02 選手入場
「やあ、いらっしゃい。本当に来てくれたんだな。師範から、話は聞いてるよ」
会場警備のスタッフ――それもまた、赤星道場の門下生である――に声をかけると、やがて控え室のほうから師範代の大江山軍造が姿を現してくれた。
「灰原さんに多賀崎さんってのは……ああ、あんたたちか。わけのわからんやり口で、あちこちの興行から干されちまったんだってな。女子選手は数が少ないんで、うちならいつでも大歓迎だよ」
鬼のような赤ら顔をした大江山軍造は、そんな風に言いながらにやりと笑った。
「ただ、うちはあんまり普通じゃないって言われてるんでね。じっくり観戦してから、心を決めてくれよ。……ところで、ジョンや立松は来てないのかい?」
「あ、はい。あちらはちょっと、男子選手が追い込みの時期なもんで……道場が休みでも、いろいろ忙しいみたいです」
「そんな申し訳なさそうな顔することねえよ。あいつらはセコンド役で、しょっちゅう顔を見せてるからな」
そう、プレスマン道場は赤星道場と懇意にしているため、男子選手は時おり《レッド・キング》にも出場しているのだ。
しかし瓜子は初見であるし、その内容もほとんど知識にない。ただ一点、赤星弥生子は男子選手を相手に無敗の記録を保っている、という風聞を聞くばかりである。
「で、申し訳ないんだけど、師範への挨拶は試合の後にしてもらえるかい? 試合前は、ちょいとぴりぴりしてるんでね。今日はなかなかのビッグ・マッチだしさ」
「あ、はい。承知しました。大江山師範代もお忙しい時間に、わざわざありがとうございました」
「かまわねえさ。師範や青田が不愛想な分、俺が親睦を深めておかないとな」
そんな陽気な言葉を残して、大江山軍造は控え室に戻っていった。
瓜子は、ふっと息をつき――その瞬間、いきなり背後から両肩を揉みほぐされることになった。
「おお、これは上質のお肉っすね……あたしの目に狂いはなかったっす」
「うわあ、びっくりした! いきなり何をするんすか!」
「申し訳ないっす。目の前に無防備なお肉があったんで、辛抱がきかなかったんす」
瓜子よりも小柄で赤茶けた髪を首の横でひとつにくくり、だぶだぶのジャージで超絶的なプロポーションを隠蔽し、そして強度の遠視用の黒縁眼鏡をかけた娘さんが、深々と頭を下げてくる。それは赤星道場のメディカルトレーナー、
「本当はユーリさんのお肉を拝借したかったんすけど、そちらは隙がなかったっす。ユーリさんは、暗殺者でも警戒してるんすか?」
「ええまあ、そんな感じですぅ」と、ユーリは愛想笑いを振りまきながら、瓜子の後ろに隠れてしまった。人の身体にさわるのが生き甲斐だというこの是々柄は、ある意味でユーリの天敵であるのだった。
「みなさんと再会できて、嬉しい限りっす。座りっぱなしの観戦は疲れるでしょうから、マッサージのご用命の際は遠慮なく声をかけてほしいっす」
「い、いや、是々柄さんだってお忙しい身でしょう?」
「あたしはメディカルトレーナーっすから、怪我人でも出ない限りは用無しっす。よかったら、ナビゲート役を承りましょうか? 解説役がいると、試合観戦もはかどるっすよ」
それをお断りしてもひょこひょこと後をついてきそうな気配であったので、瓜子はしぶしぶ了承することになった。こういう人物は、むしろ目の届く場所に置いておいたほうが安全であるかと考えた次第である。
「とりあえず、席で試合の開始を待つだわよ。……と、その前に、まずは腹ごしらえだわね」
是々柄を加えた一行は、屋台に逆戻りすることにした。
その道中で、是々柄は瓜子にこっそり呼びかけてくる。
「ところで、そちらのその御方は、もしかしてあなたが七月に対戦してた御方じゃないっすか?」
「あ、はい。メイさんは最近、うちの門下生になったんすよ」
「そうだったんすか。プレスマン道場には、魅惑的なお肉が集結してるっすね」
「……言っておきますけど、メイさんに迂闊なことをしたら暴力事件に発展するかもしれないっすよ?」
「承知してるっす。あの御方は、ユーリさんより隙がないっすよ」
メイは本日も、ワインレッドのパーカーを着込んでいる。めっきり表情のやわらかくなってきた彼女であるが、フードを深く傾けていると顔の陰影も濃くなって、以前の通りの迫力であるのだった。
ともあれ、屋台で売上に貢献させていただくことにする。試合の後には食事にでも出向こうかという話になっていたが、そこはそれ、一般の方々よりもカロリー摂取が必要なアスリート集団である。全員が、なんらかの食べ物を購入することに相成った。
「うーん、本能に従うと、みーんな食べたくなっちゃうにゃあ。ねえねえ、うり坊ちゃん。全部をひと品ずつ買って、分けっこしない?」
