男子でフリーウェイトなんて、公式記録には残せないっすからね」


 それは、当然の話である。MMA業界のフォーマット作りに関しては北米に後れを取っている感のある日本であるが、それでも近年では《フィスト》を手本にして着々と地盤が固められているようであるのだ。


『青コーナー、百五十九センチ、四十八・九キログラム、赤星道場所属、大江山の赤鬼ジュニア……大江山、すみれ!』


 こちらの興行においては、二つ名やニックネームといったものまでコールされるようであった。

 ヘッドガードの隙間から栗色のツインテールを揺らしつつ、大江山すみれは右腕を掲げて声援に応えている。やはりウェイトのほうも、順当に増してきているようであった。


『赤コーナー、百六十七センチ、五十八・八キログラム、フィスト・ジム川口所属、アマチュア・フィスト全日本選手権関東ブロック第三位、《フィスト》の新星……高崎、誠二!』


 対戦相手は、ユーリと同じような身長と体重であるようだ。大江山すみれとの体重差は、およそ十キロである。


「……本当に大丈夫なんすか? 十キロ差って、尋常じゃないっすよ?」


「そうっすね。でもまあ普段は、もっと重い選手と練習してるんで」


 それはどのような女子選手でも、大抵は男子選手と一緒に練習しているものである。しかし、試合とスパーではまったく勝手が異なるはずであった。


 そんな瓜子の懸念をよそに、試合は始められてしまう。

 高崎選手はかなり腰を落としたレスラーっぽいスタイルであり、大江山すみれは――足を軽く前後に広げて、腰よりも低い位置に拳を垂らした、あの独特の立ち姿だ。


 瓜子は多くを知らないが、これは整体師の六丸が大江山すみれと赤星弥生子に伝授した武術であるのだという。

 高崎選手はかなり警戒している様子で、なかなか自分の間合いに踏み込もうとしなかった。


「すみれちゃんは、《フィスト》のアマ大会に何回か出場してるっすからね。相手選手は、どこかでその試合を見たことがあるらしいっすよ」


 ならば、警戒して当然であろう。大江山すみれのこのスタイルは、かなり徹底したカウンター狙いなのである。


 大江山すみれもただ突っ立っているわけではなく、すり足で前後に移動している。そうして距離が縮まると、高崎選手は弾かれたような勢いでバックステップを踏んだ。

 客席から、ブーイング一歩手前のはやしたてるような歓声が響いている。

 たとえアマチュアの試合でも、これはプロの興行であるのだ。ブーイングをあびて悪いことはないが、お客に文句を言うことはできないはずであった。


 と――カウンター狙いであるはずの大江山すみれが、ふいに自分から動いた。

 大股で一歩を踏み込み、相手の足もとに低い蹴りを繰り出したのだ。

 しかしそれは横回転のローキックではなく、膝を正面から狙った関節蹴りでもなく、相手のすねを正面から蹴りあげるような、奇妙な蹴りであった。


 その蹴りに押し出されるようにして、高崎選手はまたバックステップする。

 ようやくアクションがあったので、客たちはまた歓声をあげていた。


「うちのアマルールだと、関節蹴りは反則っすからね。あれはすみれちゃんが独自に開発した、苦肉の策キックっす」


「苦肉の策キック……」


「ああ、あたしが勝手にそう呼んでるだけっす。でも、苦肉の策のわりには、けっこう効果的なんすよ」


 いったい何がどう効果的なのか。相手はレガースパッドを着用しているため、すねを蹴られてもダメージが溜まるとは思えなかった。

 が、相手はそれで余計に前に出にくくなったらしい。大江山すみれが同じ挙動で前進し、相手はひたすら逃げ惑うという、意外な展開になってしまった。


「たとえ非公式の試合でも、女の子に負けるってのは屈辱なんすかね。大抵のぼっちゃんは、ああやって慎重になりすぎるんすよ」


 高崎選手はサイドの動きが得手ではないらしく、ときおりフェンスに背中をぶつけては、慌てて横合いに回り込むという、そんな動きを見せていた。


「すみれちゃんのKOシーンとかを見てると、余計に慎重になっちゃうんすかね。すみれちゃんは過去二回、男子選手とやりあってるっすけど、今のところは負けなしっすよ」


