ACT.4 臥薪嘗胆
01 策謀と遭遇
メイがプレスマン道場に入門してから、一週間後――九月の第四木曜日である。
その日は音楽番組の収録日であったため、昼からテレビ局の撮影スタジオに向かうことになった。
地上波の、ゴールデンタイムの音楽番組である。レギュラー番組ではなく、十月頭の番組改編期に二時間枠で放映される特別番組であるそうだ。
「ただ気になるのは、放送局っすよね。よりにもよって、エイトテレビなんすから……何か妨害工作とかの危険はないんでしょうか?」
瓜子がそのように呼びかけると、愛車のボルボの運転をしていた千駄ヶ谷が「問題ないでしょう」と応じてきた。
「確かに新生パラス=アテナは徳久なる人物の働きによってエイトテレビとのコネクションを得たようですが、エイトテレビの側も自らの番組を犠牲にしてまで妨害するメリットはないでしょう。私としては、事前の根回しで出演そのものをキャンセルされるのではないかと危惧していたのですが、それも杞憂に終わったようです」
「そうっすか。それなら、いいんすけど……」
どうも徳久という人物は得体が知れないし、そのスジの人間とも親密な関係であるようなので、瓜子としてもなかなか懸念を晴らすことができなかった。
しかし何にせよ、収録の当日に至ってしまったのだ。あとはもう何が起きても対処できるように、千駄ヶ谷ともども目を光らせておくしかなかった。
「今日はひさびさの生演奏ですもんねぇ。ユーリも頑張って歌っちゃいまぁす」
瓜子の心配も知らぬげに、ユーリはにこにこと笑っている。
十月中旬のライブイベントに向けて、今週からスタジオ練習が開始されたのだが、現段階では講師を招いてのレッスンであったので、生演奏で歌うのはレコーディング以来であったのだ。
なおかつ、本日の共演者は『ベイビー・アピール』で、課題曲は『ハッピー☆ウェイブ』であった。やはりテレビ番組でお披露目するには元気な曲のほうが相応しかろうと判断されたようだった。
「昨今の音楽番組では当て振りが多いという話ですので、生演奏でユーリ選手のパフォーマンスを披露できるこのたびの番組は、千載一遇のチャンスといえましょう」
愛車のボルボをぎゅんぎゅんと加速させながら、千駄ヶ谷はそのように言いたてた。
「当て振り」とは、バックサウンドを音源で流しつつ、演奏陣がそれに合わせて演奏のふりをする形式のことである。やはり生演奏というのは設備を整えたりサウンドの調整をしたりと苦労が多いため、テレビ番組では敬遠されるものであるらしい。生演奏に重きを置く『ベイビー・アピール』や『ワンド・ペイジ』は当て振りの形式を嫌がって、テレビ番組にはほとんど出演しないのだという話であった。
「……ところで、昨晩の動画はもう確認されましたでしょうか?」
と、千駄ヶ谷がふいにそのようなことを問うてきた。
「動画? 動画っていうと……もしかして、また《カノン A.G》の動画が更新されたんすか?」
「はい。昨晩の動画においては、猪狩さんとメイ選手について取り沙汰されておりました」
冷たく凍てついた声音で、千駄ヶ谷は言葉を重ねる。
「メイ選手の新宿プレスマン道場入門を踏まえての、いわば反撃の動画と称するべきでしょう。……メイ選手は、新宿プレスマン道場がチーム・フレアの名を落とすために準備した工作員であるというのが、あちらの主張となります」
「工作員? つまりそれって――」
「猪狩さんの名を上げさせるために、メイ選手がわざと敗北した、ということですね。そのひと試合だけでチーム・フレアを離脱して、プレスマン道場に入門したのがその証である、と――」
「ついに自分にも八百長疑惑っすか。つくづく見下げ果てた連中っすね」
「ですが、事情を知らない方々にしてみると、メイ選手の新宿プレスマン道場入門は説明のつかない異常事態でありましょう。インターネット上においては何が真実であるのかと、大きく紛糾している様子です」
