05 再会

 魔法少女カフェ『まりりんず・るーむ』を後にした瓜子とユーリは、中野駅前でメイと別れを告げて、タクシーに乗り込むことになった。瓜子たちはスタジオ練習で、メイは道場でのトレーニングである。


「いよいよ今日から、生演奏での練習だねぇ。この前は予定外に『ベイビー・アピール』の方々と練習できたけど、ワンドの皆様とはひさびさのお目見えなのですじゃ」


「ええ、そうっすね」


「うり坊ちゃんも、トキメキが止まらなかろう? ……あ、ごめんなさいごめんなさい。暴力はご勘弁なのです」


 瓜子は振り上げた拳を膝の上に下ろして、深々と息をついてみせた。

 両手で頭をガードしていたユーリは、「うみゅみゅ?」とおかしな声をあげる。


「どうしたのでせう? トキメキどころか、どこか思い悩んでいるように見受けられるのですが」


「ええまあ、ちょっと……自分、以前のレコーディングで、ヒロさんをおもいきり怒鳴りつけちゃったんすよね」


「ああ、あれかぁ。でもでも、ヒロ様も『ごめん』と言ってくれたでせう?」


「だから余計に気まずいんすよ! ……ヒロさんをベリーニャ選手に置き換えて、ちょっと想像してみてください」


「おおう、それは心苦しさの極致じゃのう……でもまあユーリは天地がひっくり返ろうとも、ベル様を怒鳴りつけたりはしないけどねぇ」


「…………」


「あやや、わかっておりますよぅ。うり坊ちゃんはユーリを心配するあまり、ついつい怒鳴ってしまったのだものねぇ」


 そう言って、ユーリは黒縁眼鏡の向こうで幸せそうに目を細めた。


「うり坊ちゃんがユーリなんかのために、長年の憧れであったヒロ様を怒鳴りつけてしまったのだもの。ユーリだって、申し訳なさの極致なのです」


「……その割には、幸せそうなお顔ですけど」


「てへへ。申し訳なさより嬉しさのほうがまさってしまう、未熟者のユーリちゃんなのです」


 そんな風に言ってから、ユーリは瓜子にぐっと顔を近づけてきた。


「でもね、きっと心配はいらないと思うにょ。うり坊ちゃんって、いっつも真っ直ぐだから……それでヒロ様も、すぐさま謝りたい気分になったんじゃないかなぁ」


「何すか、それ。さっぱり意味がわかんないっすよ」


「うん、あのね、うり坊ちゃんって気持ちがそのまま表に出るでしょ? だからこっちも、そのまま真っ直ぐ受け止めなきゃ! って気持ちになっちゃうの。うり坊ちゃんは魅力の権化だけれども、そういう部分が一番みんなをトリコにするのじゃないかしらん」


「みんな?」


「うん、みんな。サキたんに立松先生、小柴選手に灰原選手に鞠山選手……あと最近じゃあ、メイちゃまや赤星弥生子さんもそうだねぇ。もちろんジョン先生や多賀崎選手たちなんかもうり坊ちゃんを好いたらしく思っているのだろうけれども、先にあげた方々はひとつ高いレベルでうり坊ちゃんに魅了されているように思うのだよ」


 とてもやわらかい眼差しになりながら、ユーリはそんな風に言葉を重ねた。


「うり坊ちゃんは何も隠さずに気持ちをぶつけてくれるから、それがユーリには嬉しくてたまらないのだよ。楽しい気持ちとかだけじゃなく、悲しい気持ちや怒った気持ちも隠さないでいてくれるから、うり坊ちゃんの本音を疑わずに済むの。……きっと他の方々も、うり坊ちゃんのそういう部分にトキメいているのじゃないかなぁ」


「……自分ってそんなに、感情がだだもれなんすかね?」


「うん! それでその感情が、すごく温かくて天にも昇る心地なんだぁ」


 ユーリは変装用のマスクで口もとを覆っていたが、その下に天使のごとき笑顔が隠されていることは明白であった。


「もちろんそのぶん、怒ったときは羅刹のごとく恐ろしいのですけれど。でも、それを隠さずにいてくれるから、こっちも真っ直ぐ受け止めて、解決の道を探ることができるのです。ユーリはお馬鹿で人様の内心をうかがうことなんてできないから、いっそううり坊ちゃんのそういう部分がありがたくてたまらないのだよねぇ」