 同じ様相で試合時間が半分を過ぎると、高崎選手はやおら自分から突っ込んだ。

 打撃ではなく、いきなりの両足タックルである。

 大江山すみれは同じ姿勢のまま、ただふわりと右膝を持ち上げた。

 身を屈めた高崎選手の顔面に、剥き出しの膝がクリーンヒットする。

 大江山すみれはただ膝を上げただけで、高崎選手が自らそこに突っ込んだ格好であった。空恐ろしくなるほどの、絶妙なタイミングである。


 たとえ十キロの体重差で、ヘッドガードを着用していようとも、これでノーダメージというわけにはいかないだろう。高崎選手は腰くだけとなり、その場に突っ伏してしまった。

 瞬間――大江山すみれはこれまでのふわふわとした動きをかなぐり捨てて、相手の背中に跳びかかる。


 大江山すみれの細長い足が相手の胴体をクラッチして、右腕が咽喉もとにねじ込まれた。

 あれよあれよという間にチョークスリーパーの形が完成され――高崎選手は、あえなくタップした。


『一ラウンド、二分四十八秒、チョークスリーパーにより、大江山選手の一本勝ちです!』


 雛壇席から、歓声が爆発した。

 レフェリーに腕を上げられた大江山すみれは、朗らかな顔で笑っている。

 いっぽう、相手選手は――「してやられた」という顔で苦笑しているようだった。


「ほええ。十キロも重い男子選手に、無傷で勝っちゃったぁ。やっぱりオオエヤマちゃんって、強いんだねぇ」


 ユーリがぺちぺちと拍手をしながらそのように言いたてると、隣の愛音がいきりたった。


「でもこれは、相手が警戒しすぎた結果なのです! もっと強引に攻め込んでいれば、結果は違っていたように思うのです!」


「そりゃあ男子選手と正面からやりあってたら、なかなか勝ち目なんてないっすよ。だから、そうさせないように全身全霊で立ち向かったんじゃないっすか?」


 いつも通りのぽけっとした口調で、是々柄はそう言った。


「言っておくけど、これはまったく楽勝なんかじゃないっすよ。試合が終わるまでの三分弱、すみれちゃんはコンマ一秒も気が抜けなかったんすからね。疲労困憊でぶっ倒れそうな状態のはずっす」


 瓜子がケージを見直すと――大江山すみれはわずか三分で、全身が汗だくになっていた。激しいアクションなどラストの数秒のみであったのに、尋常でない発汗量だ。


「十キロも重い男子選手が相手じゃあ、一発いいのをもらうだけでジ・エンドっすからね。試合中、ずっと綱渡りをしてたような心地なんだと思うっすよ」


「そうっすね。技術だけじゃなく、精神力もすごいんだと思います」


 そんな風に答えてから、瓜子は愛音に笑いかけてみせた。


「大江山さんは、邑崎さんのライバルでしょう? ユーリさんへの気持ちは切り離して、きちんと冷静に分析するべきだと思うっすよ」


「わ、わかっているのです!」と、愛音は頬をふくらませてしまう。態度はともあれ、言い訳をしないのは愛音も成長している証であった。


「それじゃあたしは、いったん失礼するっすね。クタクタのすみれちゃんにマッサージをプレゼントしてくるっす」


 と、選手たちの退場とともに、是々柄も姿を消した。

 その背中を見送ってから、瓜子はメイに向きなおる。


「メイさんは、どうでした? なかなか余所には、あんなスタイルの選手もいないでしょう?」


「うん。だけど、本当に強いかどうか、よくわからない。たぶん、僕だったら、最初の十秒で倒せると思う」


「ええまあ、さすがにメイさんのラッシュには対応できないでしょうね。大江山さんは、まだ十七歳のアマチュア選手ですから」


 試合中もフードを深くかぶっているメイは、その陰からちらりと瓜子を見やってきた。


「……ウリコ、彼女を選手と呼ばない、何故? 彼女、親しい相手?」


「あ、いや、赤星道場のお人たちって、親子のペアが多いんすよ。それで普段は混同しないように、フルネームで呼んでたりしてたんすけど……大江山すみれ選手とか赤星弥生子選手じゃ長すぎるから、さん付けで定着しちゃったんすよね。で、合宿稽古で親御さんとも交流を結んだあたりで、フルネーム呼びの習慣がなくなったって感じです」