「自分はかまわないっすけど、ピラフも半分で我慢できるんすか?」
「できなーい! それじゃあ、ピラフだけは2人前ということで!」
「毎度あり」と、赤星大吾が笑顔でパック入りのピラフを差し出してくる。ピラフというのは屋台の設備で作りあげるのが難しいのか、出来合いのものが保温器の中に詰め込まれていた。
瓜子が二人前の料金を支払うと、赤星大吾はそれを受け取りながら、にっこりと笑う。
「ありがとうな、猪狩さん」
「え? いえいえ、このピラフは本当に美味しかったですから」
「いや、そうじゃなくってさ。弥生子と、仲良くしてくれてるんだろう? そうじゃなきゃ、あいつが試合に招待するはずがないしさ」
夏の合宿の最終日、赤星大吾は瓜子に向かって、「弥生子と仲良くしてやってくれ」と言っていたのだ。
「どうもあいつは最近、いっそうピリピリしてるみたいだったから、ちょいと心配だったんだよ。よかったら、打ち上げにも参加してくれないか?」
「打ち上げがあるんすか? それはまあ、個人的には是非参加させてもらいたいところっすけど……でも、こっちはこの人数なんすよね」
「何十人でも問題ないさ。ひとつ、よろしく頼むよ」
別口のお客が来てしまったので、瓜子は「前向きに検討します」と言い置いて、屋台を離れることにした。
会場も、だいぶん人で賑わってきている。それらの人波をかき分けて、瓜子たちはバックステージパスの裏に記載されていた座席のエリアへと向かった。
こちらの会場は、パイプ椅子のリングサイド席と、その後ろ側で少し高い位置にある雛壇席と、あとは二階の固定席が存在する。瓜子たちに割り振られたのは、リングサイド席の最前列であった。
「わー、こいつは特等席じゃん! よっぽどチケットが余ってたのかなあ?」
「そ、そういうことは、あまり大きな声で言わないほうがいいですよ」
それぞれの獲物を抱えた灰原選手と小柴選手が着席する。灰原選手が瓜子を呼びつける前に多賀崎選手がその隣に座ってくれたため、瓜子はユーリとメイにはさまれることになった。もちろんユーリの向こう側は、愛音である。
「間もなく開演っすね。今日は比較的、女子選手の出場が多いっすよ」
そんな声がすぐ背後から響いたので、瓜子はパイプ椅子の上でぎくりと身をすくめることになった。
「えーと……いきなりの肩もみはもうご遠慮くださいね?」
「承知したっす。涙を飲んで、自制するっす」
是々柄は、瓜子の真後ろの席に陣取っていたのだ。
どうもリングサイドのこちらの面は、瓜子たち以外まるまる空席であったらしい。もっとも値の張るリングサイド席は、意外に空席が生まれがちなものであるのだが――それにしても、一面がすべて空席というのは、興行成績に一抹の不安を禁じ得ないところであった。
(雛壇のほうは満席みたいだけど、リングサイドは他の面も空席が目立つな……それほど大きな会場じゃなさそうだけど)
瓜子がそんな風に考えていると、また背後から是々柄の声が聞こえてきた。
「この会場のキャパは、三百弱ってところっすよ。客入りは、まあ二百弱ってところっすかね」
「……そうですか。興行ってのは、どこも大変っすよね」
「ええ。特にうちは、マニア向けのマイナープロモーションっすからね」
特に卑下する様子もなく、是々柄はそんな風に言いたてていた。
しかしそれだと、ユーリのライブイベントよりも客入りが少ないということになる。もちろん音楽と格闘技では比較にもならないし、単発のライブと定期興行ではなおさら条件が異なってくるわけであるが――それでもやはり、世知辛い話であると思えてならなかった。
(でも、大事なのは、試合の質だからな)
瓜子がそんな風に考えたとき、客席の照明が落とされた。
暗がりに、歓声や口笛が響きわたる。ケージにスポットが当てられて、その中央にひょこひょこと小太りの中年男性が現れた。
「お笑い芸人の、マスター神松っすよ。あのお人は大吾さんの大ファンだったんで、格安でリングアナウンサーを引き受けてくれてるっす」
そんな是々柄の解説とともに、そのマスター神松とやらが野太い声を張り上げた。
『皆様、お待たせいたしました! 《レッド・キング》十月大会、『レッド・ストリートvol.4』を開始いたします! 本日の出場選手をご紹介しますので、拍手でお迎えください!』
さすがお笑い芸人だけあって、至極流暢なリングアナウンスであった。《カノン A.G》の軽薄なラッパーと交換してほしいぐらいである。
『第一試合! 青コーナー、大江山の赤鬼ジュニア、大江山すみれ!』
ユーリの向こう側に座した愛音が、パイプ椅子の上で身じろいだ。
