04 後半戦
ユーリの後半戦の衣装は、Tシャツにデニムにスニーカーという至極簡素なものであった。
これは『ワンド・ペイジ』のカジュアルな格好に寄せた結果である。あまりに華美な衣装であると釣り合いが取れなくなってしまうために、衣装係も悩みに悩み抜くことになったようだった。
もっとも、アイドルシンガーとバックバンドという構図であれば、ユーリだけがどれだけ華美であっても支障はなかったのだが――千駄ヶ谷いわく、これはユーリの単独ライブであると同時に、やはり人気バンドとのコラボレーションでもあるのだ。イベント名の『ユーリ・トライ!』というのも、「試す・挑戦」の他にトライアングルの意味もかけられて、物販のTシャツにも三角形のロゴマークが入れられていたのである。
ただやはり、普通のTシャツにデニムというのは、衣装係の矜持が許さなかったらしい。その結果として、ユーリはダメージだらけのTシャツを重ね着にして、デニムは片方の足だけまるまる裁断されることになった。もう片方の足も戦場帰りかと疑いたくなるような穴だらけで、ユーリの蠱惑的な白い肌が髄所に垣間見えている格好である。
「テーマは、いきすぎたグランジファッションです!」
衣装係は、そのように言いたてていたものであった。
ともあれ、たいていの衣装はその美貌とプロポーションで着こなしてしまうユーリである。生半可な人間では浮浪者に見えかねないそんなファッションも、ユーリにかかれば立派なステージ衣装であった。
「それでは、ステージに」
千駄ヶ谷に追いたてられて、ユーリは控え室を飛び出した。瓜子もひたすらそれに追いすがるのが、今日の仕事である。
舞台袖には、まだ『ベイビー・アピール』の面々がたむろしていた。
ユーリが着替えている間に、彼らの楽器も撤収されている。そして舞台からは、一種幽玄的な『ワンド・ペイジ』の演奏が聴こえてきていた。
「お、今度はチラリズムの権化かあ。それはそれでそそられるね!」
スキンヘッドに物販のタオルをかぶったタツヤが、陽気に笑いかけてくる。そちらに笑顔でうなずき返してから、ユーリは千駄ヶ谷を振り返った。
「えーと、すぐさま出ていっちゃっていいんですよねぇ? やっぱりここはワンド様の演奏にあわせて、おしとやかに出ていくべきでしょうかぁ?」
「いえ。西岡氏も、こちらに気づいたご様子です。少し様子を見させていただきましょう」
ドラムの西岡桔平はゆったりとしたリズムを刻み、山寺博人は空間系のエフェクターがかけられたエレキギターで幻想的な旋律を奏でている。それらに支えられて主役を張っているのは、陣内征生であった。彼は愛用のエレクトリック・アップライトベースを抱え込み、コントラバスの弓でもって荘厳なる主旋律を弾いていたのだ。
普段のおどおどとした態度からは想像もつかないほどの、美しい音色である。
その音色が、じわじわと目まぐるしいメロディに変じ始めた。西岡桔平が自然にリズムのテンポを上げ始めたのだ。
山寺博人もギターの音数を増やして、気づけば行進曲のような躍動感が生まれている。
千駄ヶ谷が「どうぞ」とうながすと、ユーリはその小気味よいリズムに乗って、ぴょんっとステージに飛び出した。
観客たちは、怒号のような歓声を響かせる。
リズムはすでに、十六分のシャッフル・ビートに変じていた。
ギターとベースは最後の一音を長くのばして、フェードアウトしていく。まるで、計算された楽曲であるかのようだ。
西岡桔平に目配せをもらって、ユーリは客席に向きなおった。
『お待たせいたしましたぁ! 後半戦をスタートしまぁす!』
歓声がうねりをあげて、ユーリに応える。
その歓声がわずかに静まるのを待って、西岡桔平が派手なフィルを入れた。
ドラムの最後の一音に合わせて、山寺博人がギターをかき鳴らす。
これも十六分の、疾走感にあふれたカッティングだ。
右手は激しくシャッフル・ビートを刻み、左手はせわしなくフィンガーボードの上を駆け巡る。その旋律が『ピーチ☆ストーム』のリフであることに気づいた観客たちが、また歓声を再燃させた。
本来の軽快な電子音を、山寺博人はこのような形でアレンジしてみせたのだ。
流麗なるタッピング奏法でそれを成した『ベイビー・アピール』のリュウとは、まったく異なるアプローチであった。
そして、そこにかぶさるドラムとベースもまた同様である。