「……ウリコ、ヤヨイコ・アカボシのこと、ファーストネームで呼んでた。彼女、親しい相手?」


「あ、うーん……そこまで親しい相手じゃないんすけど、親しくなれたら嬉しいなとは思ってます」


「ふうん」と言って、メイは正面に向きなおってしまった。

 どうしたものかと瓜子が思案していると、逆の側からユーリが囁きかけてくる。


「メイちゃま、すねるの巻だねぇ。まったく罪作りなうり坊ちゃんじゃよ」


「やかましいっすよ」と、瓜子はユーリを叩くふりをした。

 その間に入場していた男子選手たちによって、第二試合が開始される。


 第二試合と第三試合は、どちらもアマチュアの男子選手による一戦であった。こちらもまた、赤星道場の門下生と余所のジムの選手の対戦という構図である。

 それらの試合は、可もなく不可もなくといった感じであった。

 大江山すみれのように奇抜なファイトスタイルの選手はいないし、誰もが一定の水準に達した技術を持っているように見受けられる。ケージでの戦い方を修行中の瓜子としては、半分がた勉強の感覚で観戦することができた。


 そうして第四試合は、小学生同士によるジュニアクラスの対戦だ。

 その頃になって、ようやく是々柄が帰ってきた。


「お待たせしたっす。どなたか、マッサージのご用命はないっすか?」


「いや、観戦中はけっこうっすよ。……小学生の試合って、新鮮っすね」


「そうっすか。やっぱり小学生は出場の場が少ないんで、みんな喜んでるみたいっすよ」


 それは確かに、小学生がMMAの試合を行うというのは、なかなかありふれたことではないのだろう。もちろん彼らもしっかりグローブや防具を着用していたが、女子選手以上にそれが大きく見えてしまった。

 客席からは、女性の声が数多く響きわたっている。試合をしている選手たちの保護者か、あるいは同じ門下生の子を持つ保護者であるに違いない。そんな声援を背中に受けて、幼きファイターたちは懸命に戦い、結果は赤星道場の門下生である赤コーナー側の判定勝ちであった。


 そうして開始された、第五試合。

 マリア選手の登場である。


 青地のラメのレスラーマスクと同じ素材のマントを纏ったマリア選手は、かつてユーリと対戦したときと同じように、駆け足で花道を踏破した。

 そうしてボディチェック係の鼻先を駆け抜けて、ケージに至る階段をも駆け上り、そのままひらりとフェンスの上にまで上がってしまう。

 八角形のケージではポストの左右も角度が広いため、なかなかに不安定であるはずなのだが、マリア選手は素晴らしいバランス感覚でその上に立ち上がってみせた。


 そうしてマントをケージの外側に脱ぎ捨てて、レスラーマスクは客がまばらに座ったリングサイド席へと投じる。それをつかみ取った観客は、はしゃぎながらそれを雛壇席のほうに見せつけていた。


 入場パフォーマンスを終えたマリア選手はケージの外に飛び降りて、何事もなかったかのようにボディチェック係のもとに向かう。

 会場には、盛大に「マリア!」のコールが噴出していた。


「マリアのやつ、相変わらずだなあ! ……それにしても、二ヶ月連続で試合ってハードじゃない?」


 と、ユーリと愛音と多賀崎選手の向こう側にいた灰原選手が、遠い位置から是々柄に呼びかけた。

 是々柄はそちらに向きなおり、「そうっすね」と気安く応じる。


「マリアちゃんの本業はこっちっすから、普段はこんな風に試合を詰め込んだりはしないんすけどね。詰め込むなら、怪我とかでもキャンセルできるように外部の試合を後半に設定するはずっす」


「あー、あいつってアトミックでは手を抜いてるんじゃないかとか言われてたもんねー。実際のとこは、どうなのさ?」


「あたしはマリアちゃんじゃないんで、本当のところはわかんないっすけど。リングの試合場だと本領が発揮しにくいんで、そちらさんの試合は修行の場に見立ててた節があるっすね。……だからまあ、前回の試合はケージでしたし、マリアちゃんも運営陣のやり口に腹を立ててたみたいっすから、負けちゃったことを心底悔しそうにしてたっすよ」


 是々柄がそのように解説している間に、相手選手が入場してきた。スキンヘッドで両腕にびっしりとタトゥーを入れた、強面の男子選手である。ボディチェックのためにウェアを脱ぎ捨てると、その逞しい胸もとにも左右に一頭ずつの竜がとぐろを巻いていた。


