05 アンコール
ユーリとバンドメンバーがステージ上に戻っていくと、アンコールをせがんでいた観客たちは何度目かの歓声を爆発させた。
『ベイビー・アピール』と『ワンド・ペイジ』のメンバーが、全員顔をそろえている。そしてユーリも含めて、その全員が物販のTシャツを着込んでいた。
瓜子と同じく、期間限定販売のイベントTシャツである。『ワンド・ペイジ』の三人がその姿で楽屋から出てきたときには、瓜子も心臓が騒ぐのを止めることはできなかった。
そんな瓜子の感慨はさておき、アンコールのステージである。
フロント陣はみんな自前の楽器を携えていたが、こちらのステージにドラムセットは一台しか存在しない。そちらの席はダイに譲って、西岡桔平は笑顔でマラカスを握っていた。
『アンコール、ありがとうございまぁす。最後は「ベイビー・アピール」と「ワンド・ペイジ」の両方のみなさまにお力をお借りしまぁす』
大歓声の中、山寺博人のギターによって『ハッピー☆ウェーブ』のイントロが奏でられた。
そこに全員の音がかぶさると、これまでで最大の音圧が会場を揺るがせる。何せ、三本のギターと二本のベースであるのだ。聞くところによると、二本のベースが同時に重ねられるというのは、あまり普通の話ではないようだった。
ただ、そこは変幻自在の陣内征生である。本来のベースフレーズはタツヤに譲り、陣内征生はまたコントラバスの弓でもって優美かつ荘厳な音色を披露していた。
この曲は、二日前に行われた通しリハでしか練習をしていない。それまでは、『ベイビー・アピール』と『ワンド・ペイジ』が顔をあわせる機会すらなかったのだ。
だが、そうとは思えない完成度である。もともとこの曲の担当であった『ベイビー・アピール』の面々がどっしりと土台を支えて、セッションが得意な『ワンド・ペイジ』の面々がその上で軽やかに舞っているような印象であった。
間奏は普段よりも長く取られて、リュウと漆原と山寺博人でギターソロが回されていく。
リュウのギターは重々しく、けばけばしい。スチール製の巨鳥が飛び交っているような印象だ。
漆原のギターは軽妙で、リュウに負けないぐらい爆音のディストーションサウンドであるのに、どこか喜劇的である。瓜子の頭に浮かぶのは、サーカスのピエロであった。
そして、山寺博人のギターは――人の肉声のように、生々しい。やはり前の二人に比べるとミスタッチも多く、そして、それをも強烈な魅力に転じてしまう迫力があった。
ギターにもこれほど音色やプレイの違いがあるのかと、素人の瓜子は目を見張る思いである。
(格闘技でいうと、この人たちはみんな若手のトップファイターなんだろうなあ。……こっちじゃあ二十代後半だと、中堅からベテラン扱いになっちゃうけどさ)
宴の終わりを惜しむかのように、観客たちは声援を振り絞っている。
それとまったく同じ心地で、瓜子もユーリたちのステージを見守ることになった。
『どうもありがとうございましたぁ。……みなさん、ご満足いただけましたかぁ?』
演奏終了後、ユーリがそのように呼びかけると、「してなーい!」という声が多数寄せられた。
物販のスポーツタオルで汗をぬぐいつつ、ユーリは『あはは』と呑気に笑う。
『ではでは、おまけのもう一曲! リュウさん、お願いいたしまぁす』
リュウが『ピーチ☆ストーム』のイントロを炸裂させ、また歓声を呼び起こす。
そしてユーリが語らっている間に、ドラムは西岡桔平にチェンジされていた。手空きになったダイはマラカスではなく物販のスポーツタオルを振り回し、客席を煽っている。
そうしてこちらもセッション要素満載の『ピーチ☆ストーム』が披露された。西岡桔平のジャズっぽいドラムにリュウと漆原のヘヴィなギターサウンドが乗せられるのが、とてつもなく新鮮である。
そしてこちらでも基本のベースはタツヤが受け持ち、陣内征生は流麗なる音色で『ワンド・ペイジ』らしさを演出する。
汗だくになって歌い踊るユーリは、十一曲目となったこの段階でも、まったくパワーダウンしていなかった。過酷なトレーニングでつちかったスタミナが、このような形で活用されることになったのだ。
