07 指導

 そうしてその後は八オンスのオープンフィンガーグローブを装着して、組み技ありの立ち技サーキットが開始されたわけだが――その場において、立松の鑑識眼の正しさが証明されることになった。グローブを付け替えたメイは存分に本領を発揮して、対戦した七名全員からダウンを奪うことになったのである。


「こいつ、マジでうり坊ぐらいパンチが痛いじゃん! なんなんだよ、もー!」


 二分間で三回ものダウンをくらった灰原選手は、涙目になりながらそのようにわめき散らしていた。

 メイはただ拳が硬いというだけでなく、その回転力が一番の武器であるのだ。二倍の重量で空気抵抗も大きいボクシンググローブでは、なかなか本領を発揮することもできなかったのだろう。瓜子自身、下顎にいい角度で右フックをもらい、たまらず膝をつくことになってしまった。


 が、オープンフィンガーグローブのほうが望ましいのは、瓜子も一緒である。タックルのフェイントから右のアッパーを命中させて、メイからダウンを奪うことができた。


「メイさんからダウンを奪えたのは、猪狩だけだったな。桃園さんも灰原さんも、メイさんの厄介さを思い知っただろう?」


「はぁい。なんだか別人みたいでしたぁ。タックルでテイクダウンも取られちゃいましたしぃ」


「ほんとだよー! パンチが痛いだけじゃなく、動きそのものが変わってんじゃん! あんた、さっきは手を抜いてたの?」


「いや。自分の攻撃が当たるから、リズムに乗れたんだろ。おまけにメイさんはタックルのスピードも尋常じゃないから、組み技ありだと厄介さが倍増するわけだな」


「……やっぱりタテマツ・コーチ、素晴らしい鑑識眼」


「だから、うるせえっての。……しかし、サキでも初日のスパーでダウンをくらっちまうとはなあ」


「はん。アタシが片足で勝てるような相手だったら、瓜もああまで苦戦しねーだろ」


 そんな具合に、インターバルの指導時間も大いに盛り上がりを見せていた。

 そののちに行われたのは、グラップリングのサーキットである。

 この場でも、メイは尋常でない強さを見せつけた。とにかくメイは機動力で圧倒し、ユーリと多賀崎選手を除く全員からチョークスリーパーでタップを奪ってみせたのだ。一階級上でレスリング巧者の多賀崎選手でもポジション争いに終始して、おたがいにタップを奪うまでには至らなかった。


 そんな中、ただひとりメイを上回ったのは、やはりユーリである。グラウンド状態であればユーリも動き負けすることはなく、しかもパワーとテクニックでまさっている。結果、二分間で二度のタップを奪うことができた。


「なるほど。お前さんはチョーク以外のサブミッションをまるきり稽古してないみたいだな」


 インターバルで立松がそのように問いかけると、メイは「うん」とうなずいた。


「ディフェンスは勉強してるけど、オフェンスはチョークだけ。僕が狙う、肘とパウンドだから」


「ああ。しかし、ポジション争いの実力は大したもんだ。柔術もレスリングもしっかりやり込んできたのがわかるよ。……なんだか、猪狩の完成形を見せつけられたような気分だな」


 メイが不本意そうに声をあげようとしたので、立松は手を上げてそれを制した。


「あくまで、寝技の話だよ。グラウンドで上を取ったら、打撃で圧倒する。上を取られたら、スイープか立ちを狙う。ま、ストライカーの常道って言っちまえばそれまでだけど、猪狩はちょうどお前さんぐらいの完成度を目指してたところなんだよ」


「でも――」


「だから、寝技の話って言ってるだろ。立ち技だったら、お前さんより猪狩のほうが上回ってる。ていうか、目指してるスタイルがまったく違ってるんだろうな。猪狩は万能型で、お前さんは一点特化型だからよ」


「……その解説、もっと詳しく」


「ん? だから、キック畑の猪狩は意外に器用で、技も多彩だからな。相手によって自分のスタイルを調整して、リズムをつかんだら正面から殴り勝つ。お前さんは機動力と瞬発力で、相手を圧倒する。スタイルの種類は、正面突破とカウンター狙いの二種類ぐらいなんじゃねえか? で、その精度をひたすら上げてきたって感じなんだよな」