「この選手も、例の地下格闘技団体ってやつの所属なんすか?」


「そうっすよ。本業は、ダンプの運転手さんらしいっす」


 この選手はいかにも頑強そうな体格をしていたが、ただし腹だけはでっぷりとしていた。手足も太いが、筋肉の上に脂肪がしっかり乗っている。ヘビー級の選手をそのまま小さくしたような体格だ。年齢は、三十手前といったところであろうか。


「《黒武殿》ってのは、アマとセミプロの興行なんすよ。この附田つくだ選手はセミプロで、ライト級の元王者っすね」


「ライト級って、七十キロもあるじゃないっすか。……まあ、脂肪を抜いたら二階級ぐらい落ちそうっすけど」


「そうっすね。残念ながら、ああいうお肉には興味もてないっす」


 是々柄の興味は、この際どうでもいい。瓜子が気にかかるのは、地下格闘技という怪しいネーミングである。


「試合直前に申し訳ないっすけど、地下格闘技って何なんすか? 危ない集団ではないんすよね?」


「はい。中には反社がらみの団体とかもあったみたいっすけど、《黒武殿》は健全っす。不良少年の更生とか、行き場のない熱情の発散場所っていうテーマで立ち上げられた団体っすね。あの附田ってお人も、若い頃は路上の喧嘩屋だったらしいっすよ」


「うーん……本当に健全なんすよね?」


「おや、ストリートファイトはお気に召さないっすか? ……まあ、女子にはそういう経歴の選手も少ないでしょうけど、男子選手の場合は地下格闘技の所属じゃなくても、ヤンチャをしてた人って多いんじゃないっすか? かくいう赤星大吾さんだって中卒でプロレス入りするまでは、ヤンチャってレベルじゃない荒くれものだったらしいっすよ」


「なるほど……」


「それにブラジルなんかだと、貧民窟からのし上がった選手とかも多いみたいっすよ。そもそもブラジリアン柔術やルタ・リーブリだって、もとを質せば護身術だったんでしょうし。日常で暴力に脅かされるような環境だったからこそ、柔術もルタ・リーブリもブラジルで発展することになったんでしょう。で、そういう世界から抜け出したいからこそ、いっそう格闘技を頑張って立身出世を目指すんじゃないっすかね」


「そうっすか」と瓜子が納得しかけると、是々柄は黒縁眼鏡の角度を直しながら言葉を重ねた。


「ちなみに、今のはぜーんぶ弥生子ちゃんとかの受け売りなんで、実情はわかんないっす。ただ確かなのは、《黒武殿》が健全な団体ってことだけっすね」


 そんなこんなで、第五試合の準備も整えられてしまった。


『青コーナー、百六十五センチ、五十九・二キログラム、赤星道場所属、褐色の荒鷲……マリア!』


 これまでで一番大きな声援が、会場を揺るがした。

 マリア選手のセコンドは、また大江山軍造だ。赤星道場所属の選手はコーナーを統一されておらず、青コーナー側の選手は大江山軍造、赤コーナー側の選手は青田コーチのチームがセコンドを担っているようであった。


『赤コーナー、百六十六センチ、七十二・五キログラム、荒川ハンマーヘッド所属、《黒武殿》前ライト級王者、荒川の拳王……附田、龍次郎!』


 意外なことに、身長には一センチの差しかなかった。

 しかしその分、厚みと横幅の差が尋常ではない。体重差は、十三キロにも及ぶのだ。


 しかしマリア選手は普段通りのにこやかな表情で相手を見返している。

 いっぽう附田選手はチンピラのように顔を歪めて、マリア選手の笑顔をにらみつけている。そのセコンドたちも角刈りや金髪の強面で、試合前からぎゃあぎゃあと野次を飛ばしているようであった。


「……本当に健全なんすよね?」


「健全健全」


 試合開始のブザーが鳴ると、附田選手は頭から突進した。

 マリア選手は慌てず騒がず、前蹴りでその突進を食い止める。

 でっぷりとした腹に中足がヒットして、附田選手は苦しそうに動きを止めた。自分の突進力が、そのまま腹に返ってきたのだろう。


 いっぽうマリア選手も相手の突進に弾かれたような格好で、後方に跳びすさっていた。

 そうしてサウスポーの構えを取り、軽妙なステップを踏み始める。《アトミック・ガールズ》の試合でもお馴染みの、躍動感に満ちたステップワークだ。


 附田選手は気を取り直した様子で、再び突進した。

 それをひらりと回避して、マリア選手は左のローを叩き込む。

 附田選手はカットもチェックもせずに、まともに左ローをくらっていた。まあ、MMAではそのように振る舞う選手もいなくはないが――それにしても、あまりに無防備な受け方であった。


