05 初稽古

「なんだ、まだ着替えてなかったのか」


 事務所から出てきた立松が、苦笑まじりの声をあげた。

 メイ=ナイトメア選手が入門の手続きをしている間にサキや愛音もやってきたので、瓜子たちはそちらにも事情を説明しなければならなかったのだ。

 サキは鋭く探るような目で、愛音は不審の念を剥き出しにして、それぞれメイ=ナイトメア選手の姿を検分する。先に来ていた灰原選手たちも、それは似たようなものであった。


「手続きは済んだから、今日からこいつも一般門下生だ。名目上は邑崎の後輩ってことになるから、たっぷり可愛がってやれ」


「押忍なのです。……ずいぶん物騒な後輩ができてしまったのです」


「そんなことはありませんってば。頼むから、偏見は持たずに接してあげてくださいね」


 瓜子がそのようになだめても、一同の様子に変化はない。やはりチーム・フレアに対する反感が強ければ強いほど、それはメイ=ナイトメア選手に対する不審の念に直結してしまうようだった。


(まあこればっかりは、時間をかけてわかりあうしかないか)


 そんな風に念じながら、瓜子はメイ=ナイトメア選手に笑いかけてみせた。


「それじゃあ、稽古の支度をしましょう。更衣室は、こっちっすよ」


 誰も着替えをしていなかったので、全員が瓜子たちの後をついてくる。瓜子とユーリ、サキと愛音、灰原選手と多賀崎選手と小柴選手、そしてメイ=ナイトメア選手の八名という大所帯だ。


「荷物は、このロッカーにお願いします。稽古場に持ち込んでいいのはタオルとドリンクだけですので、それ以外はしまっておいてくださいね」


「わかった」と応じるや、メイ=ナイトメア選手はぽいぽいと着ているものを脱ぎ始めた。そうしてあっという間に下着姿になってしまうと、ユーリが「うわあ」と感嘆の声をあげる。


「前から思ってたけど、メイ選手ってほんとにうり坊ちゃんとそっくりのプロポーションだね! こんなに引き締まってるのにマッチョじゃなくって、かっちょいいプロポーションだにゃあ」


 メイ=ナイトメア選手は身長も体重も瓜子とほとんど同一である上に、五体のさまざまなサイズまでほとんどそっくりであるのだ。

 試合衣装よりも露出の多い下着姿だと、その相似性がいっそう顕著である。異なるのは、人相と髪や肌の色ぐらいなのではないかと思えるほどであった。


「それに、お肌も綺麗だにゃあ。トシ先生が見たら、垂涎を禁じ得ないのじゃないかしらん?」


「やめてくださいよ。メイ選手まで撮影地獄に引きずりこむ気ですか?」


 瓜子がげんなりしながら口をはさむと、メイ=ナイトメア選手はうろんげに「さつえいじごく?」と反問した。

 するとこちらも下着姿になっていた灰原選手が、「これだよこれ!」と忌まわしき物体をメイ=ナイトメア選手に突きつける。言うまでもなく、ユーリのサードシングル特装版である。


「それなら、知ってる。ネット上に、サンプル画像があふれかえっていた」


「な、なんでメイ選手がそんなもんをチェックしてるんすか!?」


「君との対戦前、有益な情報、求めていた。画像検索、水着のほうが多くて、驚かされた」


 余人の目があるためか、メイ=ナイトメア選手は瓜子に対しても素っ気ない態度だ。しかしまあ、公私混同しないのは立派な心がけであろう。


「確かにあんたもよくよく見ると、可愛らしい顔してるよね! 原色のビキニとか似合いそう!」


「や、やめましょうってば。さっさと着替えて、稽古を始めましょう」


 そんな一幕を経て、女子選手一同は稽古場に舞い戻った。

 男子選手らに指示を送っていた立松と柳原が、あらためてこちらに近づいてくる。


「やっと来たか。えーと……お前さんのことは、なんて呼ぶべきかね」


「僕、本名、メイ・キャドバリー。……できれば、ファーストネーム、呼んでほしい」


 資産家の養女に迎えられたということは、きっとその姓も養父のものであるのだろう。立松は「そうかい」と四角い下顎を撫でた。


「それじゃあとりあえず、メイさんとでも呼ばせてもらおうかね。こっちのこいつはMMA部門のサブトレーナー、柳原だ。もうひとり、正規コーチのジョンってのがいるけど、今はキック部門のレッスンをしてるんで、手が空いたら紹介するよ」


「わかった」


「で、猪狩と桃園さんはいいとして……こっちが女子MMA部門で一番古株のサキ。お前さんと同じ階級で、アトミックの正規王者だった選手だ。今は膝靭帯を故障して、復帰は半年か一年後の予定だな」


