06 打ち上げ
ライブイベント『ユーリ・トライ!』が終了して、およそ一時間後――関係者一同は、都内の某飲み屋に再集合していた。
本日は千駄ヶ谷の取り計らいで、ライブの打ち上げまでもが企画されていたのである。音楽関係に留まらず、ユーリが副業の仕事で打ち上げの場を準備されるのは、これが初めてのことであった。
ただしユーリは、今もなおパパラッチに狙われているものと目されている。また以前のように熱愛報道の記事を捏造されないように、バンドメンバーやスタッフたちとは時間をずらして集合場所に向かうことになった。
打ち上げ会場も、個室の大部屋を貸し切りにしている。参加者も、イベントの関係者限定だ。そこまで用心して、ユーリもようやく打ち上げに参加することがかなったのだった。
「みなさん、本日はお疲れ様でした。みなさんのご尽力の甲斐あって、本日のイベントは大成功で終えることがかないました」
会場に集結した人々を前に、そんな挨拶の言葉を述べたのは千駄ヶ谷であった。
「次には本日のライブステージを収録した映像作品のリリースに向けて、何かとお世話をおかけする面もあるかとは思いますが、本日はイベントの成功を祝い、ともに喜びを分かち合わせていただきたく存じます。……ユーリ選手、乾杯のご挨拶をお願いいたします」
ユーリは冷たい緑茶のグラスを手に、「はぁい」と立ち上がった。
『ホシノシタデ』の歌唱ですべての気力を使い果たしてしまったユーリであるが、この一時間ほどで何とか表面上は回復している。ユーリはにこやかに笑いながら、緑茶のグラスを頭上に掲げた。
「みなさんのおかげで、とてもハッピーな一日を過ごすことがかないましたぁ。まあ、最後の最後で悲しみに泣き伏すことになってしまいましたけれど……それはそれとして、みなさん、ありがとうございましたぁ。心より感謝しておりますぅ。……ではでは、かんぱぁい」
「乾杯!」の声が、さきほどの客席に負けない勢いで唱和された。
この場に集められたのは、バンドメンバーやマネージャーやローディーや、メイク係や衣装係など、総勢三十名ていどである。しかし誰もが、本日の大仕事をやりとげた昂揚に浮き立っている様子であった。
本日の主役として、ユーリは上座の真ん中に座らされている。その左右を守るのは、もちろん瓜子と千駄ヶ谷だ。ユーリが笑顔で着席すると、もともと遠からぬ場所に陣取っていた漆原が千駄ヶ谷の側からすり寄ってきた。
「あれぇ、ユーリちゃんたちはお茶なのぉ? せっかくの打ち上げなんだから、一緒に飲もうよぉ」
「あははぁ。ユーリは自分を見失うのが怖いので、お酒は飲まないことにしてるんですぅ」
「自分は未成年なんで、申し訳ありません」
「私は、車の運転がありますので」
と、打ち上げに参加しても愛想のないユーリ陣営である。
しかし漆原は気を悪くした様子もなく、「そっかぁ」と笑ってハイボールのグラスをあおった。
「だったらシラフで俺たちのテンションについてこられるように、頑張ってねぇ。……それにしても、今日は最高の一日だったなぁ」
「はぁい。ユーリも最後の五分少々を除けば、ベリーハッピーな一日でしたぁ」
「あははぁ。そこまで感情移入できるって、もう才能だよねぇ。ユーリちゃんなら、マジで歌で食っていけるんじゃないかなぁ」
どちらも間延びした喋り方であるので、なんだか眠気を誘われるかのようだ。瓜子としては、素顔のイリア選手と遭遇したときの記憶を想起させられていた。
「みなさん、お疲れ様でした」と、瓜子の側からは西岡桔平が膝を進めてくる。ビールのグラスが差し出されてきたので、瓜子は恐縮しながらウーロン茶のグラスを合わせることになった。
「ユーリさんの歌はもちろん、『ベイビー・アピール』さんとのセッションも最高に楽しかったです。機会があったら、またよろしくお願いします」
「ああ、こんだけ出してる音が違うと、逆に楽しいもんだねぇ。あんたとダイのドラムなんて、ほんとに同じ楽器かよって感じだもんなぁ」
そんな風に言いながら、漆原は甘えるような眼差しを千駄ヶ谷に送った。
「ただ、この前のシングルのイベントは、これで終了なんだよねぇ? 次の新曲に関しては、なんか話とか進んでるの?」
「いえ。まずは映像作品のリリースに注力しなければならないため、それ以降の予定は未定になっております」