「…………」


「それにお前さんは、ジャブも蹴りも使わないよな。顔と腹の打ち分けが上手いし、肘とタックルも磨いてるようだから、それほど不自由な感じはしないが……そこに関節蹴りを加えたとしても、ちっとばっかり偏りすぎじゃねえかな」


「……確かに、僕、習得する技を限定して、精度を上げてきた。だから、ウリコより弱い?」


「いやいや。下手にオールラウンダーを目指すと、器用貧乏になりがちだからな。お前さんは寝技や組み技も十分に磨いてるし、その年齢にしては大した完成度だと思うよ。ただ……」


「ただ?」


 メイの真剣きわまりない顔を見返しながら、立松は苦笑した。


「まあ、門下生として迎えたからには、きちんと指導してやらねえとな。……お前さんを相手取るにあたって、俺たちは頭を絞りに絞りぬいた。そのときに思ったのが……お前さんがジャブを使わない選手で助かったなってことなんだよ」


「……ジャブ」


「ああ、ジャブだ。お前さんはその踏み込みの鋭さでいきなりフックを当てられるから、ジャブはいらねえって考えたのかね。だけど、あの鋭いステップでジャブを連発されたら、対戦相手は死ぬほど嫌なもんなんだよ」


「…………」


「たぶんお前さんは、これまで互角以上の相手と試合をしてきたことがねえんだろうな。そうじゃなきゃ、ジャブをおろそかにできるはずがねえんだ。で、人生で初めて互角以上の相手に連敗を喫したわけだから……まず磨くべきは、左ジャブなんじゃないのかね」


「……僕、あなたの指導、従う」


 メイはなんとか無表情を保ちつつ、黒い瞳を意欲に燃えさからせていた。

 彼女はこれまでも、なかなか人前で表情を崩そうとしなかったが――しかし今の顔は、以前の石仮面じみた無表情とは、まるきり違っていた。皮一枚の下に人間らしい熱情のうかがえる、魅力的な凛々しい顔である。


「まあ、個人指導は壁レスの後だ。……ヤナ、しばらくこっちを代わってくれ」


 ずっと女子選手につきっきりであった立松は、柳原と交代して男子選手のほうに戻っていった。あちらはあちらで十月に試合を控えていて、追い込みの時期であるのだ。試合を終えたばかりの瓜子たちに、本来はそうまで時間を割ける時期ではなかったのだった。


(それでもきちんと面倒を見てくれるのが、立松コーチなんですよ)


 心中でメイにそのように呼びかけつつ、瓜子は稽古を再開させた。

 壁レスリングの稽古を終えた後は、各自の課題に取り組むことになる。そしてその頃には、キックのレッスンを終えたジョンも合流してくれた。


「ちょうどいい。新人の世話はまかせたぞ、ジョン」


「ウン。ヨロシクねー、メイ」


 レッスンの合間に挨拶は済ませていたので、ジョンは気さくに笑っていた。

 メイほどの実力者が今さら左ジャブの練習とは驚きであるが、確かに彼女があの鋭いステップとともに左ジャブを繰り出してきたら、げんなりするぐらい厄介だろう。だからこそ、立松もわずかに逡巡を見せていたわけである。


(だけどまあ、《アクセル・ファイト》は置いておくとしても、あたしとメイさんがぶつかることはもうしばらくありえないわけだしな)


 同じ道場に所属する選手が試合でぶつけられることは、そうそうありえない。また、万が一、百万が一にもメイがプレスマン道場を裏切って離脱したところで、連戦した選手同士で試合を組もうとするプロモーターは存在しないはずだった。


(少なくとも、向こう一年は対戦もないだろう。だったら存分に、強くなってくれればいいさ。……あたしはそれ以上に強くなってみせるからね)