「そりゃあまあ、去年は内心の鬱憤を押し隠したばっかりに、あんな騒ぎになっちゃいましたからね」


 思いも寄らないタイミングでユーリの熱情に満ちた言葉を聞かされることになった瓜子は、それこそ苦笑いで内心を隠しながら、そんな風に答えてみせた。


「それでユーリさんには、気持ちを隠さないように心がけることになったわけですけど……他の人に対してまでそうなっちゃってるなら、半分はユーリさんのせいってわけっすね」


「あはは。そういう困ったお顔で笑ううり坊ちゃんも、ユーリは大好き」


 タクシーの運転手の耳をはばかって、ユーリはそんな言葉を小声で囁きかけてきた。


「だからきっと、ヒロ様も大丈夫だよ。というか、それでうり坊ちゃんを嫌うようなお人だったら、ユーリのほうこそゲンメツしてしまうのです」


「いやいや、これはお仕事なんですからね。自分のことなんてかまわずに、ユーリさんは職務を全うしてください」


 そうしてタクシーは、本日の仕事場に到着した。

『NEXT・ROCK FESTIVAL』に向けた練習でもお世話になった、プロアーティスト御用達の大きな音楽スタジオである。本日はこの場で四時間ほど、『ワンド・ペイジ』の面々と練習に励む予定になっていた。


 約束の刻限よりもずいぶん早く到着してしまったため、瓜子とユーリは待合席で

関係者の到着を待つ。真っ先にやってきたのは、こちら陣営の千駄ヶ谷であった。


「お疲れ様です、ユーリ選手。調子は如何でありましょうか?」


「はぁい、コンディションはバッチリですぅ。それがお歌にも反映されればよいのですけれどぉ」


「ご安心ください。重要なのは、気力と体力でありますので」


 ボイストレーニングなどにはいっさい顔を出さない千駄ヶ谷であるが、バックバンドとの音合わせの際には必ず同席している。千駄ヶ谷とて多忙の身であるのだから、それだけバックバンドとの音合わせを重要視しているということなのだろう。


「集合時間まで多少のゆとりがありますので、ご報告させていただきます。サードシングルの発売から一週間と五日が経ち、ようやく現段階における売上の推移をまとめることがかないました」


 瓜子たちの隣に腰を下ろした千駄ヶ谷は、『社外秘』というスタンプの捺されたファイルを差し出してくる。

 何の気もなさそうにそれを受け取ったユーリは、ファイルを開いてきょとんと目を丸くする。


「うみゅみゅ? えーと、ユーリはあんまりこれまでの売上とかも記憶に留めてはいないのですけれども……これは、なかなかの数字なのではないでしょうか?」


「はい。特に特装版に関しては想定の五十パーセント増しとなる数字であり、再販もなかなか追いついていない状況にあります」


 千駄ヶ谷の目標は、想定の百パーセント増しという話であった。しかし、販売促進の最終兵器と銘打たれたライブイベントを前にして、すでにこれだけの売上を実現させていたのだった。


「注目すべきは、通常版と電子版の売上でありましょう。通常版はちょうど想定通りの売上でありますが、電子版は想定の三十パーセント増しという数値を示しております。これはすなわち、ユーリ選手の歌唱そのものに価値を見出した層の増大を示しているかと思われます」


「ふみゅふみゅ。電子版というやつには、特典も何もつかないのですよねぇ?」


「はい。電子版を購入された方々は、純粋に楽曲の音源のみを欲して購入されたということです」


 それは、非常に誇らしい話であろう。

「ただし」と、千駄ヶ谷は付け加えた。


「やはり特装版の売上を考えると、まだまだビジュアル面における付加価値というものもないがしろにはできません。このたびのライブイベントを収録した映像作品に関しましても、サードシングルと同程度かそれ以上の特典を準備するべきでしょう」