そう言って、千駄ヶ谷はちらりとバックミラーごしに瓜子を見やってきた。
「ユーリ選手に対するさまざまなデマゴギーにおいては、私がブログ内にて反論することもかないます。ですが、猪狩さんが標的となると……いささかならず、対応が難しいところですね」
「いいっすよ。そんな馬鹿げた話を信じるのは、試合を観てない連中だけでしょうからね。本当の格闘技ファンだったら、あの試合が八百長だなんて夢にも思わないはずっすよ」
「ですが世の中には、格闘技ファンでない人間のほうが多数存在するのです。それを放置することは、未来の格闘技ファンを失うことに繋がるのではないでしょうか?」
「それはまあ、そうかもしれないっすけど……」
「それに、世論というものを侮ってはいけません。猪狩さんやメイ選手の悪評は、所属ジムたる新宿プレスマン道場の名誉にも大きく関わってくるのですよ。ご自分たちが原因で所属の道場が中傷されようとも、猪狩さんはまったくかまわないと仰るのでしょうか?」
そのように言われては、瓜子も二の句が告げなかった。
すると、ユーリが不安そうに身を乗り出す。
「ではでは、どうするべきなのでしょう? ユーリのブログで反論することはできないのですかぁ?」
「反論は、すでにしています。ですが、ユーリ選手ご自身が新宿プレスマン道場の所属であり、また、猪狩さんとの親密な関係も広く知れ渡っているのですから、ファンならぬ人間に対しては説得力を持ち得ないかと思われます」
「ふにゅ? ユーリとうり坊ちゃんの仲良しぷりって、そんなにバレバレなのですかぁ?」
「無論です。リング上で接吻まで交わしたことをお忘れでしょうか?」
「ちょ、ちょっと、滅多なことを言わないでくださいよ。あれはユーリさんにほっぺたを舐められただけですから!」
「……頬を舐めるという行為と接吻に、どれだけの差が存在するのでしょう? その画像は去りし日の格闘技マガジンの表紙に採用されていたため、現在でもインターネット上においては根強く取り沙汰されているのです」
瓜子は頭を抱え込み、ユーリは「にゃっはっは」と気恥ずかしそうに笑った。
「また、ユーリ選手はご自身のベスト・バウトDVDにおいても、猪狩さんとサキ選手に対する情愛のほどを語っておられました。あれはあれで、ユーリ選手の人気に拍車をかける効果があったかと思われますが――」
「ふみゅ? ユーリが好き好きアピールをすると、人気が上昇するのですかぁ?」
「はい。それまでのユーリ選手は人間性というものが希薄であり、よくも悪くも偶像として人気を博していたかと思われます。格闘技界の中で孤立しながら、自分の力だけでのしあがったアイドルファイター――という具合にですね。そもそもユーリ選手は人一倍の愛嬌を有しつつ、どこか本心を隠しているような気配が強かったため、人間ではなく偶像としての魅力がまさっていたのではないでしょうか」
「はあ……アイドルの語源が偶像であるのなら、さもありなんといったところでありますけれど……」
「ですが現在のユーリ選手は、偶像としての神秘性を保持しつつ、個人としての人間性も評価されつつあるように見受けられます。そのもっとも顕著な例が、生演奏における歌唱ということですね」
断固たる口調で、千駄ヶ谷はそう言った。
「生演奏における歌唱において、ユーリ選手はご自身の感情を強く発露しています。これまで本心の見えにくかったユーリ選手が感情を剥き出しにすることで、多くの人間が魅了されているのです。それでもなお偶像としての神秘性が失われないのは、ユーリ選手の有する不可思議な特性ゆえでしょう。貴女は相反する属性を共存させることのできる、極めて特異な人間であられるのです」
