02 提案
瓜子とユーリは、メイ=ナイトメア選手をマンションまで連れ帰ることになった。
瓜子がそのように決断し、ユーリも同意してくれたのである。交流の薄い相手を部屋に招き入れるというのは常にないことであったが、このように弱々しい姿をさらしたメイ=ナイトメア選手を放っておくことはとうていできなかったのだった。
メイ=ナイトメア選手には玄関から浴室に直行してもらい、瓜子は着替えの準備をする。幸い、彼女は瓜子とほぼ同じような体格であったし、下着の新品もストックが存在した。『P☆B』とスポンサー契約しているユーリは社割価格で下着や水着やちょっとした衣料品を購入することができたので、瓜子もちょくちょく買い置きを頼んでいたのだ。
「あの、タオルと着替えはここに置いておきますね。汚くないんで、使ってください」
瓜子がそのように呼びかけても、返事は返ってこなかった。ただシャワーの音だけが雨音のように響いている。
瓜子は嘆息をこぼしつつ、ユーリの待つリビング兼トレーニングルームへと足を向けた。
「あ、おかえりー。メイ選手のお洋服も、稽古着と一緒に洗濯機に放り込んでおいたぞよ」
「ありがとうございます。……それに、すみません。自分の都合で、勝手にお客を入れちゃって……」
「いいのいいの! この部屋はふたりのものなのだから! ……それに、あんな悲しそうなお顔をしたメイ選手を放っておけないよぉ」
そんな風に言いながら、ユーリはふくよかな唇をすぼめて考え込むような顔を作った。実にあざとい表情だが、それを計算しないで行使するのがユーリである。
「それにユーリね、気づいちゃったの。うり坊ちゃんの試合を観てると、ユーリは感極まって涙が止まらないのだけれども……前回と今回に限っては、メイ選手にも一因があるような気がしたのだよねぇ」
「うん? それはどういう意味っすか?」
「だからね、うり坊ちゃんはそのかっちょよさでユーリの情動を揺さぶってくれるのだけれども、メイ選手は何だか胸が痛くなるみたいな感じで……あの、イヌカイキョーナちゃんの試合と相通ずる部分があるような気がするのだよ」
そういえば、ユーリはいつだったかの犬飼京菜の試合で落涙していたのである。
自分はもしかして、犬飼京菜を可哀想に思っているのかもしれない――ユーリは、そんな風に語っていたのだった。
「ゆえに、ユーリもメイ選手を放っておけない気分であったのです! あんなに一生懸命なのに、ちっとも楽しそうじゃないメイ選手やイヌカイキョーナちゃんは、うり坊ちゃんとまったく異なるベクトルでユーリの情動を揺さぶってしまうのじゃ」
「そうっすか……メイ選手は自分と試合をしてても、楽しくなかったんすかね」
瓜子がそのような言葉をこぼすと、ユーリは「みゅみゅ?」と小首を傾げた。
「そのように言われると、メイ選手も楽しそうにしているように見えなくもなかったような……」
「ええ? いったいどっちなんすか?」
「えーとえーと、この前の試合はね、途中から雰囲気がガラリと変わったの! 最初はすごくツラそうだったのに、途中からは楽しそうに見えて……そういえば、メイ選手は試合の終わり際に笑ってたりしてなかった?」
「ああ、最後の打ち合いでは笑ってるみたいでしたね」
「うん、そうそう! そのちょっと前ぐらいから……うり坊ちゃんにタックルをきめられて、ぽかぽか殴られながら立ち上がった後ぐらいから、ツラそうな雰囲気がなくなったのかにゃ?」
疑問形で言われても、瓜子に判ずることはできない。
ただ、あのときのメイ=ナイトメア選手の笑顔は――野獣のように凶悪で、なおかつ純真無垢であったような印象が残されている。
「まあとにかく、メイ選手をお客様として迎えることに異存はないのでぃす! メイ選手が暴れても、うり坊ちゃんと二人がかりなら制圧も難しくないだろうしねぇ」
「そんなことになったら、自分が千駄ヶ谷さんに折檻されそうっすね」