「はいはぁい。ファンの皆様のご期待に応えるのが、アイドルとしてのユーリの使命でありますのでぇ。……うり坊ちゃん、また巻き込んじゃったら、ごめんねぇ」


「い、いや、ユーリさんまでそっちに回らないでくださいよ」


 瓜子は非難の声をあげたが、千駄ヶ谷にひとにらみされて押し黙ることになった。


「ライブDVDに関してましても水面下で話を詰めておりますので、しばらくしたら詳細をお伝えできるかと思われます。……『ワンド・ペイジ』の方々がいらっしゃいましたね」


 建物玄関のドアが開かれて、そこから見覚えのある人々が入室してくる。『ワンド・ペイジ』のメンバーと、機材を抱えたローディーに、そして事務所のマネージャーだ。

 ほとんど自給自足の『ベイビー・アピール』よりマシとはいえ、『ワンド・ペイジ』も少数精鋭である。ローディーだけでは手が足りず、メンバーたちもそれぞれ楽器や荷物を抱えている。そして彼らは楽器をスタジオに運ぶより早く、マネージャーと一緒にこちらに近づいてきた。


「お待たせしました。機材のセッティングを始めますので、もう少々お待ちください」


「はい。本日もよろしくお願いいたします」


 千駄ヶ谷とマネージャーが丁寧に挨拶を交わしている間に、ドラムの西岡桔平が瓜子たちに笑いかけてきた。


「どうも。レコーディング以来ですね。試合の放映はまだですけど、結果は見ましたよ。ユーリさんも猪狩さんも、おめでとうございます」


「あ、いえ、とんでもない。自分にまで気を使ってくださって、ありがとうございます」


「気を使ってるんじゃなく、格闘技ファンとして声援を送っているんです。……本当は、結果を見ないように気をつけながら放映の日を待つタイプなんですけどね。お二人とは放映前に顔をあわせるし、自分も結果が気になったんで、我慢できませんでした」