それにきっとユーリが声量をほめられるのも、腹筋を鍛えぬいているゆえなのであろう。素人の瓜子にはピンとこないが、歌唱の腹式呼吸には腹筋も重要であるようなのだ。
そして何より、ユーリは心からステージを楽しんでいる。
だからこそ、その身のポテンシャルを余すことなく発揮できるのだろう。
ステージ上のユーリは試合の時にも負けないぐらい光り輝いており、そんなユーリの姿に客席の人々は熱狂し、陶酔しているのだった。
そしてついに、『ピーチ☆ストーム』もエンディングである。
モニタースピーカーを踏み台にしたユーリが驚くべき高さまで跳躍し、それが地上に着地するのにあわせて、全員の楽器が最後の音を打ち鳴らした。
歓声は、行き場のない津波のように渦を巻いている。
ユーリはとびっきりの笑顔で客席を見回し、ピンク色の頭を深々と下げた。
『ありがとうございましたぁ。ユーリもすっごく楽しかったでぇす』
会場には、「ユーリ!」と「アンコール!」の声が飛び交っている。
そうしてユーリが舞台袖に凱旋してくると――それを待ちかまえていた千駄ヶ谷が、ストップウォッチを作動させた。
「計測を開始いたしました。ユーリ選手は、どうぞ着替えとメイク直しを」
「はぁ……でもでも、今度のお着換えは無駄に終わっちゃうかもしれませんよねぇ?」
「無駄なら、それでかまいません。猪狩さん、誘導を」
瓜子とユーリは三たび、控え室を目指す。
メイク係と衣装係の女性たちは、これまで通りの気合でユーリを待ちかまえていた。
Tシャツとショートパンツを脱いだユーリは入念に汗をふいてから、最後の衣装に袖を通す。これまでの衣装とは打って変わった、純白のワンピースである。
そうしてパイプ椅子に着席したユーリのメイク直しが始められても、ステージからは「ユーリ!」と「アンコール!」の声が響きわたっていた。
「あうう……ユーリちゃん、絶体絶命の巻なのじゃ……このハッピーな気分を抱えたまま、今日という日を終えたかったなぁ」
「本当に心から同情しますけど、こればかりはしかたないっすよ。『ホシノシタデ』は『ハッピー☆ウェーブ』に勝るとも劣らない人気らしいっすから」
ユーリはなるべくなら『ホシノシタデ』をセットリストから外してほしいと、千駄ヶ谷に懇願していた。しかし、セカンドシングルのカップリング曲である『ネムレヌヨルニ』はまだしも、両A面と銘打たれた最新シングルの曲を披露しないというのは、いささかならず無茶な申し出であろう。それで千駄ヶ谷はいつもの調子で、すげなく却下するかと思われたが――そこで一歩だけ、譲歩してくれたのだ。
「では、こういたしましょう。二度目のアンコールの要求が三分に満たなかったなら、その日のステージを終了といたします。しかしもしも、アンコールの要求が三分を超えるようでしたら――観客の方々もそれだけ『ホシノシタデ』の披露を待ち望んでいると見なし、そのご期待に応えていただきたく思います」
それが、千駄ヶ谷から突きつけられた条件であった。
もとより『ホシノシタデ』は、ミュージック・ビデオの再生数も電子版のダウンロード数も、『ハッピー☆ウェーブ』に負けていなかった。千駄ヶ谷としても、是が非でもセットリストに組み込みたかったところであろう。
しかしユーリは『ホシノシタデ』を歌唱すると、すべての気力を使いきってしまう。本来、バラード曲というのはライブの中盤や終わり間際に披露して、最後は元気な曲で締めくくるというのが定番であるようなのだが、それは不可能なのである。そんな状況を踏まえて、千駄ヶ谷はこのような条件を考えついたというわけであった。
「わたしもあの曲、大好きですよ。電子版を買って、もうヘビロテです。ちょっと疲れたときとかに聴くと涙が止まらなくって、大変なんですけどね」
メイク係の女性がそのように言いたてると、ユーリはしょんぼり顔で「はあ」と応じた。
「ユーリはどんなに元気でも、あの曲を歌うだけで涙が止まらないのですよねぇ……ごりごりと魂を削られるような心地なのです」