「な、なんだかお話が難しくなってまいりましたぁ。そもそもはユーリじゃなくって、うり坊ちゃんのお話じゃありませんでしたっけぇ?」
「はい。猪狩さんとメイ選手にかけられた疑惑を解消するために、何らかの手を打つ必要が生じるやもしれません。そういった仕事は私に一任し、お二人はご自分の仕事を全うしていただきたく思います」
だったら何を長々と語らっていたのだ――などという文句をつけることは不可能であったので、瓜子は「はい」とだけ答えておいた。
そこでようやく、放送局に到着である。
天下のテレビ放送局、エイトテレビだ。
格闘技ブーム時に《JUF》の放映をしていたのも、昨年の大晦日に《JUFリターンズ》の放映をしていたのも、この放送局となる。しかし、《JUF》の隆盛にあの徳久なる怪しげな人間が大きく関わっていたとなると――瓜子としても、なかなかに複雑な心境であった。
(だけどまあ、あたしはそこまで《JUF》にハマってたわけじゃないからな)
年代的にも、《JUF》の最盛期に瓜子はまだ小学生であったのだ。
《JUF》をこよなく好んでいたのは、瓜子の姉となる。それで格闘技に興味を持った姉が、格闘技専門チャンネルの契約を親にねだり――そこで瓜子は、《アトミック・ガールズ》と出会うことがかなったのだった。
(《JUF》があれだけの人気だったからこそ、あたしも《アトミック・ガールズ》に巡りあうことができたわけだけど……でも、《JUF》の末期のノリって、あんまり好きじゃなかったんだよなあ)
卯月選手やジョアン選手など、四天王と称されるトップファイターの試合は素晴らしかったように記憶している。が、トップファイターの番付もあらかた定まって、興行が停滞期に突入すると、やたらと話題性重視の試合が組まれるようになった印象であったのだ。
たとえば、ジム通いをしていた芸能人を選手に仕立て上げてみたり、元アメフトの選手に過剰なキャラ付けをして登場させてみたり、MMAではまったく結果を残せていない元横綱の選手をやたらと起用してみたり――格闘技の地力とは異なる面に、スポットが当てられていたように思うのだ。
だから瓜子は、《アトミック・ガールズ》に心を引かれた。魔法少女を称する選手がいたり、やたらとテレビ出演する妖艶な美人ファイターがいたりしても、そちらの主眼はあくまで「競技としてのMMA」であり、卑俗なショーマッチではないように思えたのだった。
また、それを証明するかのように、《アトミック・ガールズ》には地味な試合が多かった。KOパワーを持つ選手が少なく、勝負は判定にもつれこむことが多かった。そうであるからこそ、KOの山を築くサキの姿がとてつもなく輝いて見えて、自分もあのリングに立ちたい、と――瓜子を魅了したのだった。
「……どったの、うり坊ちゃん?」
と、ユーリが横合いから瓜子を覗き込んでくる。
気づくと車はすでに薄暗い屋内駐車場の内に停車しており、千駄ヶ谷が運転席から降りるところであった。
「いや、なんでもないっすよ。さ、正念場ですから、頑張りましょう」
ユーリにそんな言葉を返してから、瓜子も後部座席を出た。
(エイトテレビに来たってだけで、ずいぶん空想を広げちゃったな)
パラス=アテナの運営陣は、《カノン A.G》の地上波における放映を目標のひとつに掲げている。
が、そうして大きな金が動くようになるのを待っている輩がいる――と、メイはそんな風に語らっていた。
ならば、そんな道は目指すべきではない。
少なくとも、徳久という男の敷いたレールに乗ってはいけないのだ。
(ユーリさんの魅力を前面に押し出せば、もっと真っ当な方法でメジャー化を目指せるだろうに……つくづく、頭の悪い連中だな)
そんな思いを胸に、瓜子は千駄ヶ谷の後を追いかけた。