ドラムはジャズを思わせるビートであり、陣内征生は弓を使ったままバイオリンのように細かい音を刻んでいた。
「ちぇっ。小憎たらしいアレンジだよなぁ」
『ベイビー・アピール』のドラマーであるダイは、そんな風にぼやきながら両手で腿のあたりを叩き、同じリズムを取っていた。
そして、ユーリの歌声が炸裂する。
本日二度目の、『ピーチ☆ストーム』である。しかしこれだけ伴奏が異なっていれば、観客たちも新鮮な気持ちで楽しめるはずであった。
「いつかはこちらのバージョンでも、レコーディングをさせてもらいたいものです」
千駄ヶ谷がそのようにつぶやくと、演奏の中でもそれを聞き取った漆原がすかさずすり寄った。
「だったら、あいつらの担当した曲も俺たちにアレンジさせてくれよ。こう見えて、まったり系の曲も苦手じゃないんだからさぁ」
「あれらの楽曲をまったり系と称するセンスには疑問を禁じ得ませんが、そのお申し出自体はありがたく存じます」
よくもこのように素晴らしい演奏を前に雑談ができるものだと、瓜子は感心してしまった。瓜子などはもう、ユーリの歌声と『ワンド・ペイジ』の演奏にがっしり魂をつかまれてしまっていたのだ。
(まあ、あたしはワンドのファンだからしかたないけどさ)
山寺博人のギターも、陣内征生のベースも、西岡桔平のドラムも、瓜子の心をぐいぐいと昂揚させてくれる。そしてそこにユーリの歌声がかぶせられているのだから、瓜子としては陶然とさせられる思いであった。
きっと『ベイビー・アピール』のアレンジのほうが、一般受けはするのだろう。しかし瓜子の感性は、どうしたって『ワンド・ペイジ』の独特なセンスに引かれてしまうのだ。
山寺博人のギターは巧みだが、おそらく機械的な正確さは持ち合わせていない。こういう速いテンポの曲だと、彼は無茶な音数を詰め込む節があり、素人の瓜子でも判別できるぐらいミスタッチが生じてしまうのだ。
しかしそれが、人間臭い魅力に感じられてしまう。機械では決して真似できないようなニュアンスが、瓜子の心を揺さぶるようであるのだ。
反面、西岡桔平のドラムも人間味にあふれていながら、テンポやリズムは決して乱れない。その誠実な人柄を表しているかのように、彼の演奏は正確で、そして温かかった。
そして陣内征生のベースは、さまざまな顔を持っている。時には流麗で、時にはヒステリックで、時にはどっしりと力強く――確かな技巧に裏打ちされた多彩な音色で、バンドのサウンドに彩りを添えてくれるのである。
それらの音色に支えられたユーリも、とても楽しそうに歌っていた。
音の圧力は、『ベイビー・アピール』のほうが圧倒的にまさっているだろう。しかし『ワンド・ペイジ』の演奏には、彼らに負けない疾走感と躍動感が存在した。そしてそれらのエネルギーが、ユーリを後押ししてくれるのだった。
『ありがとうございまぁす。「ピーチ☆ストーム」再びの巻でしたぁ』
演奏終了後、ユーリがそのように言いたてると、観客たちはまた歓声を張り上げた。
『ユーリは持ち曲が少ないので、同じ曲の使い回しで恐縮ですぅ。でも、ワンド様の演奏はかっちょよかったでしょう?』
怒涛の歓声が、ユーリの言葉に同意してくれていた。
ユーリは嬉しそうに笑って、ステージ上のメンバーを見回していく。
『ではでは、メンバー紹介はいらねーって言われておりますので、次の曲に移りたいと思いまぁす。非才の身たるユーリでありますが、ワンド様の曲を力いっぱい歌わせていただきますねぇ』
そうして始められたのは、『砂の雨』である。
山寺博人はギターを激しくかき鳴らし、陣内征生は流麗にして痛切な音色をかぶせていく。ドラムはそれを包み込むような、ゆったりとしたリズムだ。基本のテンポは速いのにスネアとバスドラの音数が少ないのが、この楽曲の特徴であった。
マイクをスタンドに差したユーリは、まぶたを閉ざして『ワンド・ペイジ』の演奏にひたっている。
そうして、ユーリが歌い始めると――客席に、波紋のようにざわめきが広がった。
またユーリの歌声が変わっている。
これは『ホシノシタデ』や『ネムレヌヨルニ』に通ずるような、囁くような歌声であった。
だが、それらの歌と異なるのは――悲しさよりも、苦しさのほうが前面に出されている点であろうか。ユーリは全身に走る痛みをこらえるようにして、細く抑えた声を振り絞っているのだった。