「それだけ気持ちを込めてるから、あの曲はあんなに素晴らしいんですよ。わたし、格闘技とかはよくわかりませんけど、歌手としてのユーリさんはすごいと思います」
「はあ……いたみいりますです……」
ユーリがそんな風に答えたとき、控え室のドアがノックされると同時に開かれた。
「アンコールの要求が、三分を超えました。ユーリ選手、ご準備はよろしいでしょうか?」
「はいぃ……残念ながら、ばっちりのようですぅ……」
そうしてユーリは、すがるように瓜子を見つめてきた。
「うり坊ちゃん。絶対のぜーったいに、歌が終わるまでどこにも行かないでね? ステージから戻ってきてうり坊ちゃんがいなかったら……ユーリはどうなってしまうかわからないのです」
「どこにも行きませんよ。ずっと見守ってるから、どうか頑張ってください」
ユーリはしばらく瓜子の顔を見つめてから、やおら「よし!」と立ち上がった。
「ではでは、行ってくるのです! お客のみなさんにも、ハッピーな気持ちで帰りたかったって後悔させてやるぞー!」
ユーリは剥き出しの白い肩を怒らせながら、ずかずかと控え室を出た。
『ベイビー・アピール』の面々は楽屋に戻ったらしく、舞台袖にはスタッフと警備員の姿しかない。そしてステージからは、また『ワンド・ペイジ』の幽玄なサウンドが響いていた。
「ユーリ選手。今回は、こちらの楽曲の雰囲気にあわせて入場をお願いいたします」
「はぁい」と言って、ユーリは怒らせていた肩を落とした。
『NEXT・ROCK FESTIVAL』のときとほとんど同じような、純白のワンピースである。ノースリーブで、胸もとはほどほどに開いており、とても薄い生地であるために、ユーリの超絶的なプロポーションがくっきりと表されている。衣装に装飾が少ないために、ユーリの美しさがいっそう際立つかのようだった。
「ではでは、行ってまいります!」
ユーリは空元気を振り絞り、最後に瓜子へと泣き笑いのような表情を投げかけてから、照明の抑えられたステージへと踏み入っていった。
客席からは、ちょっと厳粛な感じに歓声と拍手が巻き起こる。
ゆったりとした足取りでステージの中央まで進み出たユーリは、マイクスタンドの角度を調整して、深く深く息をついてから、言った。
『どうもお待たせいたしましたぁ。これが本当の本当に最後の曲となりますので、よろしくお願いしまぁす』
またゆるやかに歓声がたちのぼり、それが消えていく。
それを追いかけるように、『ワンド・ペイジ』の演奏もフェイドアウトした。
山寺博人は椅子に腰をかけており、アコースティックギターを抱えている。
弓で演奏をしていた陣内征生はそれをネックのホルダーに収めて、ころころとした指先を弦に添えた。
シンバルの余韻を手で止めた西岡桔平は、いつもの穏やかな微笑をたたえて、ユーリの背中を見守っている。
『では、最後の曲です。……「ホシノシタデ」』
ごくひかえめな拍手の中、アップライトベースのゆるやかな旋律が奏でられる。
細かいハイハットと静かなアルペジオがそれに重なり、会場の空気をいっそう厳粛にさせた。
ステージには、深い青色の照明が当てられている。
その中で、ユーリの白い姿もぼんやりと霞んでいた。いつの間にか、スモークマシーンが作動されていたのだ。
そうしてユーリは、小鳥のさえずりのような声音で歌い始め――これまでとはまったく異なる形で、人々の情動を揺さぶってみせたのだった。
本当にこれがさきほどまで元気いっぱいに歌って踊っていた人間と同一人物なのかと、目を疑う人間もいるかもしれない。ユーリと念入りな関係を築いてきた瓜子にしても、別人に見えてしまうほどであるのだ。
しかしこれも、まぎれもないユーリの素顔であるはずであった。
ユーリはおそらく、ふたつの思いを同時に抱えることができないのだ。楽しいことを考えている間は悲しい気持ちを忘れてしまい、悲しい気持ちに打ちひしがれている間は楽しい気持ちを思い出すことができない――そんな、難儀なつくりをしているのである。
(だからあたしもあの頃は、ユーリさんの本心がまったく見えなかったんだろうな)