「サキ、知ってる。ベリーニャとの試合、検分した」


 メイ=ナイトメア選手の返答に、サキは「ははん」と鼻を鳴らした。


「おめーはもともと大晦日にブラジル女とやりあう予定だったんだもんな。そりゃあ直近の試合は大事な研究材料ってわけだ」


「うん。《アトミック・ガールズ》の試合、何百回も観た。……ベリーニャ、試合で相手を壊す、珍しい。たぶん、君の猛攻、焦って、自制できなかった」


「はん。光栄だとでも思えってか? 大きなお世話だよ、このタコスケ」


「タコスケ、わからない」


 サキとメイ=ナイトメア選手は、どちらも探るような目で相手を見ている。サキの故障がなければ、この両名の対戦もどこかで実現していたかもしれないのだ。


「おいおい、雑談は後にしてくれ。……それでこっちが、邑崎愛音。十七歳の高校二年生で、グローブ空手のキャリアは八年。MMAは、八ヶ月ちょいってとこか」


「……よろしくお願いしますなのです」


 挑むような眼差しをした愛音に、メイ=ナイトメア選手は顎を引くような仕草で応じる。


「うちの所属選手はこの四名で、あとは出稽古に来てるお客さんだ。灰原さんと多賀崎さんは四ッ谷ライオットの所属で、小柴さんは武魂会だな。灰原さんと小柴さんがお前さんと同じ階級で、多賀崎さんはひとつ上だ」


「……ヒサコ・ハイバラとアカリ・コシバは、知っている。ウリコ・イカリとの試合を検分した」


「なるほど。対戦相手をフルネームで覚えてるなんて、大した記憶力だな。……にしてもお前さんは、猪狩のこともフルネームで呼んでるのか? 思ってたほど、交流は深まってないみたいだな」


 立松のそんな言葉で、メイ=ナイトメア選手はわずかに身じろいだ。


「……フルネームで呼ぶ、交流が深まってない?」


「いや、俺の個人的な感想だから、聞き流してくれ。誰をどんな風に呼ぼうとも、お前さんの自由だよ」


 メイ=ナイトメア選手は瓜子のほうを振り返り、物問いたげにじっと見つめてきた。


「自分も呼び方にはこだわらないっすよ。メイ選手の好きにしてください」


「……ファーストネーム、いい?」


「はい。どうぞご自由に」


 メイ=ナイトメア選手は微笑みをこらえているような面持ちで、「ウリコ」とつぶやいた。

 ジョンやオリビア選手など、海外育ちの人々おおよそフランクにファーストネームで他者を呼ぶ。よって、瓜子もべつだん気にする筋合いはないのだが――メイ=ナイトメア選手が妙にもじもじしているものだから、瓜子のほうまでくすぐったいような気分になってしまった。


「そういうお前さんも、メイ選手呼ばわりなんだよな。俺が口出しする筋合いじゃねえが、同門相手に選手呼ばわりってのは如何なもんかね?」


「あ、それもそうっすね。……それじゃあ自分も、メイさんでいいっすか?」


 とたんに、灰原選手が「えーっ!」と非難がましい声をあげた。


「うり坊は、たいていの相手を選手呼ばわりしてるんじゃん! ぽっと出のそいつが名前で呼ばれるなんて、ずるくない?」


「そ、そうっすか? でも、今さら灰原選手とかの呼び方を変えるのは面倒なんすけど……」


「ずるいずるいー!」と灰原選手がわめきたてると、多賀崎選手がその頭を引っぱたいた。


「呼び方なんざ、どうでもいいだろ。出稽古でさんざんお世話になってるんだから、面倒をかけるんじゃないよ」


「ま、そのあたりのことは自分たちで解決してくれ。……それじゃあ、紹介はおしまいだな。とっとと稽古を始めることにするか」


 立松の指示で、瓜子たちはウォームアップを開始した。

 子供のようにもじもじとしていたメイ=ナイトメア選手――あらため、メイも、真剣な面持ちで取り組んでいる。つい四日前に拳を交わしたばかりの相手と同じ場で稽古に励むというのも、今さらながらに奇妙な心地であった。


「さて。注文がなけりゃあ、いつも通りのコースで進めるけど……灰原さんや多賀崎さんは、まだ試合の予定も立たないのかい?」


 立松がそのように水を向けると、灰原選手が「そうそう!」といきりたった。


「今日はその話をしたかったんだよ! どこかの誰かさんのおかげで、すっかり忘れてた!」


「ていうと? 《NEXT》や《フィスト》からオファーをもらえたのかい?」


「その逆だよー! あたしもマコっちゃんも《カノン A.G》のトーナメントにエントリーされるかもなんて話が出回ってて、こっちの出場はご遠慮くださいとか言われちゃったの!」