そんな風に答えつつ、瓜子はユーリの言葉を心から嬉しく思っていた。自分が放っておけないと思った相手を、ユーリも同じように心配してくれている。それが、たまらなく嬉しかったのだ。
そうしてしばらくすると、メイ=ナイトメア選手がリビングにやってきた。
瓜子の与えたTシャツとハーフパンツを着て、頭にバスタオルをかぶっている。赤みがかった金色のドレッドヘアからは、まだ水滴がぽたぽたと滴っていた。
「ちょっとちょっと、まだ濡れてるじゃないですか。雨で気温が下がったみたいだから、油断すると風邪ひきますよ」
瓜子は立ち上がり、メイ=ナイトメア選手のドレッドヘアをタオルでわしわしとかき回してやった。なんだか、子供の面倒でも見ているような心地である。
Tシャツとハーフパンツから覗くメイ=ナイトメア選手の手足は、三日前と同じように鋭く研ぎ澄まされている。しかしそれでいて、彼女は子供のように弱々しく見えてしまった。
「とりあえず、座ってください。何か温かいものでも飲みますか? もし肌寒かったら、別の服を準備しますけど」
メイ=ナイトメア選手は、ぷるぷると首を横に振った。
そして、上目遣いに瓜子を見つめてくる。
「……僕、どうしたらいい?」
「いや、それはこっちの台詞なんすけど……メイ選手は、どうしたいんすか?」
「僕は、君と、チームメイトになりたい」
ひと月と少し前に待ち伏せをしていたときと同じように、メイ=ナイトメア選手は必死な眼差しになっていた。
「君と北米に行って、《アクセル・ファイト》との契約を目指したい。一緒にトレーニングをして、一緒に試合をして……同じ目的のために頑張りたい」
「……それで、チーム・フレアに加入したのは、自分の力不足を思い知らせるためだったわけっすね?」
「自分……僕の力不足?」
「あ、いや、自分ってのは自分のことです。自分ってのも、一人称になるんすよ」
「知らなかった。日本語、複雑」
そう言って、メイ=ナイトメア選手はいっそううつむいてしまう。
しかしどれだけ頭を垂れても、その目は瓜子の顔を食い入るように見つめたままであった。
「でも、それなら、その通り。ケージの試合場で、あのルールなら、僕が勝つ。あのルールで勝てなければ、北米でも勝てない。君、自分の力不足を思い知って、僕の言葉、耳を傾ける、思った。……でも、僕、負けた。あんなに頑張ったのに、僕、勝てなかった」
「ええ、まあ、自分だって同じぐらい頑張りましたし……」
「いや、僕のほうが、頑張った。僕、君の試合、すべて収集した。何百回もそれを観て、君のスタイル、君のクセ、すべて把握した。それで、勝つための作戦、構築した。……でも、勝てなかった。勝つために、気に入らない作戦、我慢したのに、それでも勝てなかった」
瓜子のTシャツに包まれたメイ=ナイトメア選手の肩が、小さく震えている。
「君の力、僕の想像以上だった。だから、これまで以上に、君のこと、欲しいと思った。……でも、僕、負けたから、君を説得すること、できない。……僕、どうしたらいい?」
「うーん。どうしてそこまで、自分にこだわるんすか? MMAなんて個人競技なんすから、必要なのは優秀なトレーナーでしょう? もちろん心強いチームメイトがいれば、励みになりますけど……必ずしも必要なわけじゃないっすよね?」
「同じこと、前に話した。……僕、ずっとひとりだったから、同じ目的のため、頑張る仲間、欲しい」
「でも、同階級の人間にこだわる必要はないでしょう? 他の階級なら、もっと凄い選手がいくらでも――」
「うり坊ちゃん、それは野暮ってものだよぉ」
と、ずっと黙りこくっていたユーリが、ふいに発言した。
「ユーリだって、うり坊ちゃんを筆頭とするプレスマンのみんなと一緒に頑張っていきたいって思ったもん。それはたまたまの巡りあわせだったわけだけど……うり坊ちゃんとメイ選手が巡りあったのも、たまたまでせう? きっと人は、そうして恋に落ちるのじゃよ」
「いや、恋じゃなくってチームメイトの話なんすけど……」
