06 スパーリング
「まずはウォーミングアップがてら、立ち技と寝技のサーキットだな」
そんな立松の宣言とともに、この日の稽古が始められた。
地獄のサーキットがウォーミングアップとは過酷な話だが、八名もの女子選手がそろっているなら是非もない。プレスマン所属の四名ではあまりに偏りがあるために、サーキットの効果も薄れてしまうものであるのだ。
(だけど今後は、それが五人に増えるわけだな)
メイが入門したからには、このサーキットもまた新たな意義が生じるはずである。瓜子としては、胸のわきたつところであった。
「まずは立ち技のサーキットだが、メイさん、うちじゃあ関節蹴りを禁止にしてるから、そのつもりでな。猪狩、防具の準備の説明をしてやれ」
「押忍」と答えて、瓜子はメイを防具の棚まで案内した。
十六オンスのグローブに、ヘッドガードとボディプロテクターとレガースパッドの三点セット。そして最近では、そこにエルボーパッドも加えられている。
メイは黙ってそれらの防具を装着していたが、最後の最後で不服そうに瓜子のことを見やってきた。
「僕、《スラッシュ》に出場していた時代、北米のジム、出稽古をしていた。ボディプロテクター、アマチュアの選手だけだった」
「あ、うちらも毎回つけてるわけじゃないんすけどね。ユーリさんとのスパーには必要なんすよ」
「……彼女、攻撃力、高いから?」
「はい。しかもユーリさんは手加減ってやつができないんで、危ないんです。これだけの防具を着けてても、打ちどころが悪いと悶絶することになりますよ」
メイは疑り深そうに目を細めつつ、鼻歌まじりに防具を装着しているユーリを見やった。
「ユーリ・モモゾノ……彼女、不思議な選手。僕が観た、ベリーニャとの試合だけだけど、強いか弱いか、まったくわからなかった」
「そりゃああのときのユーリさんは、右拳が割れてましたからね。……この前の試合も観てないんすか?」
「……君に負けて、すぐに帰ったから、観てない」
と、メイはすねたような甘えたような眼差しで、瓜子をじっと見つめてくる。
瓜子は返答に困ったが、気の利いた言葉を思いつく前に稽古が始められてしまった。
「人数が多いんで、二分七ラウンドで勘弁してやろう。メイさん、これはあくまでスパーだから、ムキにならないようにな」
「わかってる。それに、これだけ防具を着けていれば、相手を壊すこと、難しい」
「それなら、幸いだ。それじゃあ、適当な相手と組んで」
メイは最初から、瓜子をロックオンしていた。
まあひと通りの相手とやりあうのがサーキットであるのだから、誰が最初でもかまわない。瓜子は平常心で、メイと対峙してみせた。
「それじゃあ、始め!」
立松の号令がかけられても、メイはいきなり突っ込んできたりはしなかった。
例の鋭いステップで、慎重に距離を測っている。瓜子はたちまち、四日前の試合を思い出すことになった。
(でも、あのとき悩まされたのは、関節蹴りとタックルだからな。こういうスパーだと、このお人はどんな感じなんだろう)
瓜子はサイドステップを使いながら、距離を測る。
しかし時間は二分しかないので、適当なタイミングで右ローを出してみせた。
たちまち返されてきたのは、左フックである。瓜子もしっかりガードしてみせたが、実に的確なカウンターであった。
(そうか。あたしのクセやリズムは研究し尽くしたって言ってたもんな)
ならば瓜子も、どんどん新たなスタイルを身につけるべきであろう。いずれ対戦するはずの一色選手やイリア選手も、メイと同じように瓜子の弱点を探っているはずなのだ。
ニュースタイルのとっかかりとして、瓜子は右ローを放ったのち、そのまま蹴り足を前に置いて、左フックに繋げてみせた。
メイとの最初の試合で垣間見せた、空手流のスイッチングである。小柴選手や小笠原選手のおかげで、瓜子はそういった戦法も学ぶことができたのだ。
これは上手い具合にリズムを外せたらしく、けっこう深めにテンプルを打ち抜くことができた。
しかしグローブとヘッドガードの恩恵で、メイはビクともしない。瓜子としても、しっかり根を張った樹木の幹を殴ったような感触であった。
そして今度は、メイのほうが仕掛けてくる。