 そんなありがたいことを言いながら、温かみのある笑みを浮かべる西岡桔平である。山男めいた風貌と相まって、ペンションのオーナーか何かを思わせる物腰であった。


「十一月は、また王座決定戦らしいですね。ちょっとひさびさに会場まで出向きたい気分です。……そのときは、お二人からチケットを買わせてもらってもいいですか?」


「えっ! ほ、本当ですか? あの、ユーリさんのブログから、チケット購入できますので……ど、どうもありがとうございます」


「とんでもない。それじゃあ、準備を始めます」


 西岡桔平は笑顔できびすを返し、人見知りの陣内征生がぺこぺこと頭を下げながら、その後を追う。

 そうしてひとり居残った山寺博人が、長い前髪に隠された目でユーリを見据えた。


「……課題曲、練習した?」


「はぁい。とりあえず、歌詞とメロディは覚えられましたぁ。まだまだへたっぴだと思いますけれど、どうぞよろしくお願いいたしますぅ」


「そのためのスタジオだろ」と、山寺博人はぶっきらぼうに言い捨てた。

 そしてその後は口をつぐみ、なかなか立ち去ろうとしない。瓜子はひとりで胸を騒がせ、ユーリはきょとんと小首を傾げた。


「あ、ユーリはどっちの曲も歌詞に感動してしまって、たぶん歌ってる最中にも涙が出ちゃうと思いますけど、メンタルに問題はないのでお気になさらないでくださいねぇ」


「……そんな心配、してねえよ」


「それなら、よかったですぅ。……ユーリは最初、歌詞の意味がさっぱりわからなかったのですけれど、うり坊ちゃんのおかげでやっと理解できたのですよねぇ」


「よ、余計なことは言わないでいいっすよ」と、瓜子はユーリの着たカーディガンの裾を引っ張った。

 山寺博人の顔が、とても嫌そうに瓜子のほうを向く。


「……うり坊って、あんたのこと?」


「は、はい。『スターゲイト』の、猪狩瓜子と申します。……あの、先日は大変失礼なことをしてしまって、本当に申し訳ありませんでした」


 山寺博人は口をへの字にして、がりがりと頭をかきむしった。


「……あのさ、ちっとあんたに話があるんだけど」


「は、はい? 自分に――いや、ワタシにですか?」


「だから、そう言ってんじゃん。……ちょっと来て」


 それだけ言って、山寺博人はかったるそうに歩き出した。

 瓜子が硬直していると、マネージャーと語らっていたはずの千駄ヶ谷が背後から耳もとに口を寄せてくる。


「猪狩さん。決して失礼のないように対応を」


 瓜子はほとんど泣きたいような心地で、ユーリを振り返った。

 ユーリはふにゃふにゃと笑いながら、小さくガッツポーズを作る。

 そんなユーリの声なき激励と千駄ヶ谷の冷徹な眼差しに背中を押されて、瓜子は山寺博人を追いかけることになった。


 山寺博人は待合スペースの壁際で歩を止め、瓜子を振り返ってくる。

 しかしなかなか口を開こうとしないので、瓜子はもういっぺん頭を下げておくことにした。


「あの、先日は本当に申し訳ありませんでした。自分はちょっと、頭に血がのぼりやすいもので……」


「俺の雑な物言いにムカついたってんだろ。それぐらい、わかってるよ」


 山寺博人は不機嫌の極みにあるような声音で、瓜子の言葉をさえぎった。


「あんた、鬼みたいな顔でわめき散らしてたよな。……俺、そんなに悪いことした?」


「……本当に申し訳ございませんでした」


「モウシワケゴザイマセンデシタじゃなくってさ。俺がそんなに悪いことしたのかって聞いてんの。俺はただ、ぴいぴい泣いてたってしかたがねえだろって言っただけじゃん」


 それは確かに、その通りである。

 しかしあのときのユーリは本当に参ってしまっていたので、山寺博人の言いようがあまりに腹立たしく思えてしまったのだ。


「ほら、今もすげえ不満そうな目つきになってんじゃん。あんたは腹の中を隠せない人間なんだから、思ったことを口に出せばいいんだよ」


「あ、いえ……そのように言われましても……」


「あんたの怒鳴り声が、まだ頭の中に残ってんだよ」


 また瓜子の言葉をさえぎって、山寺博人はそのように言いたてた。


「俺、雑な人間だからさ。怒鳴りつけられるなんて、しょっちゅうだよ。でも、なんか……あんたの声は、すげえ痛かったんだ。俺、すげえ悪いことをした気分になっちまってさ。今でも毎晩寝ようとすると、あんたの怒鳴り声が頭の中に響きわたるんだよ」