駐車場から放送局の内部に踏み込み、明るい廊下を突き進んでいく。エイトテレビは初めてであったが、ユーリは他の局の深夜番組などにはたびたび出演していたので、瓜子も今さら気後れする理由はなかった。だいたいが、瓜子はユーリの付き添いを始めた初日から、バラエティ番組の収録に立ちあうことになったのである。
「こちらが、控え室ですね」
スタッフの行き交う廊下を迷うことなく進軍した千駄ヶ谷が、やがてそんな言葉とともに歩を止めた。何の変哲もないドアに、『Yu-Ri様』と記載された紙ペラが張られている。
「まずは、『ベイビー・アピール』の方々にご挨拶をいたしましょう」
そのドアを素通りして、千駄ヶ谷は隣のドアに足を向けた。
そしてそのドアをノックしようとした手が、ふと止まる。
ドアの内側からは、何か険悪なわめき声が聞こえていた。
「何か、揉め事っすかね?」
瓜子の問いには答えぬまま、千駄ヶ谷は硬質の面持ちでドアをノックした。
しばらくして、だいぶん見慣れてきたスキンヘッドがにゅうっと覗く。『ベイビー・アピール』のベース担当、タツヤ氏である。
「あー、来た来た! ウル、お待ちかねの千駄ヶ谷さんだぞー!」
そんな声を室内に投げかけてから、タツヤは仏頂面で瓜子たちを見回してきた。
「なんかさ、お話にならねえんだよ。千駄ヶ谷さん、いつもの調子で一刀両断してくれよな」
「……失礼いたします」と、千駄ヶ谷はよどみのない足取りで室内に踏み入った。
瓜子とユーリは小さくなりながら、その後に続く。
そこは六畳ていどの、至極ささやかな控え室であった。折りたたみ式の長テーブルにいくつかのパイプ椅子、あとは大きな姿見ぐらいしか調度も見当たらない。そこで『ベイビー・アピール』のメンバーとひとりの男性が向かい合い、世にも険悪な空気をかもしだしていた。
「よー、千駄ヶ谷さん! それにユーリちゃんと瓜子ちゃんも、みんな元気そうだねぇ」
そんな中、ヴォーカル&ギターの漆原だけは、いつも通りの朗らかな笑顔であった。
そんな漆原のかたわらに、見慣れぬ若者が立ち尽くしている。よくよく見ると、それはレコーディングの際にもちらりと見かけた、『ベイビー・アピール』の事務所のマネージャーであった。
「せ、千駄ヶ谷さん。ご到着をお待ちしていました。どうにも話が平行線でして……」
「何かトラブルでしょうか?」と、千駄ヶ谷は同じ足取りでテーブルに近づいていく。
こちらに背を向けていた謎の男性は、千駄ヶ谷の姿を見るなり、パイプ椅子の中でぎくりと身体を強張らせた。
「あ、あの、あなたは……?」
「私は『スターゲイト』の千駄ヶ谷と申します。ユーリ選手のマネージングを担当しております」
「ああ、あなたが……わたしは、こういう者です」
千駄ヶ谷とその人物で、名刺交換が行われる。
どうやらこの人物は、ユーリたちの出演する番組のディレクターであるようだった。
「いったい何の騒ぎでしょう? 本日の収録に関わるトラブルなのでしょうか?」
「うん、そうそう。こいつらさ、生演奏じゃなく当て振りでお願いしまーすとか抜かしてるんだよ」
漆原が陽気に答えると、千駄ヶ谷は冷たく低い声音で「当て振り」と繰り返した。
「それは、どういったお話でしょう? 本日は生演奏で収録をおこなうものと契約を交わしていたはずですが」
「ええ。ご連絡が当日になってしまい、まことに申し訳ありません。こちらの事情で、生演奏の収録が不可となってしまいましたもので……」
「事情とは? 設備に何かアクシデントでも?」
「いえ、まあ、そういうわけではないのですが……制作側の都合というやつですね。もちろん生演奏から当て振りに変更されても、ギャランティに変更はありませんので……」
「そういう問題じゃねえんだよ」と、ドレッドヘアの若者が険悪な声で言う。ギター担当の、リュウ氏だ。
「こっちは生演奏って条件で引き受けたんだからよ。そいつを反故にするってんなら、契約違反だよな。へらへらしてねえで、その事情とやらを説明してみろよ」