 その発言には、多くの人間が目を剥くことになった。


「灰原選手と多賀崎選手が、王座決定トーナメントにエントリーされるんすか? それはまあ、実力的には申し分ないかもしれませんけど……」


「いや。灰原はともかく、あたしは力不足だろ。ようやくマリアを負かすことはできたけど、御堂さんにも沖さんにも勝ったことはないし、沙羅にだって負けてるんだからさ」


 多賀崎選手が、感情を殺した声でそのように言いたてた。


「そんな話を抜きにしたって、あたしらは《カノン A.G》の興行には出ないって伝えてあるんだ。それなのに――」


「《NEXT》も《フィスト》も、まずはパラス=アテナとソーゴリカイに努めてみては? なーんて言いやがるんだよ! そんなの、大きなお世話じゃん! これってパラス=アテナの連中が、他の興行に出られないように根回ししたってことなんじゃないの?」


「そいつは……ありえない話じゃないかもな」


 立松も怒りをひそめた声で言い、がっしりとした腕を組んだ。


「アトミックを抜けた選手に余所の興行で活躍されたら、パラス=アテナの連中だって面白くないだろう。あいつらが桃園さんに八百長疑惑なんてのをふっかけたのも、そういう思惑があってのことなんだろうしな。ただ追い出すだけじゃあ用事が足りねえってわけだ」


「ほんと、頭に来ちゃうよねー! こうなったら、《レッド・キング》にでもお願いしちゃおっかなー! あそこだったら最初っからパラス=アテナと仲が悪いから、こっちの言い分を聞いてくれそうじゃない?」


「いや、《レッド・キング》はちょいと特殊な興行だからな。……灰原さんは、《レッド・キング》の試合を観たことがあるのかい?」


「ないよ! あそこの試合映像って、有料のストリーミング配信だけなんでしょ? 格闘技チャンネルとかで放映されてりゃあ観てやらなくもないけど、それじゃあちょっとねー」


「だったら、軽はずみには動かないことだな。《レッド・キング》に出場したらアトミックで干されるって不文律があるわけだしよ。アトミックがまともな興行に戻ったとき、余計な面倒が生まれちまうかもしれねえぞ」


 一同は、「うーん」と考え込むことになった。

 すると、いつの間にか瓜子のそばに近づいてきていたメイが、くいくいとTシャツの袖を引いてくる。


「……ウリコ、稽古、まだ?」


「あ、すみません。ちょっとこっちも面倒な話が持ち上がっちゃったみたいで」


「面倒な話。……でも、想定の範囲内、違う?」


 またボキャブラリーの抱負さを発揮して、メイはそのように言いたてた。


「四ッ谷ライオット、パラス=アテナに優遇されてるのに、その二人、反抗した。その見せしめで、他の興行、出られない。すべて、想定の範囲内」


「へー! ずいぶんクソッタレどもの内情に通じてんじゃん! さっすがチーム・フレアの一員だねー!」


 灰原選手が反感を剥き出しにして言いたてると、メイは冷めた面持ちで「違う」と言った。


「僕、彼らに信用されていなかったから、内情、伝えられていない。僕、自力で調査した」


「自力って? あんたなんかがどうやってそんなことを調べあげたってのさ?」


「探偵、使った。日本の探偵、優秀」


 灰原選手がぽかんとしたので、瓜子が言葉を添えることにした。


「メイさんはチーム・フレアに加入する前から、今の運営陣が腐りきってるってことを把握してたんすよ。それも、探偵を使って調査した結果ってわけっすよね?」


「うん。新しいパラス=アテナ、拝金主義。選手でなく、スポンサー、重んじてる。たぶん、《JUF》と同じ末路、辿る」


「《JUF》と同じ末路? それはつまり……スジモノとの癒着ってことか?」


「スジモノ……ジャパニーズ・マフィアのことなら、そう。《カノン A.G》、地上波放送の放映権、獲得したなら、大きな金、動く。ジャパニーズ・マフィア、その時を待ってる」


「やっぱりあの、ネズミ野郎が裏でこそこそ動いてるってわけだな」


 立松は組んでいた腕をほどき、がりがりと頭をかきむしった。


「……まあいい。あのネズミ野郎を潰してやりゃあ、スジモノとの関係も切れるだろ。お前さんたちは悩まなくていいから、稽古に集中しな」


 ユーリが真っ先に、「おーす!」と返事をした。プレスマン道場の正式な所属になって以来、ユーリも長らく忌避していたその言葉を喜んで使うようになったのだ。


「灰原さんと多賀崎さんも、しばらく様子を見ておくことだ。《レッド・キング》に興味があるなら、うちから赤星のお人らに話を通してやるからさ。……とにかく、試合を観たこともない興行に参加を表明するなんて不義理な真似はしないようにな」


「それはこいつが思いつきで口にしただけです」


 と、多賀崎選手が灰原選手の頭を小突いたところで、ようやく本日の稽古が開始されたのだった。

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