 そうして新人門下生を迎えた稽古は粛々と進行されていき――五時間にわたる自由練習の時間も、ついに終わりが見えてきた。

 灰原選手が「あれえ?」と素っ頓狂な声をあげたのは、そんなタイミングであった。


「ねえねえ、あんたの上司だよ。何かまた厄介ごとじゃないだろうね?」


 灰原選手の視線を追うと、深い藍色のレディススーツを纏った長身の女性が稽古場に踏み込んでくるところであった。


「せ、千駄ヶ谷さん。何かあったんすか?」


「こちらは、何も。……常ならぬ事態が生じたのは、そちらなのではないでしょうか?」


 ふちなし眼鏡の向こうに瞬く千駄ヶ谷の眼光は、初手から絶対零度の冷ややかさであった。日に二度も千駄ヶ谷と対面するのは、瓜子としても珍しい話である。


「よう、千駄ヶ谷さん。こっちもそろそろ店じまいだからよ。クールダウンするまで、ちっと待っててもらえるかい?」


 立松の呼びかけに「承知しました」と答えながら、千駄ヶ谷は眼鏡の角度を修正した。


「えーと……もしかしたら、立松コーチが千駄ヶ谷さんを呼び出したんすか?」


「いや。俺はメイさんから聞いた話を電話で伝えただけだよ。そうしたら、千駄ヶ谷さんがこっちに来るって言うんでな。稽古が終わる時間ぐらいを見計らってくださいなってお願いしただけのこった」


「なるほど」と答えつつ、瓜子は落ち着かない気分だった。千駄ヶ谷の放つ氷の波動が、自分に向けられているような気がしてならなかったのである。


「……あの、千駄ヶ谷さん。何か自分に怒ってるんすか?」


「怒りまでは、喚起されておりません。……ただ、メイ選手がこちらに入門するにあたって、猪狩さんが口添えをされたそうですね。ならば午前中にお会いした際、どうして私に報告がなかったのかと……それを疑問に思っております。それとも、私と別れたのちに、そのような話が持ち上がったのでしょうか?」


「や、そういうわけじゃないっすけど……メイさんの入門を千駄ヶ谷さんに報告する意味があるんすか?」


 千駄ヶ谷は瓜子を見据えたまま、「無論です」と言いたてた。


「彼女はチーム・フレアの一員であったのですから、内情に通じている可能性があります。運営陣の愚かな策謀を打ち砕くために、それはきわめて有益な情報なのではないでしょうか?」


「いや、だけど、けっきょくメイさんは内情なんて知らされてなかったみたいですし……」


「ですが、彼女は自ら探偵に調査を依頼して、運営陣の愚かさを知るに至ったというのでしょう? ならば、なおさら有益であるはずです」


 何にせよ、これは瓜子の落ち度であると、千駄ヶ谷は断じている様子である。

 ならば、瓜子の取るべき行動はただひとつだ。瓜子が誠意を込めて「すみませんでした」と言ってみせると、千駄ヶ谷は「よろしい」とばかりにうなずいた。


「ユーリ選手や猪狩さんは、どうぞ試合で結果を出せるように尽力をお願いいたします。その間に、私どもは運営陣の健全化を目指して尽力する所存です」


「私ども? 誰か他にも協力者がいるんすか?」


「…………」


「はい! 稽古と試合に注力します!」


 その後、稽古後のクールダウンおよびシャワーと着替えが完了するまで、千駄ヶ谷は稽古場の片隅でじっと待機の構えであった。

 そうしてパーカー姿のメイが更衣室を出るなり、暗殺者のようにひたひたと接近してくる。


「初めまして、メイ選手。私は『スターゲイト』の千駄ヶ谷と申します」


「うん。話、ウリコから聞いた。僕の調べた話、知りたい?」


「ええ。是が非でも」


「だったら、ホテルに調査資料、残してある。それ、読んでほしい」


「ありがとうございます。よろしければ、私の車でホテルまでお送りいたしましょう」


「わかった。……挨拶するから、待ってて」


 と、メイは瓜子に近づいてきた。

 が、近い位置からじっと見つめてくるばかりで、口を開こうとしない。場をつなぐために、瓜子のほうが声をあげることにした。


「ありがとうございます、メイさん。自分たちは今の運営陣を何とかしたいと思っていたので、すごく助かります」


「うん。ウリコ、喜ぶなら、僕も嬉しい」


 そんな風に言ってから、メイはいっそう瓜子に近づき、耳もとに口を寄せてきた。


「でも、礼を言う、僕のほう。ウリコ、ありがとう。……今日、すごく楽しかった。僕、六年間、トレーニングしてきたけど、一番楽しかった」


「それは何よりです。自分も楽しかったっすよ」


 瓜子がそんな風に応じると、メイはフードの陰で口もとをほころばせた。

 きっと他の人たちには、死角で見えなかっただろう。それは瓜子がこれまで見てきた中で、メイのもっとも可愛らしい笑顔であったのだった。

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