とても苦しげであるのだが、その下には確かな力感も感じられる。
こんな苦しさに負けはしないと、懸命に自分に言い聞かせているような――そんな、悲壮な歌声であるのだ。
バラード曲よりは演奏も強めのアレンジであるため、それも歌声に作用しているのだろう。
ただ悲しみに暮れる曲ではなく、それは苦しさに耐える曲でもあったのだ。
そうして最初のサビを終えて、二番のAメロに差し掛かると、今度は楽しかった頃の思い出を綴る歌詞になる。
そのときこそ、ユーリはいっそう苦しげな声になっていた。
思い出の中の自分が幸福であればあるほど、現実の自分は苦しい――それが、ユーリの解釈であった。ユーリはスタジオ練習でもこの場所で涙を流し、それは本番でも同じことであった。
観客たちは静まりかえって、ユーリの歌に聞き入っている。
いっぽう、瓜子は――激しい罪悪感に苛まれてしまっていた。ユーリが去年のいざこざをこの曲に投影している以上、この苦しさは瓜子がもたらしたものであったのだ。
『ベイビー・アピール』の面々も、雑談を取りやめてステージを注視している。
そんな中、ユーリの歌声はいっそう悲痛な響きを帯びていった。
そして――その声が、じわじわと苦しみの殻を破っていく。
これはかつての恋人との再会を綴った歌であるが、そこまで直接的にストーリーが描かれているわけではない。あくまで比喩的な表現で、それが示されているに過ぎないのだ。
それらの抽象的な言葉に、ユーリの思いが込められていた。
激しい雨が降り、心に溜まった砂を洗い流し――最後には、雨がやんで虹がかかる。その情景を歌うユーリの声を聞きながら、瓜子はユーリの温もりや甘い香りや涙の熱さをはっきり思い出していた。
瓜子たちも、土砂降りのような激情の中で、ようやく相手の気持ちを察することができたのだ。
「さわらないでよ! 気持ち悪い!」と、ユーリは瓜子を拒絶した。
そんなユーリの拒絶を拒絶して、瓜子はユーリの身体を抱きすくめたのだ。
ステージの上で涙を流すユーリを見つめながら、瓜子もこらえようもなく涙をこぼしてしまっていた。
そんな瓜子たちを苦笑しながら慰めているかのように、『ワンド・ペイジ』の演奏もいつしか優しく奏でられていた。
その優しい音色が、光と闇の中に溶け――世界に静寂が落ちると、揺り戻しのように歓声が爆発した。
『ありがとうございましたぁ。……こんなにハッピーな曲なのに、どうしても涙を止められないのですよねぇ』
ユーリは気恥ずかしそうに笑いながら、ポケットに忍ばせていた物販のハンドタオルで目もとをぬぐった。
『ではでは気持ちも新たに、次の曲でぇす。ジン様、お願いいたしまぁす』
陣内征生はへどもどと一礼してから、凄まじい勢いでベースを打ち鳴らし始めた。ドラムとギターも軽妙なリズムでそれにかぶさり、観客たちに新たな歓声をあげさせる。
次の曲の『ジェリーフィッシュ』は、ロカビリー色の強い楽曲とされていた。
もっとも瓜子にはロカビリーの何たるかもわかってはいないのだが、とにかく軽妙で疾走感にあふれた楽曲である。その中で山寺博人のギターの荒々しさが、ただ軽妙なだけでないワイルドさをかもしだしていた。
ユーリはマイクをスタンドに差したまま、それをステッキのように振ってステップを踏んでいる。楽しそうだが、どこか浮ついた、ぷかぷかと浮かぶクラゲを連想させなくもない動きであった。
そうしてやがて、ユーリのピンク色をした唇から放たれた歌声は――やはり、楽しそうで浮ついていた。ユーリの普段の喋り声に近い、キーが高くて甘たっるくてふにゃふにゃした声だ。可愛らしさで言えば他の曲を圧倒していたが、それはどこか薄っぺらい、本心の見えない可愛らしさであった。
この曲は、のんびり海面を漂って気楽に生きてきたクラゲが、大事なものと出会うことで血肉や骨を得て、その重みによって海底に沈んでいく、という歌詞である。
ユーリはその「大事なもの」に、「猪狩瓜子」ではなく「格闘技」を当てはめたのだ。よってこれは、格闘技に出会う前の自身をイメージした歌声であったのだった。
Bメロに進んでも、サビまで進んでも、ユーリの歌声はまだふにゃふにゃとしている。
さらに二番のAメロに突入し、Bメロでクラゲが海面に輝く何かを発見したとき――ユーリの歌声に、力感が備わった。