左右のフックの乱打である。
瓜子はサイドに逃げようとしたが、機動力はメイのほうが上回っている。頭への攻撃はブロックできたが、合間に繰り出されたボディブローはそれなりの衝撃であった。
(十六オンスでも、メイさんの拳は痛いな)
瓜子は下がるのをやめて、前に出た。
相手の攻撃をブロックしながら前進し、クリンチに持ち込む。そうして相手のバランスを崩しつつ膝蹴りを打ち込んで、すぐにまた距離を取った。
メイは、爛々と双眸を燃やしている。
だけどそれでも、メイは楽しそうだった。笑みこそ浮かべていないものの、瓜子と殴り合うのが楽しくてたまらない様子である。
そうしておたがいに何発かのクリーンヒットを成功させつつダウンは奪えないまま、二分間は終了した。
次の相手は――ユーリだ。
「お願いしまぁす」と笑顔で手をのばしてくるユーリのグローブに、自分のグローブをちょんと当てる。
新生ユーリは、瓜子にとっても厄介な相手であった。
何せユーリの立ち技は、破壊力が尋常でないのだ。片目を隠して多少の間合いを測れるようになったユーリは、はっきりと難敵であった。
(夏前までは、ユーリさんの攻撃に悩まされることもなかったのにな)
そんな喜びを噛みしめつつ、瓜子はユーリとのスパーに取り組んだ。
リーチでは圧倒的に不利であるので、瓜子としては機動力で勝負するしかない。片目で瓜子の動きをとらえるのは、ユーリにしても難儀であるはずであった。
恐ろしい破壊力の右ローや左ジャブをかわし、瓜子は懐に飛び込んで、自分のジャブを当ててみせる。
それに合わせて繰り出される膝蹴りが、また恐ろしかった。ユーリの膝蹴りはたとえボディプロテクターを着用していようとも、みぞおちやレバーにくらったら悶絶させられてしまうのだ。
(ユーリさんは化け物として、ひとつレベルが上がったよな)
それでも瓜子が優勢に進められるのは、ひとえに機動力の恩恵である。ユーリの間合いの測り方もまだまだ完璧とは言い難いので、なんとかその間隙を突くことができているのだ。
しかしユーリの階級で、瓜子ほど小回りのきく選手はそうそういないだろう。
だからユーリは、瓜子の機動力に太刀打ちできるように励むべきであるのだ。そうして瓜子を返り討ちにできるだけの技術を体得しならば、さらなる化け物にステップアップできるはずであった。
「おっとっと」と、ユーリがふいに横合いへとジャンプした。
それで空いたスペースに、誰かが倒れ込んでくる。それは――メイだった。
「へっへーん! 最初のダウンは、あたしがもらい!」
そんな失礼な口を叩くのは、もちろん灰原選手である。なんと灰原選手が、メイからダウンを奪ったのだ。
しかしメイは心を乱した様子もなく、すっくと立ち上がった。防具のおかげで、さしたるダメージもないようだ。
(灰原選手はパンチが重いし、フォームも汚くて軌道が読みにくいんだよな)
教科書のようにフォームの綺麗なユーリとは、対極的な灰原選手である。思えば、ユーリの攻撃がかわしやすいのは、フォームが綺麗すぎて軌道を読みやすいためなのだろう。
(だけどユーリさんは、その綺麗なフォームから破壊力を生みだしてるんだろうしな。もしかしたら、無茶苦茶なフォームで攻撃の重い灰原選手のほうが、本当の意味での天才肌ってことか)
ユーリはきわめてアブノーマルな選手であるが、根っこの部分は堅実な努力家タイプであるのだ。寝技も立ち技も、飽くなき執念で反復練習をこなした結果なのである。それでどうしてこのようにアブノーマルな選手に育ってしまったかというと――それはやはり、不同視というハンデのためであるはずであった。
(もしもユーリさんの目が健康だったら、ものすごく真っ当なオールラウンダーに成長してたのかな?)
その可能性は、否めない。
だが、そのように真っ当なユーリというのは、なかなか想像しにくかったし――真っ当なユーリがアブノーマルなユーリよりも強いかどうかは、疑問なところであった。瓜子の知る限り、本当に強い選手というのはおおよそ強い個性を有しているものであるのだ。
(まあ、今のユーリさんのほうが面白いってことは、確実だよな。それでもユーリさんの目を傷つけたやつのことは許せないけどさ!)
