02 スタンバイ
午後の六時――ついに開場の時間となった。
控え室にこもった瓜子たちのもとにも、入場してくる人々の熱気やざわめきがうっすらと伝えられてくる。千駄ヶ谷はまた離席しており、同じ部屋で控えているのはメイク係と衣装係の女性たちのみであった。
ちなみこちらの会場は楽屋もひと部屋しかなかったため、ユーリにあてがわれたのは雑然とした資材置き場のような部屋である。予備の機材やケーブルなどを詰め込まれたコンテナなどが脇にどけられて、パイプ椅子や大きな姿見や衣装ケースなどが持ち込まれているのだ。ユーリは本日の主役であったが、さすがにこのような場所に七名ものバンドメンバーを詰め込むことはできなかったので、正規の楽屋はあちらにお譲りするしかなかったのだった。
そうしてぽつぽつと言葉を交わしながら開演の時間を待っていると、六時十五分を回ったところでようやく千駄ヶ谷が戻ってきた。
「ユーリ選手。『ベイビー・アピール』の方々が開演まで同じ場所で過ごしたいと申されているのですが、いかが取り計らいましょうか?」
「ほえ? ユーリはべつだん、どちらでもかまいませんけれど」
「では、あちらの控え室にお移りください」
メイク係と衣装係をその場に残し、ユーリと瓜子は控え室を目指すことになった。
廊下に出ると、客席に流れるBGMとお客のざわめきがいっそう間近に迫ってくる。瓜子としては、自分の試合よりも心拍数が上がってしまっていた。
「失礼します」と千駄ヶ谷が控え室のドアを開けると、そちらからは本番を直前に迎えた演奏陣の熱気があふれかえってくる。それと同時に、誰かのあげる「うひょー!」という声が響きわたった。
「すっげえ! 気合入ってんね! こりゃあ男どもの煩悩を直撃だわ」
「ほんとほんと! 試合のコスチュームより露出は少ないのに、色気がブーストされてんなあ」
騒いでいるのは、もちろん『ベイビー・アピール』の面々である。『ワンド・ペイジ』の三名は壁際にひっそりと寄り集まり、無言のままにこちらを見やっていた。
ちなみに本日のユーリの最初の衣装は、以前のミニライブツアーでも採用されたカウガールファッションの、第二弾であった。ピンク色のショートヘアにカウボーイハットをかぶり、刺繍の美しいウエスタンシャツ、デニムのショートパンツ、ごついレザーのベルトにウエスタンブーツという装いだ。ただし今回はハーフトップを着用し、ウエスタンシャツの裾を胸の下で結んでいたため、肉づきがいいのに腰のくびれたウエストまわりも存分にさらけ出されていた。
「ユーリちゃんって、フェロモンの塊だよなぁ。恋愛に興味なし発言がネットニュースで取り上げられてたけど、あれってマジなの?」
「えぇ? そんなお話も取り上げられてるのですかぁ? ……あんまり余計なことは言うなって、千さんに叱られちゃったのですよねぇ」
「そりゃあまあ、説得力は皆無だもんなぁ。……でも、うちの彼女も鼻息を荒くしてたよ。生半可な野郎がユーリちゃんとつきあうのは許さねえってさ。アレはどういう心理なのかねぇ?」
「あははぁ。ユーリにもわかんないですぅ。彼女さんはお元気ですかぁ?」
「元気元気。今回はチケットが取れなくて悔し泣きしてたよ」
バンドメンバーの恋人であれば、コネで入場できそうなものだが。意外にも『ベイビー・アピール』は、そういった行いに一線を引いてるのだそうだ。
ともあれ、『ベイビー・アピール』の面々もユーリと同様に、緊張とは無縁の様子であった。ただひたすら子供のようにはしゃいでいるばかりである。
「あ、そうだ! 彼女に送るから、一緒に写真撮らせてよ! ……いいっしょ、千駄ヶ谷さん?」
「ええ。ライブの終了までSNS等で公開しないと確約していただければ、かまいません」
「了解了解! ほら、瓜子ちゃんも入ってくれよ」
「え? じ、自分もっすか?」
「当たり前じゃん。うちの彼女、瓜子ちゃんの水着姿にも悩殺されてっからさ。この前のCDとか、もう家宝もんよ」
「か、彼女さんは、どういうご趣味なんすか?」
というわけで、瓜子もユーリや『ベイビー・アピール』の面々と、何枚かの写真に収められることになってしまった。漆原は千駄ヶ谷も誘ったが、こちらは断固として拒否のかまえである。
「あ、あんたらも一緒に写そうぜ。今日はただの対バンじゃなく、同じチームの一員なんだからよ」
と、スキンヘッドのタツヤが『ワンド・ペイジ』の面々にもそんな言葉を投げかけた。
西岡桔平は「それはどうも」と応じつつ、マネージャーのほうを振り返る。マネージャーは、笑顔でOKサインを出していた。