「何か」と出会ってしまったばかりに、クラゲは血肉と骨を授かっていく。そうして暗い海底に沈み込むにつれ――ユーリの歌声は、どんどん力強さを増していった。気づけば、他の曲に負けない躍動感である。
ユーリは本当に、歌手としても稀有なる才能を備えているのではないだろうか――と、瓜子がそんな風に考えたとき、千駄ヶ谷がふいに「はい」という声をもらした。
ステージに吸い寄せられる目を無理にもぎ離して、瓜子がそちらを振り返ると、千駄ヶ谷は口もとを手で隠して何か語らっている。ひそかに装着していたイヤホン型の通信機から何事かの連絡が入り、それに答えているのだ。
数秒ばかりも誰かと語らったのち、千駄ヶ谷は瓜子の耳もとに口を寄せてきた。
「セキュリティスタッフからの通信でした。こちらのビルの電気室に不審人物が侵入しようとしたため、それを撃退したそうです」
「えっ! まさか……ネズミ男の手下か何かですか?」
「セキュリティスタッフに捕縛の権限はありませんので、そこまでは不明です。ただ、サングラスとマスクで人相を隠していたことから、何者かによる計画的犯行であることに疑いはないでしょう。……ただしこれだけ時間が深いということは、ライブハウスへの侵入を断念した上で、急遽作戦を変更したのやもしれませんね」
敵は、このビルの電気室に悪さを仕掛けて、本日のライブを妨害せんと企んだのだろうか。
瓜子が怒りにわななくと、千駄ヶ谷は「問題ありません」と冷徹なる声で囁きかけてきた。
「たとえ誰が何を企もうとも、本日のイベントだけは絶対に邪魔させません。……それが、私の職務ですので」
千駄ヶ谷が味方であることを、瓜子は神に感謝したいような心地であった。この絶対零度の冷徹さも、今日ばかりは頼もしい限りである。
そんなやりとりをしている間に、せっかくの『ジェリーフィッシュ』も終わりを迎えてしまった。
ユーリはマイクスタンドからマイクを取り外し、客席に向かってにっこりと笑いかける。
『ではでは名残惜しいですけれど、次が最後の曲となりまぁす』
そのときの歓声こそ、まさしく怒号じみていた。
瓜子にきちんとしたライブ観戦の経験はなかったが、やはり全九曲で一時間ていどの単独ライブというのは、あまりに短すぎるのだろう。瓜子にしてみても、もうそんなに時間が経ってしまったのか、という思いであった。
『本当にごめんなさぁい。最後まで一生懸命歌いますので、みなさんも最後まで楽しんでくださいねぇ。……ヒロ様、お願いいたしまぁす』
山寺博人がエフェクターで歪ませた音色で『リ☆ボーン』のイントロをかき鳴らすと、不満げであった喚声が別種の熱を帯びた。
これはストレートなロック調のアレンジであるが、やはり『ベイビー・アピール』とは音質もノリもまったく異なっているため、まるで同じ曲には聞こえなかった。
『ベイビー・アピール』のように、爆音で圧される感覚はない。
その代わりに、躍動感と疾走感が相まって、浮遊感すら生まれたかのようだった。
『ベイビー・アピール』の楽曲が地上の突進であるならば、こちらは空を翔けているかのようだ。そのどちらを好むかは、やはり人それぞれであろう。
そうして二度目の『リ☆ボーン』を歌い終えると、ユーリはまた最後の一音までステップを踏んでから、客席に向かってぶんぶんと手を振った。
『どうもありがとうございましたぁ』
ユーリはくるりとターンを切って、舞台袖へと足を向ける。
その瞬間から、もう客席では「アンコール!」の唱和がされていた。
舞台袖に到着したユーリは瓜子からタオルを受け取りつつ、「てへへ」と笑う。
「まだまだ終わらないようですねぇ。やっぱりお着換えをするべきでしょうかぁ?」
「無論です。猪狩さん、誘導を」
瓜子はうなずき、今度はユーリと一緒に控え室を目指した。昨今のライブイベントは、アンコールがかかることを前提とされているようなのだ。
「ここまでは千さんの計画通りだねぇ。……その次の計画は、外れてくれるといいのだけれども……」
「ハラをくくりましょう。ユーリさんなら、やりとげられますよ」
ユーリは嬉しさと不安の入り混じった顔で、「うん」とうなずいた。
泣いても笑っても、ライブイベントの終了は目前である。
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