 その後は、追いかけっこの始まりである。

 附田選手はステップワークの概念も知らないかのように、どたどたと前進する。ただその左右のフックは物凄い勢いで、十三キロも軽いマリア選手では一発で致命傷になりかねなかった。


 マリア選手はお得意のステップワークでサークリングをして、ときおり左のミドルやローをヒットさせる。やはりケージの広い舞台において、マリア選手の機動力は大きな武器であった。


 しかしまた、ミドルやローをまともにくらっているのに、附田選手の突進は止まらない。この試合からは防具も着用していないのに、まったくダメージを負っていないようだ。これこそが、性別差と体重差の脅威であろうか。


「あの、この試合のハンデって、グローブの重さだけっすか?」


「そうっすね。マリアちゃんが四オンスで、附田選手が八オンスっす」


 しかし現時点ではどちらのパンチもヒットしていないので、いい意味でも悪い意味でもハンデの効果は存在しなかった。

 そうして、試合時間が三分を超えた頃――附田選手の動きが、がくりと落ちた。

 ダメージではなく、スタミナ切れであろう。どう見てもスタミナのありそうな体形ではないし、パンチの空振りというのは体力を使うものなのだ。附田選手はでっぷりとした身体に汗を光らせて、早くも肩で息をしていた。


(それに、マリア選手のミドルを何発もくらってるもんな。いくら体格差があっても、効果ゼロってことはないはずだ)


 そうして附田選手の動きが落ちると、マリア選手が攻勢に転じた。

 サークリングではなく前後に細かいステップを踏み、蹴りだけではなくパンチも当てていく。間合いが詰まると附田選手も大振りのフックを繰り出したが、そちらはかすりもしなかった。


 会場には、「マリア!」のコールが吹き荒れている。

 それに背中を押されるようにして、マリア選手はさらに大きく踏み込んだ。

 附田選手の荒いフックをかいくぐり、そのでっぷりとした胴体につかみかかる。


 かろうじて背中でクラッチを組んだマリア選手は、足を掛けて押し倒そうとした。

 そうはさせじと、附田選手はなんとか踏ん張る。

 そうして附田選手の体重が前にかかると同時に、マリア選手は背中をのけぞらせた。

 得意の、フロントスープレックスである。

 附田選手は側頭部からマットに叩きつけられ、そのままサイドポジションを取られた。

 マリア選手は動きを止めずに、相手の腕をクラッチする。

 相手の上体にのしかかり、クラッチした腕を背中の側にねじ曲げていく、ユーリも得意なキムラ・ロックだ。


 附田選手の太い腕を極め切るのは、あまりに難儀であるかと思われたが――大した角度もつかない内に、附田選手はタップしてしまった。ずいぶんと、柔軟性のない肩関節をしていたようである。


 ともあれ、マリア選手も無傷の一本勝ちであった。

 マリア選手は附田選手の横合いにひっくり返って、そのまま勝利の雄叫びをあげる。瓜子がマリア選手の勝利する姿を見るのは――おそらく、去年の十一月以来であった。


「お見事っすね。マリアちゃんも、すみれちゃんに負けないぐらいクタクタのはずっすよ」


「そうでしょうね。大変な試合だったと思います」


 だが――これがマリア選手の本道なのだろうか?

 男子選手に勝つというのは、大変なことだろう。しかし今回の相手は明らかにトレーニング不足であったし、大味の感は否めない。そしてこれは自身の戦績にも反映されない、非公式マッチであったのだった。


 どうも瓜子としては、本気でやりあうエキシビションマッチを見せつけられたような心地である。

 そういう試合も悪くはないのだろうが、これが本道で《アトミック・ガールズ》が修行の場であったというのは、いまひとつ得心のいかないところであった。


《レッド・キング》は、邪道の興行。

《レッド・キング》の興行そのものに魅力は感じなかった。

 今日の興行を目の当たりにすれば、その言葉の意味が理解できる。


 瓜子の脳裏には、行きがけに聞かされた鞠山選手の言葉の数々がぐるぐると渦を巻くことになった。

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