リュウに限らず、漆原とマネージャーを除くメンバーは全員が憤然としていた。陽気で子供じみたところのある彼らであるが、風貌だけは強面であるので、なかなかの迫力だ。
「うちらはさ、当て振りはしないってポリシーでやってんの。妥協できるのは、ミュージック・ビデオまでだね。あんたはどんな権利でもって、俺らのポリシーを踏みにじろうとしてるわけ?」
「いえ、ですから……制作上の都合としか……」
「都合都合って、手前らの都合なんて知ったこっちゃねえんだよ!」
ドラム担当のダイ氏が、空いているパイプ椅子を蹴り飛ばした。
それを「まあまあ」となだめたのは、漆原である。
「そんなテンション上げたって、どうにもならねえだろ。……だけどさ、勝手を言ってるのはあんたらだよな? 時間の無駄だから、話を進めてくれない?」
「はあ……話を進めると申しますと……?」
「俺たちゃ当て振りはしないって決めてんの。収録するなら生演奏、生演奏できないなら収録は中止。道は、ふたつにひとつだろ?」
そんな風に言ってから、漆原はすがるように千駄ヶ谷を見やった。
「千駄ヶ谷さんやユーリちゃんには悪いけど、こればっかりは譲れないんだよ。ていうか、生演奏じゃないんなら、俺たちがバックに立つ意味もないはずだよね?」
「はい。こちらも生演奏でなければ出演する意味がございません。その場合は、エイトテレビ側の契約不履行ということでお話を進める他ないでしょう」
千駄ヶ谷は絶対零度の眼差しで、ディレクターをねめつけた。
「生演奏による収録を再検討するか、違約金のご準備をなさるか。漆原氏の仰る通り、道はふたつにひとつでありましょう。どうぞ、ご決断を」
「そうまで頑強に、出演を拒否なさるのですか? そのように悪い前例を作ると、今後のメディア活動に悪い影響が出ないとも限りませんが……」
「ご心配なく。契約を守れない方々とは、こちらも今後一切関わりを持とうとは考えませんので」
千駄ヶ谷の弁舌に一刀両断されたディレクターは、「責任者を呼んでまいります」と這う這うの体で逃げ出していった。
その背中を見送ってから、千駄ヶ谷は小さく息をつく。
「おそらく本日の収録は、中止になることでしょう。『ベイビー・アピール』の方々にもご迷惑をおかけしてしまい、心より陳謝いたします」
「なに言ってんのさぁ。むしろ、謝るのは俺たちだろぉ?」
「いえ。生演奏でなければ肯んじられないというのはこちらも同様ですし、また、これはユーリ選手の失脚を願う何者かの策謀であることに疑いはありません。皆様を再び巻き込む形になってしまい、お詫びの言葉も見つけられません」
「だったら、悪いのはそいつらだろ。千駄ヶ谷さんが謝ることないって!」
そんな風に言ってから、漆原は不健康に痩せ細った顔に無邪気な笑みをたたえた。
「ていうか、俺は千駄ヶ谷さんに嫌われちまうんじゃないかって思ってたから、ほっとしたよぉ。俺やっぱり、千駄ヶ谷さんのこと好きだなぁ」
「ちょ、ちょっとちょっと! 滅多なこと言わないでくださいよ!」
マネージャーが焦った顔をして、漆原の肩を揺さぶった。
それらの姿を冷徹な眼差しで見やってから、千駄ヶ谷は瓜子たちを振り返ってくる。
「お聞きの通り、本日の収録は九分九厘中止となりましょう。責任者とは私が話をつけますので、さきほどの控え室でお待ちいただけますか?」
「はい……やっぱり生演奏じゃなきゃ意味がないんすね?」
「ええ。CDよりもクオリティの低い歌唱を放送されては、むしろマイナスとなりましょう。……この策謀を仕掛けた何者かも、ユーリ選手の力を正しく見定めているようですね」
その何者かをにらみ据えるように、千駄ヶ谷は冷たく双眸を光らせた。
「事ここに至っては、十月のライブイベントに注力する他ありません。ユーリ選手、どうぞお気を落とされませんように」