「まさか、経費削減でスタジオミュージシャンに鞍替えしたりしないよねぇ? 寄せ集めのメンバーじゃあ、ユーリちゃんのポテンシャルを引き出すのは難しいと思うよぉ?」
「……私も同じ考えですが、私の独断で決定できる事項ではありませんので」
千駄ヶ谷はきっちりと膝をそろえて座したまま、炭酸水のグラスを傾けた。
ユーリはにこにこと笑いながら、テーブルに並べられた大皿から料理を取り分けている。精神の復調とともに、旺盛な食欲も蘇った様子だ。
そんな中、西岡桔平があらたまった口調で言った。
「実は俺も、それに関してお話がありました。こっちもまだ内輪で軽く話した段階なんですけど……今のメンバーで新しいプロジェクトを進めることはできませんか?」
「新しいプロジェクトとは?」と、千駄ヶ谷はきらりと目を光らせる。
ビールで口を湿してから、西岡桔平は穏やかに言葉を重ねた。
「ユーリさんと『ベイビー・アピール』さんと『ワンド・ペイジ』で活動する場を整えるんです。その手始めとして……俺たちがユーリさんの曲を作るというのはどうでしょう?」
「へえ」と、漆原は瞳を輝かせた。
「あんた、面白いこと言うんだな。ワンドって、こういう話には保守的なイメージだったんだけどなぁ」
「俺たちも、そちらさんと一緒です。これでユーリさんとの活動がおしまいになったら寂しいなっていう考えに行き着いたんですよ」
ユーリは驚きに目を見張っていたが、口の中に料理を詰め込んでいたので発言はできなかった。その間に、西岡桔平はさらに言葉を重ねていく。
「それでいっそ、三組合同のユニット名でもつけてみたらどうでしょう? そうしたら、こういうイベントもやりやすいように思います。ユーリさんがすべての曲を歌わなくても、うちや『ベイビー・アピール』さんが持ち曲を披露したり、おたがいの曲をカバーしたりすれば、二時間ぐらいの枠は簡単に埋められるでしょうしね。……それでそういう構成にすれば、うちや『ベイビー・アピール』さん目当てのお客も呼べるので、千や二千のハコをうめることも難しくはありません」
「ですが、それは……端的に、ユーリ選手ばかりが恩恵を授かることにならないでしょうか?」
「こちらの第一目的は、ユーリさんとのステージを楽しむことですから」
と、西岡桔平はほれぼれとするほど善良な面持ちで白い歯をこぼした。
「それに、ユーリさんのファンだって数百人単位で存在するわけですからね。そういう人らにうちらの存在をアピールできれば、こっちにとっても損にはならない話ですよ」
「ははん。うちらとあんたらでも、客層なんて半分もかぶってなさそうだもんなぁ。言ってみりゃあ、三方向から別々の客をかき集められるってわけかぁ」
「ええ。それでおたがいのファンに魅力を伝えられなかったら、なかなか悲惨な目にあいそうですけど……そんな心配はないなって、今日のイベントで確信することができました」
そう言って、西岡桔平は千駄ヶ谷に視線を定めた。
「もちろん事務所もバラバラな三組ですから、そう簡単にはいかないでしょうけど、チャレンジする甲斐はあるんじゃないかと思った次第です。よかったら、選択肢のひとつに組み込んでやってください」
「……大変有意義なご提案を、ありがとうございます。映像作品のリリースと並行して、話を詰めさせていただきたく思います」
そんな具合に、内輪の企画会議は締めくくられることになった。
西岡桔平はメンバーのもとに戻っていき、漆原は千駄ヶ谷へのアプローチを開始する。それを横目に、ユーリは瓜子に囁きかけてきた。
「にゃんか、思わぬ方向に話が進んでしまったねぇ。そんな大役、非才のユーリに務まるのかしらん?」
「務まると思ったから、キッペイさんもあんな提案をしてくれたんでしょう。それにユーリさんは、お歌に関しても非才なんかじゃないはずですよ」
「いやいや、ユーリなどはみなさんの作ってくださったピラミッドの上でぴょんぴょん跳びはねてるだけだよぉ。楽しいことは楽しいけど、一抹の後ろめたさは否めないのでぃす」
ユーリは本心で、そのように語らっている様子である。
そこで瓜子も、ちょっと踏み入ったことを聞いてみることにした。
「それじゃああの、失礼を承知で聞いちゃいますけど……ユーリさんはファイターから歌手に転向する気って、これっぽっちもないんすか?」
鼻歌まじりにエビチリを取り分けていたユーリは、きょとんとした顔で瓜子を見返してきた。