そんな思いを込めて、瓜子は左のショートアッパーを繰り出した。
ヘッドガードで守られたユーリの顎に、瓜子の拳がクリーンヒットする。
それと同時に、凄まじい衝撃が腹のど真ん中に炸裂した。
ユーリのカウンターの膝蹴りをくらってしまったのだ。
結果、瓜子とユーリは仲良くひっくり返ることになった。
「あいちちち……うり坊ちゃんのパンチは痛いにゃあ」
「それは、こっちの台詞っすよ。パンチじゃなくって、膝っすけど」
かろうじてみぞおちの直撃は避けられたので、瓜子も悶絶せずに済んだ。
ユーリも、元気いっぱいの様子である。膝蹴りを出して不安定な体勢であったため、ダウンをまぬがれられなかったのだろう。
「でも、うり坊ちゃんと一緒にダウンって、なんか幸せな気分! 肉体関係におけるエクスタシーって、こんな感じなのかしらん?」
「ば、馬鹿なこと言ってないで、ほら、続けますよ」
そんなこんなで、二分七ラウンドのスパーは粛々と進行されていった。
インターバルとなり、立松の指導が始まる。まずはやはり、メイについてであった。
「メイさんは、灰原さんと桃園さんにダウンをくらってたな。二人の攻撃は、重いだろ?」
「うん。衝撃、予想以上だった」
「いっぽう、メイさんからダウンをくらった選手はいないみたいだな。こういうスパーは、苦手なのかい?」
「苦手……ではなく、グローブ、邪魔なだけ。僕、パンチ力、並なので、十六オンスのグローブ、大きな枷」
「パンチ力は、並か。……つくづく、猪狩と同じタイプなんだな」
「えー?」と疑問の声をあげたのは、灰原選手であった。
「うり坊のパンチ力が並ってことはないんじゃない? あたしだって、しょっちゅうダウンをくらってるし!」
「それは猪狩のキックの経験が活きてるんだろうな。猪狩はボクシンググローブに慣れてるし、それでもKOを狙えるように的を絞ってるんだ。いっぽうメイさんは乱打の中で隙を突くスタイルだから、ボクシンググローブでパンチの威力や回転力が半減すると、KOパワーが消えちまうってわけだ」
そう言って、立松は何か嬉しそうににやりと笑った。
「猪狩の一番の武器は、拳の硬さだ。猪狩のパンチってのは、痛えだろう?」
「うん! すっごく痛い! グローブつけてても、石みたいなんだもん!」
「ああ。だけど、オープンフィンガーグローブとボクシンググローブだったら、痛さのレベルが違うよな。猪狩がキックの試合で使ってたボクシンググローブは八オンスで、MMAで使うオープンフィンガーグローブは四オンスになる。グローブの重さが半分になることで、猪狩の拳の硬さとパンチスピードが凶悪な武器になった。逆に言うと、猪狩はその凶悪な武器を封じたまま、キックでもあれだけの結果を残してきたってわけだな」
「あはは。立松コーチ、なんだか孫の自慢をするおじいさまみたいですぅ」
ユーリがそのようにまぜっかえすと、立松は「うるせえよ!」と顔を赤くした。
「……で、猪狩と同じ体格をしてるメイさんは、同じぐらいの骨密度なんじゃないかって言われてる。だからきっと、猪狩と同じぐらい拳が硬いはずなんだ。組み技ありの立ち技スパーでは、八オンスだけどオープンフィンガーグローブを使うから、きっと本領を発揮できるだろう。なめてかかると、痛い目を見ることになるぞ」
「ふーん。だったらあたしは、どういう区分けになるの? この馬鹿でっかいグローブでも、見事にこいつからKOを奪ってみせたんだけど!」
「灰原さんは、パンチの重さがえげつないんだよ。むしろグローブが重いほうが、身体の内側に響くぐらいかもしれねえな。あとはまあ、天性の当て勘ってやつだろう。あんなフォームであんな重い攻撃を出せるんだから、大したもんだ」
「……なんか、ほめられてる気がしないんだけど!」
「存分にほめてるよ。そんなKOパワーは、狙って身につけられるもんじゃないからな」
多賀崎選手と小柴選手が、うんうんと大きくうなずいていた。
そしてメイは、食い入るように立松を見つめている。
「……君、鑑識眼、素晴らしい。やっぱりウリコ、真実を語っていた。君、素晴らしいコーチ」
「あん? なんだよ、いきなり?」
「たったこれだけの時間で、僕の特性、理解している。そんな人間、見たことがない」
「いやいや、お前さんのことは何ヶ月も前から研究させてもらってたからな。そのときの分析結果をお披露目しただけのこった」
「でも、そこから、今のスパー、正しく分析した。君、鑑識眼、素晴らしい」
「おほめにあずかり光栄だがね、キミってのは勘弁してもらえねえか? 目上の人間に対する呼び方じゃねえし、なんだか背中がむずがゆくなってくるんだよ」
照れ隠しのように立松が荒っぽく言いたてると、メイは神妙な面持ちでうなずいた。
「日本語、二人称が多いから、統一した。でも、そちらが望むなら、新しい二人称、身につける。僕、なんと呼ぶべき?」
「知らねえよ。普通はアナタなんじゃねえか?」
「わかった。ミスター・タテマツ、あなた、素晴らしいコーチ」
「ミスターってのも勘弁してくれ。コーチでかまわねえよ」
「わかった。タテマツ・コーチ」
そんな具合に、メイは稽古を開始するなり、この入門が正しかったことを体感できたようだった。無茶な申し出をしてしまった瓜子としても、ひと安心である。
(本当に、このお人はめきめき強くなっちゃいそうだな)
ならば瓜子も、それ以上の成長を遂げなければならない。
瓜子は彼女の気の毒な境遇に情けをかけ、その純真な心のありように魅力を感じたが――かといって、ファイターとして後れを取るつもりは毛頭なかったのだった。
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