「はいはぁい。ユーリはだいじょぶですよん。……ただ、生演奏で歌えるのを楽しみにしていたので、それだけがちょっぴり残念ですねぇ」
すると、漆原がぴょこんと身を起こした。
「だったらこの後、どこかのスタジオにでもシケこもうぜ。俺たちだって、ユーリちゃんとヤレるのを楽しみにしてたんだからさぁ」
「ええ、いいんですかぁ? ……千さんのお許しが出たら、ぜひぜひお願いいたしまぁす」
「……それは本日の話し合いを終えてから、再検討ということにいたしましょう。ともあれ、ユーリ選手は控え室でお待ちください」
「はぁい」と答えたユーリとともに、瓜子もきびすを返そうとすると、スキンヘッドのタツヤが「あっ!」と大きな声をあげてきた。
「瓜子ちゃん! あとで、小笠原さんのことも聞かせてくれよな! ネットだと情報が入り乱れてて、よくわかんねえんだよ!」
「はい。自分にお答えできる範囲でしたら」
そうして『ベイビー・アピール』の控え室から廊下に出ると、ユーリは「ふみゅう」とおかしな声を出した。
「千さんの予想に反して、ぼーがい工作されちゃったねぇ。収録の当日にこんな真似を仕掛けてくるなんて、どこかの誰かさんはよっぽどの力を持ってるのかしらん?」
「どうでしょうね。エイトテレビのお偉いさんか何かが、あのネズミ男に弱みでも握られてるのかもしれませんよ」
「みゅみゅう。ユーリはべつだん、何がどうでもかまわないのだけれども……千さんが頑張って取りつけてくれたお仕事が吹っ飛んじゃうのは、悲しいにゃあ」
「ほんとっすよね。正直言って、自分も爆発寸前です」
と、瓜子が握り拳を作ったとき――
「あれれぇ?」という呑気そうな声が廊下に響きわたった。
「あー、やっぱりぃ。ユーリさんと猪狩さんじゃないですかぁ。こんなところでお会いできるなんて、すごい偶然ですねぇ」
瓜子は息を詰めながら、後方を振り返った。
そこに立ちはだかっていたのは――見忘れようもない、三人の女子選手たちである。
明るい髪をポニーテールにした、一色選手。
セミロングの髪の右半分を金色に染めた、沙羅選手。
そして、肩までの髪を真っ赤に染めあげた、タクミ選手だ。
「お二人もテレビ出演ですかぁ? すごいすごぉい。いったい何の番組ですぅ?」
と、一色選手がぺたぺたとサンダルを鳴らして、近づいてくる。
「おいおい」と声をあげたのは、サングラスをかけた沙羅選手であった。
「よその選手と気安う口きくな言うたのは、自分らやろ? 何を率先してルール破っとんねん」
「えー? べつに誰も見てないし、いいじゃないですかぁ? ね、タクミさぁん?」
タクミ選手は気のない表情で、「さあ?」と肩をすくめた。
「わたしの知ったこっちゃないね。喋りたいなら、好きにしたら?」
「はぁい。ルイの好きにさせていただきまぁす」
公開計量や試合当日にニアミスしているものの、瓜子たちがチーム・フレアの面々をここまで間近に迎えるのは初めてのことであった。彼女たちはどのような場所でもチームメイトで輪を作り、他の選手とはいっさいコミュニケーションを取ろうとしなかったのだ。
(なんか……おかしな感じだな)
一色選手は、無邪気ににこにこと笑っている。
沙羅選手はサングラスで内心を隠しつつ、仏頂面だ。
そして、タクミ選手は――瓜子たちの存在など認識していないかのように、ぽけっと視線をさまよわせていた。
一色選手や沙羅選手の様子は、さほど気にならない。ただ、タクミ選手は――動画や会場のインタビューなどで、さんざんユーリのことを誹謗しておきながら、いざ本人を前にすると、まるで無関心であるかのようだった。
ユーリと馴れ合いたくないので無視をしているというのなら、まだわかる。しかし彼女はユーリがユーリであることにも気づいていないかのような面持ちで、ただぼんやりと立ち尽くしていたのだった。