「今のは、うり坊ちゃんなりのユーモアなのかにゃ? まさかユーリが、本気でファイターとして生きる道を捨てるとでもお思いか?」
「あ、いえ、自分もそれはないって思ってますけど……ステージのユーリさんは、試合のときと同じぐらい楽しそうに見えるんすよね」
「ふみゅ。それは確かに、ユーリも心から楽しくお歌を歌っておりますけれど……なんべんもなんべんも言っている通り、それはのきなみ素敵な演奏で支えてくださるみなさまのおかげだからねぇ。そのように人様のお力を頼りにして生きていくことは、ユーリにとってとても心苦しいことなのです」
ふにゃふにゃと笑いながら、ユーリはそんな風に言ってのけた。
「もちろん格闘技でだって、ユーリはうり坊ちゃんを筆頭とするさまざまな方々を頼りにしておりますけれども……最後に試合をするのは、自分ひとりでせう? だから、こういうライブ活動というのは……四人がかりや五人がかりで試合をしているような気分なのでぃす」
「うーん。よくわからないたとえっすけど……自分の力の及ばない部分で、勝ち負けが決められるような気分ってことっすか?」
「あー、近いかも! ……逆に言うと、自分の失敗で負けちゃうこともありえるでしょ? これが副業でなく本業であったなら、ユーリはプレッシャーでぺしゃんこにされてしまいそうなのでぃす。ユーリは未熟者だから、そんな重圧はとても背負えないのだよぉ」
「団体競技じゃなく個人競技のほうが性に合ってるってことっすかね。そういう感覚なら、わかるような気もします」
「うみゅ。何はともあれ、ユーリはこの身が砕け散るまで、ファイターとして生きていく所存なのです。……それをうり坊ちゃんに疑われたのなら、すっごく悲しい気分かも?」
と、ユーリはおどけた顔をしながら、どこか不安げな眼差しになっていた。
瓜子は慌てて、その耳もとに口を寄せる。
「すみません。本気で疑ってたわけじゃないんすけど……今日のユーリさんは、それだけ楽しそうに見えたんすよ。だから……万が一にも歌手に転向したいなんて言いだしたら、すごく寂しいなあって思っちゃったんです」
瓜子が身を引くと、ユーリは目をぱちくりとさせながら見返してきた。
それからじょじょに、花が開くように笑みを広げると――いきなり顔を寄せてきて、瓜子のこめかみに頬ずりをしてきたのだった。
「ど、どうしたんすか、ユーリさん? ちょっと、落ち着いてください!」
「いやいや、ユーリの情感を爆発させたうり坊ちゃんの罪なのじゃ」
すると、少し離れた場所から「うひゃー」という声が聞こえてきた。
「ユーリちゃんたちって、普段はそんな感じなの? なんか、目の毒だなあ」
「うわー、彼女が見たら鼻血でも出しそうだわ」
はやしたてているのは、『ベイビー・アピール』のタツヤとダイだ。
ユーリはなおも瓜子のこめかみを蹂躙してから、「てへへ」と自分の頭を小突いた。
「ちょっとユーリも浮かれてしまっているようです。うり坊ちゃんの尊厳にかけて、恋愛関係ではございませんのでご内密にお願いいたします」
「あー、二人がそういう関係じゃねえかってネットで騒がれてることもあったなぁ。ま、それならそれで、全然かまわねえけどさ」
「ああ。ユーリちゃんと瓜子ちゃんなら、お似合いだな! おかしな野郎が近づいてこないように、むしろくっついちゃってほしいぐらいだぜ」
ダイとタツヤは、けらけらと笑いながらそれぞれのグラスを傾けた。
すると今度は逆のほうから、「猪狩さん!」と瓜子を呼ぶ声が聞こえてくる。いったい誰かと思って振り返ると、意想外の人物がぶんぶんと手を振っていた。
「ちょっと! お伝えしたいことがあるのですが! よろしいでしょうか!?」
なんとそれは、『ワンド・ペイジ』の陣内征生であった。
彼にこのように大きな声を出せるのかと、瓜子が大いに驚いていると、ユーリごしに千駄ヶ谷が声を飛ばしてきた。
「猪狩さん。『スターゲイト』のスタッフとしての立場を遵守しつつ、失礼のないようにご対応を」
「えーと……ユーリさんのおそばから離れてもいいんでしょうか?」
「こちらは、私におまかせください。……決して失礼のないようにご対応を」
瓜子は溜息を噛み殺しながら、ユーリのほうをうかがった。
ユーリは鳥肌の浮いた咽喉もとをさりげなくさすりつつ、「いってらっしゃい」と子供のように微笑みかけてくる。
そうして瓜子は覚悟を固めて、『ワンド・ペイジ』のメンバーが寄り集まったスペースにおもむくことになった。