「ユーリには恋愛感情というものが欠落しておるので、そのあたりの違いはよくわからんのじゃ。でも、ずっと一緒にいたいって気持ちは同じなのじゃないかしらん?」
ユーリのさらりとした熱情的な告白に内心で戸惑いつつ、瓜子はメイ=ナイトメア選手のほうに視線を戻した。
「えーと……自分やユーリさんなんかはほとんど一年がかりでそういった関係を構築したわけですけど……メイ選手は自分と試合をしただけで、おたがいのことを何にも知らないっすよね?」
「だから、知りたい、思っている。一緒にいないと、知ることできない」
こちらはこちらで、愛の告白でもされているような心地である。
瓜子は「うーん!」とうなりながら、頭を引っかき回すことになった。
「それじゃあ、あの……ダメもとで提案してみてもいいっすか?」
「……ダメもと、よくわからない」
「ああ、ダメでもともとの略語っすよ。……あのですね、自分とチームメイトになりたいなら……メイ選手がプレスマン道場に入門するっていうのはどうでしょう?」
メイ=ナイトメア選手はとても悲しそうな眼差しで、「無理」とつぶやいた。
「僕の目標、MMA、頂点をつかむこと。養父、そのための資金、労力、惜しまないけれど、寄り道、許されない」
「でも、メイ選手はこうやってもう何ヶ月も日本に滞在してますよね?」
「それ、ベリーニャ、倒すため。寄り道じゃなく、近道」
「でも、ベリーニャ選手だって武者修行のために日本に来たんすよ? 《スラッシュ》との契約で一年は北米で活動できないからって事情があったみたいですけど……でも、故郷のブラジルや他の国じゃなく、日本に来たんです。日本には、それだけの価値があるってことなんじゃないっすか?」
メイ=ナイトメア選手は困惑したように、口をつぐんでしまった。
瓜子は内なる熱情のままに、言葉を重ねてみせる。
「それに自分は、二回もメイ選手を負かしました。こんな人間をほったらかしにして、頂点を目指せるんすか? 自分の強さの秘密を探るために、そのジムに所属するっていうのは……それほど素っ頓狂な話じゃないと思います」
「でも……日本、優秀なコーチ、存在しない。君の強さ、個人の力」
「いやいや、それは違いますね! うちの道場を馬鹿にしようってんなら、自分も黙っていられませんよ! 三日前の試合に勝てたのだって、みんなコーチ陣のおかげなんです! メイ選手が小癪な作戦を立ててきたから、うちのコーチ陣がそれを突き崩すための作戦を練りあげてくれたんすよ!」
「…………」
「あ、みんなコーチ陣のおかげってのは言い過ぎでした。自分が勝てたのは、それまでの稽古を一緒に頑張ってきたお人たちのおかげです。こちらのユーリさんとか、道場のチームメイトとか、出稽古に来ていた人たちとか、合宿稽古をご一緒した人たちとか……その人たちのひとりでも欠けてたら、自分はメイ選手に負けていたかもしれません。MMAは個人競技っすけど、ひとりの力なんてたかが知れてるんすよ」
「…………」
「メイ選手が自分に勝てなかったのは、ひとりぼっちだったからじゃないっすか? メイ選手がプレスマン道場に入門してくれたら、もっともっと強くなれますし……それに、ひとりぼっちじゃなくなりますよ」
そうして瓜子は精一杯の思いを込めて、メイ=ナイトメア選手に笑いかけてみせた。
「と、自分なんかはそんな風に思うんすけど……どうでしょう? やっぱり無茶な提案っすかね?」
メイ=ナイトメア選手はいつしか石像のように動かなくなり、ただひたすらに瓜子を見つめていた。
と――その瞳から、ひとしずくだけ涙がこぼれる。
涙はメイ=ナイトメア選手の頬を伝って、ぽたりとマットの上に落ちた。
「僕……君のチームメイト、なりたい」
「だったら、お義父さんを説得しましょうよ。これが強くなるために必要なことだって理解してもらえたら、きっと認めてもらえるはずです」
メイ=ナイトメア選手は深くうつむき、「うん……」と小さな声をこぼした。
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