「あ、そういえばきちんと挨拶をするのも初めてでしたよねぇ。ルイはルイ=フレアこと、一色ルイと申しまぁす。以後、お見知りおきをよろしくお願いいたしますねぇ」
「え、ああ、どうも。……新宿プレスマン道場の、猪狩と申します」
「あははぁ。やっぱり猪狩さんって、ちっちゃいですねぇ。同じ階級だなんて信じられないぐらいですぅ」
そのように語る一色選手は百六十二センチであるので、なかなかの長身だ。瓜子よりも十センチ高い位置に浮かぶその顔は、緊張と無縁の笑みをたたえていた。
「それで、そちらは何の番組に出演するんですかぁ? ルイたちは、クイズ番組にトリオで出演するんですよぉ。シャラさんが前にも出演したことあるから、ルイたちのこともプッシュしてもらったんですぅ」
「……ああ、そういえば沙羅選手は、そういう番組にもよく出演されてましたね」
瓜子が視線と声を投げかけると、沙羅選手はそっぽを向いたまま「はん」と鼻を鳴らした。
「ま、そういうこっちゃ。打ち合わせがあるんで、さっさと行くで」
沙羅選手が歩き始めると、タクミ選手も茫洋とした足取りでそれを追った。
ひとり居残った一色選手は、くすくすと忍び笑いをもらす。
「ねぇねぇ、ひとついいですかぁ? どうして猪狩さんは、チーム・フレアの参入を断っちゃったんですぅ? ルイ、猪狩さんとは同じ陣営でいたかったなぁ」
「……同じ陣営でも、トーナメントに出たらけっきょくぶつかることになりますよ」
「あ、確かにぃ。だったら、アトム級に転向しませんかぁ? ベアトゥリスさんがああなっちゃったから、アトム級がちょっぴり手薄なんですよねぇ」
「……本気で、自分をチーム・フレアに誘ってるんすか?」
「もちろんですよぉ。なんだったら、二人でアイドルグループを結成しちゃいませぇん?」
すると、沙羅選手が遠い位置から「おいコラ!」と呼びかけてきた。
「いつまでくっちゃべっとんねん! 打ち合わせの時間や言うとるやろが! あんま世話やかすなや、ジャリ!」
一色選手はにこにこと笑ったまま、「うるせえなあ」とつぶやいた。
「それじゃあ、失礼しますねぇ。よかったら参入の件、考えといてくださぁい」
一色選手はまたぺたぺたと足音を鳴らしながら、沙羅選手たちを追いかけていった。
瓜子は何とも言えない心地で、ユーリを振り返る。
「なんか……おかしな雰囲気でしたね」
「ん? そうかにゃ?」
「そうかにゃって、ユーリさんも見てたでしょう? タクミ選手なんか、普段とは別人みたいな態度だったじゃないっすか」
「普段って言っても、ユーリはタクミ選手ときちんと喋ったこともないからにゃあ。案外、ああいうぽけーっとしたのが本性なのじゃないかしらん?」
そう言って、ユーリはふにゃふにゃと笑った。
「ほんでもって、ここがテレビ局のせいか、まったく違和感がなかったぞよ。タレントさんには、ああいうタイプも少なくないみたいだしねぇ」
「ああいうタイプって? タクミ選手じゃなくって、一色選手のほうっすか?」
「ううん。どっちもかにゃあ。カメラとかお客さんの前でだけ元気いっぱいの人とか、怖い本性をにこにこ顔の裏に隠してる人とか、ユーリはアイドルちゃん時代から山ほど見てきたのじゃ」
確かに動画や大会のインタビューなどで威勢よく振る舞うタクミ選手は、どこか芝居がかって見える。その笑顔も作り物みたいだなと、瓜子は一番初めから思っていたのだ。
(……つくづく、チーム・フレアってのは楽しくなさそうな集団だな)
そんな中で、沙羅選手は何を思い、何を目指しているのか。
瓜子の胸には、そんな疑問が魚の小骨のように残されることになってしまったのだった。
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