あの頃――サキに決別を言い渡されて、レオポン選手にまつわるトラブルによって瓜子への接触嫌悪がぶり返してしまった、あの時代――ユーリは、まったく苦しそうに見えなかった。化け物のように、力強く見えてしまった。だから瓜子も、自分やサキなんてユーリにとっては取るに足らない存在であるのだと――そんな風に、ユーリの気持ちを見誤ってしまったのだった。
しかしユーリは、悲しんでいないわけではなかった。瓜子に心配させまいとして、瓜子に嫌われまいとして、その悲しみを心の奥底にねじ伏せて、楽しいことだけを考えようと努めていたのだ。
その、ユーリの奥底に隠されていた悲しみが――こういった歌の中で、さらけ出されてしまうのだった。
まだまったく熱量はあげられていないのに、皮膚がぴりつくようなBメロをくぐりぬけ――そしてサビで、ユーリの思いが噴出された。
ユーリの悲しみが、会場中を埋め尽くしていく。
重くリズムを刻むギターも、ヒステリックに高音を奏でるベースも、タムとシンバルを乱打するドラムも、ユーリとともに泣いているかのようだった。
ユーリの横顔はすでに涙に濡れており、その姿を見たことで、瓜子も涙をこらえきれなくなってしまった。
瓜子はハンドタオルで涙をぬぐい、ユーリのもとに視線を定める。
どれほど悲しくても、どれほど苦しくても、瓜子はユーリと一緒にこれを背負わなければならないのだ。ユーリをこれほどまでに追い詰めたのは、瓜子に他ならなかったのだった。
(でも、あれからもうすぐ一年になろうっていうのに……ユーリさんは、まだこの悲しみを忘れられないんですか?)
だったら、何度でも言ってあげよう。
自分は絶対に、ユーリのそばを離れない、と。
瓜子とて、明日をも知れない身であるが――ただひとつ、ユーリを裏切らないという約束を交わすことに、躊躇いを持ったりはしなかった。
いつしか照明には、白い細かな光が交えられている。
暗い空に瞬く星々を演出しているのだろう。
瓜子とユーリの決裂と和解の思い出に、星空は関わりがない。
瓜子が星空を連想するのは、サキとの決別の夜であった。
サキに決別を言い渡された夜、瓜子とユーリはとぼとぼと見慣れぬ町を歩きながら、場違いなぐらいに綺麗な七月の星空を見上げることになったのだ。
もしかしたら今のユーリの内には、そのときの悲しみも蘇っているのかもしれなかった。
曲が進めば進むほどに、瓜子の目からは涙があふれかえってくる。
しかし瓜子はこぼれるそばから涙をぬぐって、ひたすらユーリの姿を見守り続けた。
そうして瓜子のハンドタオルがぐっしょり濡れそぼった頃――最後のサビが終了し、ユーリがマイクから遠ざかって、悲鳴のようなシャウトをほとばしらせた。
もしかしたら山寺博人も、間奏の間にあの悲痛なシャウトを響かせていたのだろうか。瓜子の耳は、それを知覚していなかった。ただ、ユーリのシャウトは瓜子の心臓に物理的な痛みをもたらし、さらなる涙を引きずり出してやまなかった。
その涙をも乱暴にぬぐって、瓜子は曲の終わりを待つ。
凄まじい疾走感でアウトロが奏でられ――そして、すべての音が星空の中に溶け崩れた。
一瞬の間を置いて、歓声が爆発する。
ユーリはそちらに力なくお辞儀を返してから、まろぶような足取りで舞台袖に戻ってきた。
瓜子はびしょ濡れのハンドタオルをポケットにねじこみ、新品のスポーツタオルをユーリの頭にふわりとかけてやる。
ユーリはもの言わぬまま、瓜子の身体を抱きすくめてきた。
瓜子は咽喉の下からせりあがってくる激情をなんとか吞み下して、ユーリのやわらかい背中をぽんぽんと叩いてあげた。
「立派でしたよ、ユーリさん。これまでで一番、涙をこぼしちゃいました」
「うん……」とかぼそい声で答えて、ユーリは瓜子の頭に頬ずりをしてくる。
きっともう全身は鳥肌まみれであろうが、こればかりは仕方がないのだ。瓜子はたとえユーリの吐瀉物にまみれようとも、自分から身を離す気はなかった。
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