「お待たせしました。何かご用事でしょうか?」
瓜子がその場に膝をつくと、陣内征生はこちらに向きなおるや、土下座の体勢で深々と頭を下げてきた。
「猪狩さん! 今日はお疲れ様でした! みなさんのおかげで、とても楽しい一夜を過ごすことができました!」
「え、あ、はい。こ、こちらこそ、どうもありがとうございました。……あの、どうか頭を上げてください」
「はいっ!」と顔を上げた陣内征生は、存分に酩酊し果てていた。ころんとした丸顔は朱に染まり、銀縁眼鏡の向こう側の目もすっかり血走ってしまっている。
「すみません。ジンはそんなに強くもないのに、酒好きで。……失礼のないように見張っておきますんで、ちょっとお相手をお願いできますか?」
申し訳なさそうに微笑みながら、西岡桔平はそんな風に言っていた。彼にそのように言われては、瓜子も引き下がれない立場である。そして最後のメンバー山寺博人はテーブルに頬杖をつきつつ、前髪に隠された横目でこちらの様子をじっとうかがっているようだった。
「それであの、お話というのは……?」
「はいっ! 実は僕、キッペイさんの家で猪狩さんの試合を見せてもらったんです! 格闘技のことなんて、今でもまったくわからないんですけど……でも、すごく感動しちゃいました!」
普段のおどおどとした態度から一変して、陣内征生は熱のこもった言葉を叩きつけてきた。
「あ、ユーリさんの試合もすごいなって思ったんですけど、こんなにすごい試合をする猪狩さんが僕たちの曲を入場曲で使ってくれていることに、すごく感動しちゃったんです! 本当は会ってすぐにそのことをお伝えしたかったんですけど、酒の力を借りないとまともに喋れない人間なんで、本当に申し訳ありません!」
「と、とんでもありません。そんな風に言っていただけて、こちらこそ光栄です」
「いえ! 僕たちのほうが、光栄です! ですから感謝の気持ちとして、猪狩さんにプレゼントさせていただけませんか?」
「あ、いえ、そんなことをしていただくわけには……」
「プレゼントって言っても、そんな大したアレじゃありません! というか、猪狩さんにもっと僕たちの曲を知ってほしいんです!」
そんな風に言いたてながら、陣内征生はショルダーバッグを引き寄せた。覚束ない手つきでジッパーが開かれると、そこから現れたのは――いずれも新品と思しき、CDソフトの山である。
「キッペイさんを真似して、事務所の倉庫をあさってきました! 『Rush』を知ってるんですから、セカンドアルバムはお持ちですよね! もしかしたら、ファーストアルバムも持ってくれたりしてますか?」
「あ、はい、いちおう……」
「それじゃあ、これ! サードアルバムの初回限定版です! 今だとプレミアがついてるらしいですよ!」
「え、えーと……実は、それも持ってます」
「えっ! 限定版を買ってくださったんですか!? 光栄ですっ! ……それじゃあ、これ! 四枚目の紙ジャケ仕様! 初回特典のステッカー付きです!」
「……すみません。それも持ってます」
「ええ? それじゃあもしかして、最新アルバムの限定版も……?」
「……持ってます」
これはどういう羞恥プレイなのだと、瓜子は顔から火が出る思いであった。西岡桔平のきょとんとした顔と、山寺博人の仏頂面が、さらなる羞恥心をかきたててくる。
「ファーストから最新まで五枚とも持ってくれてるなんて、光栄の極みですっ! ……でも、ご安心ください! ここからが本番ですから!」
陣内征生はわしゃわしゃとバッグの中身をかき回して、新たなお宝を発掘させた。
「これ! ライブアルバムの初回限定版! 野外ライブの映像をおさめたDVDも同梱されてます!」
「……持ってます」
「シングル&リミックス集! 恥ずかしながら、ヒロくんが大スランプの時代に、苦しまぎれでリリースしたやつです!」
「……持ってます」
「ライブDVD! 一巻から三巻まで、もちろんすべて初回限定版です!」
「……持ってます」
「ミュージック・ビデオ集! 貴重なインタビュー&オフショット映像つき!」
「……持ってます」
「それじゃあ、えーとえーと……ファイナルウェポン! インディーズ時代のアルバム二枚! これは僕の家に売れ残りのストックがあったんで、持ち出してきました!」
「…………持ってます」