「ええ? そ、それはちょっとオーバーじゃないですか?」


「オーバーじゃねえよ。全部あんたのせいだろ」


「ご、ごめんなさい!」


「いや、ゴメンナサイじゃなくってさ。なんであんた、さっきから謝ってばっかなの? 俺が悪いんなら、謝る必要なんてねえはずだろ」


「いや、それは……自分はユーリさんのマネージャー補佐っていう立場ですから……」


「立場とかどうでもいいよ。俺がどれだけ悪いことをしたのか、説明してくれって言ってんの。あのときのあんたは、どうしてあんなに怒り狂ってたんだよ?」


 山寺博人が何にこだわっているのか理解できない瓜子は、ほとほと困り果ててしまった。

 すると山寺博人は、またがりがりと頭をかきむしる。


「なんでそんな困った顔するんだよ。俺、そんな難しいこと言ってるか?」


「は、はあ……ど、どうも質問の意図がわからなくって……」


「意図ってなんだよ。言葉そのまんまの意味だろ」


「で、でしたら自分も、あのときにわめき散らした言葉通りで、それ以上の意味はないんですけど」


 やむにやまれず、瓜子はそんな風に答えてしまった。

 山寺博人は、何やら不意を突かれた様子で立ちすくむ。


「……そうだよな。あんたはきっと、見た目通りの人間なんだから……あのときの言葉がすべてなんだよな」


「は、はい。そのつもりですけれど……」


「それじゃああんたは、俺があのユーリって人を雑に扱ったと思って、ムカついただけ?」


「そ、そういうことになりますね」


「……あんた、あの人の家族か何かなの?」


「い、いえ。一緒に暮らしてはいますけど、家族ではありません」


「一緒に暮らしてんのか。それじゃあ、恋人とか?」


「いえいえいえ! 決して恋愛感情はありません!」


「それじゃあ、ただのオトモダチ?」


「……お友達であり、仕事仲間であり、同じ道場のチームメイトですね。つきあいはまだ二年足らずですけど、ちょっと複雑な関係なんです」


 瓜子がそのように答えると、山寺博人はわずかに身じろいだ。


「あんた今、すげえ優しい目つきになったな。……そんなにあの人のことが大切なんだ?」


「ええまあ……大切だし、特別なお人です」


 ギターケースを抱えて立ったまま、山寺博人は動かなくなってしまった。

 たっぷり十秒も沈黙が落ちて、瓜子が気まずさに圧し潰されそうになったとき――山寺博人の口から、「ごめん」という言葉がもらされた。


「そんな大切な相手があんなぴいぴい泣いてたら、そりゃあ死ぬほど心配になっちまうよな。俺の雑な物言いにムカついて当然だ。……ごめん」


「い、いえそんな! 謝ってもらう必要はありません!」


「でも俺、あんたに許してもらえないと、不眠症になっちまいそうなんだよ」


「ゆ、許すも許さないもないっすよ! 自分が怒ってるようにでも見えますか?」


 山寺博人は小首を傾げてから、やおら前髪をかきあげた。

 これまで瓜子が一度としてまともに見たことのなかった、山寺博人の目が――高い眉の下に落ちくぼんで、ちょっと眠たげにまぶたの下りた、意外なほど澄みわたった目が、瓜子の顔を真っ直ぐに見つめてくる。


「……怒ってないな。すげえ困ってる」


「は、はい! その通りだと思います!」


「なんでそんなにテンパってんの? あんた、俺みたいなヒョロガリなんて相手にならないぐらい、強いんだろ?」


「い、いえ! 格闘技に携わる人間が、試合場や稽古場の外で暴力をふるうことは許されませんので!」


「暴力が許される人間なんていねえよ」


 山寺博人は前髪をかきあげたまま、苦笑した。

 これもまた瓜子が生涯で初めて目にする、彼の笑顔である。


「あんた、ヘンな人だな。あのユーリって人もヘンだから、お似合いだ」


「……恐縮です」


「今、ムッとしたろ? 本当に、気持ちがそのまんま外に出るんだな」


 山寺博人は薄く笑いながら、前髪をかきあげていた手を下ろした。


「そんな真正直に気持ちをさらけ出せるなんて、羨ましいような気もするけど……でも、俺がそんなんだったら、きっと音楽なんてやってなかっただろうしな」


「そ、それは困ります!」


「大丈夫だよ。逆立ちしたって、あんたみたいな人間にはなれねえから」


 そう言って、山寺博人は天井を振り仰いだ。


「ああ……なんか、ヤバかったなあ。一歩間違えたら、あんたのこと好きになってたかも」


「ご、ご冗談を!」


「冗談じゃねえよ。独身だったら、ヤバかったな」


 瓜子は、きょとんとしてしまった。


「えーと……ヒロさんって、結婚してたんすか?」


「うん。……あ、そっか。こいつは秘密なんだった」


 前髪で目もとを隠したまま、山寺博人はまた苦笑した。


「あんたにつられて、口がすべっちまった。あんた、おっかねえな」


「そ、それは恐縮です」


「事務所との約束で、結婚のことは秘密なんだよ。もしあんたが週刊誌に売ったら、あのユーリって人を泣かしてやるからな」


「しませんよ、そんなこと!」


「冗談だよ」と、山寺博人は肩をすくめた。

 普段のぶっきらぼうな態度からは考えられないぐらい、それは気安い態度であったが――つまりは、それだけ気分屋ということなのだろう。

 気分屋で、神経質で、なかなか人をよせつけないような立ち居振る舞いをしながら、実は妻帯者――幸いなことに、それでも瓜子が抱く山寺博人のイメージが壊れたりすることはなかったのだった。

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