単色の白いスポットで照らされた花道に、大江山すみれが穏やかな表情で進み出てくる。赤星道場の真っ赤なウェア姿で、客席にはそれなりの歓声が巻き起こっていた。
『赤コーナー、《フィスト》の新星、高崎誠二!』
愛音はいっそう身体を揺らして、たまりかねたように背後を振り返った。
「是々柄サン! 大江山すみれサンは、男子選手と対戦するのですか?」
「そうっすよ。あのぼっちゃんは、《フィスト》のアマ全日本で関東ブロックの第三位だったらしいっす。将来有望の、ぴちぴちファイターっすね」
確かに赤コーナー側の花道に現れたのは、まだ初々しい面立ちをした若者であった。少なくとも、まだ二十歳にはなっていないだろう。
その後の二試合は普通に男子選手同士の試合であったが、第四試合目には小学生同士の試合が組まれていた。是々柄いわく、「ジュニアクラスの試合は毎回ひとつは組まれてるっすね」とのことである。
そしてその次に登場したのは、マリア選手であった。この時点でもう青いラメのレスラーマスクをかぶっており、これまでで一番の声援をもらっている。
ただし、マリア選手の相手もまた、男子選手であった。それも、スキンヘッドで両腕にびっしりとタトゥーを入れた、強面の若者である。
「《レッド・キング》の女子選手は、毎回男子選手とやりあってるんすか?」
今度は瓜子が、是々柄に質問を飛ばすことになった。
パイプ椅子にだらりと腰かけた是々柄は「いえいえ」と首を振る。
「そういうわけじゃないんすけど、外部の女子選手なんて滅多に参戦してくれないんで、必然的に男子選手との対戦が多くなっちゃうんすよね。……ただ、マリアちゃんもすみれちゃんも弥生子ちゃんを目標にしてるから、殿方とやりあえるのを喜んでるっすよ」
「でも……男女の試合なんて、危険っすよね?」
「いちおう、ハンデはつくっすよ。弥生子ちゃんは別っすけど」
瓜子はなんとも奇妙な気分を抱くことになった。
確かにこれは、瓜子の知る興行とずいぶん趣が異なっているようである。
そうして第九試合のセミファイナルでは、レオポン選手が登場した。
お相手は、また厳つい風貌をした男子選手だ。どう見ても、レオポン選手よりもひと回りは大きな体格をしていた。
「これは、フリーウェイト・マッチっすね。ヒロキくんのお相手が見つからなかったんで、《黒武殿》から選手を調達したんす」
「こくぶでん?」
「知らないっすか? いわゆる、地下格闘技の団体っすよ」
「地下格闘技……」
「地下格闘技も知らないっすか? まあちょっとアブなげな団体もなくはないっすけど、《黒武殿》は清く正しい地下格闘技団体なんで心配はご無用っす。そうじゃなきゃ、弥生子ちゃんが参戦なんてさせないっすよ」
そもそも地下格闘技というものを認識していなかった瓜子には、まったく理解の及ばない話であった。
そうして瓜子の困惑が消え去らぬ内に、新たな困惑の種が出現する。
それは、天を突くような大男の外国人選手であった。
『青コーナー、ジョージアの摩天楼ジュニア、エドゥアルド・パチュリア!』
身長は、二メートルほどもあるだろう。その岩のごとき巨体は、白い空手衣に包まれている。黒褐色の髪を短く切りそろえたその顔も武骨そのもので、とてつもない迫力だ。客席にも、驚嘆の声が轟いていた。
そんな中、メイの向こう側から「あれー?」というオリビア選手の声が聞こえてくる。
「あれって、玄武館の門下生じゃないですかー。去年の世界大会にも出場してましたよねー?」
「はい。《レッド・キング》の全盛期に活躍していた、グレゴリ・パチュリア選手の息子さんっすよ。二代続いて玄武館に入門して、MMAにもチャレンジしたってわけっすね。ちなみに息子さんは、これがMMAデビュー戦っす」
「あー、そういえばジョージア支部長のマスター・グレゴリはMMAをやってたそうですねー。なるほどなるほど、納得ですー」
オリビア選手は納得していたが、瓜子は理解が追いついていなかった。何せ、この大男と対戦するのは――
『赤コーナー、大怪獣ジュニア、赤星弥生子!』
会場が、割れんばかりの歓声に包まれた。
花道に、真紅のウェアを着た赤星弥生子が登場する。
長身で、若武者のように凛々しい面立ちだ。
遠目にも、その姿は青白い電光を纏っているかのようだった。
(弥生子さんが、あんな大男を相手にするっての? 体重なんて、倍ぐらいありそうじゃん!)
たとえ相手がMMAデビュー戦でも、このような試合が成立するのだろうか。
ケージの周囲に立ち並ぶ赤星弥生子たちの姿を見守りながら、瓜子はとてつもない困惑と不安を抱え込むことになってしまった。
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