二枚のCDケースを片手ずつに掲げたまま、陣内征生までもがきょとんとしてしまった。
「えーと……最初のインディーズ版なんて、僕が大学生だった頃にリリースされたんですよね。失礼ですけど、当時の猪狩さんはまだ小学生とかでは……?」
「だ、だから、中学時代に中古CD屋で探しまくったんすよ! 何か文句でもあるっていうんすか?」
瓜子は呆気なく、羞恥のあまりに逆上してしまった。
陣内征生はしばし硬直したのち、やおらぽろぽろと涙をこぼし始める。
「猪狩さん……僕たちの作品を、インディーズ版までコンプリートしてくれてたんですか……そんな熱心なファンでいてくれたなんて、おくびにも出してなかったのに……」
「だ、だってこれは、仕事ですから! そんなことで、泣かないでくださいよ!」
瓜子がそんな風にわめいたとき、何かがべしゃりと顔にぶつかってきた。
瓜子の膝に落ちたのは白いお手拭きで、それを投じたのは山寺博人である。
「お前、ふざけんなよ。俺たちのファンだったくせに、あんな風にわめき散らしてたのかよ?」
「な、なんですか? そのお話は、もう終わったでしょう? ていうか、こんなばっちいもの投げつけないでください!」
「ばっちくねえよ。使ってねえから」
「手をふかないで食べてたんですか? それはそれで、ばっちいです!」
「まあまあ」と、西岡桔平が割って入ってきた。
「猪狩さんも、どうか落ち着いてください。……ヒロ、ものを投げつけるなんて、失礼だろ」
「だって、ムカつくじゃん。こんだけ感情だだもれのやつなのに、肝心な部分は包み隠してたなんてよ」
と、山寺博人は子供のように口をとがらせた。
西岡桔平は、まるで父親のような態度でそれをたしなめる。
「それだけ猪狩さんは、仕事に対する意識が高いってことだろ。お前もちょっとは見習えよ。いつまでも子供じゃないんだからさ」
「うっせえよ」と、山寺博人はそっぽを向いてしまう。
その頃になって、瓜子もようやく血の気を下げることができた。
「……あの、重ね重ね申し訳ありません。ジンさんも、せっかく色々準備してくださったのに……」
「いいんですよ。ああやって嬉し泣きしてるんだから、本望でしょう」
そう言って、西岡桔平は目もとの笑い皺を深くした。
「でも、俺も驚きです。まさか猪狩さんが、そこまで俺たちの曲を聴いてくれてるとは思っていませんでした」
「あ、いえ……姉が、もともとファンだったもので……」
「そうですか。でも、猪狩さんの気持ちはわかりますよ。俺だって、《G・フォース》の頃から猪狩さんに注目してましたから」
と、ますます優しそうに笑う西岡桔平である。
「こんなにちっちゃいのにガンガンKOできる猪狩さんを、かっこいいなって思ってたんです。それがMMAのほうにも進出して、どんな活躍を見せてくれるんだろうって、期待しながら見守ってました。……仕事相手にこんな話を打ち明けるのって、そりゃあちょっと気恥ずかしいですよね」
そうであるにも関わらず、西岡桔平は瓜子と羞恥心を共有するために、あえてそんな話を打ち明けてくれたわけである。この御仁はどこまで人格者なのだろうと、瓜子は胸が熱くなる思いであった。
すると、ウイスキーか何かのグラスをなめていた山寺博人が面白くなさそうに「ふん」と鼻を鳴らす。
「俺たちを踏み台にして、自分ばっかりいい人ぶるんじゃねえよ。カミさんにチクってやるからな」
「好きにしろよ。お前より説得力のある言葉で釈明してみせるからさ」
西岡桔平も妻帯者で、こちらはそれを公にしているのだ。いまだ二十代であるのに二児の父で、そういった部分が彼にこれだけの貫禄を与えているのかもしれなかった。
「本当にすみませんね。どいつもこいつもクセモノぞろいで。……でも、仕事仲間として末永くおつきあいできたら嬉しいです」
瓜子は心を込めて、「こちらこそ」と返すことができた。
いっぽうユーリは千駄ヶ谷にガードされつつ、いつの間にか寄り集まった『ベイビー・アピール』の面々と交流を深めているようだ。
ユーリと瓜子の本業は、あくまで格闘技であるが――副業でだって力を惜しむべきではないし、力を尽くすのであればやりがいや充足を求めて悪いことはないだろう。
初めて参加した副業の打ち上げにおいて、瓜子はそんな思いを新たにすることになったのだった。
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