マネージャーがカメラマンの役となり、七名のバンドメンバーとユーリと瓜子の姿が、さまざまな携帯端末に収められていく。生身の『ワンド・ペイジ』にもだいぶん免疫のついてきた瓜子であるが、これには少なからず心臓を騒がせることになってしまった。
「あんたらだって、SNSぐらいやってるだろ? 俺らぬきで、ユーリちゃんと写しておいたら?」
「そうですね。ご迷惑じゃないですか、ユーリさん?」
「迷惑なんて、とんでもないですぅ。むしろ、ユーリのほうこそご迷惑をかけてしまいませんかぁ?」
「こっちの界隈でも、ユーリさんとのコラボは評判なんですよ。前のステージを観てくれたファンがSNSとかで大騒ぎして、いまや伝説のライブ扱いなんですよね」
そう言って、西岡桔平は穏やかに微笑んだ。
「しかもあの日のステージの放映で、ユーリさんの出番がほとんどカットされちゃったでしょう? あれで余計に、期待がふくらんだみたいですね」
「あー、こっちもだよ。あんな最高のステージをほぼほぼカットなんて、馬鹿だよなぁ。いったいどんな圧力をかけられたんだか」
バンダナ頭のダイが小馬鹿にしきった様子で言い捨てると、西岡桔平は「圧力?」と眉をひそめた。
「それって、アトミックの運営陣の話ですか? あのお人らは、《NEXT》の放映に口出しできるぐらいの力を持っているんですか?」
「知らねえけど、そうなんじゃね? ウルとユーリちゃんの熱愛をでっちあげるようなやつらなんだからよ。それに、リュウのツレの妹さんだって――」
「おいおい。あんま内輪の話を余所で広げんなよ」
ドレッドヘアのリュウが、ダイの分厚い肩を小突く。
「そうですか」と、西岡桔平は珍しくも眉をひそめてしまった。
「団体内部の話だったら、興行を盛り上げるためのトラッシュトークで済みますけど……どうも、それでは収まらない話みたいですね」
「ま、俺たちには関係ねえ話だし、俺たちが手を出せるような話でもねえからな。……俺たちにできるのは、ユーリちゃんと一緒にステージを楽しむことだけさ」
そのように言ったのは、タツヤであった。
口調や態度はへらへらしているが、音楽面でユーリを支えてくれるだけでも、十分以上であろう。バンドの顔である漆原がユーリとの熱愛などをでっちあげられてしまったのに、彼らはレコーディングや今日のイベントについてもキャンセルすることなく、ライブDVDではカバー曲の版権に関しても許可をくれたのだ。パラス=アテナにまつわる騒動など自分たちには関係ないと断じているからこそ、彼らはこれまで通りの態度でユーリに接してくれているのだった。
「おっと、そろそろ出番だな。写真を撮っておくなら、今のうちじゃね?」
「そうですね。ユーリさん、猪狩さん、お願いできますか?」
「や、やっぱり自分もっすか? SNSとかで公開するなら、出演者でもない自分は遠慮するべきじゃないかと……」
「そんなことありません。猪狩さんも写ってくれたら、ハクがつきます」
瓜子はこれまで以上に胸を騒がせながら、『ワンド・ペイジ』の面々と一緒に立ち並ぶことになった。
親切なタツヤがカメラマンの役を引き受けて、『ワンド・ペイジ』のマネージャーから手渡された携帯端末を掲げ持つ。
「えーと……ちっと緊張しすぎじゃねえかな?」
「そ、そうですか。すみません」
「いや、瓜子ちゃんじゃなくって、ベースのあんた。そんな勢いで目を泳がせてたら、残像が写っちまいそうだよ」
「す、す、すみません! こ、こういうの、慣れていないもので……」
かくして、瓜子はユーリと『ワンド・ペイジ』の五名だけでも、写真を撮られてしまったわけであった。
瓜子が息をついていると、背後にたたずんでいた山寺博人が「なあ」と声をかけてくる。
「さっき、ちらっと聞こえたんだけど。あんた、水着で写真とか撮られてんの?」
瓜子は、目の前が真っ暗になるような心地であった。
すると、西岡桔平が苦笑まじりに口をはさんでくる。
「ヒロ、今さら何を言ってんだよ。お前だって、この前のCDのサンプルをもらってるだろ?」
「もらったけど、そんなもん写ってなかったよ」
「通常版と、特装版ってのがあったろ? その特装版のほうに――」
「ちょ、ちょっとお待ちください! そんなものが、みなさんの手もとにも渡ってるんですか!?」
「そりゃあそうでしょう。俺たちも編曲者として、名前をクレジットされてる立場ですから」
瓜子は足もとにぽっかりと口を開いたブラックホールに吸い込まれていくような心地であった。
するとそこに、「はは」と小さな笑い声が聞こえてくる。声の主は、山寺博人である。
「それじゃあ、マジなんだ? なんか、想像つかねえな。……家に戻ったら、確認してみるわ」
「か、確認しないでいいっすよ! これまで目にしてこなかったんなら、そのまま封印してやってください!」
「うるせえな。俺がもらったもんをどうしようと、俺の勝手だろ」
そんな意地の悪いことを言いながら、山寺博人はまだくすくすと笑っている。そんな彼の姿に、西岡桔平と陣内征生はびっくりまなこになっており、そして背後からはタツヤとダイが「おい!」と詰め寄ってきた。
「いっつも不愛想なあんたが、ずいぶん馴れ馴れしいな! まさかあんた、瓜子ちゃんのこと狙ってんのか?」
「そうだよ! 俺たちだって手を出してねえんだから、勝手な真似するなよな!」
山寺博人は笑みを消して、「はあ?」と小首を傾げた。
「別にそんなんじゃねえけど、あんたたちには関係ねえだろ」
「関係ねえことはねえんだよ! 生半可な気持ちで瓜子ちゃんに手を出そうってんなら、ただじゃおかねえぞ!」
「そうだそうだ! 瓜子ちゃんは、遊びで手を出していいようなコじゃねえんだよ!」
「あーあ」と皮肉っぽい声をあげたのは、静観のかまえであったリュウだ。
「本番直前に、ナニやってんだよ。お前らすっかり、瓜子ちゃんの親衛隊きどりだな。……ていうか、こんなユーリちゃんを目の前にして、よく他のコに夢中になれるもんだぜ」
「そんなんじゃねえって! 瓜子ちゃんは、なんかほっとけねえだろ!」
「そうだよ! こんなに可愛いのに、まるで無自覚の無防備だしさ!」
瓜子が絶句していると、パンッと小気味のいい音色が響きわたった。
振り返ると、西岡桔平が打ち鳴らしたばかりの手を開きつつ、にこりと微笑む。
「うちのヒロは遊びで女の子に手を出すようなやつじゃないので、ご心配なく。……千駄ヶ谷さん、そろそろ時間じゃないですか?」
「そうですね。『ベイビー・アピール』の方々は、スタンバイをお願いできますでしょうか?」
千駄ヶ谷が絶対零度の視線を突きつけると、ダイとタツヤは悪戯を見つかった子供のように首をすくめつつ、瓜子のほうにおずおずと目を向けてきた。
「えーと……瓜子ちゃん、誤解しないでくれよな?」
「そ、そうそう。俺だって、彼女がいるしさ! というか、彼女が瓜子ちゃんのことを可愛い可愛い言ってるから、俺もそれが伝染っちまったようなもんなんだよ」
「はあ……とりあえず、ライブに集中していただきたいんすけど……」
瓜子がようようそのように答えてみせると、しばらく無言であった漆原が「あははぁ」と呑気な笑い声をあげた。
「俺たちはいつもこんな感じだから、心配いらないよぉ。……ユーリちゃんも、お騒がせしちゃってごめんねぇ?」
「いえいえ! うり坊ちゃんが愛でられるのは、ユーリにとっても誇らしい限りでありますので!」
そのように語るユーリは天使のごとき笑顔になっており、その場に控えたメンバーの過半数をざわつかせることになった。
「ユーリちゃん、いいカオ持ってんねぇ。……瓜子ちゃんがチヤホヤされるのが、そんなに嬉しいの?」
「はぁい。タツヤさんもダイさんもヒロさんも、下心ぬきでうり坊ちゃんを愛でてくださっているご様子ですので、とても嬉しく思っておりますぅ」
「おい。俺をその枠に入れるんじゃねえよ」と、山寺博人はがりがりと頭をかきむしった。
いっぽう漆原は、「ふぅん」と楽しそうに微笑む。
「そっかそっか。ユーリちゃんぐらい色っぽいと、野郎の下心にウンザリしちまうもんなのかねぇ」
「いえいえぇ。ただそのお気持ちに応じることができないので、申し訳なく思うばかりですぅ」
「なるほどねぇ。……俺、ユーリちゃんとは別のお人にクラクラきてて、ラッキーだったなぁ。そうじゃなきゃ、下心ぬきなんて無理な話だったもん」
『ベイビー・アピール』のマネージャーは慌てた顔をしていたが、漆原は虫も殺さぬ笑顔で「よっこらしょ」と腰を上げた。
「じゃ、スタンバイしよっかぁ。ユーリちゃんに下心のあるやつもないやつも、その歌声でぶっ飛ばしちゃいなぁ」
「はぁい。よろしくお願いいたしまぁす」
気づけば、開演時間はもう目前に迫っていた。
このような刻限まで何をわちゃわちゃ騒いでいたのかと、瓜子は穴に埋まってしまいたいような心地である。
が、ユーリはそんな瓜子にも、天使のごとき笑みを降り注いできたのだった。
「ついについに本番だねぇ。うり坊ちゃんも、袖からしっかり見守っててよぉ?」
「もちろんです。最後まで、頑張ってくださいね」
「うん」と子供のようにうなずくユーリは、やっぱり途方もなく可愛らしく、底抜けに魅力的であった。
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